#065

 すっかり泥酔したジジをタクシーに預けた眞咲は、時計を見てしばし思案した。
 時刻は午後九時。仕事に戻るにはいささか遅い時間帯だ。疲労をため込んだ身体は重く、休息を要求していた。
 細く息を吐き、タクシー乗り場に足を向けたとき、携帯電話が着信を告げた。
 表示された電話番号は記憶にある白田のものだった。妙に嫌な雰囲気を感じ取りながら、通話ボタンを押す。

「……もしもし」
『やあ眞咲ちゃん、俺俺。分かる?』

 耳に届いたのは、軽妙な響きのある声だった。
 ちらりと眉を潜め、記憶を探る。聞き覚えは確かにあった。この呼び方をした若い男性は、確か一人だけだったはずだ。

「……間違っていたらごめんなさい。ブロンゼの府録選手かしら」
『ビンゴ! よく当てたもんだ。さすがの記憶力ってやつか』
「お褒めに与りどうも。……それで、うちの選手の携帯を使って連絡をしてきたということは、何かトラブルでも?」
『ご明察。その通りだ』

 ため息混じりの質問に、悪びれない肯定が返ってきて、眞咲は無言でこめかみを押さえた。
 今度は一体、何をしでかしたというのだろう。

『まあぶっちゃけると、白田に酒飲ませたら動かなくなった』
「なっ……!」
『ははは! まあ半分寝てるだけなんだけどな!』
「笑いごとですか! 急性アルコール中毒の可能性は……」
『ねえよンなもん。ウーロンハイのコップ半分だぜ? 顔色も呼吸も至って正常』

 ケタケタと笑って否定され、眞咲は胸を撫で下ろした。
 とっさに浮かんだのは「不祥事」という単語だったが、よくよく考えれば白田は先日成人していた。動けなくなるような飲み方は当然好ましくないが、車を運転しているわけでも、人に絡んでいるわけでもないのだ。あとは大人しく選手寮に帰り着いて、布団の中で思う存分ダウンしてくれればいい。

『それでもって、社長さん。俺はもうじき電車の時間なんだ』
「……ちょっと待ってください。まさか」
『察しがいいのは嫌いじゃねえな。お迎えよろしく! グーグルマップで現在地送っから』
「終電まであと何時間あると思ってるんですか! 飲ませたなら最後まで責任もって送り届け――」

 皆まで言わせず通話は切れた。
 思わず舌打ちしそうになったところに、メールが届く。
 張り付けられたURLを開けば、駅前の商店街を抜けたところにアイコンが表示された。
 白田はアルコールの何がおいしいのか分からないと言っていたほどで、友藤をお手本に自己管理もしっかりしている。しっかりしすぎて体重がなかなか増えないほどだ。自ら注文するとは到底思えない。すなわち、無理矢理飲まされたか、乗せられて飲まされたか、騙されて飲まされたか、だ。幾ばくかでも年上である人間として、あまりに無責任な態度ではないかと、眞咲は腹を立てながらそちらに足を向けた。
 そこまで計算していたのか、白田がいるのは目と鼻の先だ。
 ヒールを高らかに鳴らしながら、目に付いた広報の番号に電話を掛けた。

「もしもし。……ええ。遅くにごめんなさい。実は白田が――」

 現状を説明すると、種村は苦笑いのような声とともに迎えを承知した。
 ちょうど帰り支度をしていたところだというが、広報という名目にも関わらず、いろいろと面倒事を押しつけてしまっていることに引け目を覚えた。
 ただでさえ人員不足による残業後の疲れたところに、飲み食いした選手を選手寮まで送り届けろというのだ。タクシーを使うのがはばかられたとは言え、申し訳ない気持ちになる。今度、何らかのフォローをしておいた方がいいだろう。
 電話を終え、府録からのメールを転送し終えた頃には、地図上の目的地にたどり着いた。
 顔を上げれば、見覚えのある大きな図体が見えた。植え込みの前に腰掛け、膝に両腕を預けるようにして顔を伏せている。
 眞咲は一つため息を吐いて、その頭上から声を掛けた。

「シロ」

 背の高い白田を見下ろすのは何だか新鮮だ。のろのろと顔を上げた白田は、なるほど酔っているのだろう、焦点が微妙に合っていない。
 膝を折って覗き込むと、わるい、と呂律の怪しい呟きが聞こえた。

「くそ、やられた……府録ロクのヤツは……?」
「わたしに押しつけて帰ったようね。大丈夫?」
「……あんま、だいじょうぶじゃない。目の前ぐらぐらする……」

 すっかり背中を丸くして、白田は大きく息を吐いた。なんだかしぼみそうに見えた。
 アルコールの匂いはほとんどしていない。府録の言葉を信じるならグラス半分だ。飲み慣れていないというより、むしろ体質的に合わないのだろう。
 成人式の際に飲んだというビールのことは「何かうまくなかった」と残念そうに話していただけだ。アルコールの種類によるのかもしれない。
 手の中に握っているミネラルウォーターのペットボトルは、中身が半分ほど残っていた。

「吐きそうだったり、気持ち悪かったりはしない?」
「……はらたつ」
「腹が立つ? いまさら仕方ないわ。懲りたなら、今度はもう少し警戒することね」

 白田は項垂れたまま、ふるふると首を振った。
 やけに子供じみた仕草に、眞咲が呆れ顔になる。

「ちがう、あいつじゃなくて」
「そうなの。じゃあ、何が――」

 白田が不意に手を伸ばして、眞咲の腕を掴んだ。
 大きな掌が肘の下をすっかり覆ってしまう。とっさに声を呑んだ眞咲に、白田はまた、投げ出すような息を吐いた。

「むりだ。腹立つ」
「……シロ?」
「あんたが決めたんだったら、それって、絶対、いることで……。俺がぐだぐだ言ったって、なんもわかってないだけだって……そうなんだろうけど、やっぱ、無理だ。どうやったって、なんでだって、いやだ。はらがたつ」
「……何が?」

 今度の質問は、半ば返答を予想していた。
 ここのところの眞咲の小細工に文句をつけたいのだろう。白田の正義感に合わない行為であることはわかっていた。そらとぼけて、うまく引き下がらせるだけの準備も心構えも終わっていた。だが、白田はそれを訊ねなかった。

「今のガイナスは……こんな手、使うほど、追いつめられてねえよ。あんたがそこまで引っ張り上げたんだ」
「だから、シロ、何の話をしているの。心当たりがないわ」
「……今だってぎりぎりだって分かってる。でも、そうじゃねえだろ。そういうんじゃない」

 掴まれた腕を引いたが、予想外にしっかりと握られていて逃げられなかった。
 白田は今まで、不用意に眞咲に触れるようなことはしなかった。もちろん、眞咲がそれを拒んできたのも理由の一つだが、白田と眞咲の距離感は、眞咲の望みどおり、いつだってひどく適正に保たれてきた。
 だからこそ、たった今、捕らえられている事実が困惑を煽る。

「……何を勘違いしているのか、わからないけど。問題なんて何もないわ。選手のあなたが、気に掛けるようなことは何もない。心配なんていらないわ」
「いいんだよ」
「何がいいの」
「俺はあんたに惚れてるんだから、文句言っていいんだって、府録の奴が言ってた」

 ――なんてことを吹き込んでくれたのだ。
 内心で叫んだ眞咲は、ぞくりとした感覚に息を詰めた。
 腕を掴んでいた白田の掌が、力を抜いたように腕を滑り下りて、指先に辿り着く。
 それが妙に艶めかしい触れ方に思えて、眞咲はとっさに手を引いた。だが、それより先に辿り着いた指先を、白田が握って引き寄せる。

「ちょっと、シロ……!」

 握り取った細い指先に、白田が顔を伏せたまま、額を押し当てた。
 眞咲の肩がわずかに跳ねた。

「頼むから、あんたを信用させてくれ」
「……それは、今、わたしが信用できないってこと?」
「そうじゃなくて……ああ、わかんねえよ、クソ」
「何なの」

 悪態をつきたいのは自分の方だと思った。何だかわけもなく泣きたい気持ちになった。
 吐き出すわけにもいかずに唇を噛みしめる。
 どうして白田が相手だと、こんなにうまく行かないのだろうと、働かない頭で思いながらその旋毛を見下ろした。
 どうにか絞り出した声だけは平静で、顔を上げない白田と、自らが積み上げてきた訓練に感謝した。

「……話に取り留めがないんだけど。そんなに酔ってるの?」
「よってない」
「よっぱらいの決まり文句って、国が変わっても変わらないわね」
「なあ」

 今度は何を言うのかと、さらに身構えた。
 指を握りしめた白田の手に余分な力は入らず、代わりに、さらに強く額を押し当てた。

「俺でできるのは、全部やる。なんでもやる。もっと色々、しないとだめなら、なんとかやってみる。……だから……たのむから、俺を、信用してくれ」

 頭を垂れたままの白田の言葉は、まるで忠誠を誓うかのようだった。
 そんな連想をした自分に驚き、眞咲は動揺に声を呑む。
 対応はずっと考えてきたはずだった。正しい答えはずっと持っていたはずだった。
 それなのに、どこかへ見失ってしまって、今この一大事に取り出すことができない。単純に後先考えず逃げ出すことすらできない。

 凍り付いたような感覚は眞咲だけのものだったのだろう。
 車の軽いクラクションで我に返った瞬間、眞咲は白田の無防備な後頭部に、丈夫な作りのブリーフケースを振り下ろしていた。

「あーいたいた。お疲れさまです、社長。白田君は……あー、すっかり潰れちゃってんなあ。まだ九時だってのにどんだけ飲んだんだか」
「……ウーロンハイ半分ですって」
「マジですか! うっわ、若い女の子レベルじゃん。……あれ、こういうのセクハラになるんだっけ? まあいいか本人聞いてないし。じゃ、このまま選手寮に送ったらいいですか?」
「ええ、それで、大丈夫。お願いします」
「了解です。社長も送っていきましょうか?」
「いえ、タクシーを拾うわ」
「え? でも、夜に女の子一人でこんなとこ置いていくのはちょっと……」
「大丈夫、タクシー乗り場はすぐそこよ。遠回りになるから、気にしないで」
「はあ……そうですか。まあ、そこまで言うなら……」

 何でもない様子で対応した眞咲は、迎えの広報担当が首を傾げながら去ったあと、声もなくその場にしゃがみ込んだ。
 早く帰らなければと思うが、眠って起きたところで現実は消えてくれそうにもない。
 白田とのやりとりがぐるぐると脳裏を回って、頭を掻きむしりたい衝動に駆られた。

「……冗談でしょう……?」

 呟く声に返答をする人間は、幸か不幸か、この場には存在しなかった。