#070

 北京五輪サッカー日本代表チームは、その後も苦しい試合展開ながら結果としての「快進撃」を続けた。
 何しろオランダに続き、優勝候補の一角である強豪アルゼンチンからも勝ち点をもぎ取ったのだ。しかも一度は二点差をつけられてからの、執念の追撃だ。勢いづいた若いチームがともすれば逆転するのではないかという期待さえ抱かせた、価値ある熱戦だった。

 もっとも、残ったナイジェリア戦では清々しいほどボコボコにされて強制的に頭を冷やされる羽目になったのだが。それもご愛敬だ。
 満身創痍ではあるものの得失点差でそのナイジェリアを下し、決勝トーナメントに駒を進めた。その結果がすべてだろう。
 そして準々決勝ではこの大会初の快勝を挙げ、日本中が俄に色めき立った。

 何しろ残り二戦のうちあと一つ勝ちさえすれば、色はともかくメダルが手に入るのだ。
 その事実は、ワールドカップの予選だの、グループリーグで何位だのという話より断然に単純明快で、「現実的な」戦法を選んだ監督とチームに対して手のひらを返したような賞賛が集まった。――早い話、報道が過熱した。
 重箱の隅から探し出してきたような美談や自称関係者のリークする内部情報、家族の談話。錯綜する情報と喧噪をできるだけシャットアウトしようとスタッフが苦慮する中、楽天家とお調子者揃いの選手たちは、ある目的で一致団結していた。

「いいかテメーら! メダル獲ってシロを男にするぞ!」
「おい、監督ナベさんじゃなくて俺かよ!?」
「バッカお前、大見得切ったくせに手ぶらで帰って告白できませんでしたーなんてしょっぱすぎるだろ」
「そうそう、せめて華々しく散らせてやろうぜ!」
「巨大なお世話だ! つーかマジで頼むから、よそでそれ言うなよ!?」
「いーじゃねーか振られんだし」
「そーそー、熱愛スクープとかじゃねーし」
「よくねぇよ! うちの社長怒らせるとマジ怖いんだぞ! なあトラ……ってオイ見捨てんな! 帰ってこい!」

 食堂を離れようとしていた掛川は無言でUターンすると、妙な迫力を漂わせながら白田の前まで戻り、その顔をがしりと鷲掴みにした。

「いだだだだ」
「……うるせえんだよ……いいか、こっちは念願のベンチ入りで明日に集中したいんだよ、どこぞの調子こいたエース様みたく試合前にぎゃあぎゃあ騒いでる余裕ねーんだよわかったか犬頭」
「ひでえ! っていだだだだマジで痛い! すまん俺が悪かった!」

 片方は本気であるコントにそこら中から笑い声が上がる。
 他の客には迷惑きわまりない騒ぎの中、苦り切った顔で口を挟んだのは、年齢詐称疑惑のあるキャプテンだった。

「……まあ、軽々しく喋って良いことじゃあないな。白田がどうというより、クラブの迷惑になる」
「出たよ優等生発言」
「ゴトーセンセー頭固いッスよー」
「だから茶化すな! 悪ふざけでクラブが潰れるようなことになったらどうする、笑い事じゃなくなるぞ!」
「またまた大げさなー」
「……うーん、まあ可能性はあるよね」

 どっと湧いた笑い声を止めたのは、独立独歩なサッカー界の爽やか王子(非公認)だった。

「え、何だそりゃ。中西ニシ君、マジで?」
「だって鳥取、今でも結構綱渡りだし。そりゃそうだよね、若い女の子なんてただでさえ信用されにくいんだから、そりゃ神経質にもなるよ」

 この年代別代表きっての知能犯――何も犯罪など行ってはいないのだが、なぜかこの表現で意見が一致している――の言葉に、子供心を忘れないというよりもまだ子供なのではないかと思わせるサッカーエリートたちは、きょとんとした顔を見合わせた。

「……ニシ君が言うんじゃ、しゃーねーかあ」
「あれだよ、シロの反応がおもしれーのが悪いんだって」

 鶴の一声とはこのことか。
 あっさり納得されたことに肩を落としたキャプテンを、中西が背中を叩いて慰める。
 その気遣いがよけいに傷を抉ったということはさておき、彼はため息混じりに、何とも言えない顔をしている白田に声を掛けた。

「……なあ、シロ。ずっと疑問に思ってたんだが……」
「今度は何だよ……」
「振られない可能性は考えないのか?」

 いくら自分に自信がない人間でも、こんな話は、大なり小なり期待を持ってしまうものだ。
 無理だろうと思っていようとその可能性は夢想してしまう。そのはずだ。だというのに白田自身が振られることを前提としているように思えて、違和感があったのだが――言われた白田が目を丸くして固まったのを見て、なぜか、とんでもない失態を犯したような気になった。

「……お、おい。まさか、本気で考えてなかったのか?」
「え、いや、何つーか……無理だろ、ないだろそれ」

 まさかの発言である。
 言わなければいいのに、思わず訊ねてしまった。

「じゃあ、もしオーケーされたら、どうするんだ? 付き合うのか?」

 ――それを本気で考えていなかったことは、そのまま石像になった白田の反応が雄弁に物語っていた。

 

 ちなみに、翌日の準決勝は完敗した。
 白田の名誉のために補足するとすれば、精神的な何がしかの影響は全くなかった。ドイツのガチムチな守備陣を前に、完膚無きまでに押さえ込まれて力負けしたのである。
 それでも何とか三位決定戦には勝利し、2008年北京五輪サッカー日本代表の戦績は、戦前の酷評を跳ね返し、銅メダルという結果に終わった。

 各々がほんの僅かな達成感と、それ以上の悔しさと、課題や野望や手応えといったものを胸に帰路につく。
 そして白田の背中には、さあやってこいといわんばかりの目が向けられていたのだが、変なところで悩みの種を手にしてしまった本人はそれにまったく気付かずにいた。

 

 

 

 

 五輪のサッカー競技がアルゼンチンの優勝で幕を閉じた後、理沙は今更ながら、五輪効果というものを実感していた。

 もっと正確に言うなら、メダルのご威光というものを思い知っていた。

 なにしろ孫娘がサッカー観戦に熱中しようが孫息子がサッカーを始めようが一切関係なく、野球一筋虎党何十年だった祖父が、ニュースを見ながら「こいつは米子の奴なんだろう?」と白田を指さしたのだ。孫二人にとっては驚天動地の事態だった。
 夏休みの特別講習が行われている学校に行っても、その驚きは続いていた。
 白田がつい最近の卒業生ということも手伝って、誰も彼も興奮気味だ。特に女子生徒の黄色い声が本当に凄い。

「ほんっと、カッコよかったよねー! サッカーよくわかんないけど、もーマジありえないくらいカッコよかった!」
「白田クンもいいけどさ、掛川クンもいいよねー!」
「うんうん、イケメン! 悲鳴出たもん!」
「明日こっち帰ってくるんだって。うちのお姉ちゃん、空港までバイトサボってお出迎え行くってさー」
「えー! いいなあ羨ましい!」

 ――隔世の感だ。
 遠い空を見て感慨深いため息を吐いた理沙に、志奈子が苦笑いでかぶりを振った。

「あんたはばあちゃんか」
「だって、しーちゃん……! ガイナスの選手が学校できゃーきゃー言われてるんだよ!」
「まあねえ。これが続けばいいんだけど」
「うっ……だ、大丈夫だよ、眞咲さんたちが色々考えてくれてるし!」

 効果の程は定かではないが、少なくとも少しくらいは動員への好影響も期待できるはずだ。
 なので、その辺りは理沙も楽天的に考えている。努力は必要だけれど、そのためのきっかけを白田立ちは十分すぎるくらいに作ってくれたのだ。

 そう、懸念事項は、そこではない。

 U-23日本代表が五輪でメダルを獲って帰ってくるということは。
 ――つまり、例のイベントが待っている訳だ。

(……どうかお願い眞咲さん、一刀両断とか徹底殲滅とか、そういうのはしないで……!)

 いや、理沙は眞咲を信頼している。そんなことはしないと思っている。エースストライカーのメンタルを更地にしたところでガイナスが得をすることなど何もないのだから、損得勘定のきっちりしている眞咲がけんもほろろに白田を突き放すなんて、そんなことにはならないと思っている。
 思っているのだが――眞咲が穏当に、差し支えなくやんわりとお断りしたところで、白田が意味を理解できずに食い下がりそうな気がしてしかたない。
 この辺り、憧れていると公言しているわりに、理沙の白田評はなかなか酷い。

 真夏の痛いほどの晴天下、理沙はひたすらに祈っていた。
 ――ただし祈るだけで、これ以上何か働きかける予定は全くなかったのだが。

 

 

 

 

 

 そして帰国した五輪日本代表チームの面々は、予想以上の熱気に出迎えられた。
 何だかんだ言って、サッカーというのは人気競技だ。他にも金色や銀色のメダルを獲得した競技はあったというのに、空港に集まったマスコミもファンも、ともすればそれを凌駕するような狂騒具合だった。
 行きとは天地の差である。
 だがしかし、ほとんど包囲網に近いような状況で、臆するどころか悪ノリを始めるのがこの年代別チームだった。

「さあシロ、ここは俺に任せて先に行け!」
「おい」
「米子行きの飛行機はあっちだ! 華々しく散ってこい!」
「おい待て」
「安心しろ骨は拾ってやるぜ!」
「……いや、特番出ないとしばかれるから。直行無理だっつの」
「はあー? なんだよつまんねーなあ」
「そーだそーだ、もっと熱くなれよー」

 散々いじり倒されたせいで、もう声を荒げるのも面倒くさい。
 白田の反応があまり面白いものにならなかったのは、今更ながら緊張してきたこともあるが、ぶつけられた疑問をまだ解消できていないことも一因だった。

(社長がオーケーしたらって……。つーかこれ、本当に考える必要あるか……?)

 ないような気がする。
 自分の中で早々に結論は出てしまっているのだが、それでも思い出したように考え込んでしまうのは、その可能性を全く考えていなかったせいだ。

 じゃあなんで告白なんてしたのかといえば、うっかりとか勢いとか事故っぽい何かというか――いや、最初はそうだったが、そうじゃない。
 改めて言う羽目になったのは、自分がそれを宣言してしまったからだ。
 のらりくらりかわしてなかったことにしようとする眞咲に、突きつけてやりたくなったのだ。
 それがどうしてなのかは、今まで考えようともしていなかった。

 袋小路に嵌ってしまった気分だ。
 テレビの収録の間も取材の間も解散を宣言されても帰り道に至っても、思い出せば眉間に皺を寄せて考え込んでいると、唐突に背中をどつかれた。

「い……ってえな、何すんだよ!」
「はっ、少ない脳味噌無駄に働かせてっからだろ」

 いかにも馬鹿にしたような顔で、府録は飄々と言ってのけた。

「ぐるぐる考えてりゃ答えが出るとでも思ってんのか? 笑わせんなよ。どうせ今更怖じ気づいて、逃げ口探してやがんだろ」
「誰が! わかったようなこと言うんじゃねーよ!」
「ほーお。じゃあ予定通りさっさと帰って玉砕してこいよ。まっさか眞咲ちゃんがオーケーするわきゃねえし、一方的に言ってすっきりしたいってだけなんだろ。あーあー、勝手にもほどがあるねえ」

 府録の挑発に、白田はふと我に返った。
 そう、その通りだ。
 言いたかっただけだ。眞咲にその言葉を受け取って欲しかった。
 ――きっと、そうしなければ手に入れられないものがある。
 身勝手でも何でもいい。そうしなければいけないのだと思った。結果がどうこうではなくて、それ以外の方法では手にいられられないと思うから、言わなければいけないのだ。

 メダルを獲ったかどうかは関係ない。そのためのお膳立ては、もうとっくに整っている。
 ああそうかと納得してしまって、すっかり落ち着いた気分で頷いた。

「……俺、今初めてお前に感謝した気がする」
「は?」
「ありがとな! すっげーすっきりした!」

 言うなりスーツケースを引っ張って走り出した白田を、府録は唖然として見送った。