In an man is timidity, in a girl it is boldness.

 いったんホテルに戻ってフロントに預けていた荷物を受け取ると、なんだかどっと疲れが出た。
 緊張の糸が切れたらしい。白田は足取りを危うくしながらロビーの椅子に座り込み、深々と息を吐いた。
 望んだことだとはいえ、白田のスケジュールはここのところ殺人的な忙しさを見せている。
 いくらでもこき使え、とは、眞咲が鳥取に来た当初と同じ趣旨の発言なのだが――眞咲に告白して予定通りの玉砕を果たしてある意味での権利を獲得したところ、ではやってもらおうかとばかり笑顔でスケジュールを詰め込まれた。
 本望だと強がりを吠えるくらいしかない。

 神奈川での試合後、チームを離れ、そのまま連続で取材が二本。白田だけ宿泊して、さらに翌日には広告撮影、昼には鳥取とは縁もゆかりもない新規スポンサーとの会食と、多忙極まりない強行軍だ。
 高校サッカー出で体育会系の染み込んだ白田は同じようなノリのスポンサー社長に気に入られたらしく、時間帯が夜だったなら確実に二次会に連れ出されるところだった。おそらく眞咲はそこまで読んで昼食を選んだのだろう。
 貧乏暇なしだなと府録にせせら笑いを向けられたのを思いだし、一人でむっとしながら携帯電話を取り出した。
 眞咲からメールが来ていた。

 ――ご苦労様。首尾はどう?

 ことさら素っ気ない文面だ。白田は首を傾げながら電話を掛けた。
 眞咲は数コールで電話に出た。

「お疲れ、社長。しっぽが何だって?」
『……誰も尻尾の話はしていないわ。会食はどうだった?』
「すっげーうまい鰻重くわせてもらった。東京のメシってあんまうまいイメージなかったけどさ、なんか下町っぽいとこで。社長さんもきさくだったし。こないだの、えーと、フレンチ?とか、味しなかったけど」
『そう。あなた、見かけに寄らず人見知りだものね』
「ほっとけ」
『まあ、気が合うだろうと思っていたから、心配はしていなかったけれど』

 からかうような声に憮然と返し、白田は気を抜いて背もたれにもたれた。
 天井のエンボス地を眺めながら、ぼんやり口を開く。

「それより、昨日の試合見てたよな」
『ええ。予算上の都合で帯同はしてないけど、ちゃんと中継で見ていたわよ?』
「ゴール決めたんだし、ほめてくれてもいいだろ」

 きょとんとするような間があった。
 ややおいて、眞咲が苦笑じみた声で笑う。

『そうね。さすがエースといったところかしら』
「どーも」
『事務局も大盛り上がりだったわ。何て言うのか、あなたらしいゴールだったわね』

 眞咲の言葉に、そこらを漂っていた眠気が吹き飛んだ。
 昨日のゴールは会心の出来だった。カウンターでボールを持ち込んだものの、マークは二枚。激しいチェックでペナルティエリアの奥まで追い込まれ、角度がほとんどなくなったところから、反転と同時に思い切って振り抜いた。思わず自画自賛したくなるほど、「自分らしい」ゴールだったのだ。
 自分でもそう思うし、チームメイトにも記者にも聞かされた賞賛だ。
 それなのに、眞咲にあれを白田らしいと言われたことが、自分でも意外に思うほど嬉しかった。

『試合だけじゃなくて、最近のあなたはとても精力的に働いてくれていると思うわ。ファンサービスも、取材対応も、スポンサーとのお付き合いも。ちょっと頑張りすぎね。そろそろ音を上げてもいいのよ?』
「何でだよ。役に立ってんならいいだろ」
『無理しなくてもいいのに』
「してねーよ」
『そう?』

 揶揄じみた声だったが、僅かな気遣いが垣間見えた。
 白田が言われるままにスケジュールを詰め込んでいくせいだろう。確かに暇はないが、もともとオフがあっても大したことはしていなかった。走ったり筋トレしたりサッカーの試合を見たりそうでなければ寝ていたりと、ついつい同じようなことをして過ごしてしまう。たまに高校時代の悪友たちに誘われて遊ぶくらいで、いいかげん趣味を見つけろと呆れられたのはつい最近のことだ。

『まあ、取材も一通り受けたところだし、しばらくは落ち着くわ。来月は代表の試合が続くから忙しくなるでしょうし、頃合いね』
「選ばれればだけどな」
『あら、代表ブランドはしっかり維持して貰わないと』

 眞咲がわざとそんな言い方をしていることは知っていた。
 選ばれるか分からないA代表の後には、怪我でもしない限りまずメンバーに入るであろうU-19の大会が待ちかまえている。
 よくよく考えてみると、来月はろくにガイナスの試合に出られないかもしれない。
 現在ガイナスは勝ち点二差の4位。フージや越智の台頭でチームは上り調子にある。そんな中でチームを離れるのは心苦しい。代表なら、自分の代わりはいくらでもいる。選ばれなくてもいいという思いが一瞬浮かんだことも、すっかり見透かされているようで、眞咲が噛み含めるような言い方をした。

『大丈夫よ。あなたはチームメイトを信用して、自分のすべき事を精一杯やればいいの。怪我さえしなければそれでいいわ』
「……了解、ボス」
『あと、今更分かってると思うけれど、これからの時期、妙なゴシップは出さないでくれると嬉しいわ』
「スイマセン社長、これイジメっスか」
『冗談よ。誤解のないメンバーで行動して欲しいってことだけ。あとアルコールは避けておくべきね。弱いから』
「わかってるっての! だから何の話だよこれ!」

 何が悲しくて、玉砕した相手に母親のような心配をされなければならないのか。
 やるせない思いをスプリングにぶつけていると、眞咲がとどめを刺しに来た。

『実は、あなたに食事のお誘いが入ってるのよ。ゴシップのお相手から』

 ちょっと本気で泣きたくなった。

 

 

 

 

 

「ええ? 眞咲社長、そんなこと言ってたんですか」

 やだもう、と明るい笑い声を上げたのは、チームメイトの恋人である藤白千奈だ。
 確かにゴシップの相手だ。火のないところに煙が立ったのは、まだ記憶に新しい。
 ただし、今回に限ってはそんな心配もいらないだろう。場所は小綺麗なレストランでも瀟洒なバーでもない。古びた壁には雑然とメニューの紙が貼り付けられているし、肉の焼けるいい匂や、たれやニンニクの匂いがあちこちから漂ってくる。いかにも大衆向けの焼肉店である上に、彼女の隣に座っているのは、にこにこした恵比寿顔と見事な白髪の、初老の紳士だった。

「こちら、元日本代表でコメンテーターの五島隆二さんです。あと、Jリーグのマスコット評論家としても有名です」
「いやいやいやいや」

 千奈の紹介を受け、五島は照れたように後ろ頭を掻いた。
 後の方の肩書きに照れているように見えたが、解説としては大御所だ。口調は穏やかながら鋭い視点と遠慮のない物言いが特徴で、玄人受けするタイプの解説だった。

「えっと、ガイナスの白田直幸です。……初めまして、っすよね?」
「そうだねえ」
「あ、五島さんのことはそりゃ知ってますけど。会うのは初めてって意味で……えーと、マスコット評論家、なんスか」
「いやいやいや。ちょっと詳しくて好きってだけだよ。でも君のところの、サメゴローさん。彼はいいですねえ。こわもて風なのに動きが可愛くてね。キレもあるし、働き者だよね。今年は露出が増えてるのもいいよね」
「あ、えーと、クラブの方針らしくて」
「うんうん、マスコットって大事だからね。怪我しちゃってたけど、大丈夫?」
「はあ。俺ら顔負けでリハビリやってました」

 ガイナスのクラブマスコット「サメゴローさん」は、敬称までが正式名称だ。
 J2のマスコットのそんなところまで押さえている辺り、マスコット評論家という肩書きが真実みを帯びてきて、なんだか可笑しい。

「それはともかく、急に呼び出しちゃって悪かったね。一度君と話してみたくて、ちょっと無理を言っちゃったよ」
「いや、大丈夫っす。予定とかもなかったんで」
「そうなの? 若いのにねえ。話には聞いてたけど、本当にストイックなんだねえ。友達と飲みに行ったりしないの?」
「行かないわけじゃないスけど、俺、あんま酒飲めないんで……」
「へえ、そうなの」

 本心から意外そうに目を丸くされ、白田は思わず肩を窄めた。
 千奈が助け船のように口を挟む。

「うふふ。五島さんのお若い頃と比べちゃだめですよー」
「嫌だなあ、千奈ちゃん。僕は真面目でしたよ。ただね、僕の周りの人間がね」
「でも色々、お聞きしてますけど?」
「デマですよ、デマ。おじさんの言うことは信じちゃいけない」
「あははっ」

 どことなく似たテンポの二人だった。テーブルを囲んでいると、なんとなく気が抜けてしまう。
 壮年の男性である五島はまだしも、妙齢の美女である千奈がこんな焼肉店にいるのはなんだか浮いている。
 昔、デートでラーメンなんてあり得ないと付き合っていた少女に大激怒された覚えのある白田としては、全く気にした様子のない千奈のほうが不思議だ。そんな気さくさや朗らかさが、サポーターや選手からの好感に繋がっているのかも知れないが。
 勧められるままに白田はもそもそと肉を口にした。さらりとした脂としっかりした旨味の、これぞ肉といった感じの肉だ。地元でもそうだが、小綺麗なチェーン店よりも、こんな感じのぼろい家族経営店の方が美味く感じるのはなぜだろう。

 食事は終始和やかに進んだ。
 年輩の人間に多い、酒が入ると説教が始まるようなこともなく、話題はサッカー一色だ。J1からJFL、果ては代表から海外まで。どこまで網羅しているのだと舌を巻くレベルで、しかも話が面白い。プロというのはこういうものなのかと感嘆しながら、同時に、自分には絶対無理だと確信した。まず喋るのが無理だ。

「そういえば、五輪、面白かったねえ。僕ね、いわゆる守って縦ポン、けっこう好きなんですよ。日本人らしくていいじゃない」
「そうなんスか」
「うん。バルサみたいなのだけがサッカーじゃないと思うんだよね。そりゃ強いチームが引きこもりで縦ポンしても面白くないけどさ、守って守って守りきるっていうのも、なかなか大変なもんですよ。集中して守らないとやられるし、しんどいしね。あと、ライト層にはつまんないって思われちゃうのも欠点だね。僕は好きなんだけど」
「むずかしいっすね。うち、とにかくお客さん呼ばないといけないんで」
「うん、今の鳥取のサッカーも好きですよ。ノーガードっぽいというか、やったれ感があって。安定感はないけどね」

 苦笑いで返した白田に、ふと五島が表情を改めた。

「そういえば、五輪の後、海外からオファーが来たって噂だけど。いずれは海外でプレーしたいと思わないの?」
「いや……あんまり思わないっすね」
「白田選手、すごくガイナス愛がありますもんね」

 千奈が笑って合いの手を入れる。
 愛と言われると気恥ずかしい。
 白田は曖昧な返事をして首筋を掻いたが、五島は渋い顔でビールに口を付けた。

「僕はね、地元愛もチーム愛もね、いいと思うんですよ。そういうのがJリーグの魅力だと思うし、チームを強くするものだとも思ってる。でも、君がずっとJ2でプレーするつもりでいるなら、それは賛成しかねるな」
「……そりゃ、昇格は目指してますけど。なかなか……」
「うん、ガイナスの予算規模じゃ難しいのは分かってるよね。五年後、あるいは十年後なら、ひょっとするとひょっとするかもしれない。でも、君はその間、どうやって成長するつもりなのかなって、そこが気になるんだよね」

 同じようなことは、それこそ耳が腐るほど聞かされてきた。
 ただ、J2やJFLにも詳しくて、そこが好きな第三者からの言葉だ。それがなぜだか、いやに重く腹に響いた。

「J2で成長できないとは言ってないよ。海外ならどこでもいいから移籍しろとも思わないしね。最近は失敗して帰ってくるケースもすごく多いし」
「……はあ」
「ただね、J1とだって、プレスの早さとか、強さとか、致命的になるミスの程度とか、そういうものが全然違うんだよ。所属しているクラブがどこかっていうのは、どんなレベルの競争相手と日常的に戦っているかっていうことだからね。今の君にとってのベストがガイナスでも、二年後にちゃんと成長できていれば、J2での成長はたぶん頭打ちになっちゃう。その辺も考えておいた方がいいんじゃないかな」

 黙り込んだ白田を見て、千奈が困ったような顔を見せた。
 言いたい放題言われて面白くはない。それが間違っていないと分かっているから、余計にだ。

「……じゃあ、ガイナスでJ1に行きます」
「あ! そうですね、それいい、すっごく素敵だと思います!」

 千奈が表情を輝かせて手を打った。
 憮然として喧嘩を買った白田に、五島は苦笑いを返した。

「うん、それが一番いい。ただね、ステップアップっていうのはさ、別に踏み台にして捨てていくのとは違うよっていうのをね、言いたかったんだよね。……どっかの二部とか三部とか、どうでもいいようなクラブにほいほい移籍しちゃうのもどうかと思うけど、君はちょっと、梃子でも動かないぞって感じに見えてね。まあ、余計なお世話だけど」
「……生意気言って、すいません」
「いやいや、悪いね。やっぱり歳とるとだめだねえ、説教臭くなっちゃった」

 五島は照れたように笑い、話はこれで終わりとばかりデザートのメニューを広げた。
 千奈のためというわけではなく、彼自身が甘味好きらしい。
 その店の自家製アイスクリームはバニラの風味が強く、ささくれだった気持ちを宥めてくれた。

 

 

 

 

 

 誰も彼も、寄ってたかって同じ事を言う。基本的に、からっとした悲観主義者(なのでよく楽観的と間違われる)である白田も、くさくさした気持ちになろうというものだ。
 大先輩の言葉には、相応の重みがあった。
 ただの経験者ではない。同じような言葉であっても、現役を退いてなお様々なカテゴリーに詳しい人物だからこそ苦々しく、説得力があるのだ。

(成長できないどころか、リーグ戦でも全っ然無双とかできてねーし。つーかまだ先の話なんだったら、そのときになってから言ってくりゃいい……の、に)

 唇を曲げたまま空港内を歩いていた白田は、はたと、違和感に足を止めた。
 A代表に選ばれて、自分は変わったのだろうか。
 成長したという実感はある。流れが見えるようになった。仲間に要求するようになった。もっとぎりぎりのタイミングで、もっとピンポイントにと。代表で得たものをチームに還元しようと必死で、ただそれだけだったのは、チームのベテラン陣がうまくフォローに回ってくれたからだ。
 物思いに囚われそうになった白田は、メールの着信音で我に返った。
 あわてて歩き出しながら確認すると、眞咲からのメールだった。
 報告は明日でいいから寄り道せず帰るようにと、素っ気ないにも程がある文面が釘を差す。
 行動を読まれているのは明らかで、白田は苦笑いを浮かべた。
 了解の言葉は返さず、代わりに質問を放り込む。

 ――お疲れ、社長。ちゃんとメシ食ったか?

 もう口癖のようになっているフレーズだ。
 返事は一分後に、予想外の形で届いた。

 ――まだだけど
 ――巻寿司が食べたい

 今度こそ完全に立ち止まり、白田は目を剥いて画面を確かめた。
 あれ以来、食べろ食べろと色々差し入れを押しつけてきたが、リクエストが来たのは初めてだ。

(おおおおお!? やばいマジか、嘘だろ、これがデレってやつか……!)

 誰かに聞かれたなら確実に「否」と答えられるような事を考えつつ、白田は上がったテンションのままに寿司屋に駆け込んだ。
 小学生の頃から祖父と行きつけにしていた寿司屋の大将は、久々の来訪の理由を大笑いしながら、手早く土産を整えてくれた。
 クラブハウスに着いた頃は、夕食には少しばかり遅い時間帯だった。
 まだ誰か残っていそうなものなのに、なぜか社長室以外の電気はついていない。そういえば今日は試合翌日だから、事務局は本来お休みだ。
 それでも事務局には広報の二人がいて、白田の登場に丸くした。

「あれ、白田君? なんでわざわざこっちに……」
「いやいやいや! なーに言ってるんですか種村さん。っていうかそろそろ休憩しましょう! っていうかおなかすいたんでご飯! 行きましょう!」
「ええー、ついでに終わらせたらいいじゃん……って痛!」
「社長、私たちちょっとお夕飯いただいてきますねー! ごゆっくり!」

 いっそ清々しいほどの白々しさで言い、河本が種村を引っ張って事務局を出ていく。
 何を期待されているのか分からないが、その期待に答えられない事は間違いない。頭を掻きながら社長室を覗くと、眞咲が渋面で迎えた。

「あれ、何なんだろうな」
「……さあ。彼女の考えることは、時々理解しかねるわ」
「だよなあ。で、巻寿司買ってきたぞ」

 包みを上げて見せると、眞咲がようやく笑みを浮かべた。

「ありがとう。いくらだった?」
「はっ!? いやちょっと待て、差し入れだっての!」
「あら、私がお願いして買ってきてもらったんでしょう? お使いありがとう」

 にっこりと浮かべた眞咲の笑顔に、あのメールがデレなどではなかったことを嫌と言うほど理解した。
 むしろ、奢られっぱなしを阻止するための布石だったわけだ。
 だが甘い。
 今の白田には、さらなる手札があった。

「……分かった。じゃあこっち、差し入れな」

 執務机に乗ったコンビニの小袋を見て、眞咲が目を瞬く。
 中身はイチゴとホワイトチョコのババロワだ。今日の食事で五島がデザートを頼んでいたのを見てふと思い立ったのだが、こんな時間だったのでコンビニくらいしか開いていなかった。

「こっちは頼まれてねーし。勝手に買って来たんだからいいだろ」

 呆気に取られていた眞咲が、堪えられなくなったように吹き出した。
 くすくすと笑いながら、彩りの綺麗なプラスチックケースを手に取る。

「まったく……負けたわ。仕方ないから、ありがたくいただいておこうかしら」
「っし!」

 思わずガッツポーズをした白田に、眞咲は笑みを困ったようなものに変えた。

「粘り強くて、どうしようかと思うわ」
「どうもしなくていいだろ。俺が勝手にやってんだし」
「……ただより高いものはない……」
「そこ疑うなよ! ひねくれすぎだろ!」
「失礼ね、世の理よ。いただきます」
「へっ? あー……えーと、はい。どうぞ。……茶入れるか?」
「それぐらい自分でするわ。あなたもいる?」
「……じゃあ、もらう」

 応接席に座る気にはなれず、事務局から一つ椅子を拝借した。
 社長室の執務机はいつだって整然としているが、あっというまに書類が溜まっていく。昼間はあちこち駆け回っていて、つい決裁を後回しにしてしまうのだと言っていた。
 座ってしまえば眠気が襲ってくる。
 椅子の座高を一番高くして机に突っ伏すと、お茶を入れてきた眞咲が苦笑いで言った。

「お疲れね。今日は早く寝た方がいいわ」
「あー……、なんか飛行機、苦手なんだよな……」

 それだけではないが、読み取られてしまうような気がして顔を上げられなかった。
 眞咲のため息が聞こえた。
 呆れられただろうかと余計に落ち込みそうになったとき、何か柔らかなものが頭を撫でていった。
 何が起きたのかが分からず、白田は顔を伏せたまま硬直する。
 たっぷり三秒掛けて状況を理解し、勢いよく顔を上げた。

「あ、ごめんなさい。つい」
「な……なん、ちょ、な、ええ!?」

 椅子のキャスターを転がして勢いよく後退し、白田は壁に後ろ頭を打ち付けた。
 あまりの混乱に、そのまま壁に張り付いてしまう。
 ショッピングモールでゾンビに遭遇したかのような反応に、眞咲は特段気にした様子もなく肩を竦めた。

「悪かったわ。何だか悄気ている感じが、昔飼っていた犬を彷彿とさせて」
「犬かよ!」
「だから謝ってるじゃない」

 しゃあしゃあと言ってのける悪びれない態度は以前なら絶対に見せなかったもので、距離が縮まったのは嬉しいが犬扱いは嬉しくない。
 葛藤に唸る白田を見て、ますます犬みたいだと眞咲は内心にこぼした。
 昔飼っていた犬も、近づいてくるくせに、撫でると途端に硬直して逃げ出すという、猫のような性格をしていたのだ。
 ――幸い、それを口にするほど迂闊ではなかったので、白田は知らないままだったが。

 往々にして、アスリートというものは青春を練習に捧げて健全すぎる十代を過ごしてきたケースが多い。
 その例に漏れたようで漏れていなかった白田は、眞咲の些細な行動に大動揺したあげく、寮に帰っても挙動不審が過ぎて、気味悪がった掛川の蹴りを食らう羽目になったのだった。