Happiness depends upon ourselves. /中

 眞咲 萌まさき きざしという人物は、意外にも、他人に対して寛容だ。
 ストレス解消と称して白田をショッピングで着せ替え人形にはしても、彼が普段着るものに口出しはしない。食生活に注意が必要なのはむしろ彼女の方だし、部屋の片付けについて小言をこぼすこともない。
 要するに――それらと同じで、眞咲はテーブルマナーについても放任気味だったのだ。

「同席者を不快にさせなければ、別にいいんじゃないかしら? そもそもそんな場面も少ないでしょうし、アスリートに完璧なマナーを求める人もそういないと思うわ」

 自分はもちろん見惚れるくらい場慣れた、美しい食事姿を披露しながら、眞咲は首を傾げて言った。
 そもそもテーブルマナーというものは欧州に限ってもイギリス式とフランス式で逆である部分があるし、国によって差異がある。もっと文化が異なる中華やインド料理、和食に至っては、まったく異なる思想からできているため、一から学び直さなければならない。
 それを聞いた時点で、すべてを覚える気は完全に失せていた。
 頭を抱えたい気分になりながら、白田はうめく。

「……つっても、『不快なの』ってどの辺だよ……」
「そうね……そのテーブルのマナーに詳しくない人でも眉をひそめるくらい、かしら」

 

 首を捻りながら眞咲が言った言葉を、白田は必死に脳内で繰り返した。
 ――皿は持ち上げない。食器をガチャガチャいわせない。スープは音を立ててすすらない。パスタはそもそもすすらない。

(……とにかく! できるだけ音を立てないってことだよな!)

 非常にざっくりした解釈である。
 何が出てくるか分からないが、これで中華だったりしたら目も当てられない。
 さすがにそんな意地悪はされないだろうとドキドキしながら扉を開けると、用意されているのはドイツ暮らしで多少は見慣れたナイフとフォークで、思わず胸を撫で下ろした。

 それにしても、夕飯が一品ずつコースで出てくるのだ。レストランでもないのに。
 一体どんな家だよと普段なら突っ込みたくなるところだが、今の白田にその余裕はない。必死すぎて味すらよくわからない。今食べているのが肉なのかゴムなのかも分からないレベルだ。

 やたらと長いテーブルで対面に座る姑は、あからさまにじろじろと白田を眺めながら、取り澄まして食事を続けている。
 沈黙の中、食器の細やかな音だけが響くという、ものすごく消化に悪そうな食事だった。

(……なんつーか……あれだ、放課後に居残りで漢字の書き取りさせられてる感じの……)

 思考が状況に順応しはじめただろうか。
 白田がそんな連想を遊ばせたとき、おもむろに、ナオコが口を開いた。

『あなたの仕事だけれど』
「ふはいっ」

 不意打ちのせいで、つい日本語にもならない日本語で返してしまった。
 だらだらと冷や汗をかく白田ににこりともせず、ナオコは肉を切り分けている。

『……稼げるのはせいぜい三十代までだと認識しているわ。その後はどうするつもりなの』

 やっとまともな質問がきた。
 白田は心持ち姿勢を正して答えた。

『ライセンスを取って、コーチをしたいと思っています』
『それは、母国で?』
『あー……そうですね、できれば。家族で相談して決めることにはなると……』
『そう』

 一言である。感想も何もあったものではない。
 ノープランではないと主張したかったはずなのだが、伝わった気はまったくしない。これ以上アピールポイントも出てこない。おまけに、コーチと言ってもできれば子供を相手にした仕事がしたいので、おそらく給与は眞咲の所得からすると雀の涙だ。

(……いや、でも! 同じぐらい稼ぐとか無理だろ! つーか結婚ってそういうもんじゃない、はず……!)

 白田は冷や汗をにじませながら味のしない食事を終え、どっと疲れた気分でデザートを待った。
 ここまでで何とか乗り切ったつもりだったが、それがあくまで「つもり」でしかなかったことを――運ばれてきた皿の中身に、思い知らされることとなった。

 なにしろシンプルな白い皿の上には、黄色いバナナが一本、鎮座ましましていたのだ。

 どこからどう見ても、バナナである。
 房から取り外しただけの、皮つき丸ごとバナナである。
 有色人種への差別表現として扱われることもある果物だが、姑自身も思いきり日系だ。おそらく、その意味はないのだろうが――それにしても。

(イヤイヤイヤおかしいだろ、絶対おかしいだろ! なんっで! バナナが! そのまんま出て来るんだよちくしょうッ!)
 
 ナイフとフォークが用意されている以上、手で掴んで皮をむいて食べる、という普通の行為がアウトであることは間違いない。
 だがしかし、だったらどうすればいいというのだ。
 おまけに何の嫌がらせか、姑にはデザートは配膳されず、涼しい顔でコーヒーを嗜んでいる。こっそり見て真似をすることもできない。マナーがいるようなレストランでこんなデザートが出てくるはずもないので、どう考えても明らかに嫌がらせだ。

(く、くそっ。輪切りにして皮を切るとか……。あ、悪くないか? いやでも、違ったらすっげぇ言われそうだ……つーかわかるか、こんなもん! 泣くぞ! マジで!)

 途方に暮れながら、本気で泣きたい気分になって視線をさまよわせたとき――給仕をしてくれた、恰幅のいい女性と目があった。
 やきもきした様子で、必死に何かを目で訴えかけてくる。
 そこで天恵のように、眞咲の数少ないアドバイスを思い出した。

(……そうだ……! なんか困ったら店の人に声かけて頼めって、あれだ!)

 ここは店ではないが、妙な行動に出るよりはよっぽどマシだ。
 白田は思い切って、彼女に声をかけた。

『あの……すみません。これ、切ってもらえないですか?』
『ええ! 少々お待ちくださいね!』

 ほとんど浚うように皿を奪い、女性が厨房へ消えていく。
 ちっ、という舌打ちが対面から聞こえたのは、気のせいだと思いたかった。
 そろりと視線を上げれば、姑は寸分変わらぬ涼しい顔でコーヒーを啜っている。そろそろ中身がなくなるのではないだろうか。

(……と、とりあえずオッケーってことか……? つーか、本当、前途多難すぎだろ……)

 嫌われているという覚悟はしていたが、こうもあからさまに目の当たりにすると、さすがに落ち込んでしまう。
 とはいえ、白田も昔の人見知りのままではない。海外で仕事をするのに何より重要なのは、へこたれないメンタルとねばり強いコミュニケーションだ。眞咲の受け売りだが、今の白田は心底それを実感しているし、それを乗り越えて自信もついている。

 ちょっとやそっとつれなくされたくらいで、落ち込んで黙り込んではいられない。
 ぐっと唇を曲げ、姑を正面から見据えた。
 何か軽い話題でも見つけて、なんとか会話をしなければ。

 白田がそんな決意を胸に抱いたとき、デザートの皿が戻ってきた。
 バナナは両端を切り落とされ、横一線に皮を切り開かれていた。形は綺麗に保ったまま、中身の果肉は一口大に切りそろえられている。なんとなく、ホイルの包み焼きを連想させる形だ。

(はー、なるほど……。こうやるのか)

 うっかり皮ごと輪切りにしてしまわなくて良かった。
 白田は胸を撫で下ろしつつ、生まれて初めて、ナイフとフォークでバナナを食べた。当たり前の事だが、味はまったくもってごく普通の、バナナだった。
 ほっとするのと同時に落ち着いて、白田は先ほどの意気込みに立ち戻った。

(よし。……で、雑談って、何話せばいいんだ?)

 ちなみにこの件に関して、娘である眞咲は驚くほど役に立たなかった。
 何しろ母親が好きなものや趣味や私生活やら、そういったものを全く知らないのだ。この時点で白田が想像する「家族」というものとかけ離れている。せめて何か好きなスポーツでもあればと思うが、残念ながら情報は皆無である。音楽や絵画などの芸術関係になると、今度は白田がさっぱりわからない。
 それでもほとんど沈黙のまま食事を終えてしまうことは避けたくて、白田は苦し紛れに、口火を切った。

『あの……部屋に、トレーニングマシンが、色々ありましたけど……あれは、あなたが使っているものなんですか?』

 ナオコが眉をひそめた。
 機嫌を損ねたかと白田は首をすくめたくなったが、彼女は淡々と、うなずいて返した。

『ええ。そうよ』
『すごいですね。体力づくりってやつですか』
『何につけても体力は必要だわ。使わない筋肉は脂肪になって弛むだけ』
『あー……えーと、エクササイズ的な……』
『適切な食事と適切な運動よ』

 淡々と答える姑は、確か恩師と同じくらいの年齢であったはずだ。ほっそりとした体は決して骨と皮だけのものではなく、健康的で引き締まった印象を与える。眞咲が若さに任せて無理をしがちなのとは、対極的だ。

『彼女にも見習って欲しいです』
『……小娘のうちはわからないでしょうよ。一度体を壊さないと、自分への過信は崩れないわね』
『いや、壊す前にどうにかしたいんですけど……』
『だったら口うるさく言い聞かせなさいな。私は今更、娘のしつけなんてやってられないわよ』

 白田はきょとんと目を見張った。
 とにかく冷ややかで棘のある言い方だが、聞きようによっては、娘の側にいることを許したようでもある。

(よし、とりあえず、前向きに聞いとくってことで!)

 白田がそう心に留め置いたとき、ナオコがカップを置いた。
 どうやら食事は終わったらしい。
 席を立ったナオコは、威圧するような目で白田を見下ろし、言った。

『あなた、チェスのルールは?』

 残念ながら、そんな高尚な趣味は持ち合わせていない。
 だらだらと冷や汗を流す白田に答えを察したのか、姑はぐっと眉間に皺を寄せて言った。

『……だったら、将棋は』
『あ、それならなんとか……』
『後で書斎にいらっしゃい。相手をしてあげるわ』

 

 ――結論から言うと、まるで鬱憤を晴らすがごとく、こてんぱんにされた。

 

 

 

 ぐったりとベッドに倒れ伏し、白田は精根尽き果てた気分で息を吐き出した。
 時計を見ると深夜一時だった。婚約者のいる向こうはまだ宵の口だろう。
 白田は倒れたまま、携帯電話に手を伸ばした。

『はい』

 やけに繋がるのが早かったせいで、まごつきながら顔を上げた。

「……もしもし。あー、えーと、お疲れ」
『あなたの方が疲れているみたいだけど……』
「いやいや、まだ一日目だろ。元気元気」
『無理しなくていいのよ?』
「だーかーらー……! なんっでそうやる気を叩きのめそうとしてんだよ!」

 眞咲は電話口でくすくすと笑った。
 こんな意地悪を本当に冗談で言うようになったのは想いが通じ合ってからで、気を許されたというのは悪くないのだが、どうにも受け流せずに毎回反応してしまう。――面白がられている自覚はあるので、放っておいて欲しい。

『一日目は無事終了ということね。それで、あの人はどんな無理難題を言ってきたの?』
「あー……。とりあえず、今日は掃除してた」
『……は? 掃除って、cleaningの?』
「その掃除。そういや、すげーよなプロって! こっちじゃクリーニングレディとかいうらしいんだけど、なんかもうすっげー手際いいし、目から鱗の連続っつーか! マジ師匠とか呼びたくなったんだけど、英語で何て言うかわかんなくてさあ」
『……楽しそうで何よりね』

 苦笑いに近い声だったが、どちらかというと好意に近いニュアンスだった。
 褒められたのだと楽観的な判断を下し、そのまま今日覚えたばかりの掃除のノウハウをほとんど受け売りで垂れ流す。眞咲の苦笑混じりの相槌は、そのうち妙に白田に感化されて、最後あたりには二人してプロの神業に感じ入ることになった。

『じゃあ、今後は家の掃除はあなたに任せられそうね』
「おー、まかせとけ」
『……冗談だったんだけど』
「いや、自信ある。がっつりやれる。まかせろ」
『プロの技に感動したんだから、プロに任せたらいいじゃない』
「日本人的にはやっぱ、誰もいないときに家に人入れるのってすげームズムズすんだよなあ」

 眞咲は呆れ混じりに、「だったら好きにすればいいわ」と答えた。
 このあたりの感覚は、やはりどうにも差がある部分だ。
 サービスに応じた対価を払って労力を省く、という眞咲のアメリカ的な考え方は、日本のごく一般的な家庭に育った白田にとって、やはりところどころ、居心地の悪い部分がある。
 高校から十年来の恩師いわく、結婚とは両者の価値観の摺り合わせだ。
 譲れるところは譲り、譲れないところは話し合って落としどころを探す。その繰り返しができるのは愛情があるからで、何もかも惚れた弱みの引け腰になって譲ってしまわなかったのは、恩師や友人や――今や眞咲の片腕である、理沙のおかげだ。本当に、頭が上がらない。一部、変な知識を吹き込んできた悪友は除いて。

『私も休日には手伝うわ。私の運動神経を把握した上で、指導をよろしくね』
「……掃除に運動神経って関係あるか?」
『あなたが筋肉痛になるなら絶対にね。筋力的に怠けきった私の体を甘く見ないでもらいたいわ』
「いばって言うセリフじゃねぇ」

 とりあえず慣れでつっこんだが、正直なところ、眞咲の身体能力が標準以下であることは認識している。激務に耐える体力はあるはずなのに、すぐに靴擦れを起こすし翌日には筋肉痛だ。絶対に誰かに言うことはできないが、いかがわしい意味でも無理をさせられない理由でもある。
 折角のオフに離ればなれである悲哀を微妙に噛みしめていると、よりによってこんなときに、めずらしいデレが耳に届いた。

『……嬉しくないわけじゃないの』
「あ、おう。……えーっと、何が……?」
『母さんの件よ。あなたがすごく一生懸命だから』
「……いやだったか?」
『そうじゃないわ。……ただ、正直に言えば、私は……そうね、あの人が苦手なの』
「苦手?」

 それこそ正直に言えば、「わりと似てるな」というのが白田の感想だった。
 まったく理論のない、いわば直感的な感想だったのだが、それだけに外れているとは思えない。
 悩み始めた白田に、眞咲はため息めいた声で言った。

『……あの人が私を「作った」理由を重々承知していた以上、その成果を求められるのは当然だと思うわ。ただ、いつまでも子供を所有物扱いするのはどうかと思うのよ』
「しょゆうぶつ」
『自分の好きにできるものだってこと』
「あー」

 なるほど、と口の中でつぶやいた。
 それは確かに、眞咲にとっては煩わしいものだろう。
 ただ、どうしても違和感が残った。「所有物が選んだ男」に、母親ははたしてあんな反応をするだろうか。肉親を亡くした白田には、いまひとつ、そのあたりが想像できない。
 口に出せば機嫌を損ねることはわかっていたので、白田は話を変えようとした。
 そして、失敗した。

「そういや、夕飯にバナナが出てさあ」
『……バナナ?』
「それが皮ついたそのまんま丸ごと! めちゃくちゃあせった! でもまあ、助けてもらってなんとかなって――」
『……バナナを丸ごと……。そう。本当に、嫌がらせの意味でしかないのね……』

 静かにつぶやく声は、落胆よりも、明らかに怒りの色が濃くにじみ出ていた。

「……あー、もしもーし……?」
『今すぐ帰ってきてもいいわ。私もあなたも成人しているんだから、無理に許可を得る必要なんてどこにもないのよ』
「いやいやいや、あのな、俺がこっちまで来た意味ねぇだろそれ」
『言っておくけどあの人のことだから、思う存分に無茶を言うわよ。それにいちいち付き合うつもりなの?』
「そうじゃなきゃ来てねえって。なんで今さらキレてんだよ」
『きれてない。忍耐強いことが美徳とは限らないと言いたいだけよ』
「よくわかんねーけど、こむずかしく言えばあってるわけでもねえからな!」

 経験則からの反撃に、眞咲は不機嫌そうに沈黙した。
 その反応で今回限りの勝利を確信して、白田は鼻息を荒くする。

「俺はさ、やっぱ、義母さんにもちゃんと認めて欲しいんだよ。……ずるい言い方するけど、こっちは、両親もじいさんも、もういないしさ」
『……』
「親孝行、したいときには親はなし、ってやつ」
『……まったく……』

 諦めたようなため息を落とし、眞咲はしばらく、向こうで言いにくそうな沈黙を続けた。

「まあ、だからさ、なんとか認めてもらえるように頑張るってことで」
『……あなたは十分、条件をつくりだしてくれたわ。それに……わたしがあなたと結婚するつもりになった理由は、あなたがいい選手だからでも、高額所得者だからでもないわ』
「わかってる」

 見栄を気にする女でないことは、もう十分すぎるほどに理解している。
 合理的で理性的な仕事運びとは裏腹に、愛情に満ちて過不足のない家庭を夢見ているのだということに気づけるほどには、長い間、彼女のそばにいた。

「俺のわがままだからさ、とりあえず、見守っててくれよ」
『……馬鹿ね』
「いや、もうちょっとやる気になること言おうぜ。ほら、俺が部下だってつもりで、めっちゃ煽る勢いで!」
『馬鹿』

 今度は言い切られた。
 やっぱり無理かと肩を落としたとき、電波越しの声が、耳をくすぐった。

『……ずるいわ。なんだか、わたしばっかりもらってる気分』

 比喩がよくわからずに、返事をするまで数秒の間があった。
 わからないままでも腹の底をくすぐるかのようだった喜びが、全身に巡っていく。

「あのさ」
『言わなくていい』
「すげー元気でた。ほんっとがんばる」
『頑張らなくていいから』
「いや、がんばる」

 不毛な言い合いを幸福な気分で交わしているうちに、いつの間にか、白田は夢の世界に手を引かれていた。



 

後編に続きます