#009

 白田が走り込みを終えてシャワー室経由で食堂に顔を出すと、寮長が調理室から顔をのぞかせた。

 新監督のイメージが観音菩薩なら、旦那である新寮長は虚無僧だ。とっつきにくい雰囲気と読みにくい表情、やたらに発せられる威圧感。白田の高校時代からこんな感じで、見事なくらいの対極的な夫婦だと言われていた。

「っはよーございます、弦さん」
「掛川は」
「あー……あいつ、朝弱いんスよ」

 白田は苦笑いで返した。多分まだ、部屋で布団に潜っているところだろう。
 椛島弦一はちらりと眉をひそめ、腹の底に響く低音で言った。

「起こしてこい」
「え、俺が?」
「同室だろう」

 言うだけ言って、寮長は調理室に引っ込んでしまう。
 白田は天井を仰いだ。多分連れてこないと、自分まで食事にありつけない。

 後ろ頭を掻きながら部屋に戻って、案の定丸まっている布団の塊に蹴りを入れた。
 もぞもぞと塊が動くが、顔も出してこない。かろうじてくぐもった声が聞こえた。

「……ってえな……」
「おら、起きろトラ。朝だ。飯だ」
「……いらね……つーかオフ……寝る……」
「夜更かししてっからだろ。オフじゃねえよ、午後から練習あんだぞ」

 それも、ただの練習ではない。新監督の選手お披露目で、噂では来季の構想メンバーと契約更改がかかる試合をするという。
 掛川克虎かけがわ かつとらは広島からのレンタル移籍だ。契約はあと一年残っているし、正直なところさっさと戻りたいという意識があるのだろう。やる気を起こした様子はなかったが、それでもようやく布団から出てきた。

 低血圧でこの上なく不機嫌に食堂までたどりついた掛川は、用意された朝食のトレイに思い切り嫌そうな顔をした。

「……俺、こんなに食わねぇし。減らしてよ」

 寮長が顔を向ける。
 その鋭い眼光に、寝ぼけていた掛川がぎくっと肩を揺らした。

「な、何スか」

 いきなり敬語になっている。白田は吹き出しそうになって横を向いた。
 無言のプレッシャーにだらだらと冷や汗を流していた掛川に、寮長は低い声で言った。

「スポーツマンなら、朝食は押し込んででも食え」
「わ……わかったよ、食えばいいんだろ、食えば!」

 掛川が自棄のように言って、そそくさとテーブルに逃げる。まるきりふてくされたガキのような膨れ面だ。
 トレイを受け取って掛川の前に座った白田は、ふと首をひねった。

(あれ?)

 微妙にメニューが違う。焼き魚に味噌汁に卵焼き、あごちくわに漬物。ついでにデザートというメニューだが、掛川のトレイは米が鳥粥で、魚が小魚だ。

(……へー……)

 普段から朝食をまともに食ってなかった掛川のことだ。白田と同じメニューでは、本当に詰め込まなければ食えないだろう。
 見た目に反して、細かな気使いだ。
 厳しいが軍隊方式ってわけでもないし、案外、いい寮長をもらえたのかもしれない。

(でも、かの先生はなあ……実際、どうなんだ? 俺が考えてもしょうがねえけど)

 自分たちを国立まで導いてくれた恩師だ。もちろん信頼はしているが、プロクラブの監督としてはよくわからない。
 それより、あの新社長がよく了承したものだ。

(つーかあの二人、気ぃ合わなさそうだよな)

 昨季の惨状を思い出して、白田は一人顔をしかめた。

 

 

 

 

 曇ることが多い鳥取にしてはめずらしく、冬の空は高く澄み渡っていた。
 借り上げている練習場でアップしている選手たちをにこにこと眺めながら、新任監督はのんびりした足取りでグラウンドを歩いていく。

 困惑の色濃い視線がちらちらと向けられているが、さっぱり気にした様子はない。
 鷹揚とした小柄な老婦人に付き従いながら、広野は口を開いた。

「えーと、それでですね。社長は選手年俸を維持するって言ってますけど、戦術を考えると入れ替えないってわけにも行きませんから。
 何名かは放出して、補強を行うつもりです。さすがに移籍金がかかるような選手は取れませんし、トライアウトで探そうかと。……まあ、今のウチにくる物好きが見つかればですけどねー」
「あら、そこは広野君の腕の見せどころだわ。いい選手をたぶらかしてきてくださいな」
「あっひどい、せめて口説き落とすって言ってくれませんか」

 広野がおおげさにショックを受けてみせる間に、ヘッドコーチが選手に集合をかけた。
 居並んだ選手を見渡し、椛島はにこやかに口を開いた。

「ガイナス因幡の監督に就任しました、椛島です。どうぞよろしく」

 困惑しながらも、まとまった返事が返ってくる。
 椛島は笑顔のまま、きっぱりとした口調で続けた。

「さて――社長の要求は、二つです。スタジアムに観客を呼ぶこと、そして、観客を夢中にさせること。そのために必要なものは、ゴールと運動量です。点を取られても取り返して、最後まで決して諦めず、足を止めないこと。私が選ぶのは、その試合を組み立てられる選手です」

 サポーターではなく、観客。それまでサッカーにほとんど縁のなかった層だ。
 しんと静まり返った選手たちの顔を眺め、彼女は静かに言った。

「あなたたちはプロです。生き残りをかけて、心して戦いなさい」

 突き刺すような言葉に緊張感が走る。
 椛島は、にこりと笑みを浮かべた。

「減点方式ではなく、加点方式でいきます。まずは、私を楽しませてくださいな」

 

 

 紅白戦の振り分けは昨季の主力vs控えではなく、ばらばらに混じった形になっていた。
 いよいよトライアウトじみている。作り上げてきた連携よりも、個々の能力を重視する気だろうか。

「んな簡単なもんじゃねーっての。シロートかよあの監督」

 ビブスを着た掛川が不満げにこぼした。ここまであからさまでなくても、同じようなことを思っている選手は多いだろう。
 それでも生き残りたければ、必死でやるしかない。少なくとも数人は落とされるはずだ。

「手ぇ抜くなよ、トラ。スタメン落ちしたくないだろ」
「俺が落ちるかよ」

 掛川が鼻で笑う。確かに技術だけで言えば掛川は群を抜いていたが、そう楽観していられる状況でもないはずだ。

「どうだか。監督、あの顔で結構性格悪いぜ」

 サッカーに関しては、と注釈がつくが。
 顔をしかめた掛川が口を開く前に、ホイッスルが高らかに響いた。

 

 

 予想通りというのか、試合は慎重なペースで進んだ。
 ペナルティエリアでもたついたにも関わらず、シュートが放たれる。キャッチしたGKの新屋がDF陣に声を張り上げた。
 顎に手を当て、椛島は小首を傾げる。

「白13番、7番と交代」
「え、もう代えますか?」
「ええ。どんどん行きますよ」

 十分も経たず交代を告げられた選手が、雷に打たれたような顔でベンチを見る。
 普通に考えれば戦力外を突きつけられたようなものだ。
 ショックと苛立ちを顔に出して戻ってきた選手に、椛島は言った。

「十分ほどでもう一度出します。どう切り崩すか、よく見て考えてなさいね」
「え……は、はい!」

 ガイナスの保有選手は25人。それを目まぐるしく入れ替えながら、椛島は次々と指示を出した。
 後半15分にもなると選手も慣れてきて、どちらもアピールチャンスを得ようと前がかりになっている。

「黄10番、22番と交代。サイドを使って広く行きましょう」

 何度目か知れない入れ替えを行い、椛島は傍らの広野に言った。

「やっぱり上手いですね、掛川は」
「ええ、あとはスタミナとフィジカルがあれば完璧なんですけどねー」
「ずいぶん大きな問題ねぇ。スタメンには厳しいかしら」
「ありゃ。多分ふてくされますよ」
「ふてくされさせておきなさいな」

 笑顔のままきっぱりと言い、再び選手の交代を指示する。
 時計をちらりと見て、再びフィールドに目を戻した。息の上がってきた掛川から、白田がボールを奪ってそのまま仕掛ける。

「……白田は、今季はサイドハーフでしたね」
「ええ。もともとはトップでしたけど、運動量が多いので」
「確かに運動量は多いですね。いまひとつ下手ですけど」

 またしてもきっぱりとこき下ろした椛島に、広野が苦笑いを向ける。

「うちの唯一の代表選手なんですけど」
「ええ、わかっていますよ」

 にこにことした食えない笑顔のまま、椛島はぽつりと呟いた。

「……やっぱり、考えどころはあの二人かしらねぇ」