#068

 いかにもMBA取得者らしく、眞咲萌の経営手法は基本的にロジカルだ。
 実績評価の数値化、短期目標と中期目標、要改善点のあぶり出しに至るまで、これまで「運営」でしかなかったガイナスの思想に、「経営」という概念を一から整備した。

 データ入力を終え、広報の河本はやけに気の抜けた息を吐いた。

「よしできたー。あー、やっぱ幼稚園じゃマスコット最強だよねー」
「サメゴローさんね、サメゴローさん。名前で呼んであげて」

 種村が五輪関係の掲載記事をチェックしながら、片手間に声を掛けた。
 さもありなん、と河本はうなずく。
 ガイナスの経理担当さん特製の、ピボットテーブルとマクロで構成された統計プログラムは実に優秀で、数値を入力したらグラフも分布図も全自動だ。参加メンバーやプログラムの内容など、項目ごとの評価が一目瞭然になる。
 その中でも群を抜いて好評なのは、やはりガイナスいちの働き者だった。

「いやはや、すごいわ。怪我から復帰してすぐこれだもん。子供って着ぐるみ大好きよね」
「うぉぉい何言ってんだよ。だから中の人なんていないってば」
「あーはいはい。っていうか倉さ……じゃなくて、あー、内臓の人の努力の結果ってやつ? ゆるキャラ戦国時代を生き延びるには個性が必要ってとこよねえ」
「それそれ。まあ、Jリーグのマスコットでも影が薄いのいるけど」
「引きこもりときたか」
「いや、引きこもりは逆にキャラが立ってるんだよな。むしろそいつに働かれると雨が降るという都市伝説があったりする」
「働いたら負けってか! いっそ雨乞いに使えばいいんじゃない? つーかキャラづけで天候左右できないって普通」
「だからネタになるんだよなー。後はー、そうだなー、あざとかわいいのとか、男気あるヒールだとか、芸達者なのとか、バカップルのはずがいつのまにかビッチキャラとか」
「なにそれめっちゃ濃い。Jリーグ濃い。キャラクターはエピソードの積み重ねってヤツねー」

 ビッチなエピソードって一体何だと内心でツッコミながら、河本は報告書をしみじみと眺めた。
 それまでは実施したらそれで終わりだった学校訪問も、こうして数値化してみると新しい発見がある。

 広報部に新しく採用された河本が期待されているのは、低年齢層の掘り起こしだ。前歴のNPOで子供向けのワークショップを多数手がけてきた河本には、子供を対象としたイベントのノウハウがある。文化芸術系の組織でスポーツとは縁がなかったが、相手が子供であることには変わりない。手探りながらも、裁量の幅の大きさにやりがいを感じていた。
 何より、なんだかんだ言って、何らかのプロというものは子供たちにとって確かに魅力的なのだ。

「あとはー、やっぱ新屋選手か。三浦選手も子供受けいいねー」
「あー、あの人たちなんとなく似たタイプだしねー」
「ねー。まあ白田君は別枠として」
「シロはそりゃ、今や日本代表だもんな! 取材もものすごい数だし。いやーお仕事たくさんで嬉しいなー」
「おお、超棒読み」
「いやいや冗談っす河本さん。本当にありがたいですよ、たとえ週刊誌の下世話ネタでも」
「そうだ、下世話と言えば……」

 椅子のキャスターを転がして種村に近づき、河本が声を潜めた。

「やるわよねー白田君。ねえ、社長どうすると思う?」
「えぇー……かわいそうだからやめてあげるべきだと思います。いじめよくない」
「その発言ツッコミ待ち? 振られること前提じゃん」

 河本が来てまだ3ヶ月しか経っていないが、妙にノリが合った広報二人の掛け合いはしばしば漫才じみたものになる。
 肩を竦めた河本に、種村はぽりぽりとこめかみを掻いた。

「実際ねー、ちょっと考えてみたけど、やっぱ無理っぽい気がするんだよね」
「そーお? だって二人で出かけたりしてたじゃん」
「真面目な話、あんまり煽りたくないなーって。あの二人くっついたら、結構いろいろ面倒だよ」
「面倒って何が?」
「シロはうちのエースで、ただでさえ特別扱いなわけだ。で、社長とお付き合いしてますなんてことになったら、別に贔屓とかしてなくてもますます特別枠っぽくなっちゃうだろ。不協和音ってそういうとこから始まるもんだよ。普通の会社だって微妙なのにさ、うちはチームスポーツやってるわけだから」
「堅っ苦しいなあ。そんなもん――、っとヤバ」

 不意に、河本が話を遮るように手を上げた。
 間を置かず、話題の渦中の人物が事務局に姿を見せた。

「お疲れさまです社長! どこもオリンピックの話ばっかりだったでしょ!」

 やけにハイテンションで繰り出された挨拶に、眞咲は何かを察したような苦笑いで返した。

「ええ。鳥取在住の選手がオリンピックに出るなんて、これまでにないニュースだもの」
「いやー頑張って欲しいですよねー。ゴール決めてきて欲しいですねー。ねえ!」
「そうですね」

 微動だにしない眞咲の笑顔に何か空恐ろしいものを感じて、種村がこっそり河本をつつく。
 それに気付いても気にするつもりはないのか話し続ける河本にハラハラしていると、救いの神のようなタイミングで電話が鳴った。

「はいガイナス鳥取事務局です! ……あ、広野さんお疲れさまですありがとうございます!」
『……なんか今日はやけにハキハキしてるねえ、種ちゃん。まあいいや。社長いるかな?』
「喜んでー! 社長、広野強化部長からお電話です!」

 居酒屋のような返事とともに電話を取り次ぐ。
 眞咲は笑顔を一切変えないままで電話に出た。

「もしもし。……ええ。ええ。そう……。わかったわ。本人には?」

 肘に手を当てて受話器を持ち、眞咲がため息をつく。
 広報二人は顔を見合わせた。

「……そう、ならいいわ。よろしく」
「社長、何の連絡だったんですか?」

 電話が終わるなり、河本が好奇心を全面に出して訊ねた。

「掛川選手が五輪代表に追加招集されたそうよ」
「え! それはまた……なんか……おめでたいのかどうか……」
「ええ。なかなか複雑ね」

 北京五輪のサッカー日本代表メンバーの中に、掛川克虎の名前はなかった。
 ただ、ポテンシャルの高さと今季のパフォーマンスの良さを買ってか予備登録メンバーには選出されており、急病での欠員が出たことで招集されることになったのだ。
 とはいえ序列は非常に低い。おそらくベンチに入ることもないだろう。
 一方クラブでの掛川は不動のスタメンで、好調を維持している。苦しい時期にあるガイナスとしては、白田と掛川の二人を欠くことは死活問題だった。それを数あわせのために連れて行かれてしまうとくれば、素直に祝福するのは難しい。掛川自身にも、モチベーションの問題があるだろう。

 周囲にそんな心配をされていた掛川だが、夕方になってクラブハウスに顔を出した青年の顔は、予想外に淡々としていた。
 いやに閑散とした事務局で、最初に掛川に気付いた河本が、あまり気合いの入らない声を掛けた。

「あ、掛川君。おめでとー」
「……どうも。社長は?」
「んん? 多分屋上かな。練習場の防球ネットがほつれてるとかって話が出てたから」

 とたん意味深なニヤニヤ笑いを見せる河本へ言葉少なに礼を言い、掛川は屋上に足を向けた。

 

 

 夏の盛り、気温は夕暮れになっても汗が流れるほどに高い。
 タオルを首に掛けている調達部の男性は体型からして暑そうだったが、ハンカチで首もとを押さえている眞咲も例外ではないらしい。
 ちょうど話が一段落したのか、先に眞咲が掛川の存在に気付いた。
 人の良いスタッフは今回の選出を純粋に喜んでいるようで、掛川は彼から、素直な祝福の言葉をひとしきり受けた。

「じゃあ社長、とりあえず修繕の相見積もり取ってみますので。トラ君、頑張ってこいよ!」
「……っす」

 掛川は小さな会釈で返した。
 良いとは言えない返事だったが、表情はそうでもない。もっとあからさまに嫌そうだったり、ふてくされた態度を取ってはいないかと心配していたのだが。
 大人になったのねと眞咲がしみじみ感じ入っていると、掛川が顔をしかめた。

「なんだよ、大人になったなとでも言いたそうな顔しやがって」
「あら、伝わってしまった? いいじゃない。褒めているんだから」

 掛川が顔を背けて舌打ちする。
 前言撤回だ。やはりいちいち、やることが子供っぽい。

「五輪代表選出おめでとう。十八人のうちの一人になったんだもの、チームの一員として頑張ってきてちょうだい」
「言われなくても、やるだけやってやるさ」
「それは心強いわ」
「言ってろ。……あんたこそ、白田に伝言があれば聞くぜ」

 まさか掛川からこんな言葉が出てくるとは思わなかった。
 掛川は不機嫌そうで、からかっている態ではない。
 眞咲は数秒固まったが、笑顔を維持したまま小首を傾げた。

「エースが使い物にならなくなってもいいなら、お願いしようかしら」

 掛川は苦虫を噛み潰したような顔になり、首裏に手を当てて息を吐いた。

「やめろ。面倒事はごめんだ」
「ふふ、冗談よ。さすがに伝言で片付けるようなことはしないわ。これ以上の厄介事にはしないつもりだから、安心して行ってらっしゃい」

 目を伏せた眞咲が話はこれで終わりだと示しても、掛川は立ち去りあぐねた。
 暖簾に腕押しとでも言うのか。きっぱりと張り巡らされたバリケードに、白田への同情心が浮かんだ。

「……あんた、計算以外でモノ考えない主義?」
「なかなか言ってくれるわね」

 笑顔をようやく苦笑に変え、眞咲は首を振った。

「そんなに割り切ったものでもないわ。クラブのトップとして、最低限必要なところを押さえているだけ。……私には足りないものが多いから、これ以上のマイナスを背負う余力はないのよ」

 自分や白田の気持ちは二の次だと言わんばかりで、掛川は鼻白んだ。
 とても十代の、しかも女の子とは思えない。はっきり言ってしまえばかわいげがない。
 上司としては頼りがいがあるのかもしれないが――そこまで考えて、掛川は頭を動かすことをやめた。
 どうでもいいことだ。こんな相手に惚れた白田が悪い。あの男が失恋でパフォーマンスを落とさないことはU-20で証明済みだ。したがって、これ以上首を突っ込んでも得がないし役にも立たない。
 屋上を去り際、ふと思いついて言った。

「結婚できない女って、あんたみたいなのだろうな」

 眞咲は目を丸くすると、面白い冗談を聞いたかのように吹き出した。

「そうね。でも一応、幼い頃の夢は、『素敵な旦那様の可愛いお嫁さん』だったのよ?」

 掛川が宇宙人に遭遇したような反応を見せたので、眞咲は笑い声を転がした。
 嘘ではない。いくら幼い頃からはっきりした目標を与えられてそれに邁進してきたと言っても、ようやく物心がついた頃に見た花嫁の美しいドレスと幸せそうな笑顔に憧れを覚えなかったわけではないのだ。
 ただ、それは愛とか恋とかいった甘やかな話ではなくて、満ち足りた家族としての憧れだった。

 一人きりになった屋上で、落ちていく夕日をぼんやりと眺めた。
 暑さは一向に収まらず、じわりと汗が滲んでくる。
 誰にも聞こえないようにため息を吐いた。

 白田が帰ってきて、もう一回同じことを言われても、返すことの出来るものは決まっている。
 ――決まっているのだ。

 

 

 

 ジジは手みやげを膝に置いたまま、まるで隠れるようにして、屋上への解放階段に腰掛けていた。
 掛川と入れ替わりに上がってきたのだが、眞咲に声を掛けることはできなかった。
 そこにいたのは、ジジの知らない少女だった。この上なくその性質を裏切らない頑ななスタンスを貫いているのに、確かな苦さを押し込めようとしている、一人の少女だった。

(どうしてよ)

 淡い透明色のビニール袋が、ぐにゃりと歪んだ皺を作った。
 大学時代の眞咲はお人形のように完璧な笑顔で男を近づけずにいたのだ。その根底には男に対する強い警戒心があるように思えていた。ジジはそれを逆手にとって、眞咲の隣を確保してきたのだ。
 けれど、白田は違う。明らかに男で、気遣いもなければ頭も働かない。財力だってないし容姿だって絶世の美男子なんてものじゃない。それなのに、眞咲が白田には境界線を踏み越えることを許しているように見えて、どうしようもなく悔しかった。
 時期なのか、距離なのか、それとも白田でなければならない何かがあったのか。

(まあ、いいわ。いいのよ。キキがキキである以上、絶対にあいつを選ばないんだから。そうよ、まだ負けたわけじゃないんだから!)

 今日は戦略的撤退だと顔を上げたとき、至近距離に人の顔があった。
 かろうじて悲鳴を飲み込んだジジに、フージがにぱっとした笑顔を浮かべる。

『……ちょっと何よ!? 近い! あんたいつからそこにいたの……って思い出した! あんたこないだ邪魔しくさったガキじゃない! 白田に監視しとけとでも言われたわけ!?』
『ねえねえねえ、いいにおいする! お菓子? お菓子もってきてくれたの?』

 すべて小声でのやりとりである。
 まったく返事になっていないフージにジジは頭痛を覚えたが、眞咲がこちらにくる気配を察して、少年の口を塞ぐと一目散にその場から退散した。
 クラブハウスの外まで引っ張られていき、ようやく解放されたフージは、全く気にした様子もなく自分の要望を口にした。

『ねえねえお姉さん、お菓子ちょーだい!』

 両手を差し出した、全く邪気のない笑顔にジジは毒気を抜かれてしまった。

『本能だけで生きてるガキね……』
『ごはんは大事だよ! 日本じゃ「ごはんくれなきゃ戦争できない」って言葉もあるんだってー。それってすっごく名言だよねー!』
『……もういいわよ。あたし帰る。あんた、これ全部食べていいから』
『いいの!? わーい!』

 手に入れたシュークリームの箱を頭上に持ち上げ、フージはくるくると回って喜びを表現する。
 何も考えていないような脳天気さに、ふと口が緩んだ。

『ねえ。これから言うのは独り言だから、返事するんじゃないわよ』
『フモー! フモフフ!』

 さっそくシュークリームにかぶりついたフージは、妙な声を発しながらこくこくと頷いた。

『キキってね、いつだっていっぱいいっぱいまで自分を追いつめてる人間なのよ。子供の頃からプレッシャーかけられて、お前はこうならなきゃいけないんだって言われ続けて、それに応えてきたってわけ。……キキが子供らしかったころなんて、ないんじゃないかってくらい完璧にね』

 言いつけ通りかそもそも興味がないのか、フージはあっと言う間にシュークリームを食べ終え、二個目を手に取った。

『初めてキキにあったとき、なんて取っつきにくそうな子だろうって思ったわ。どこか無理してるみたいで痛かった。だから押して押して押しまくって、ようやく懐いてくれたときにはもう、踊りだしそうなくらい嬉しかった。野良猫手懐けるような気分だったのかもね』

 二個も続けて食べるとさすがに喉が乾いたのか、スポーツバッグからペットボトルを取り出した。
 そこでいったん止めておけばいいのに、少し迷ったそぶりをしただけで、三個目に手を伸ばす。

『……癪に触る話だけど、あたしの知ってるキキと、あいつの知ってるキキは、少し違うんでしょうよ。……本当、癪に障るったらないわ。あんなアホの子っぽいガキにこのあたしが遅れを取るだなんて! ありえないわよ、本当に……!』

 もぐもぐと三個目を咀嚼したフージは、ふうと人心地ついたような息をして、ようやくジジを見た。

『でもー、ジジのほうが、いっぱい社長のこと考えてるよー?』
『……そうよね! あんたいいこと言ったわ!』
『ジジは社長の友達でしょ? やっぱそれって、社長の特別なんだと思うけどなー』

 一気に叩き落とされた。
 渋面できびすを返したジジに、フージが無邪気な声を掛ける。

『そうだ。オリンピック、みんなクラブで見るんだってー。ジジもおいでよ。社長もいるよ』

 振り返ったジジは、じっとりとした目でフージを睨んだ。

『あんたそんなこと言って、土産が目当てでしょう!!』
『エーヤダー、そんなことないヨー?』
『英語でいきなり片言になるな!』