(……なんでこんなことになってるんだろう)

 十は広いロフトでレースをちまちまと編みながら、ちびちびと水を飲む女の子に目をやった。
 二人の目の前には、それなりに大きな〈呪〉が鎮座している。もっとも、この子には見えないだろうから、本当に面白いものなど何もないはずだ。
 退屈しているのかしていないのか、彼女の顔を見ても、十にはいまいちよくわからなかった。
 テーブルクロスは八割がた編み上がっていた。使い道はさておき、今週中には完成するだろう。
 編み図を確認しつつ、細い糸と細いカギ針で方眼を継ぎ足していく。
 規律と法則をもって細い糸を編み上げるという点では、レース編みは〈呪〉の編組とよく似ていた。元々は呪術の能力がさっぱり欠けていた息子に母が与えた訓練だったのだが、いまやただの趣味になりはてている。十にとっては唯一の特技だ。
 どうせなら料理でも掃除でも役に立つことを覚えりゃいいのにという姉の言葉を思い出してこっそり傷ついていると、小さな手が、レースの端っこのほうに、そっとふれた。

「めずらしい?」

 ぱっと手を離し、まそほは両手を後ろに隠した。
 いたずらを見つかったような反応に、思わず笑みがこぼれる。こうしてみると、普通の幼い女の子だ。

「大丈夫だよ、さわっても。あ、引っぱったらだめだけど」

 彼女はこっくりとうなずいたが、再び手を伸ばす様子はない。
 なんだか悪いことをしてしまったような気になって、糸の始末をしてカギ針を置いた。
 編みかけのテーブルクロスを床に広げ、模様が見えるように伸ばしてみる。のぞきこんだまそほが、ことりと首を傾げた。

「……とりさん?」
「うん」
「きれい」

 素直な賛辞に嬉しくなる。小さな頭を無性に撫でたくなったが、三門の言葉を思い出してどうにか耐えた。
 敬遠されていた子供時代、唯一相手をしてくれた飼育小屋のウサギを思い出す。もっとも、エサを持っていないときにはつれないものだったが。
 天井からは少し黄味を帯びてきた陽光が降りそそぎ、空気はたわんだように穏やかだ。――まあ、目の前の不穏な組成物は見ないことにしておくとして。
 この日当たりのよさは、十には居心地が悪くてしかたないものの、この小さな女の子にはとても似合っている気がする。
 はたして悪かったのは、平和だなあと思ってしまったことだったのか。
 ギッと軋んだ音が響き、十はあわてて〈呪〉に目を戻した。
 今まさにかけている最中の呪いの一部分が、干渉を受けて異様な赤さに染まっている。顔色を変えて、腰を浮かせた。肌を刺すような違和感がみるみるうちに膨らんでいく。

「やばっ……姉さん起こさないと、じゃなくてもしかして離れたほうがいい!? ど、どうしよう!」
「とお、おちついて」
「ちっちゃい子にたしなめられた! ……いや、そう、そうだよね。ごめん。落ち着かないと階段から落ちそうだ。うん、落ち着こう」

 まったく落ち着かずにうなずく。
 とりあえず彼女を避難させようと思い当たったとき、まそほがすっと立ち上がった。

「だいじょうぶ」

 言って、水のボトルを床に置く。
 まそほは迷いのないそぶりで、小さな手を、ふわりと〈呪〉に伸ばした。
 打たれたような思いで、十は声を飲む。

(え……まさか、見えて……!?)

 どこかねむたげな濃茶の瞳が、凝り固まっていく空間を捉えている。
 桜色の唇から、とつとつと幼い声がこぼれた。

「ひふみ」

 ――瞬間、波が立つように空気が震えた。

「よいむ」

 黒い霧がかかったようだった視野が、揺さぶられるように撓む。
 黒い絵の具を溶かした水に、さらに水を足したように。

「なな、や」

 現実感に欠けた響き。
 指先ひとつ動かせない。

「この」

 ふわりとした綿に、重石を落とすような手ごたえ。
 まるで、それは――
「と」

 最後の一音。
 いつのまにか羽音のようなざわめきが掻き消え、空間が明るさと静けさを取り戻す。
 硬直していた十は、少女が振り返るのを見て、ぎこちなく息を吐き出した。
 汗で濡れた背中がひどく冷たい。春の陽光がそこにそそいで、張り詰めていたものを溶かしていく。

「いま……いったい、何……」

 混乱しながら〈呪〉を見やり、十は思わず声を上げた。
 返呪を受けて赤く染まっていた部分が、焼けて灰になったように崩れている。

「うわあ! まずい、姉さん呼んでこなきゃ! 怒られる!」

 跳ねるように階段を駆け下り、十はあわてたまま、思い出したようにロフトを仰いだ。

「あ……えっと、まそほちゃん!」

 呼びかけに、少女がきょとんとした顔を覗かせた。

「ありがとう、助かった! でも危ないから離れてて!」

 こくりとうなずくのを確かめ、急いで姉の部屋に走る。ぴったりと閉ざされた扉を叩いて呼びかけると、間を置かず、姉が不機嫌な顔を見せた。

「ごめん姉さん、あの」
「……返されたか?」

 寝起きで据わった目に気圧され、十はうなずいた。

「うん……あ、でもなんか、なんとかなって」
「なんとかでわかるか阿呆」

 はたかれた後ろ頭を押さえながら、あわてて姉を追った。
 階段を上ったとたん、零が顔をしかめてつぶやく。

「……見事に浄化されてるな。アレか?」
「え、どれ?」
「お前の拾い物」
「ちっちゃい子を物扱いするのはどうなんですか! ……って、え……?」

 ロフトにたどりつき、十は困惑して視線をめぐらせた。
 そこには半壊した〈呪〉が残されているだけだ。桜色の女の子の姿は、どこにもない。
 〈呪〉の前にしゃがみこみ、零が息を吐いた。

「おーおー。見事に喰われてんな。クソ面白くもねぇ」
「も、もしかして、すごくヤバかった?」
「二連まできたら自壊するようにはしてる。……対返を逆にたどってきてやがるな。同業者か」

 予想外のつぶやきに、十はぎょっとして姉を見た。
 拝み屋ならともかく、ものすごく不穏な相手だ。姿を消したまそほのことが余計に心配になる。

「ど、どうしよう、あの子、まさかさらわれたりとか……!」
「それはない。ほっとけ、帰ったんだろ」
「本当? 大丈夫?」
「ああ」
「そ、そっか……なら、いいんだけど」

 壊れかけて用を成さなくなった〈呪〉を解析しながら、零が投げやりに答える。
 妙な確信のある言葉に安心して、十は明るすぎる天井を見上げた。
 なんとも不思議な女の子だった。まるで夢でも見ていたような気分になる。

(もしかして、本当に幽霊だったとか……いや、でも重かったし。温度もあったし、足もあったし……)

 変わった子ではあったのだが、同じくらい、とても普通の子供に見えたのだ。
 しんみりしていると、零がついでのような口調で言った。

「十。あまりあれに関わるなよ」
「え?」
「おおかた失せ物探しだろうが、どっちにしてもあれは面倒だ。分が悪い」

 それきり口を閉ざした零は、渋い表情で呪をほどいていく。
 問いかけを拒む背中を、十は困惑して見つめた。