#074

 カレンダー上では秋の深まる頃合いだが、今年の残暑は地面に染みついてしまったかのように居残りを続けていた。

 雲一つない晴れた空から容赦なく日光が降り注ぐ。ピッチの体感温度は真夏並みの暑さだ。ユニフォームはぐっしょりと汗で濡れ、その色を変えている。
 サッカーは走行距離の長いスポーツだ。ずっとスプリントを続けるわけではないが、広いピッチ上を90分間ひたすら走り続けなければならない。ぎりぎりのところで、最後の一歩を踏み込めるかどうかは、単純な体力というより、むしろ気持ちの強さに懸かっている。

 試合は勢いのあるガイナスが優勢に進めていた。前半のうちに先取点を奪い取り、後半に入ってもさらに追加点を上げている。
 だが、追加点から早々に1点を返され、コーナーキックから見事なヘディングで同点弾を挙げられると、ホームの栃木が俄然勢いづき、ガイナスのゴールに迫った。
 スコアは2−2。残り時間は15分だ。
 放送席で、若手の解説者が声を弾ませた。

『いや、面白くなってきましたね! 今年の栃木には爆発力があるから、まだまだ分かりませんよ、これ』
『そうですね。2点目を決めた古葉は、前節でもロスタイムに決勝ゴールを上げています』
『そうなんですか。……逆に鳥取は、ここからが重要ですね。昇格争いに生き残るためにも、せめて勝ち点を持ち帰りたいでしょうし』
『守備的になる、ということでしょうか?』
『鳥取らしくはないですけど、まあ、昇格を目指すなら、そういう戦い方も覚えないと厳しいでしょうね。現に2点差を追いつかれたわけですから、ダメージが大きいんじゃないですか』
『はい。逆に栃木としては、なんとかもう一点をもぎ取って、サポーターの後押しに応えたいところです』

 遠慮のない解説の言葉は、的確に現状を指し示していた。
 ここで持ちこたえなければならないと思っても、疲労と心理的なショックが足を重くする。流れを変えるべく切られた、最後の交代カードは、ここのところベンチからも遠ざかっていた越智だった。
 自分が交代するものとばかり思っていた掛川が、息を切らせながら、恨みがましい目でベンチを見た。

「トラさん。監督から。積極的にミドル打ってけってこと、です」
「……今入る気しねぇ。くっそダルい……」
「俺、狙うんで。パスください」

 返事代わりに肩を叩き、掛川は低い声で言った。

「チャンスあったら、ショートコーナーな」
「はい!」

 試合はゴールキックで再開した。その頃にはすっかり守りを固めた栃木の前に突破口を見つけられず、ガイナスはやむなく最終ラインにボールを戻した。
 ボールを受けに下がっていった越智が、そのままドリブルでボールを運ぶ。
 パスを受けた掛川は越智のサイン通りにワンツーで返すつもりだったのだが、顔を上げたとき、前線の白田と目があった。

 ――その目が、よこせと叫んでいた。

 とっさにパスを出さず、一旦トラップして敵のプレスをいなす。
 そのまま、長いパスを白田に放り込んだ。
 少し長い。ボールはゴール左に向かい、白田がそれをキープする。シュートには角度がない。DFも追いついていたことで、クロスを予想した選手たちがゴール前に駆け込んだ。
 次の瞬間、白田はDFをかわしてゴールに向かっていた。
 驚愕が飛び交う中、迷いなく右足を振り抜く。
 ボールの芯を捉えたシュートは、キーパーの手をかすめ、ゴールの右隅に突き刺さった。

 チームメイトに飛びつかれながら、白田が吼える。
 同時に、はるばるアウェイの地に駆けつけたガイナスのサポーターが、喜びを爆発させた。

『これはすごい! 白田、角度のないところから、迷いなく打ってきました!』
『のってますねえ……! 彼の場合、こういう駄目モトって勢いのゴールが多いんですけどね、これだけ回数が重なると、まぐれなんてとても言えないですね』
『狙いを持って打ったということですね』

 独特なくだけた表現をする解説に、実況は平静を取り戻して相づちを打った。

『それにしても、ここ最近の白田には鬼気迫るものがありますね』
『代表に選出されて、得たものは大きかったということでしょうか?』
『この間もちょっと彼と話したんですが、何て言うのか、すごく必死なんですよ。もっと点を取らないといけない、もっと守備も、ポストもやらなきゃって感じで、現状に全く満足してないようでした』
『そうなんですか』
『気が逸って空回るっていうのも、こういう状況だとありがちなんですけどね。周りの選手がよくフォローしてますね。今のガイナスは、白田選手を中心にしてはいるけれど、非常にうまくかみ合っている状態だと思います』
『なるほど。栃木は白田選手を押さえるべく、守りを固めた訳ですが……』
『ちょっと気持ちが切れちゃいましたかね。でもまあ、あれはちょっと、白田を褒めるべきでしょう』

 五分後には、狙い通りのショートコーナーから試合を決定づける4点目が決まり、そのままタイムアップの笛を聞くことになった。

 「三点取っても安心できない」がキャッチフレーズとしてすっかり定着してしまった感のある今年のガイナスだが、今回も、その不安定さを露呈してしまったことになる。
 とはいえ、攻撃力は健在だ。
 並み居る外国人選手を押さえJ2得点ランクのトップをひた走る白田は、この試合で20点の大台に乗った。
 チームも、白田個人としても、かつてないほどに歯車が噛み合って結果を残している。危うさはあれど魅力のあるチームとして、上昇気流の中にあることは明らかだ。

 リーグは終盤戦にさしかかり、白熱する昇格争いは6チームに絞られた。

 その中には、隣県である永遠のライバル、島根ブロンゼも存在する。
 スタジアムを後にするバスの中で、選手たちが大勝に興奮さめやらぬまま、多会場の試合結果をつまみに騒いでいた。

「あー、くっそ、島根も勝ってんな。相変わらずの1-0ウノゼロ
「次は島根と直接対決か。燃えるぜー!」
「今のとこ一勝一敗だからな。負け越したら府録がうるせえぞ、絶対」
「つーかホームで負けらんねえよ!」
「おいおい、お前ら、あまり浮かれるなよ。目の前の一試合一試合を大事に……」
「わーかってるって友藤さん! 気合い入れてるだけっすよ」
「あれ、そういや、シロが静かだな」
「……おい、この騒ぎの中で寝てんぞコイツ」
「スイッチ切れた小学生だな……」
「落書きしたくなるな! 誰ぞ、水性ペンを持てい!」
「ねえよ」
「サインって基本油性ペンだしなあ」

 今そこにある危機に気づかず、白田は太平楽な寝顔を晒している。
 いつもなら真っ先に騒ぎに混ざっていくフージが、なにやら難しい顔をしていることに気づき、キャプテンの友藤が席を移った。

「フージ、どうした? 菓子パンの賞味期限が切れてたときと同じ顔をしてるぞ」
「アレ食べられたヨ! 三日くらいヘーキ!」
「お前の胃腸が頑丈なのは分かってるが、プロとして契約してるなら最低限の体調管理だ」
「トモサン、石頭!」
「お前は少しばかり柔らかすぎるな」

 ぷっくりと頬を膨らませたフージは、その顔のまま座席に背中を押しつけ、ずるずると下にずり落ちていった。
 越智がいたなら逃げられただろうが、あいにく同級生は三輪に贔屓のバンドの動画を見せて貰うため、今日に限って席を動いている。
 友藤は何も言わず、フージの反応を待っている。

「……トモサン、大人」
「当たり前だろ。お前より二十年近く長く生きてるんだぞ」
「スゴイネー」
「俺から見れば、お前のほうがすごいよ。言葉も文化も違う国にきて、数年でプロになろうっていうんだから。大したもんだ」
「ンー……」
「それで、何を悩んでるんだ?」

 踏み込んで欲しいタイミングで適切に踏み込むことができるのは、シャイな日本人としては変わっているのではないだろうか。
 長い足をコンパクトに折り畳み、ほとんど座面近くまでずり落ちていたフージは、その体勢のままぼそりとこぼした。

「……男の約束ヤブッテいいトキって、どんなトキ?」
「……難しい命題だな」
「メイダイ?」
「ああ、すまん。英語だと何だったかな……ああ、これだ」

 スマートフォンを操作し、フージに渡す。
 論理分類の単語だということを理解して、フージは深く頷いた。なるほど違いない。論理であり哲学だ。

「黙っテルっテー、約束したんダヨネー」
「なるほど」
「でもネー……それでイイのかナー」
「……だめだと思ってるんだな?」
「ウン」

 こっくりと頷いたフージに、友藤は同調するように頷いた。

「まあ、結局のところ、お前が信じて決めるしかないさ。いいも悪いも、人によって変わるものだからな」
「ンー」
「大丈夫。お前は賢いし、優しい奴だ。悩んで決めたことなら、きっとそれが正解だ」

 がばりと勢いをつけて起きあがり、フージは元気よく言った。

「トモサン、タラシ!」
「……その単語をお前に吹き込んだのは誰だろうな?」
「新屋サン!」
「そうか。あいつにはそろそろ教育的指導って奴が必要だな……」

 笑顔のまま低く呟いた友藤にニカリと笑い、フージは座席に座り直した。
 相手は単純だが強情だ。それに対抗できるだけの気力を養うために、今は休息が必要だった。

 

 

 

 

 

 人口の少なさに比例して、鳥取の交通の便はすこぶる悪い。
 その道中のほとんどを寝て過ごした白田は、生欠伸をしながらクラブハウスを後にした。

 座ったまま寝ていたせいか、妙な怠さが残っている。
 軽くランニングでもしてこようかと、掛川あたりが聞けば正気を疑うようなことを考えていると、追いかけてきたフージが白田を呼び止めた。

「シロー!」
「おー。食いモンなら持ってねえぞ」
「違うヨ!」
「違うのか。つーかめずらしいな、お前と越智が一緒じゃないのって」
「ソンナ日もアルヨー」
「ふーん」

 すっかりセット扱いになっていたユースっ子二人だ。仲がいいのはもちろんだが、スケジュールが重なるので否応なしにそうなる部分もあるのだろう。
 そういえば、白田も五輪代表ではなぜか府録とセット扱いされていたが、あれは相手がいちいち喧嘩をふっかけてくるせいだ。断じて仲良しなどではない。

 自分の立場に置き換えて考えた白田は、今後は気をつけようと胸に誓った。

 昼間の暑さはどこへやら、さやさやと通り抜ける夜風は秋を感じさせた。
 濃紺の空に銀杏の黄色い葉が映える。
 シーズンが終盤を迎えようとしていることを、ふと、強く意識した。

「ネー、シロ。この間の話、シャチョーにしないノ?」
「こないだのって……あれか?」
「ウン、エージェントと会ったコト」
「……言っただろ、変に心配かけるから黙っとけって」

 フージは唇を曲げた。
 奢ってもらった上に白田に口止めされた手前、しばらくはおとなしくしていたが、やはり納得がいかないのだ。

 眼鏡の食えない代理人は、何一つ嘘は言っていない。
 あくまで偶然会って話をしただけだし、手段を知ることは悪いことではないし、自分との契約を強く勧めた訳でもない。クラブの方針を推測で話したことも、白田にとって不利益にはならない。
 彼はおそらく、「優秀な」代理人なのだろう。コネと行動力と交渉力があり、選手の利益を第一に考えて動いている。海外で聞くブローカーめいた代理人だとは思わない。
 フージにしても一飯の恩があるが――それでも引っかかってしまうのは、好意を天秤に掛けたなら間違いなく、眞咲の方に傾くからだ。

「シロ」
「何だよ」
「シロが言わナイと、キット、シャチョーを傷つけるよ」

 語尾を伸ばすことの多いフージにしては、妙にきっぱりとした言葉だった。
 目を瞠った白田に、フージは大きく息を吐く。

「ソレダケっ!」
「おい、フージ――」
「オナカへったー! 晩ゴハン何カナー」

 言うだけ言って清々すると、フージは足取り軽く駆け出した。
 複雑な顔をする白田に、ぶんぶんと手を振る。

「シロー! 男なら、甲斐性ミセナイとだヨー!」
「……分かってるよ!」

 

 

 

 

 

 Jリーグは現在、市場規模として、日本プロ野球連盟に次ぐ地位にある。両者の間には依然として集客力にも経営規模にも大きな差があるが、興行的には成功した部類に入るだろう。
 発展し続ける組織というものはなかなか存在しない。集客数を伸ばすためにリーグは様々な試みを打ち出してきた。
 Jリーグの実行委員会は加盟クラブの代表によって運営され、リーグ運営における重要事項を決定する。毎月の集まりであるその会議は、成熟した日本の組織運営らしい様相を呈していた。――すなわち、事前調整による予定調和だ。
 リーグ事務局の決定に諾々と従うわけではないが、覆すには相当の反対が必要となる。自然、よほどの不利益を生じる変更でない限り、会議の内容に異が唱えられることはなかった。

 この日も事前資料通りの無益な会議を終え、眞咲はため息を飲みつつ席を立った。
 女性理事は一人きりで、それも未成年という肩身の狭さだ。
 今はクラブの運営に手一杯の状況だとはいえ、トップダウン形式の組織運営を理想型として育った眞咲に、稟議制のまどろっこしさは善し悪し以前の苦痛を覚えた。
 もしも父から与えられた試験が、もっと大規模な企業の中途半端なポジションだったなら、適応はもっと困難だったに違いない。
 最初は予想外の配剤だったが、今となっては父に感謝していた。
 スポーツビジネスは不確定要素が多く、学んできた知識や経験則が通用しない部分が多い。
 小さな組織だからこそ、四苦八苦しながらもここまでたどり着くことができた。
 この組織を、それに関わる人々を、実感として愛することができた。
 きっとそれは、どんなエリートコースを歩むよりも、有用な経験だったと思うのだ。

 会議室を出た眞咲は、のんびりとした印象の声に呼び止められて振り返った。
 相手は隣県チームの代表取締役だった。東京に出てすっかり訛りが抜けているが、どこか訥々としたトーンで彼は続けた。

「やあ、お疲れさまです、真咲社長。どうです? チームの調子は」
「おかげさまで、ほどよく調子に乗っている様子です。最後までこけないでくれることを祈っているのですが、どうでしょうね」
「今や、飛ぶ鳥も落とす勢いですからね。でも、うちも負けていませんよ?」
「ええ、存じ上げています。……そちらは、満を持して、といった印象ですね」
「いやいや」

 投資ファンド出身の社長は、自信に満ちた笑みで応えた。
 ともに経済規模の小さな、地方を拠点とするクラブだ。制約の多い中、彼らは着実に経営基盤を整え、クラブの方針に見合った優秀な監督を招き、戦力を整え、ロードマップどおりの成長を遂げてきた。
 雪玉が転がるようにここまできたガイナスとは違う。
 白田に言えばふてくされるだろうが、彼らの自信はこれまで積み上げてきたものからくる、この上なく正当なものだった。

「うちはその点、ただの勢いですから。成熟度が足りません」
「いやいやとんでもない、ご謙遜を。鳥取さんも十分その資格はあります。それに、考えても見てくださいよ。影が薄いだのどっちがどっちだか分からないだの言われてる山陰二県が、関東のお金持ちクラブを押さえてダブル昇格なんてことになったら、これ以上面白いことなんてないでしょう?」
「……なるほど。仰るとおりです」
「ね? だからね、鳥取さんにも頑張ってもらわないと」
「でも、同時二県となると、やっぱり混同されてしまうような気も……」
「まあその辺はその辺で。J1で山陰ダービー、やりたいじゃないですか。夢ですよ、夢」

 嫌みのない口振りに、眞咲は笑顔で頷いた。
 かげりを見せることも、苦笑することもできなかった。
 おそらく、相手もそれを理解していただろう。

「そうですね。その際はぜひ、大々的に広告をあげてみたいです」
「なんたって因縁のね、対決だからね。来年は五輪もあるし」
「ええ。楽しみです」
「気が早いってのはおいといて、ね、頑張りましょうね」
「ええ」

 お仕着せの笑顔で応じたとき、アポイントを取っていたリーグ担当者が眞咲に声をかけてきた。
 愛想よく場を辞した眞咲に会釈で返し、島根の老練な代表取締役は、重荷のかかるほっそりした背中を見送った。
 そこに背負うものは、誰にも肩代わりすることのできないものだ。
 だが、同情しようとは思わない。物の分からない子供ではなく、そのための学問を修めた人間が、他でもない自分自身で選んだ道なのだ。そこに年齢は関係ない。――余分にまとわりつく問題は否定できないが、対等な同業者として接することが、若年の社長に対する彼の誠意だった。


 

 

 

 

 ――仰るとおり、現状ではガイナスのJ1昇格は認められない可能性が高いですね。ただ、リーグとしても、昇格審査で不可を出すことは極力避けたいというのが本音です。……累積債務さえ何とかして貰えれば、スタジアムの改修については数年の猶予をつけることはできるでしょう。……ですが、そのためには――

 そんなリーグ担当者の意見を待つまでもなく、ガイナスが現状でトップリーグに昇格することは、限りなく困難だった。
 その困難を前提として譲歩を口にしたのは、ひとえに、白田を――集客力のあるタレントをJ2で飼い殺しにすることへの非難があったためだ。

 呼び出しを受けた親会社の本社で、眞咲は正反対の方向からの批判を淡々と受け止めながら、そんなことを分析していた。

「外国仕込みの経営手法というものは、どうも、ご自身が目立たなければ気が済まないもののようですな」

 遠慮会釈のない嫌味に無感動な笑みを貼り付け、眞咲は首を傾けることで返した。

「お言葉の意味を図りかねます」
「そういえば先日、ある経済誌で面白い記事を読みましたよ。二世経営者が成功しない理由というものです。それこそハーバードビジネススクールを出たようなエリートでも、案外うまくいかない会社が多いと。なぜかと言えば、彼らは大体において自信家で、理論派で、他人の経験や慣習を下らない意味のないものだと思っているからです。それでは組織は回らない。回るはずがない」
「身につまされますね。仰るとおりです」
「……自覚があるとは驚いた」

 分厚い手が会議机を叩いた。
 同行していたガイナスの営業担当が、思わず身を竦め、苦々しげな顔をする。
 彼はかろうじて怒鳴ってはいないというだけの、唸るような声で言った。

「いいですか、お嬢さん。うちの会社には、グループを含めて一万人の人間が働いているんです。この不景気だ。昔ならできた福利厚生も地域貢献も、削らないと会社が回らない。そこのところを、上っ面だけではなく本当に理解してもらっているのかね」

 親子ほども年の離れた部長は、もはや眞咲への敵意を隠そうともしていなかった。
 彼の憤りはもっともだ。経営再建のため外部からトップを招いたはずの会社が、憎まれ役を担いながら調整してきた経費削減案を白紙に戻したのだから。眞咲が同じ立場だったなら、同じような怒りを感じるはずだ。
 本来なら今年限りだったガイナスへのスポンサードも、白田が広告塔としての価値を持ったことで、上層部に慎重論が広がっている。それもまた、彼にとっては怒りの種になるだろう。

「もちろん、それだけの価値を作り出す責任を感じております」
「その価値が金銭に換えられるものならいいが、そうではないのが残念だ。……私ははっきり言って、スポーツに一切の興味はないが……ある程度の必要性は認めている。私が我慢ならないのは、そちらが自らの価値を見誤って、さらに度を超えた要求をする可能性だ。そのときは、いくら温厚な私でも我慢の限界だということを、そちらにはよく含み置いていただきたい」
「ご指導いたみいります」

 何を言っても反感を生むのはどうしようもない。
 張り付けた微笑で押し通した眞咲は、親会社の立派な社屋を出て、ようやく気の抜けた息を吐いた。
 同行した営業担当が鬱憤を吐き出したのは、遮音性のある車の中に入って、サイドブレーキを上げてからだった。

「なんっですかね、アレ! えっらそうに!」
「仕方ないわ。気持ちは理解できるもの」
「だって、決めたのはあちらさんの役員ですよ。そりゃ僕らも頑張りましたけどね! 決まったことに愚痴愚痴とあのオッサン……腹立つなあ!」
「付き合わせてごめんなさい。一人で出向いたら余計に怒らせてしまうのは目に見えていたから」
「そこは文句言ってないんで! っていうか、あんなオッサンと密室で二人っきりとか駄目です。俺がみんなに怒られますよ。そこは謝らないでいいんです。うちのボス一人敵地に送ったりしません」
「ふふ。ありがとう」

 苦笑とともに礼を言った眞咲に、彼はむすりとした表情のままため息を吐いた。

「……要は、アレっすね。J1に昇格するための資金をねだるなよ、ってことですよね」
「まあ、そうね」
「実際、アテにできないってのはキッツイなあ。……あそこが出さないのに、うちが出すのは、って流れになりますしね」
「ええ」
「マスコミを巻き込んで全面戦争ってのも、ちょっと現実的じゃないし……」
「彼が一番釘を差したかったのは、その手段ね。もめ事になるだけでイメージダウンだから」
「……でも、あれがあちらさんの決定ってわけでも……どうにかとっかかりが……うーん……あー、クラブハウスの裏から石油とか出ねーかなー!」
「残念だけど、鉱業権を持っている業者のものになるわね。多少の補償金は出るかしら」
「妄想さえ語れないこんな世の中じゃ!」
「……」
「……あれ? 無反応ですか、社長」
「いえ。こんな世の中じゃ、の続きがあるのかと思って待っていただけ」
「あー、ネタの解説は勘弁してください。世代差感じて切なくなるんで」
「むしろ育った国の違いじゃないかしら。さすがにポップカルチャーまでは把握してないわね……」
「ドラえもんは通じたじゃないですか」

 取り留めもない話をしているうちにクラブハウスに着いた。
 負けん気をかき立てられたらしく、運転手はそのまま営業に出ると張り切って駐車場を後にした。
 残暑はまだまだ厳しく、外に経っているだけで汗が流れる気温だ。
 クラブハウスの方へ足を向けると、風に乗って選手たちの声が聞こえてきた。
 姿が見えるところまでくると、ボールの音とともに、気温が一、二度上がったような気分になる。
 ネットで覆われた天然芝の練習場は見学者と取材記者で今日も盛況だ。今はハーフコートでの練習が一段落ついたところのようで、白田と掛川が身振り手振りを交えながら真剣な表情で越智と話し込んでいる。そこへフージが文字通り首を突っ込み、邪魔だと一蹴されてふてくされる。邪険にされながらも有用な意見を出したようで、掛川が何ともいえない表情になった。

 組織というものは生き物だ。成長期には、何をしてもうまく噛み合っていく。
 ブレーキをかけることも、コントロールもままならない。
 今のガイナスには、そんな勢いがあった。

「……隔世の感、だなあ。まさに」

 地元の新聞記者が一人ごちた言葉に、近くにいた別媒体の雑誌記者が大きく頷いた。
 発言主は無自覚だったようで、照れくさそうに鼻の頭を掻いた。

「いや、受け売りなんですけどね。ほら、あのバイトの女の子」
「ああ、あの子ですか。言い回しは古典的ですけど、的確ですね」
「だろう?」
「そう思います。あと練習自体が……何ていうのか、活気があるのにぴりっとしてますね。前担当だったところのチームが優勝した年と、雰囲気が似てます」
「そりゃいい。狙うはJ2優勝だな」
「どうでしょう。そう簡単なリーグじゃないのは承知の上ですけど……でも、やっぱり駄目ですね、思いこんじゃって。そうなって欲しいって思っちゃうんですよ」

 しみじみと、実感を持った言葉だった。
 なんとなく気配を殺してクラブハウスに辿り着いた眞咲を見つけ、経理の藤間がいつにない真剣な表情で席を立つ。騒がしい広報コンビを冷然とした一瞥だけで押さえ込み、優先権を獲得した彼女は、社長室に入るなり口火を切った。

「社長。私が言うことじゃないかもしれませんが……白田君と、できるだけ早く話をしてください」
「穏やかでないですね。何の話を?」

 一つ息を吐き、藤間はまっすぐに眞咲を見据えた。

「彼の、移籍について」