捨壱

【 磨斧作針(まふさくしん ) 】
惜しまずに努力し続ければ、困難なことでも必ず成就することのたとえ。

「バーンちゃーん、お菓子焼いてきたよー!」
「うわあああ!」

 十は思い切り悲鳴を上げた。なぜなら足音を忍ばせてやってきた藤が、思い切り背中にのしかかってきたからだ。
 驚いただけでも、重いだけでもない。梅雨を越えてめっきり暑くなった今現在、制服は夏服にだ。柔らかな感触がはっきりと伝わってきてしまう。

「ふ、ふっ、藤、離れて……!」
「えー」
「なんかそのっ、背中がうれしはずかしいことになってるから!」
「おお、照れてる? やったー」

 はたから見ればただのカップルである。
 きゃらきゃら笑う藤と、今にも卒倒しそうに真っ赤になっている十に、見かねたクラス委員が咳払いを落とした。

「藤。男の純情をもてあそぶんじゃない」
「あはは、ごめんごめん! バンちゃんいい反応するもんだから」
「あー……そうだな。気持ちはわかる」
「委員長ッ!?」
「わかるわかる。ほんっと期待通りの反応するもんなー、万里」
「まったくだ。バカップルはもれなく爆散しろと思うが、面白いってのは否定できん」
「あんまりだ……!」

 十は顔を覆ってうなだれた。藤はいかにも楽しそうに笑うと、ようやく十の背中から離れ、手に持っていた紙袋を差し出した。

「というわけで、今日はカヌレですよー。食べて食べて。ちゃんとみんなの分あるからね!」
「あ、うん……ありがとう」

 袋を開けると、キャラメルを焦がしたような匂いが鼻をくすぐった。
 手のひらに乗るくらいの大きさで、プッチンプリンをほっそりさせたような形だ。だが、予想以上に真っ黒くて、光沢がある。
 焦げているんだろうかと首を傾げながらかじれば、中はもっちりというより、むにむにしている。

「どお? けっこーうまくできたと思うんだけど」
「……なんか、えっと、不思議な味がする……?」
「だな。なんつーか……うまいのかどうかよくわからん」
「右に同じ」
「あらら……どんなかんじ?」

 藤はぱちぱちと目を瞬くと、小首を傾げた。
 少年たちは何とも言えない顔を付き合わせて、違和感を言い表していく。

「あれだ、フレンチクルーラー濡らして焦がした感じ」
「あー! それそれ、それだ!」
「……なあ本間、これ、生焼けとかじゃねーんだよな。こういうもんなんだよな?」
「あ、お前んとこケーキ屋だっけ、本間」

 話を振られた本間少年は、もぐもぐとカヌレを食べきってしまうと、はっきり頷いた。

「こういうもんだ。ごちそうさま、藤」
「おそまつさまー。どうだった?」
「うまかったぞ。でもまあ、食べ慣れてない奴らにこういうのは向かない。もっと単純な味のやつにしたほうがいいだろう」
「あー、そっかあ。次はパン・デピスとか作ろうかと思ってたんだけど、もしかしてフィナンシェで味いろいろ作った方がいい感じ?」
「だな。フランス菓子にこだわるなら、シューケットとかどうだ? あれはそんなに甘くないだろ」
「あ、それいい! レシピ調べておこっと」

 藤は両手をあわせて、にっこりと笑った。
 名前がまったくわからない少年たちにすれば、二人のやりとりはほとんど呪文だ。
 釈然としない顔になった一人が、ふと思いついたように言った。

「つーか万里にやるんだったらさ、弁当とかの方がいいんじゃね?」
「あー。いっつも米と漬け物しか持ってきてねーもんな」
「ゆ、夕飯の残りがあれば、ちょっとはおかずも……!」
「姉ちゃん作ってくんねーの?」
「……朝は弱いらしくて……とてもじゃないけど、怖くて頼めない……」

 藤は腕を組むと、うんうん頷いた。
 十のさびしい弁当事情は、既に把握済みだったようだ。

「うーん、作れるなら作ってあげたいんだけど……。何を隠そう、わたし、料理ぜんっぜんできないんだよねぇ」
「嘘だッ!」
「あんな本格的な菓子を作れるのに、料理ができない、だと……!?」
「スキル全振りしすぎだろ!」
「いやいやホントに。あ、今練習してるところだからねバンちゃん! クリアしたらお嫁さんにしてくれていいよ!」
「は、話が飛びすぎじゃないかな……!」
「ざーんねん。三食昼寝つきで養ってあげるのに」

 思い切り腰の引けた十の反応に、藤は笑い声を転ばせた。

「食べてくれてありがとねー。次はがんばるよ!」
「あ、うん、こっちこそ。ごちそうさまでした……」
「いえいえー。じゃ、次、移動教室だから。ばいばーい」

 賑やかな嵐が過ぎ去ると、十はぐったりして机に突っ伏した。
 毎度のことだが、藤は強烈な直射日光だ。エネルギーをぐんぐん消耗しているような気がしてしまう。

「いやー。それにしても、すっかりおなじみの光景になったな」
「よくまあこんなに辛抱強くやってられるもんだ。いっそ尊敬するわ」
「……うう……藤なら他にいくらでもいい人がいると思うのに……!」
「お前みたいなの、お前しかいないしなー」
「そうそう。ありゃ完全にターゲティングしてる。諦めろ」
「……だって、その、なんか心苦しくて……」
「そりゃそうだろ」
「お前、あんな美少女に好かれて困るとかふざけろって話だしな!」

 けらけら笑う友人たちが、交互に十の頭をべしべし叩いていく。
 机に額を押しつけた十が、深々とため息を吐いたとき、教室へ新たな人物の襲撃があった。

「――万里。ちょっと、顔かしてほしいんだけど」

 少女の声だというのに、えらくドスの利いた声だった。
 おそるおそる顔を上げた十に、藤の友人は、剣呑そのものの面相で、くいっと顎をしゃくったのだった。

 

 

 

 連行されたのは、今はもう使われてない焼却炉の前だった。
 使われてないので、当然、人気が少ない。
 一体何が始まるのだろうと十は内心震え上がっていた。藤に告白されたときと似た状況ではあるのだが、今日は目の前の少女が「ついてきたらぶっとばす」と言わんばかりの睨みを聞かせていたために、正真正銘の孤立無援である。

(……さ……さすがに、殺して埋められるなんてことは、ないと思うけど……!)

 ぴりぴりした沈黙が精神に痛い。
 先導する少女が、ようやく足を止めて振り返った。
 いかにも派手なグループの女子らしく、付け睫毛とメイクで豪勢になった目が、ド迫力で十を睨む。ただし数を頼みにつるし上げる気はないようで、待ちかまえていた仲間などは存在しなかった。

「あのさあ万里。マジなとこ答えて欲しいんだけど」
「は、はい……」
「あんた、藤のこと好きなの嫌いなのどっち」
「はいっ!?」

 声をひっくり返した十に、少女は不機嫌な顔のまま腕を組んだ。

「だからどっち。嫌いみたいには見えないけど?」
「そ、そりゃ……」
「だよね。んで、問題は好きかどうかって話」
「う……」

 嫌いではない。ただし、好きかと言われればよくわからない。
 藤は裏表がなく、快活で、とびきり可愛い女の子だ。好かれて嫌な気分になるはずがない。圧倒されてとんでもなく消耗するのに、迷惑だとは思えない。その程度には、好意がある。
 少女は思い切り目を据わらせ、じっとりと十を見た。
 どう見ても責められている現状に、居心地が悪いどころの話ではない。
 このどっちつかずな心境をどう説明したものか、十はしどろもどろになって考えた。

「そ、その……えっと……」
「藤が他の男と結婚しちゃってもショックじゃないわけ?」
「結婚ッ!?」
「たとえばなしじゃなくて」
「ないの!?」

 いきなり話が飛んだ。
 十はぎょっとして顔を上げたが、少女はまったくもって、大まじめに不機嫌のままだ。

「藤、十六の誕生日までに結婚したい相手つれてかなかったら、パパが決めた相手と結婚させられるんだってさ」

 全力で暴投された爆弾発言に、十は唖然と口を開けた。

「え……いや、だって、藤、まだ高校生で……」
「あたしだって馬鹿みたいだと思うよ! でもなんかいろいろ事情があって、なんかよくわかんないけどどうしようもないって! 藤、そういうのあんたに言わないだろうし……あたしが言うのもお節介だけどさあ! あーもー、ほんっとわけわかんないっての!」

 苛立ったようにぐしゃぐしゃと頭を掻き、少女は盛大にため息を吐いた。

「……とにかく! 藤がいつまでもそこにいるわけじゃないんだから。人に持ってかれてからじゃ遅いんだからね! ちゃんと考えてよ!」
「い、一介の高校生になんて無茶ぶりを……!」
「うっさい馬鹿! 藤泣かせたらマジ闇討ちしてやる!」

 心なしか涙目で吐き捨てた少女を引き留める事もできず、十は呆然と立ちつくした。