Great minds have purpose, others have wishes.

 7月から8月までのガイナスで一番忙しかったのは、紛れもなく白田だろう。
 年代別にフル代表にと引っ張りだこになりながらもとんぼ返りでクラブの試合に出たがり、休む間もなく鳥取を離れるといったスケジュールは、交通事情の悪さもあって言葉以上の強行軍だ。

 そんな中、白田に続いて掛川を欠いたガイナスには、もう二名ほどこの時期を多忙にしていた選手がいた。
 二種登録のフージと越智だ。
 眞咲が口実に使っていたように、現役高校生の彼らには期末テストというものがある。ここまでの数ヶ月で十分戦力になると判断したクラブとプロ契約を結んだことで進学は考えなくてもよくなったのだが、赤点を取るような事があれば試合に出るどころかベンチにも入れてもらえない。
 従ってこの時期、彼らは揃って校内にいる時間が多かった。

 理沙がそのことに気付いたのは、だから、おそらく必然的なものだったのだろう。

 

 

 

「ああ、終わったぁ……!」

 教室を出た理沙の口から、思わずぼやきがこぼれた。
 日々こつこつ復習を積み重ねるタイプの理沙だが、集中して試験勉強をしないで済むほど要領はよくない。
 心底疲れ果てたと言わんばかりの声だったので、要領よしの見本である眞咲が苦笑した。

「お疲れさま」
「うん、精根尽き果てたって感じ……。でも、これでやっとクラブのお手伝いできるよ!」
「ありがとう。心強いわ」

 開放感から声も高くなる。眞咲の言葉も、まんざらお世辞でもないようだった。
 何しろテスト期間中、眞咲はいつも以上の忙しさを見せていたのだ。社長業を滞らせるわけにはいかないとはいえ、休憩時間に決済書類の束を取り出したときは、さすがにクラス中が引いていた。
 テストに関しても、眞咲は実に効率的だった。
 教科書やチャートを一通り読んで、引っかかったところだけ質問と回答の意図を科目担当の教師に確認しに行く。きちんと努力していますよというポーズにもなるし、涼しい顔で高得点を叩き出すより、ぐっと心証もよくなるだろう。いかにも抜け目ない。
 階段を下りながら理沙のいない間のクラブのことを話していると、背後から、南国の日光を思わせる声が飛んできた。

「あー、シャチョー! テストがんばったヨー! ホメてー」
「キャ――!!」

 理沙は悲鳴を上げた。
 でかい図体に飛びかかられた眞咲が、階段を踏み外したのだ。
 悲鳴を上げながらも眞咲の腕を捕まえた理沙の反応は、このとき、明らかに自分の反射神経を越えていた。もう一度やれと言われても絶対にできない。

「あ、あぶ、危ないです、フージ先輩!! いま本当に危なかったですよ!!」
「ウウ、ゴメーン……」
「ごめんですむなら警察はいりません! ほらもう、眞咲さん声もなく固まっちゃってるじゃないですか!」
「……だ、大丈夫。少し、驚いただけ」

 眞咲がうわずった声で答えた。平静を装い切れていないあたり、相当肝が冷えたのだろう。
 しゅんと小さくなるフージの後頭部を、一緒にいた越智が力一杯はたいた。

「フージ。はしゃぎすぎ」
「ダッテー! テスト終わっタラ、はしゃぐヨー! 無理だヨー!」

 越智はもう一発、今度は拳でフージを黙らせた。
 フージは頭を押さえて唇を尖らせたが、一応の反省を見せてか、それ以上の言い訳はしない。
 眞咲が冷ややかな笑顔で訊ねた。

「フージ。反省は?」
「……ゴメンナサイ」
「そろそろ効力のあるお仕置きが必要ね。一ヶ月お菓子断ちでもしてもらいましょうか。寮長にも報告の上、監視つきで」
「ウエー!」
「……あら、何か文句でも?」
「ナイデスー!」

 まったく、とため息を吐き、眞咲は英語で続けた。

『今回の事だけじゃないわ。すべてにおいて、もう少し慎重になりなさい。この間も自転車の二人乗りで叱られたところでしょう? プロとしての自覚が足りないと言わざるを得ないわ。あなたが何か起こせば、それがすべて、あなただけじゃなくクラブへのダメージになることを認識しなさい。返事は?』
『イエス、マム!』
『日本には「仏の顔も三度まで」という言葉があるわね。……三度目はないわよ』

 フージは直立不動のまま、こくこくこくと水飲み鳥のように頷く。
 真面目ぶっているのがどうにもおどけた仕草に見えて、理沙は不安を掻き立てられた。
 “never again” 程度は理沙でも十分聞き取れる。眞咲は明らかに本気だ。笑顔なのに目が笑っていない。
 横から口を挟むわけにも行かず気を揉んだが、眞咲には納得する部分があったらしい。
 制服の汚れを払い、何事もなかったかのように階段を下り始めた。

「ところで二人とも、テストは大丈夫よね? 赤点なんてことになったら、きっとベンチにも入れてもらえないわよ」
「ダイジョーブ! ガンバったヨー」
「問題は努力の程度じゃなくて、結果の如何だけど」
「ガ、ガンバったヨー!」

 理沙は眞咲のふくらはぎの打ち身が気になって仕方がない。絶対に痛いと思うのだが。
 そこでふと、やたらと衆目を集めていることにようやく気付いて、血の気が引いた。

(し、しまった……すっごく浮いてる……!)

 あれだけ大騒ぎをすれば目立つのは当然だ。
 だが、この面子の中に理沙がいるのは、とんでもなく不自然だった。
 なにしろフージと越智は、サッカー選手として活躍する現役高校生だ。明るくて親しみやすいフージと、よく言えば落ち着いた物腰の越智。当然のように人気者で、おまけに上級生だ。先輩のお姉さまがたの狩人な目線が怖い。
 この二人といても問題ないのは、眞咲のような、嫉妬の対象にもならない相手くらいだろう。
 つまるところ今更ながら、思い切り腰が引けて、理沙はスクールバッグの紐を握りしめた。もはやどうやって逃げ出すかしか考えられない。

 悶々と考えているうちに、ふと、気付いた。
 並んで前を歩くフージと眞咲を、越智が無言で見つめていた。
 いや――彼が見ているのは、一人だけだ。

 理沙がそう確信したのは、越智のそんな目を見るのは、これが初めてではなかったからだ。

(これって……やっぱり、そうなのかな)

 目は口ほどにものを言うというが、極端に無口な越智の視線は、淡々としていて別に熱っぽいわけでもない。
 一度や二度なら偶然だと思うだろう。
 ただ、眞咲とよく一緒にいる理沙としては、その姿を見るのが一度や二度ではないからこそ、気付かないままではいられなかった。

「あ……あのっ、眞咲さん! 私、忘れ物しちゃって……先に行っててもらっていい?」
「そう? じゃあ、クラブハウスで」
「うん、すぐ行くから」

 個人主義が根っこに染みついている眞咲は、理沙を引き留めることもなくあっさりと送り出した。
 一人で逃げ出すような罪悪感を覚えたが、多分それは、勝手な同情心なのだろう。
 上級生の刺すような目に縮こまりながら、理沙は越智をかえりみた。

 進んで視界に入ろうとしない、寡黙な視線は、なにも伺わせずに眞咲を見ていた。

 

 

 

 気付いたからと言って、何ができるというものでもないのだ。
 夏休みに入って、塾とクラブハウスと家を巡回するような生活の中、理沙はひたすら悩んでいた。
 この一ヶ月ばかりの間で、眞咲と白田の関係ははっきりと変化した。
 眞咲は白田に容赦がなくなったし、白田は眞咲に遠慮がなくなった。間違っても甘い関係などではないのだが、白田が望んだとおり、ある意味での特別なポジションに収まったのだろう。
 それはいい。きっと気負いがちな眞咲にとっても、喜ばしいことだ。
 ――問題は、それで感情を左右される人間が、少なからず存在するということだけで。

 越智は表面上、何の反応も見せなかった。
 もともと騒ぎに乗るタイプでもなく、フージのストッパーを淡々と務めるような立ち位置だ。激発するジジより目立たないのは当然で、誰もそれに気付かなかった。
 ただ、プレーの一つ一つが、少しだけ精度を欠いただけで。
 スターティングメンバーに選ばれるかどうかぎりぎりの位置にいる越智には、それだけのことが、とても大きな差になった。

「ごめんねえ、まだお洗濯できないんだよ。まだ居残り練習してる子がいるから」

 居並んだ洗濯機の前、長らくガイナスの洗濯係を務める女性が、皺だらけの手を頬に当てて首を傾げた。
 しばしば手伝いに入っている理沙とはすっかり顔見知りだ。
 困り切った様子に、理沙はまるで、自分が叱られたように身を縮めた。

「す、すみません。あの、お手伝い……もうちょっと、後にきますね」
「そうだねえ。あの子も、頑張るのはそりゃ構わないけど……そうだ、ちょっと声かけてごらんよ。根を詰めすぎてもいいことないってさ」
「え、ええっ? わ、私がですか!?」
「ずーっとあの子のこと気にしてるじゃないの。ほら、遠慮しないで行っておいでよ」

 何かとんでもない誤解をされている気がする。
 理沙は必死で首を振ったが、背後から忍び寄った声がそれを阻んだ。

「そうそう町田さん、いいこと言うー! 行ってきなってぇ理沙ちゃん!」
「河本さん、面白がらないでくださいよう!」
「えー、だってこの世にコイバナ以上に面白いことなんてないしぃ」

 そうやって掻き回される方としてはいい迷惑だ。
 広報担当の勢いに押しきられるようにしてクラブハウスを出ると、夏の長い日はもうほとんど沈んでいた。
 見学の人影ももう途絶えている。夕闇が忍び寄る練習場を覗くと、越智はセットプレーの練習を続けていた。
 壁に見立てた人形の右肩を、ボールが弧を描くように曲がってゴールネットに吸い込まれていく。ゴールの中にも、周りにも、蹴った後のボールが転がっているのが見えた。

「あの……越智先輩」

 呼びかけに振り返った越智は、「ああ」とでも言いたげな顔をして理沙を見た。
 どうやら顔は覚えていたらしい。そのままボールを集め始めたので、理沙はあわてて手伝いに回った。

「ごめんなさい、手伝います。もう終わられます……よね?」

 越智は無言のまま、頷いて返した。
 さすがにこの暗さでは続けられないだろう。一人の居残り練習のために照明を使うのも、クラブの台所事情を考えれば難しい。
 せっせとボールを拾い集めていると、「孫のほう」と呼ばれている用具係の町田が姿を見せて、二人の片付けに参加した。

「こっちはいいから、越智君、ストレッチちゃんとやっときなよ」
「……はい」

 越智は大人しく頷いてストレッチを始めた。すっかり片づけを終えて手持ち無沙汰になってしまうと、理沙は落ち着かない気分で、半ば押しつけられるように持ってきたタオルとドリンクを越智に差し出した。

「あの、町田さんが……」
「……ああ。そうか、洗濯できない……」
「あ、それはいいって仰ってたんですけど! あの、心配して――」

 うっかり口が滑った。
 自分の迂闊さに頭を抱えたくなりながら、理沙は言い訳を探す。
 どうして理沙が黙り込んだのか、おそらく越智は気付いただろう。

「……すみ、ません。余計なこと……」
「いいけど」
「……すみません……」
「まあ、気付かれたのは、びっくりした」

 びっくりという言葉が妙に幼く思えて、理沙は顔を上げた。
 越智は淡々としていた。嫌そうではなかったが、もちろん楽しそうでもない。蒸すのかスパイクの紐をほどきながら、考えるように首を傾げた。
 高校生にとって、恋愛事はおおごとだ。理沙にもそれくらいの認識はある。
 秘める恋というやつなのだろうか。理沙には、越智がそうも抱え込む理由が分からない。

「……越智先輩は……言わないんですか? その、眞咲さんに」
「言わない」

 短い返答は、妙にきっぱりとしていた。
 自分の中で昇華するつもりなのだと、その短い答えが雄弁に語った。
 それでも、いつもの越智に比べればずいぶんと饒舌だ。話したいのかも知れないと感じた理沙が、言葉の続きを待っているのを見て、越智は迷いながら口を開く。

「……俺は、一番はサッカーだから」
「はい」
「余裕、ないし」
「はい」
「……ちょっと、あの辺、張り合うのはしんどい」
「ああ……あの、分かる気がします。白田選手もジジさんも、張り合うと疲れそう」
「あと、面倒」

 面倒なのは越智ではなくて、眞咲に面倒を掛けるという意味だろう。
 誤解を生みそうな言葉だと思いながら、理沙は確かめるように訊ねた。

「……眞咲さん、そこまで情が薄いひとじゃないと……思うんですけど……、……すみません、そんなことないかも」

 越智が頷いて同意した。
 仮にも片思いの相手にそれはないだろうと理沙は思って、初めて、これがいわゆる「コイバナ」なのだということに気付いた。
 なんだか急に、居心地が悪くなる。

「あの、ごめんなさい。首を突っ込んじゃって」
「いや」

 越智は首を振った。間髪入れない返事だったので、おそらく気を悪くしてはいないのだろう。
 理沙はほっと胸を撫で下ろした。話すことで楽になれたのなら、居心地の悪い思いをした甲斐があるというものだ。

「戦力になれば、その分、見てもらえるし」
「はい」
「無理の手前までは、努力する」
「はい。あの、でも、怪我はしないでくださいね。高下さんの言うこと、ちゃんと聞いてくださいね」
「……気をつける」

 越智が神妙に頷く。
 それが何だかおかしくて、可愛らしいような気にもなって、理沙は笑った。

「……私、初恋もまだなんですけど……越智先輩みたいな恋って、すてきだなって思います」

 何の含みもなく、気恥ずかしい言葉が出た。
 返す言葉に困る越智に気づき、理沙ははたと我に返った。
 これではまるで、越智に気があるような発言だ。

「あ、えっと、全然深い意味はなくて! すみません、大丈夫ですから! あの、ただ、応援したいなって気持ちになって、それだけで……!」
「いや、分かってる」
「よかった! あの、私、誰にも言いませんし、変な下心とかも本当に全然、まったく、微塵もありませんから! 安心してくださいね!」
「……」
「あ、あれ、越智先輩? ……私、何か失礼なこと言いました……?」

 越智は複雑な表情のまま、無言で首を振った。
 ここまで全力で否定されるというのも傷つくという、複雑な男心に、自己評価の低い理沙は全く気付かない。
 ついでに言えばクラブハウスの影からニヤニヤとそれを見守る人影がいたことにも、少年少女は全く気付かないまま、ある意味甘酸っぱい光景を提供していたのだった。