「眞咲さん、今帰り?」
「最近ガイナス調子いいね! がんばって!」
友好的に掛けられる声へ「ありがとう」と笑顔を返し、眞咲は帰り支度を整えて学校を後にした。
四月。ガイナスはここまで、快進撃と言っていい成果を上げていた。現在の順位は六試合を終えて4勝2敗の4位。昨季の開幕5連敗を考えれば、チームはかなりいい状態にある。
それでも、それを素直に喜んでいられないのは――入場者数が伸び悩んでいるからだ。
いい順位につけており、そこそこ勝っているにも関わらず、市民の興味は薄いまま。おそらく勝っていることさえあまり知られていない。認知度が低すぎるのだ。
開幕戦の後にアウェイゲームが続いたのも一因だろう。相手チームのスタジアムまで応援に行くようなサポーターは、ガイナスには多くない。ライト層の興味をとぎれさせてしまったのは失敗だった。前節のホームではとうとう入場者数が四千人を切ってしまい、眞咲の中には焦りが芽生え始めている。
去年のことを考えれば十分だという意識があるのか、スタッフにいまひとつ切迫感がないのも頭痛の種だ。そろそろテコ入れが必要だろう。
(試合ごとに目標値を設定して……達成したら特別賞与……は、余裕がないわね。わたし持ちで飲み会でもしようかな)
手をこまねいていたわけではないのだ。地道に広報活動には励んでいただけに、容赦なく下がっていく入場者数にため息が出る。目に見える効果がないのは痛い。
このタイミングで、休節が入ったのは幸いだった。
今季のJ2は15チームが参加している。奇数なので、毎節どこかが休みになるのだ。
ほんの少しの余裕だが、今のガイナスには重要な数日だった。
何か新しい手を打つ必要があるのだ。広報が準備しているパブリックビューイング(遠征試合の無料上映)は、新規層に対するアプローチにはならない。
社長室で事務仕事を片づけながら、眞咲は考えを巡らせた。
経理の月例報告は几帳面に整えられている。過不足のない端正さは、担当の藤間功子の手並みだろう。仕事は早くて正確。ずば抜けた事務処理能力に、他部署もずいぶん助けられていると聞いている。冷淡にも見える様子で誤解されることの多い女性だが、とても優秀な人材だ。
採用面接で見た彼女を(おそらくは無意識に)もっとも評価した少女の顔を思い浮かべ、眞咲は口元に笑みを浮かべた。それだけで採用を決めたわけではないが、森脇理沙はまぎれもなく、履歴書では分からない部分を補ってくれている。
「社長! 大変です!」
ノックとほとんど同時に飛び込んで来たのは、強化部長の広野だった。
落ち着きのなさにちらりと眉をひそめ、眞咲はため息を吐く。
「答える前に開けるのはどうかと思うわ」
「いやいやいやもうそれが大変なんですって! 白田! 白田が! フル代表に召集されたんです!」
興奮気味に広野がまくしたてる。
いつにない様子に、眞咲は首を傾げた。何がすごいのか、いまいちわからない。
なにしろ白田はいくつかの年代別代表に呼ばれていて、この間もU−23日本代表の親善試合に出たばかりなのだ。最年少のくせにスタメン出場し、得点まで決めて称賛を浴びた。――ただ、地上波での放映はなかったので、サッカーに興味のない一般層にはほとんど知られていないのだが。
クラブの選手が呼ばれるのはもちろん嬉しい。だがそうは言っても、そろそろ慣れてきた。
「いくつめだったかしら。こう立て続けだと、スケジュールが大変そうね……」
「うわい伝わってない! ってそうか通じないのか、えーと!」
うんうんとうなって考え込み、広野がめずらしいくらいの強い口調で言った。
「いわゆる『日本代表』なんですよ、ワールドカップとか出る! 年齢制限なしの一番上! 白田が、それに呼ばれたんです!」
言われた意味を飲み込み、眞咲は目を瞬いた。
「……え?」
「うわあ、うわああああ。すごい、すごいよ……! 夢みたい!」
「喜んでくれて嬉しいわ」
封筒の糊付けをしながら感動する理沙に、眞咲が苦笑気味の笑みを向けた。
白田の選出を聞いていてもたってもいられなくなったという理沙は、学校帰りに取るものもとりあえずクラブハウスに駆け込んできた。とにかく何か働きたくなったらしい。
淡泊な眞咲の反応に理沙は唇をとがらせ、めずらしく反論を試みた。
「眞咲さん、もっと喜んで! ほんとに、すっごいことなんだよ!?」
「理解してるし喜んでるわよ? 広告価値が上がるもの。これで試合に出てくれれば万々歳ね」
「ううう、冷静すぎ! もっと興奮してよう!」
「……そう言われても……」
じたじたと理沙が地団駄を踏む。
手伝いに駆り出されていた経理の藤間功子が、サポーター会員向けの機関誌を封筒に入れながら淡々と応じた。
「理沙ちゃん、無理強いはよくない。社長はこういう人だから」
「ふ、藤間さんまで……! なんでみんなそんなに冷たいんですか……せめて藤間さんもいっしょに喜んでくださいようー」
「……喜んでる、つもり、だけど」
「わかってます。でも、もっとわかりやすく!」
功子が眉根を寄せた。
それが困ったときの顔だと言うことを理解して、眞咲が報告書に目を通しながらますます苦笑した。
「森脇さんは本当にガイナスが好きね。本人に見せてあげたいわ、これだけ喜んでる子がいるんだってところ」
「え?」
目を瞬く理沙に、眞咲はため息を吐いた。
「……本人がもっとはしゃいでたら、わたしももう少しくらい喜べるんだけどね」
J2の下位クラブから日本代表が選出されるのは、きわめて異例のことだ。
ガイナスとしても所属選手から日本代表が出るのは初めてのことである。しかもそれが、地元生まれの地元育ち、根っからの鳥取人となれば、与える印象はサッカーをよく知らない層にも大いに良いものになる。
地元新聞の取材はそれだけに熱の入ったものになったし、テレビも各局こぞって取材に訪れた。その取材をガイナスの経営危機と絡めて白田の美談に仕立て上げ、夕方のニュースで流されるように持っていったのは眞咲の手腕だが、白田本人はあまりの居心地の悪さに選手寮の食堂で悶絶した。
涙目で抗議に行って、可憐な笑顔で「馬車馬は荷を選ぶかしら」と返されて撃沈したのは、二日前のことである。
この不況のまっただ中、明るい話題に飢えていた人々は、ここぞとばかり白田をもてはやした。
その状況に一番苦渋を覚えているのは、他でもない本人だったのだが。
「あ、いた! もー白田君、練習前に取材あるって言ったじゃんか。ほら早く!」
ロッカールームをのぞいた広報の種村が、ぐだぐだしていた白田を捕獲して連行していく。
白田の顔には今にも逃げたそうな渋面が張り付いていて、往生際の悪さがチームメイトの苦笑を誘った。
「……まったく、あいつは変わらないな」
「いや、あいつのアレは単なる無精でしょ」
「しゃべるの下手だもんなー。イヤにもなるわ」
「そーそー。あんまり対応下手なもんだから、社長が今度マンツーマンで叩き込むとかって」
「うっわ、スパルタ確実!」
実際のところは単にお金がないから社内で片づけるという話なのだが、どんな組織でもトップにスピーチ能力を求められるアメリカ仕込みである。眞咲の話し方の使い分けに、あれはサギだと話が盛り上がった。基本的なところはもちろん変わらないのだが、マスコミやスポンサー相手にはあの気の強さを見事なまでに猫でくるんでみせるのだ。
今後は白田もテレビカメラを相手に話す機会が増えるだろう。はあ、だの、まあ、だのといった生返事では、まずいのは確かだ。
「ありがたい話じゃん。いい宣伝になるし。頑張ってもらわねーと」
「だよなあ。社長は使う気満々だろ」
「……ま、騒がれるのヤダってのはわかるね。アイツが初めてじゃねぇし?」
新屋が口角を持ち上げて笑う。冷ややかともとれる発言に、反論の声は上がらなかった。
なぜなら現在の代表監督、就任以降FWをとっかえひっかえ、山のようなシンデレラボーイを作り出しているのだ。次から次へと若手を初招集しては、ろくに試合に出すことなく呼ばなくなるということを繰り返している。先日はプロ契約前の大学生を呼んで話題になったところなので、今回騒いでいるのは鳥取のメディアと、白田に注目していた一部の専門誌くらいだった。
「確かに使ってもらえなきゃ残れないけどさ。やっぱ呼ばれるだけでもスゲーよ」
「だよなあ。まさかウチからフル代表が出るとは……」
ふと不安そうな顔をして、ベテラン選手が眉を寄せた。
「……でもあいつ、あんなんで大丈夫なのかね。なじめるのか?」
「U−20で一緒だった奴いるっしょ。中西とか」
「中西! あいつか……! 俺マッチアップしたとき、ヒデー目に遭ったぜ」
去年までJ1のクラブに所属していた山木が、げんなりした顔で言った。
鹿島の中西は、甘い顔立ちと爽やかな笑顔で女性人気の高い、若き代表選手だ。その笑顔の裏に隠れているものは、国内リーグのサッカーファンには割とよく知られている。
「カワイイ顔してえげつないとか聞いたことありますけど。あれマジなんすか」
「マジマジ。大マジ。王子の皮かぶったアサシン。すげーファウルうまいんだよ。なんでか俺の方がカードもらったし」
「うっわ。やりあいたくないッスね……」
「そういやトラ、お前、年代別で一緒だったろ。あいつ普段からああなのか?」
話題を振られた掛川は、わずかに嫌そうな顔を見せたが、低い声で答えた。
「……見たまんまでしょ」
「なんだそりゃ」
「言葉どおり」
掛川はそのまま、携帯電話を持ってロッカールームを出た。届いたメールは代理人からのものだったので、その場で返信してもからかいの種にはならないものだったが――友藤や新屋あたりには、何か感づかれたかもしれない。
無遠慮に掻き回されるのも嫌だったが、気を使われるのも同じくらいに嫌だった。
外に出て、八つ当たりをするような乱暴さでコンクリートの階段に座り込んだ。
感情がぐちゃぐちゃと渦巻いている。やり場がない。飲み下そうと携帯電話を握り込み、唇を噛んで頭を垂れた。
育成クラブである広島のユースは、全国でも強い部類に入る。掛川が初めて年代別代表に選ばれたのは、ジュニアのときだった。それから年齢がカテゴリに入る代表があれば当然のように名を連ねて、そのチームの司令塔となってゲームを動かしてきた。時代はファンタジスタ全盛期。チームができれば中心となるのは掛川で、「小さなファンタジスタ」などと雑誌に二つ名をつけられて、小さいは余計だとチームメイトと笑い転げたこともある。
それが変わったのは、プロに入ってからだ。
U−20では頭角を現してきた他の選手にスタメンを奪われ、ベンチになると、ついにはワールドユースの最終メンバーから漏れた。
あれが、最初の挫折だった。
いつの間に、ここまで差が開いたのだろう。
技術で負けているとは思えない。ポジションが違うことなど百も承知だ。それでも同年代の白田がどんどん先を行くようで、焦りや苛立ちがじわじわとしみこんでいく。
ふと、手の中の端末が震えた。メールの着信を告げる音を、苛立ちを込めて途切れさせる。
差出人の名前を見て、右手がわずかに強ばった。
(……どんなタイミングだよ)
差出人:千奈
件名:ケーキ
ケーキ食べました。食べちゃいました。うう。でもシアワセ。
あしたはフットサルだー
アウェイ富山、みにいけそう。がんばって!
いつもどおりの雰囲気と、どうでもいいゆるさ。
画像つきのメールを斜めに読み進めるうちに、喉が詰まるような感覚が、ほんの少しだけやわらいでいた。
富山まで来るのかと、掛川は呆れ混じりにメールを見返した。東京からでも結構な距離だろう。
ガイナスに行くことが決まったとき、これからは全部試合に出ると強がった掛川に、アウェイには見に行くねと彼女は笑って返した。それは鳥取まではとても行けないなんて意味ではなくて、彼女の体質からくる遠慮だとわかっていたのに、どうしても心にしこりができたのを覚えている。
きっとそれは、今でも掛川の中に残っているものだ。
返信画面を出したものの、結局、何も書かないまま携帯電話を畳む。
伝えられる言葉を、今はどうしても見つけられなかった。