一度は大丈夫だと判断しても、一度気づいてしまうと気になってしかたがない。
 帰り際に玄関口で藤(と、当然ながら男女混合の人垣)を見かけ、十は思わず下駄箱の影に隠れた。
 隠れてどうなるというものではないのだが、考えなどなかったのだから仕方ない。
 こっそりと確かめれば、藤はいつもの笑顔だ。にぎやかだけれど何を話しているのかはいろんな人の声がごちゃごちゃ混ざり合って聞き取れない。それでも楽しそうなのは間違いなくて、こっそり羨望のため息をこぼした。
 まったくもって、自分とは対極だと十は思うのだ。
 憧れはするが苦手だとも思う。ぴかぴかしすぎていて隣に行ったら消し飛ばされそうだ。
 いままでにもあんな感じの相手には何人か出会ったことがあるが、中でも藤はとびきりだった。

(とびきりっていうか、そもそもレベルが違うっていうか……すごいなあ、ほんと)

 なにしろ王様だ。
 言われてみればその表現がしっくりきてしまうのだから、敬服さえ覚える。
 ――それでも、誰も彼もに好かれるということは無理なのだろう。
 藤の輪郭をぼやかすようにゆらめく黒は、やはり十にとって馴染みのあるものだ。「悪いもの」であることは間違いない。
 どこかで引っ掛けてきただけならいい。けれど、そうでないなら――藤が誰かに悪感情をもたれて、呪いを向けられている可能性もある。
 それを認めるのは、どこか息苦しいような胸のつかえを覚えた。

(いや、まだわかんないし……でも、今のうちに、姉さんを頼ったほうがいいのかも)

 問題はどう誘うかだ。
 一人でいることなどほとんどない相手を呼び止めて家に呼ぶなんて度胸は、十のどこをひっくり返しても出てこない。
 下駄箱の裏にしゃがみこんだままうんうんと唸っていると、頭上から声が降ってきた。

「あ、やっぱりバンちゃんだ。どしたの?」
「うわぁ!?」

 十は飛び上がらんばかりにして尻餅をついた。
 あわてて頭上を振り仰げば、いつの間に目の前に来たのか、藤がきょとんとした顔で見下ろしている。

「え、あ、いや、そのっ……!」

 まさか人がいるから声を掛けられなかったなんて言えない。
 わたわたと両手を振る十に藤はますます首を傾げたが、「まあいいや」とあっけらかんとした声で話を片づけた。

「素敵に挙動不審。もしかして、あとつけてた?」
「そ、そういうわけじゃなくて! 藤こそ、あの、どうしたの、一人で」
「んー、なぁんか視線を感じたから。バンちゃんっぽいなーと思ったら大あたり」
「なにその野生の勘!?」

 十の反応に笑い声を転ばせる藤は、すっかり馴染んでしまったマイペースさ加減だ。
 そしてにんまりと目を細めるチェシャ猫の笑みは、あいかわらずどこまでも不穏だった。自分がネズミになったような気分になる。

「で、何かご用ですか? 万里君」
「あ……いや、その……えっと、藤、今日ヒマ?」
「ん? 用事はないけど」
「じゃあ、あの……よかったら、うち、こない?」

 目を丸くして、藤が瞬きを繰り返す。
 長いまつげが揺れる。音がしそうだと思った十に、彼女は目をまん丸にした表情のままサムズアップしてみせた。

「いきなりおうちデート!」
「ちがっ!」
「うぬう、第一印象って大事だよね。ご家族にぜひとも手土産を持参せねば。何か好きなものとかある?」
「あ、えーと、姉さんは和菓子……ってそうじゃなくて!」
「よっし、デパ地下よってこー」
「あああああ……」

 十は頭を抱えた。なし崩しにご挨拶されそうな勢いだ。
 いや、姉のご機嫌はどっちにしても取らなければならないから、手土産自体に異論はない。ないのだがなんというか、とてつもなく何かを失敗した気がする。

「ほらほら行くよー、バンちゃん。スタンダップ!」

 軽やかにスカートの裾を翻し、藤は姉と真逆の性質の笑顔を見せた。

 

 

 

 宣言どおりに手土産を入手して、二人が事務所兼自宅にたどり着いた頃には、日が傾きかけていた。

「えっと、こっち。このビル」
「へー。きれいだね。明るい」
「……そう、だから落ち着かなくて……もっとどんよりじめじめしてていいと思うんだ……」
「うん、それでこそバンちゃんだ」

 しかりとばかりうなずいた藤は、看板の文字を眺めて首を傾げた。

「えーっと……『(呪)已己巳己じゅ いこみき 』? 独創的な名前だねえ」
「読めるの!?」
「読めるよー。四字熟語だもん」
「そ、そう、なんだ……?」

 あいまいに答えることしかできず、十は首の裏を掻いた。
 何しろ頭のできが悪いのは自覚している。一般常識だと言われたら立ち直れそうになかったので、ごまかすように扉を開けた。
 ビルの中に足を踏み入れて視線をめぐらせ、わあ、と藤が弾んだ声を上げた。
 夕焼けに近い色合いになった光が、いつもどおり照度過多に白い空間を染め上げている。興味深げに仕組み天井を見上げていた藤は、ふと思い出したように訊ねた。

「そういえば聞いてなかったけど、何の事務所?」
「え……えーっと、その……」
「うん」
「あの……呪い屋?」
「へー」
「……」
「あ、あの階段おもしろーい」
「って、ナチュラルに受け入れられた!?」

 思わず声を上げたとき、不機嫌な声がその場に割って入った。

「やかましい。騒ぐな愚弟」

 見上げるまでもない姉の言葉に、十は顔を覆って泣きたくなった。
 おかえりがわりに暴言なんて、せめて友達の前ではやってほしくなかった。
 だがしかし、藤はまったく怯んだ様子がない。いっそ能天気なくらいの笑顔で敬礼つきの挨拶を繰り出した。

「初めまして、藤汐里15歳です! 十くんに結婚を前提としたお付き合いを申し込んでふられたので、とりあえずオトモダチやってますー」
「増えてる! なんかさらっと嘘が増えてる!」
「あ、これお土産です。どうぞお納めください」

 濃紺の紙袋を受け取り、零はなんとも言えない顔で藤を見た。

「……物好きだな。欲しけりゃのしつけてくれてやるぞ」
「待って姉さん! なんで弟を片付けようとしてるの!?」
「どうでもいいからに決まってんだろ」
「…………」

 久々にぐっさりと刺さった。
 声もなく床に膝を落とした十を構ってくれるはずもなく、零は階下を顎で示した。

「折角だ。茶でも飲んでいけばいい」
「わ、うれしいなー。おてつだいしまーす」
「いらん。座ってろ」

 地下に向かう二人を、十は呆然と見送った。

(……な、なんか、仲良くなってる……?)

 驚かずにいられようか。あの姉が。顔見知りの警官に暴言を滝のようにぶつける姉が。依頼者にも仏頂面以外で対応することのないあの姉が。不思議としか言いようのない女の子を相手に、なごやかな対応をしているのだ。
 ちなみにこの「なごやか」は、あくまで当者比である。
 追い出されるよりよかったのかもと考え込んだ十は、これから真逆の意味で苦手な二人と同じテーブルにつかなければならないことに思い当たって、無言のまま頭を抱えた。