#079

 後半に入っても、じりじりとした時間が続いた。
 攻めても攻めても、こじ開けることができない。焦りのせいかセカンドボールを拾えなくなり、カウンターを受ける回数が増え始めた。
 ボールを持っている時間はガイナスの方が多いのに、シュート本数は効率的なカウンターを仕掛ける島根が上回っている。
 ガイナスが相手の策中に落ちているのは、火を見るより明らかだ。ベンチからは攻め急ぐなという指示が出ていたが、うまくいかない流れに焦燥ばかりが募っていく。

 白田に出せず回したパスが、島根のDFにカットされた。
 カウンターになる前に、友藤が機を読んで取り返し、事なきを得る。
 全くボールに触ることができない白田は、苛立ちに耐えきれず後ろまで下がる。
 すかさず、掛川の叱責が飛んだ。

「おいシロ! 下がんな!」
「けどさあ……!」
「いいからちゃんと張ってろ! 他にやることあるだろ!」

 不承不承、掛川の言葉に従って位置を上げた白田は、府録の斜めから見下ろす表情にまた向かっ腹を立てた。

「はっ、無駄無駄ァ」
「言ってろ!」

 リーグ戦の後半はどのチームも白田を警戒してきたが、ここまで完全に押さえ込まれたのは初めてだ。数えるほどしかボールを触ることができていない。
 サイドに流れたり、無理にでも前に出ようと試みたり、果てにはファウル狙いまで色々とあがいているのだが、効果は上がっていない。

 そして、決壊は突然に訪れた。

 五度目のコーナーキックで、島根はショートコーナーを使ってきた。
 放り込みを予想していたガイナスは完全に裏を突かれ、対応が数秒遅れる。短いパスから速めのクロスが上がる。
 マークを引きはがした外国人選手が、強烈なヘッドシュートをゴールの左隅に叩き込んだ。

 爆発するような歓声が、スタジアムを揺らした。
 島根にとっては虎視眈々と待ち望んでいた瞬間だ。DJが叫ぶ得点者の名前に、島根サポーターが呼応して賞賛を送る。
 固い守備に定評のある島根だ。もはや勝利を確信したかのようなお祭り騒ぎだった。
 喧噪の中、椛島はガイナスの選手の表情を確かめていた。

「――まだだ!」

 最初に叫んだのは、白田だった。
 降り注ぐ歓喜の声に押しつぶされず、強く声を張り上げる。

「まだ終わってない、まだこれからだ! 俺が絶対、取り返す! 絶対に勝つ!」

 白田の言葉に、ベテランの三輪が背中を叩いた。

「いでっ!」
「頼もしいじゃねえの。頼むぜ、点取り屋!」
「よし、やってやろうぜ!」
「いけるいける!」
「球際、負けんなよ!」

 椛島は、口元に笑みを浮かべた。
 声はピッチサイドまで届かない。選手たちのやりとりは、椛島にははっきりと聞き取ることができなかったが――彼らの表情だけで、十分だった。
 今まで何度も、簡単に下を向いてきた。うまくいくときはいいが、躓くと途端に崩れてしまう。そんな脆さを、この大一番で、自分たちの力で克服してみせたのだ。
 指導者として、こんなに嬉しい光景はない。

 ちょうどこちらを見ていた相手監督ににこりと笑みを返し、椛島はアップを済ませていた越智を呼んだ。
 コーチがばたばたと後退の手続きに入る中、戦術ボードをさして越智に二、三の指示を送る。
 頷いた越智は、ルーキーとは思えない落ち着きで、ピッチに向かった。
 椛島はメインスタンドを仰いだ。眞咲の姿を見つけ、したたかさと暖かさを感じさせる微笑を浮かべる。

 目があった眞咲は、強いメッセージを受け取った気がした。
 この距離では表情もよく分からない。声など届くはずもない。だが、確かに聞こえた。

 ――ちゃんと見ていてくださいね。
 ――この光景を。顔を上げる姿を。強くなった彼らに、その「資格」があるのかを。

 可能性を。賭に出る価値を。その目で確かめるべきものが、いま目の前にあるのだと。

(ここから、取り返してみせるというの? でも……)

 最悪の流れで、最悪の時間帯に失点した。いつもならここから崩れてしまうパターンだ。
 内心で呟いた眞咲は、自分の中に諦念を見つけて、はっと息を呑んだ。

(私は……)

 いつの間にか、慣れてしまっていたのかもしれない。忘れてしまっていたのかもしれない。試合終了のホイッスルが鳴るまで、何も決まってなどいないのに。
 眞咲はぎこちない手を動かして、ぎゅっと心臓の辺りを掴んだ。
 一年前――初めて見た試合も、圧倒的な劣勢だった。
 あのときこのチームに感じた可能性は、「勝てそうだったから」ではないことを、思い出していた。

 

 試合展開は、そこからがらりと様相を変えた。
 越智が交代で入ったのは、いつものバックラインではなくボランチのポジションだ。掛川と越智、いずれもパワーの心許ない組み合わせだが、越智はひたすら、セカンドボールを拾うことと、カウンターの出足をくじくことに集中した。
 元々、読みを得意とする頭脳派だ。
 冷静に、丁寧に、そして素早く。試合に出始めたばかりの頃はできなかったことを、懸命な練習と少ないチャンスでの経験を積み重ねて、ものにしようとしていた。

 白田に出た早いパスは、府録に押さえ込まれることでラインを割った。

「くっそ……」

 流れ落ちる汗を拭い、白田は気合いを入れるために息を吐いた。
 手応えはある。さっきから、府録のディフェンスはファウルぎりぎりのところまで来ているし、主審から何度か注意を与えられている。それだけ、苦しめているという感覚はある。
 あと一歩、あと少しだけ足りない。
 必死にその「何か」を手に入れる方法を考えていると、息の上がった掛川がいつの間にか近くにいて、白田の肩を小突いた。

「おい」
「何だよ」
「こっちのパスを待つの、やめろ。とにかくマーク振り切ることにだけ集中して、ゴールに向かえ」

 白田が目を瞠った。掛川は、その目を睨むように見据えた。

「俺が、そこに持っていく。信じて走れ」

 実際のところ、代表での白田はできていることだ。中西の誘導が巧みだからか、それとも白田が無意識に切り替えているのか――どちらにしても、できないはずはない。
 やってやると、強気な思いが掛川を突き動かした。
 じっと見返した白田は、強く頷いた。

「……わかった。頼む」

 セカンドボールを拾えるようになったことで、流れは再びガイナスに向いてきた。
 気持ち一つでぶっつけ本番がうまくいく可能性は低い。島根の守備力――その中でも一際目立つ府録の対応力なら、たった何度かの失敗で、付け焼き刃は通用しなくなる。

 跳ね返されたクロスを越智が納め、相手選手のプレッシャーを器用に避けながら、滑らかな素早さで掛川に戻した。
 直後、引っかけられた形で転んだが、審判はアドバンテージを取って笛を吹かない。

「よし……!」

 ボールを確保した掛川が白田を見る。距離は遠く、白田の位置も良くない。
 背後にぴったりとついている府録の存在を感じながら、白田はふらりと後ろに下がった。
 ちょうど、掛川に怒鳴られたのと同じ動きだ。
 攻撃に危険な雰囲気が薄れたそのとき、黒い影が遙か後方から駆け上がってきた。

「フージ!」

 彼のオーバーラップはガイナスの武器の一つだが、ここまではことごとく潰されている。
 フージが掛川を追い越し、島根DFが作ったブロックの中に切り込んでいく。白田を前に捉える府録も、位置を確かめるために視線を動かした。
 一瞬の隙だった。
 白田がピッチを蹴り、真ん中に入る動きを見せる。察して動いた府録の前で、鋭いターンとともに外側へ抜けた。
 白田のフェイクは絶妙だった。府録は逆足に体重がかかった状態で、ターンするのは無理だ。
 掛川のパスが、白田が走り込む先にぴたりと狙いを定めて飛ぶ。

「ちっ――」

 判断は一瞬。舌打ちした府禄が腕を伸ばし、身体を捻りながら白田のユニフォームを掴んだ。
 もつれ込むように二人が倒れ込んだ。
 すかさず笛が鳴った。審判が全速力で駆け寄り、ペナルティースポットをぴたりと指し示す。
 スタジアムが、怒号まじりのブーイングに包まれた。

『PK!? PKだと!? 馬鹿な! ペナルティーエリアの外だろう!』

 試合中の激高で有名なブロンゼの監督が声を上げ、第四審に食ってかかる。退席になりそうな勢いに、通訳とヘッドコーチがあわてて宥めに入った。
 微妙な位置だった。島根の選手もたまらず主審に詰め寄ったが、一度下された判定はまず覆らない。
 その騒ぎの中で、友藤は白田に声をかけた。

「どうする、蹴るか?」
「行けます」

 普段はあまりPKを蹴りたがらない白田が、きっぱりと答えた。
 ビハインドでのPK。しかも、ゴール裏は真っ白に埋め尽くされている。とんでもないプレッシャーがかかる状況だ。
 ふと、友藤が笑みを零した。

「お前は何だかんだ言ってたが……代表の試合に出られたのは、いい経験だったな」
「……トモさん?」

 今言われるようなことには思えず、白田はきょとんと友藤を見た。

「ワールドカップ予選のアウェーに比べたら、こっちの方がまだプレッシャーは弱いはずだろう?」
「いや、正直すっげぇ緊張してますけど……」
「なんだ。情けないことを言うなよ」
「でも、俺、蹴りたいです。……決めます」

 白田の胸のエンブレムを叩き、友藤は強く頷いた。

「大丈夫だ。お前はこの一年で、ずっと強くなった。誰より練習してきた。だから、いつも通りに蹴ってこい」

 いつも通りの落ち着いた声音が、白田の背を押した。
 ボールをセットして、白田はゆっくりと息を吐く。
 心臓が太鼓のように速いリズムを打っていた。緊張感はある。だが、冷静だった。
 フラッグが威嚇するように大きく揺れている。振られるタオルで真っ白に染まった島根のゴール裏席は、白田へのブーイングと口笛、キーパーへのコールで混沌としている。いつもなら目に入らないその光景が、今ははっきりと視界に映っている。

 コースをしっかりと狙って蹴ったボールは、ゴールの右隅にしっかりと収まった。

 同点に追いついたことで、ガイナスは俄然勢いに乗った。
 テンポ良くボールが回り、島根の鉄壁に次々と襲いかかる。府録は「二度と好きにはさせない」との宣言通り白田との勝負を加熱させ、白田も負けじとボールに食いつく。そのこぼれを拾った掛川のシュートはポストを派手に叩き、遠目から狙ったフージのシュートはDFが体で止めた。
 すかさず繰り出されたカウンターに、スタジアムが大きく沸いた。
 外国人選手が身体能力を生かして友藤を交わし、キーパーの新屋と一対一になる。
 最後の最後まで堪えた新屋が、左足一本で決定機を阻んだ。

「新屋さん!」
「よく止めたー!」
「お前らばっかに見せ場持ってかれてたまるかよ。つーか集中しろ、集中!」

 刻一刻と残り時間が減っていく。
 どちらに転んでもおかしくない試合展開だった。数で勝る島根サポーターが大声援で後押しする中、ガイナスのサポーターも懸命に声を張り上げる。
 ゴール裏でともにチャントを歌いながら、理沙は涙で霞む目を何度も擦った。
 満員のスタジアムで、こんなにも白熱した試合ができることが、信じられないほどに嬉しかった。勝ちたかった。今だけは小難しいすべてを忘れて、ただひたすら、勝利だけを願った。

 アディショナルタイムも終わり、最後に与えられたガイナスのコーナーキックがゴールバーを叩く。
 時が、止まったかのようだった。
 跳ね返ったボールが宙を舞う。白田が府録と競り合いながらそれに食らいつく。
 激しいぶつかり合いの後、ボールは、ゴールネットに吸い込まれた。

 吠える白田に、選手たちが次々と飛びかかる。ガイナスのサポーターが喜びを爆発させ、反対のゴール裏でフラッグが揺れる。
 眞咲は試合の終わりを告げるホイッスルを聞きながら、張りつめていた息を、ゆるゆると吐き出した。

「……最後の最後で……。まったく、無駄に劇的なんだから」

 眞咲はこみ上げる感情に逆らわず、吹き出すように笑い声をこぼした。

 

 

 

 

 

 

 試合後もスケジュールは分刻みだ。今日はホームゲームではないが、のんびり勝利の余韻に浸っていられる暇はスタッフには存在しない。
 足早に通りがかったウォームアップエリアで、眞咲は一人の選手にばったりと出会した。
 前回も文字通り衝突しそうになった相手だが、今回の府録は泣いていなかった。

「っと……またあんたか。よく会うなあ」
「同感です。同じことを言いますけど、前を向いて歩かないと危ないですよ」
「覚えとく」

 殺気立っているわりに素直な返事だと、眞咲が笑みを返す。
 お行儀のいいその笑顔に何故か毒気を抜かれ、府録は乱雑に頭を掻いた。

 ――止められなかった。完全に、出し抜かれた。
 チームとしても、個人としても、完全な敗北だ。それはほとんど、自分自身の責任だった。
 ぶつけようのない悔しさと憤りは、今でも胸の内に燻っている。もっと巧く、もっと強くなりたい。その方法を模索するために欠かせないものは、向上心や敵愾心だけではなく、自分の売りでもある冷静さだ。
 眞咲の淡々とした態度が、それを思い出させた。

「……なあ、社長さん」
「何ですか?」
「あいつ、海外に高飛びする気か」
「……わたしからは何ともお答えしかねますね。直接聞いてみてください」
「はっ、冗談キツイね」

 府録は実に嫌そうな顔をして、何かを追い払うように手を振った。
 負け試合の後だ。対戦相手の社長などと顔を突き合わせて、楽しいものでもないだろう。
 眞咲は会釈を残して立ち去ろうとしたが、その前に、背後から賑々しい騒動が走ってきた。

「社長、いた! ……っておい、府録!? 何やってんだよ!」
「言いがかりつけてくれんじゃねぇかよ、このポチが!」

 振り返れば、白田を始めとする選手たちが勢揃いしている。
 ベンチコートは羽織っているが着替えもしていない。何をやっているのかと眉根を寄せた眞咲が小言を言うより先に、府録が先ほどまでの様子を一掃して白田をびしりと指さした。

「いいか、今日は確かに負けたけどな、まだ順位は島根が上だ! 見ていやがれ! 最後に笑うのは、この俺たちだ!」
「んのやろ……!」
「おいおい、なかなか言ってくれるじゃねえか」
「ほれシロ、お前の出番だ。何か言い返せ!」
「まぜっかえさないで下さいよ! えーと、あー、あれだ……!」

 お手本のような挑発に、白田が血相を変える。
 ガイナスの選手たちが、面白がって白田を援護したが、改めて仕掛けられると言葉が出てこないようだ。

「失礼ですけれど……そのお言葉、そっくりそのままお返しさせていただきます」

 府録が片眉を上げる。
 虚を突かれたような空気の中、眞咲は挑戦的に笑った。

「J1に行くのは、わたしたちです」

 白田が目を瞠る。
 勝ち試合の勢いをそのままに直談判に来たとはいえ、こんな言葉が返ってくるとは、誰も予想していなかったのだ。

「しゃ……社長、それって……!」
「昇格目指すってこと……だよな!?」

 選手を振り返った眞咲が、にっこり笑って小首を傾げた。
 明言はなかったが、それは明らかな肯定だった。
 息を吸い込む間の沈黙が、喜びに満ちて爆発する。

「いぃいいやったああああ!」
「よし、よしよし! やってやろうぜ!」
「やるしかねえよなあ!」
「ヨッ、シャチョー、日本イチー!」

 そのまま通路で始まった大騒ぎに、島根のスタッフが何事かと目を向けてくる。
 アウェイでこれはやりすぎだ。眞咲がいささか慌てて騒ぎを止めようとしたとき、マネージャーが鬼の形相で走ってきた。

「ちょっと、何騒いでるの! クールダウンは!? した!? じゃあさっさと風呂入って着替えてバス乗って!」
「畑さん、社長がJ1行くって!」
「わかったよかったね後で聞く! いい大人なんだから余所様に迷惑かけない! いいね!」

 まるで子供の引率だ。原因を作った身としては耳が痛い。
 府録はいつの間にか去っていた。ばたばたと尻を叩かれるようにして歩く中、白田が最後尾の眞咲の隣に来る。

「何?」
「いや、なんつーか……その、ありがとう」

 お礼を言われるようなことでもない。
 眞咲は肩を竦め、別のことを口に出した。

「まったく、あなたには予定を変えさせられてばかりね」
「あー……」
「言っておくけど茨の道よ。生半可なことじゃ、経営破綻に逆戻り」
「そうならないって、判断したんだろ?」

 その通りだが、それを期待されるのは不本意だ。
 渋面で見上げた眞咲に、白田は頭の後ろで手を組んだ。

「俺のわがまま通しても、なんとかできるって言って欲しかった。それって、あんたにとって、勝ち目のある賭けだってことだろ。だったらそれで十分だ」

 去年も同じような言葉を聞いた気がする。
 眞咲の呆れ顔を理解した上で、白田は強気に笑った。

「俺は、あんたを信じる。頼りにしてるぜ、社長」
「……勝手なことばかり言って」

 けれど、その信頼は、確かにここまで眞咲の背を押して来たものだ。
 諦め混じりにため息を吐き、せめてもの意趣返しを繰り出した。

「契約はこれからまとめるけど、一年で基本的なドイツ語は習得して貰うわよ」
「げっ」
「当然でしょう。外国で仕事をするなら最低限必要なことよ。フージを見習いなさい」
「……社長、俺、英語もできないんスけど……」

 控えめに挙手した白田に、眞咲は完璧な笑顔で告げた。

「大丈夫。みっちり叩き込んであげるわ」