#066

 白田の目覚めは、その日もすこぶる爽快だった。
 元々が目覚ましを掛けなくても同じ時間に起床できるタイプだが、それを踏まえてもなお、すっきりした目覚めに体が軽かった。おまけに窓の外は、鳥取には珍しいほど完璧な快晴で、あまりの気持ちよさにその場で伸びをしてしまったほどだ。つまりはそのまま洗剤のCMにできそうなほど、完璧な朝だった。
 白田は機嫌のいいそのまま掛川の安眠妨害をかねてカーテンを全開にし、元気溌剌に顔を洗うと、ジャージに着替えて日課のランニングに出かけた。
 足取りの軽さは勝ち試合の翌日並みだ。何かあったっけかと鼻歌交じりに考え、

 次の瞬間、頭を抱えてアスファルトに両膝をつきそうになった。

(おい待て……待て待て待てマジで待て! 俺、いったい社長に何言った!?) 

 たちの悪いことに、酒に弱くても記憶はしっかり残っていた。
 ばっちり残っていた。
 つまり、眞咲にどさくさにまぎれて告白まがいの発言をしたことも、あまつさえ迫るような行為に出たことも、しっかり記憶に刻まれてスタンバイしていたのだ。

 既にこの時点で、地面に穴を掘って埋まりたくなった。
 紛れもない現実逃避である。

 始末の悪いことには、しでかしてしまった相手は逃げようのない相手だ。
 言葉にならない変なうめき声を出しながら、白田は混乱する頭を抱え込んだ。
 アルコールを飲んだ記憶はないものの、昨日の自分はどう考えてもどこから見ても酔っぱらいだった。そうでもなければ、自分でも理解していなかった眞咲への感情を、あんな馬鹿正直な言葉にできたはずがないだろう。
 府録にまんまと乗せられた。今頃、ヤツは腹を抱えて高笑いしているはずだ。出歯亀するほど悪趣味ではないと信じたいが、それだって結局のところ、白田が何をやらかすか正確に予想していたからに違いない。

(……ああそうだよな! 惚れてるんでもなきゃどんだけ首つっこんでんだって話だよな!)

 振り返ってみれば、あれもこれも、ただの仕事仲間にするにはやりすぎだ。自覚がなかったぶんそのときは下心もなかったのだが、あの警戒心の強い眞咲がよく付き合ってくれたものだと思う。

 沸き上がる羞恥心に結局耐えきることができず、白田はとうとう、往来のど真ん中で頭を抱えて蹲った。
 通勤中のサラリーマンがジャージ姿で悶える白田に不思議そうな目を向けていく。
 人が通りかかったことで我に返ったが、それで何でもない風を装うには気力が足りなかった。
 記憶なのかどうなのかわからない、困惑しきった眞咲の顔が脳裏に浮かんだ。
 ――あんな顔をさせたかったわけじゃない。
 仕事でいつも貼り付けている笑顔は頼りになると思っていたし、大人びた強気な笑い方は彼女らしくて好ましかった。たまに見せる顰め面も気を許してもらえたようで嫌いではなかったし、それよりももっと希に見せる、気の抜けたような笑みは年相応に可愛らしかった。
 いつになっても大人になった実感を持てない白田には、眞咲の方が、自分の何倍も大人びているように思えていた。年相応の表情はとても貴重で、それをかいま見る事ができる立場は優越感をくすぐったけれど、眞咲がその顔を見せたくないと思っていることも薄々気付いていた。
 だから余計に、自分の意志抜きで、勢いだけで突っ走ってしまったことに頭を抱えたくなるのだ。

 しゃがみ込んだまま短い髪をかき回し、白田は途方に暮れたため息を吐いた。
 自覚する前に告白済みだとか、一体何の冗談だ。

「つーかとりあえず……社長の反応が怖い……」

 頬を染めて「実は、わたしもあなたのことが……」なんて展開、妄想でさえ想像できない。
 早朝ランニングに出たはずのガイナスのエースは、選手寮から100メートルも離れていない公道のど真ん中で、悶々と思い悩むのだった。

 

 

 

 

 

 一方、ガイナス鳥取株式会社の代表取締役社長は、何とも鈍重な目覚めを迎えていた。
 つまりは深刻な寝不足だった。
 果てしない疲労感を抱えながらのろのろとシャワーを浴び、パンと卵とコーヒーの朝食を胃の中に流し込んだが、睡眠時間の足りていない身体はどうにも目を覚まさない。ついでに言えば頭が痛い。睡眠不足だけではなく、主に精神的な要因で。

 ――ありえない。
 何があり得ないって、ここまで動揺を引きずっている自分がありえないのだ。

(ちょっと待って、落ち着いて。こういうのって、結構慣れてたはずよ。……仕事相手に色目使われるとか、そういうの、だいぶ慣れてたはず)

 アメリカにいたころは絶賛ミドルティーンだった眞咲だが、すくすく伸びた身長と大人びた顔立ちと訓練された泰然具合のおかげで、年齢を十歳ほど上に間違えられることもままあった。
 仕事をする上で不利にはならない誤解なので積極的には解かずにいたのだが、それは代わりに、色恋ごとのトラブルを呼び込んできたのだ。早い話が下心を含んだ誘いをかけられることが多々あった。もちろん多忙な眞咲にはそんな暇などなく、当たり障りのない態度で断ってきたのだが。
 アジア系は若く見えるからという理由だけで、二十代後半の男性に年上だと思われていたことを知ったときには、さすがにサロンのメイク担当者に相談を持ちかけたが――苦労したことと言えばそれくらいだ。

 つまりは慣れている。
 慣れているはずなのだ。
 ましてやあんな酔った勢いの、記憶に残っているかどうかさえ怪しい告白まがいの台詞なんかで、動揺する理由など何一つないはずなのだ。

 自分にそう言い聞かせている時点で、既にかつてなく揺さぶられていることに、眞咲は気付かない。
 無理矢理自分の思考経路を方向修正した。

(ああ、違うわ、厄介なのはわかってる。白田のパフォーマンスを落とすわけにはいかないのよ。代わりはいないんだから。扱いに困るのは当たり前よ)

 いくらでも優秀な人材を登用できた過去とは違う。白田の不調はそのままチームの成績に直結するのだから、経営的に崖っぷちにいるガイナスには死活問題だ。
 だから動揺も仕方がないのだと自分に言い聞かせようとしながらも、それが無理のある理屈だということは理解していた。

 さらに厄介なのは、この話がお互いの間だけに収まる気が、まったくしないということだ。
 事が事だ。白田が口外しなかったとしても、直線思考の白田が周囲に気取られないでいられるわけがない。逆に、そうなったなら、眞咲はにっこり笑顔できっぱり否定しなければならないだろう。

 スポーツビジネスを手がける以上、どう考えても、特定の選手と個人的なつながりを持つわけにはいかないのだ。それを疑われることさえも避けなければならないと、眞咲は考えている。
 団体競技において、えこひいきほど志気を提げるものはない。

(まったく、どうしてこんな厄介な……)

 振り回されている感覚に歯噛みした。認めたくはないが、認めざるを得ない。――相手が白田だからだ。
 自分の弱みを見られている。相手の弱さを知っている。切り捨てるには、あまりにも深入りしすぎた。
 どうにも割り切ることのできないままスーツではなく制服を手に取り、事務所ではなく学校に向かった。

 とはいえ、逃避衝動によるものではない。学生には学生らしく期末試験というものがあって、そのためにはこの時期に一週間を丸ごと不登校にしてしまうのは問題があったからで、当初のスケジュール通りの行動だった。
 正確に言うならば、わざわざ自分にそう言い訳をしなければならない状況だということが、そろそろ眞咲の神経をささくれ立たせ始めていた。
 特別扱いのための条件は、寄付金と好成績だ。加えて学生の試験というのは特に文系の科目に於いて遍く不合理で、高得点を叩き出すためのコツというものが必要になる。それを割り出すために教師に質問をするためには、授業への参加が避けて通ることのできない道だった。

「あっれえ、眞咲さん! おはよー、なんか久しぶりー!」
「おはよう。……確か三日前には来たと思うんだけど……」
「いやいや三日って。あのね、普通三日学校こなかったらおおごとだから。眞咲さんが特殊だから」
「わわ、しーちゃん……! きっぱり言いすぎ……!」

 志奈子の制服の袖を掴んだ理沙が、フォローになっていないことを言う。
 その「いつも通り」具合に何だか安心して、眞咲は苦笑を返した。

「困ったわね、どうにも忙しくて。そろそろ留年が見えてきそう」
「うんうん、つーか一学期にしてマジでね。見えてきそうだよね」
「しーちゃんっ!」

 もはや半泣きで理沙が咎めるが、志奈子はどこ吹く風だ。

「いや、別に嫌味とかじゃなくってさ。特別生扱いっつってもきついでしょ。よければノート貸そうか?」
「迷惑じゃないなら助かるけど……。いいの?」
「理沙に借りるよりマシだと思うわよー。この子マジで要領悪くってさー、ノートも丁寧だけど、言われたこと全部書こうとするからすっごいとっちらかってるし。解読するだけで一苦労っていうか」
「ひ、ひっどい! あんまりだよ、しーちゃん……!」

 コントのようなやりとりに笑いながら、眞咲は有り難くノートを借り受けた。
 実際の必要性よりも気持ちの問題だ。
 社交的で要領のいい志奈子と、内向的で堅実な理沙の組み合わせは、お互いを絶妙に補い合っているかのようだ。その絶妙さに笑みを零したとき、志奈子が不意に、にんまりとした笑みを浮かべた。

「で、さあ。代わりと言っちゃ何なんだけど」
「……嫌な予感がするわね。何?」
「その目の隈の、り・ゆ・う。教えてくれないかなーって」

 クラスの誰もが気にしていたことを、この上なく直球かつ剛速球で投げ込んだ志奈子に、理沙が蒼白な顔で悲鳴を飲み込んだ。
 しんと静まりかえった教室が、周囲の注目度を物語っている。
 視線を巡らせて息を吐き、眞咲は小首を傾げた。

「仕事が忙しくて」
「いやいやいや、つっまんないその返事。なんだったら、あたしが昨日駅前で目撃した情報を付け加えてもい」

 とっさに席を立って、その口を物理的に押さえ込んでいた。
 乱暴な仕草でこそないが直接的な行動に、周囲にさらなる驚きが走る。当の志奈子も目を丸くしたほどだ。
 眞咲はどうしようもない未熟さを自覚して、項垂れるように肩を落とした。

「……ごめんなさい。勘弁して。現状で手一杯なの」

 あっさり解放された志奈子は、机に突っ伏してしまった眞咲を見て、手持ち無沙汰に頬を掻いた。

「おお……なんていうか。予想外にかわいい反応だねえ、眞咲さん」
「……もう何でも好きに言って……」

 事ここに至って、学校という同年代の集う場所を選んだことが間違いだったのだと、眞咲は心底から思い知っていた。

 

 

 

 

 

 かくして。
 ガイナスの主要人物二人の間の軋音は、当然のこと、すぐに周囲の気付くところになった。

 なにしろ白田はあからさまに挙動不審だし、ポーカーフェイスが売りの眞咲も微妙に白田との接触を避けている。二人揃ったところなど特に見物だ。ガチガチに固まる白田と対照的に、仮面の微笑でどっかいけと言わんばかりのあしらいをする眞咲。甘酸っぱいと言うには厳しすぎる現実が、そこに横たわっていた。

 そして、間の悪いことに――いや、むしろ良かったのかもしれないが――白田はU-23北京五輪代表への召集で鳥取を離れることになった。

 それを機に、白田はいまだに日本に居座っているジジの防壁をかいくぐり、ようやく眞咲を捕まえて、追いかけた勢いのそのまま言い放った。

 

「絶対メダル取ってくるから、帰ったらせめてキッチリ振れよ!!」

 

 ――行動力の方向性が後ろ向きすぎるとツッコミを入れる第三者は、残念ながらその場に居合わせていなかった。