意識のない人間は、子供であっても相当な重量があるらしい。
背負った女の子の重さにそんな実感を覚え、十はふらふらになりながら事務所にたどりついた。
「ね、姉さん、助け――」
「死にさらせこのミジンコ野郎ッ!!」
白い扉を開けたとたん、罵声とともに何かが飛んできた。
ひっと悲鳴を飲み込んだ十の顔すれすれを通り過ぎた何かは、地面に落ちて派手な音をたてる。
十の肩を掴み、三門が張りつめた声で言った。
「危ない、外に出ろ!」
「は、は、はいっ!」
紙一重で閉められた扉に、何か重いものがぶつかる音がした。
無惨な姿で地面に散らばるランプをぞっとする思いで見つめ、十は真っ青になって三門を見上げる。
「み……三門さん、今度はいったい何をやったんですか……!」
「いや、真面目な話をしていただけなんだが……どこか逆鱗に触れたらしい」
真剣そのものに返され、十はがっくりとうなだれた。
ここまでくると、この警官がまだぴんぴんしているのが心底不思議だ。まだ一月も経っていないのに零が噴火することすでにして三回。呪いのひとつもかけられていそうな勢いだというのに、いつも通りの平静さで毎日顔を見せるこの警官の周辺事情は、一体どうなっているのだろう。
「姉さんをあそこまで怒らせられるの、三門さんくらいですよ……。僕の身にもなってください」
「すまん。次回に生かすよう努力する」
「いや、来ないって選択肢はないんですか!」
「そう言われても、仕事だからな」
呪い屋に来ることのどの辺りが仕事なのかさっぱりわからない。実のところ、食事処か何かと勘違いしているのかと思っていたのだが。
十はあきらめ混じりにため息を吐いた。
そこでようやく彼が子供を負ぶっていることに気づいたのか、三門がちらりと眉をひそめた。
「……誘拐か?」
「なんでそっちの方向に! 違いますよ!」
「違うならいいが、昨今は保護者も神経質になっているからな。異性への対応は気をつけた方が無難だぞ」
「い、一番言われたくない人に言われた……!」
うっかり口が滑った。
ほう、と目を眇める三門に気づいた時には、もはや出てしまった本音を回収することはかなわない。
空笑いでじりじりと後ずさり、十は事務所の扉に手をかけた。
「そそ、それじゃ、あの、中の片づけがあるので本日はこの辺りで!」
あわてて扉の中に逃げ込んだが、危険が虎から狼に変わっただけである。
予想外にも静まり返っていた背後を、十はおそるおそる振り返る。
ひっくり返ったソファーの前で、姉が鬼気を立ち上らせていた。
「た、ただいま帰りました……」
「……ああ」
低い返事にすくみ上がりそうになる。何があったのかなどと、とても聞ける雰囲気ではない。
一月ほど前にばっさりと切り落とされた黒髪は、もう背にかかる程度に伸びていた。古来より呪いと女の髪には深いつながりがある。稼業が何かの影響を与えているのだろう。
怯える十に深々と息を吐いて、零は乱れた髪を掻き上げた。
立ちすくむ十を見やり、ふと眉をひそめる。
「……何拾って来てる。人間か?」
「え……」
十が表情を凍りつかせる。
ひっかき傷にも似た不穏な空気に、零はますます眉間に皺を寄せ、ため息混じりにぐしゃぐしゃと髪を掻き回した。
「相変わらずか。お前、こっちで事を起こすなよ。面倒はごめんだ」
「……姉さん、この子……」
「安心しろ、そっちじゃない。人間かどうかはあやしいがな」
「あ……。そう、なんだ」
十が強ばっていた方から力を抜く。
うんざりした様子の零は、目を眇めるようにして少女を眺めたかと思うと、やがて興味をなくしたように視線を外した。
「……疲れた。寝る」
「あ、うん。片づけしておこうか?」
「いい。あれ見張ってろ。何かあったら起こせ」
零が親指でロフトの上を示す。そこには先日編みあげたばかりの〈呪〉がある。
よろよろと地下に向かう姉に首をひねりながら、十もその後に続いた。
地下は2LDKのマンションのようなレイアウトになっていて、リビングにキッチンに風呂場に姉の私室などが揃っている。ちなみに十が間借りしている部屋は、問答無用で最上階の素晴らしく日当たりのいい「鳥小屋」だ。間違いなくいやがらせだと十は確信している。
リビングのイスに少女を下ろして、十はようやく息を吐いた。
冷蔵庫からミネラルウォーターのペットボトルを取り出し、落としてしまった小さなボトルを軽く洗って水をいっぱいに注ぐ。
なんだか一仕事やりとげたようなほっとした気分になりながら振り返ると、どんぐりまなこと目があった。
「うわあ!? ってびっくりした、気がついたんだ!?」
ソファにきちんと座った女の子は、こっくりとうなずいた。
「みずのにおい」
「え? ……水って匂いある?」
「うん」
どくどく鳴る胸を押さえて、十はペットボトルを手に彼女に近づく。
気配が薄いというのか、幽霊みたいな女の子だ。心臓に悪い。
水で満たしたペットボトルを差し出すと、小さな両手が危なっかしく受け取った。
「ありがとう」
「いや、あの、ほんとにごめん……」
小さくなって謝ったが、少女は無反応でキャップを回した。
よっぽど喉が乾いていたのかと思いきや、猫が水をなめるようなちまちました飲み方だった。なんだかほほえましく見えて、ガチガチになっていた十の肩から力が抜ける。
対面に腰を下ろし、十はぼんやりと彼女を眺めた。
しばらく沈黙が落ちて、ふと、気づく。
(あれ? もしかして、これって気まずい?)
誘拐かという三門の問いかけを思い出し、十は挙動不審になって視線をさまよわせた。
よくよく考えてみれば、彼女から見ると、意識のないうちに運ばれて見知らぬ場所に連れ込まれているわけで。
よく考えなくても、ものすごくまずい気がする。
「え、えっと! 体調、大丈夫?」
「うん」
「あの、いきなり倒れたからびっくりして、うち連れて来ちゃったん、だけど……あの」
口にすればするほどまずい気がする。たとえ人間ではなさそうだと薄々察していても、悪いものではなさそうだからだ。
揃えた両膝に手を突いてうろたえる十に、少女は不思議そうな目を向けてきた。
「えーと、あの、僕は万里十といいます。あやしくないです。いま奥で寝てるんだけど姉さんもいて、その人は零っていうんだけど」
「とお?」
「あ、うん。数字の十で、十とお」
少女はこっくりとうなずく。
そのまま再び沈黙になって、十はあわててたずねた。
「あの、君は?」
「まそほ」
「……えーと」
姓だろうか。名だろうか。
いや、多分下の名前なんだろうが。そう呼んでいいものだろうか。
「あの、どこかに行くとこだったの、かな。駅くらいなら案内できるけど……」
ふるふると首を振られて、本格的に途方にくれた。
帰る気配がさっぱりない。もしかして、お茶菓子でも待たれているのだろうか。
連れてきておいて帰れと言い出せるはずもなく、十は冷や汗を掻きながら自分の膝頭を凝視した。
とはいえ、姉の命令もある。呪をほったらかしにしておくのは危険だ。いつまでもここで、膝を付き合わせているわけにもいかない。
意を決して顔を上げた。
「あの、僕、今からやらなきゃいけないことがあるんだけど」
「うん」
どんぐり眼がこちらを見る。
しばらくまんじりともせずに見つめ合い、十はがっくりと肩を落とした。
「……み……、……見てく……?」
「うん」