Happiness depends upon ourselves. /前

 アスリートという職業は、プレッシャーを飼い慣らさなければならない。
 白田にしてもそれは同様で、様々な感情の絡む国際試合や、ドイツでの大観衆下のダービーマッチなど、異様な威圧感を経験してきている。むしろ、場数だけはこなしてきたはずだ。

 だがしかし、そんな経験は――残念ながらこの場この相手では、まったく効果を発揮してくれなかった。

(……やばい。限界だ。いつまで続くんだよ、この沈黙……!)

 「娘さんとの結婚を許してください」という定型的な挨拶を聞いたきり、義理の母になるであろう婦人は、不機嫌そうに黙り込んだまま白田を睨んでいた。
 眼力の強さは母譲りなのか、眞咲とよく似た怖さだ。もっとも、眞咲がオブラートに包んで普段は見せない鋭さを、ナオコは剥き出しにしてぶつけてくる。
 唯一の助けとなるであろう娘さんの姿は、現在、白田の隣にはない。娘が欲しければ一人で勝ち取りに来い、というのが、彼女のオーダーであるためだ。
 だからこそ白田は頑張った。それはもう、血のにじむような努力といって良かった。そこまでしなくてもいいのに、と眞咲が呆れるほどに頑張ったのだ。具体的に言ってしまえばその内容は英会話だが、高校時代の白田が聞けば絶対に信じないほどの努力をして、ようやく眞咲の合格点を手にしたのだ。
 そしてオフシーズンに突入するなりご挨拶にうかがった。
 一度や二度追い返されることは想定済みだ。本人にプロポーズするまでの苦労を考えれば、この程度、いまさら諦める理由にはならない。

 ――が、まさか無反応で来るとは思わなかった。
 いかにも金持ちじみた重厚な客間で、緊張感はいや増すばかりだ。
 にじむ冷や汗がそろそろ流れ落ちそうになってきた頃、ナオコはようやく口を開いた。

『……結婚、ねえ』
『はい!』

 すかさず反応できたのは幸いだった。
 背筋を伸ばしすぎて反り返りそうな白田に、ナオコが不穏な笑みを浮かべる。

『だったら、テストを受けてもらいましょうか』
「……は?」

 

 

 思い起こせばそもそもの話、眞咲と母の仲はお世辞にも良いものではない。
 「(いびってやるから)一人で挨拶に来い」という括弧部分の中身を正確に読みとった眞咲は、あきらめ混じりのため息を落として言った。

「……まったく、あの人は……」
「……腹括るしかねえな……」
「そうは言っても、英語だってまだ不安があるでしょう? どんな無理難題を出してくるかわかったものじゃないわ。賛成できないわね」
「だからって、逃げるわけにもいかねぇだろ」
「……いい年をした大人なんだから、無理に許しを得る必要はないと思うけれど」
「嫁さんの母親だろ。俺は、ちゃんと喜んでもらいたい」

 頑固に言い切る白田を見て、眞咲は小さく肩をすくめた。
 早くに両親を亡くした白田には譲れない部分なのかもしれない。それは眞咲にとっても嫌なものではなく、嬉しい気持ちも否定できない。くすぐったいような気分になりながら、白田の肩に頭を預けた。
 鍛えられた体が、とたんにぎくしゃくと硬直するのが面白い。

「だったら任せるわ。……別に投げ出しても結婚を取り止めたりはしないから、ほどほどにね」
「……おいこら。お前な、もうちょっと応援しろよ」
「してるわよ?」
「……あーくそ、見てろよ。俺がうまくやったら、式のドレスは俺が決めるからな!」
「まあいいけど。あの、ふりふりひらひらの、まあるいお姫様スタイルは正直どうかと思うわ」
「別にいいだろ!」
「どうかと思うわ」
「二回言うほどイヤかよ……! ぜってー着せてやる!」
「さあ、そううまくいくかしら。ハーバードロースクールの入試問題を出されないといいわね」

 そんな意地の悪いことを言って、眞咲は楽しげに笑った。

 

 

 ――そのときは、まさかと笑う余裕があったのだ。
 だがしかし、客間でナオコが放った言葉は危険な雰囲気を思い切り漂わせている。
 凍り付く白田に、姑は不穏な笑みを浮かべて腕を組んだ。

『まずは――掃除よ』

 白田は微動だにしなかった。
 両膝に拳を置いたまま、姑の言葉を脳内で反芻する。

(cleaning……クリーニング、って言ったよな? 聞き間違いじゃないよな? つーかどういう意味なんだ。掃除……じゃねーよな絶対! じゃあなんだよ! 聞くか? ……聞けるかぁ!)

 葛藤する白田の姿をどう受け取ったのか、姑は鼻で笑って肩を竦めた。

『イヤなら無理にとは言わないわよ? 受けるか否かはあんたの自由。ただし――』
『やります! でも、あの! ……クリーニングって、部屋きれいにするアレでいいんスよね!?』

 結局聞いた。挙手までして。
 馬鹿にされるのだろうと覚悟していたのだが、彼女はにっこりとうなずいた。

『ええ、そうよ?』
「えっ」
『もちろん、いやなら――』
『いや、やります! めっちゃ頑張ります!』

 むしろ意気込んで答えた白田に、ナオコはちらりと不審げな顔を見せた。
 自分が予想外の答えを返したことに気付かないまま、白田は大いに胸を撫で下ろしていた。ここに来てなぜ掃除なのかは分からないが、ペーパーテストに比べれば大歓迎だ。

『……ふん。じゃあ、好きになさい。私は書斎で仕事をするから、騒々しくするんじゃないわよ』
『イエッス・マム! ……あ、えっと! 範囲ってどこっすか!』
『さあね。任せるわ』

 丸投げに近い指示を出し、ナオコは冷ややかな態度で客間を出て行った。
 プレッシャーから解放され、白田は深く息を吐く。
 一体どうして嫁取りの話で持ち出されたテストが掃除なのだかはさっぱりわからないが、それでも、まだ自分で太刀打ちできる内容だったことが、白田をやたらと前向きにさせていた。

「……よし。やるか!」

 握り拳でやる気に燃える白田は、姑が気のない態度になった理由が「いびろうとしたのにやる気になってるから」であることに、まったく気付いていなかった。

 かくして苦難の多いサッカー人生で人見知りを返上したストライカーは、迷うことなく最初に目についた使用人らしき女性に声をかけた。

『あの、スイマセン! この家の掃除やってるのって、誰ですか?』
『掃除、でございますか?』

 目をしばたたかせて白田を見ると、彼女は不思議そうに答えた。

『出入りの業者です』
『えっ。……あー、そっか、じゃあそこの連絡先を教えて欲しいんですけど』
『はあ……』
『お願いします!』

 心底不思議そうに首を捻りながらも、彼女は奇妙な客人を電話台に案内した。

 

 

 

 

 ナオコが簡単な仕事を終え、買ったまま読まずにいた本を二冊ほど片付けた頃、窓の外では日が落ち始めていた。
 疲労に痛み始めた眉間を軽く揉み、ナオコは深々と息を吐き出す。

(さて……あの単細胞っぽいガキは、どうしていることやら)

 呼び出しておいて無茶を言ったきり放置されたのだ。普通の神経ならば怒るなり悲しむなり、それなりの本性を見せるだろう。もしかすると、諦めて帰ってしまっているかもしれないが、そうであればそれまでのことだ。

 空腹を覚えながら階段にさしかかったとき、いやに気合いの入った声が、場違いにホールの空気を震わせた。

『よし、そこまで! 続きは明日だ! あたしが言ったことは覚えてるね!?』
『ハタキは上から下に! 叩かないで撫でる! 電動モップは前に注意しながら慎重に!』
『よし。窓は!』
『窓は下から上っす!』
『よしいいだろう! 明日はその窓ふきだよ!』
『頑張ります!』
『ははは! しっかり手足ほぐしとくんだよ、筋肉痛になるからね!』
『ご指導ありがとうございましたッ!』

 いつも細やかな対応をしてくれる馴染みのクリーニング・レディである。
 意外な一面に唖然としながら見下ろせば、相手をしているのは紛れもなく、娘婿(仮)だった。
 視線に気付いたのか、白田が階段の上を仰ぎ、ぎくっと身を竦めた。

『あ……あー、スイマセン、ついうるさく……!』
『終わったの?』
『半分終わりました! 明日また来ていいっすか!』

 二日目に持ち越したということは、本気できっちりやってのけるつもりで、教えを請うたということだ。
 正直なところ予想外で、対応に困った。

『……わざわざホテルに泊まる必要はないでしょう。部屋を用意させるわ。荷物はホテルに連絡して取り寄せなさい』
『えっ』
『じきに夕食よ。シャワーでも浴びて、身綺麗にしてくるのね。小汚い格好で来ないでちょうだい』

 

 くるりと踵を返した姑に、白田は冷や汗を掻きながら呻いた。

(き、来た、テーブルマナー……!)

 日本の一般家庭に生まれ育った白田には、ほとんど縁が無かったものである。
 次なる試練は、半ば予想していた内容だった。

 

中編に続きます