柔らかな初春の日光を弾く呪糸が、ぼんやりと自ら発光し始める。
 沈黙の中を、張りつめるような緊迫感が支配した。
 呪詛は一般的に、その掛け始めが大きな山場だ。零の黒目がちな瞳が鋭く〈呪〉を見据える。
 やがて、〈呪〉の一部分が赤味を帯び始めた。

「は! 一応結界は買ってたか。上等!」

 獰猛な笑みに染まる声は、どこか楽しんでいるようでもあり忌々しげでもあった。
 零の細い指が〈呪〉に触れる。再編成と組み替えを同時進行させているのだろう。撫でるように動く手が目の追いつかないような速度で呪を編み加えていく。
 空気が肌を指すように尖っている。緊張に、十はぎこちなく息を呑んだ。
 一触即発だ。これだけの呪を返されてしまえば、呪者の命に関わる。
 邪魔にならないよう気配を殺して見つめていると、零がぽつりとつぶやいた。

「ああ、そうだ。人手があったな」
「へ」
「十。そこに小刀がある」

 あわてて視線を落とすと、真鍮のトレイの隅に飾り刀を見つけた。
 零が呪を組み替えながら命じた。

「髪切れ。結ってるところから五センチ上ぐらいでいい」
「え!? で、でも」
「ぐだぐだ言うな、やれ。イヤならお前に流すぞ」
「……」

 ひどい、あんまりだ。耳に入れて欲しいそんな苦情は山ほどあったが、聞き届けてもらえるはずはない。そんな暇がないことも確かなので、十は泣く泣く小刀を手に取った。
 その間も、零は次々と崩壊していく呪を接いでは増やしていく。
 ごめん、と余分だと思いつつ一声謝って、十は姉の長い髪を握った。
 手が震える。
 すでに引け腰になりながら刃を当て、目を閉じそうなくらい眇めて、髪を切り落とす。
 ざくりと嫌な手応えを残し、零の黒髪が不揃いに広がった。

「三連目のへいちゅう拾壱番を繋げ」
「へ?」

 怒鳴り声を飲み込むような間があった。

「……弱ってるところはわかるな。そのまま手を突っ込め」

 気温が、何度か下がったような気がする。
 言葉を重ねると発火しそうな雰囲気に、十は黙って姉の言葉に従った。

「左の奥から三個目の上。――そこだ、止まれ。そのまま垂直に下げろ――よし。動くなよ」

 十の方を見もせず指示を出していた零が、強い声で十の動きを止めた。
 ぴたりと腕を制止させたところへ、呪糸が素早く動いて髪の束を構成の要所に絡め取る。
 口角を持ち上げた零が、陰惨に喉を鳴らした。

「さあ、食い尽くせ……逃がすつもりなんざねぇぞ」

 灼き切れそうな赤に染まっていた呪糸が、正常な色を取り戻す。
 辺りを覆っていた強い悪寒が次第に薄らいでいく。
 やがて、空間が元の穏やかさを取り戻した頃、零がパチンと手を叩いて仕事の終わりを告げた。

「よし」

 緊張から開放され、十はへなへなとその場にしゃがみこんだ。

「びっくりした……対返呪、わざと入れなかったんだ……?」
「そう。対象捕まえるのにかなり骨折ったからな。一発で決めたかったんだよ」
「どんな相手?」
「詐欺師。油断するとすぐ行方くらますんで、占いより興信所の方が役に立つ。クソ高かったけどな。請求書が忌々しい」

 ざっくりと切られた髪を頓着せず、零は無造作に頭を掻く。
 無惨なその髪になんだかがっくり来ているのは、切ってしまった十だけらしい。
 返された呪いが凶悪になるのはよく知られた話だが、基本的に万里の流派は返呪を受けるとその力を利用して呪そのものを昇華させる仕組みを入れる。危険を冒してまで確実に仕留めようとしたということは、相当の金と代償を詰まれたのだろう。

「で? お前は何か言うことがあんだろ」

 眠気混じりの問いかけに、十はきょとんと目を丸くした。
 零が嫌な顔をする。

「お前、でかい図体でその顔はどうなんだ……」
「言うことって、えーと……あ!」

 思わず手を叩き、十は姿勢を正して勢いよく頭を下げた。

「ぼ、僕の部屋は一番暗くて狭い部屋でお願いしたいです! 切実に!」

 零が沈黙する。
 そろそろと目線を上げた十が見たものは、姉のめずらしい、苦笑じみた顔だった。

「……まったく、でかくなったのは図体だけか。にょきにょき無駄に伸びやがって」
「婆ちゃんにもかわいくなくなったって不評なんだけど……」
「あの婆の話はいい。しかし腹減ったな……お前、料理は?」
「め、目玉焼きっぽいものなら」
「目玉焼きですらモドキかよ。役に立たねぇなぁ」

 ぐしゃぐしゃと髪を掻き回されて、十はうなだれた。
 ――これはきっと、刷り込みだろう。
 遠慮のないその手は、それでもどこか、優しいものに思えたのだ。
 あわてて首を振ったとき、下から張りのある声が飛んできた。「おい、零! いるんだろう、出てこい!」
「……うげ」

 いかにも嫌そうな零の顔に、十は首を傾げた。
 これはあれだ。母を相手にしていたときと同じ種類の姉の顔だ。

「また面倒なのが来やがった……どうなってんだよ今日は。厄日か」
「誰?」
「警官」

 そっけない返答に驚いた。姉の嫌いなものの五指に入る相手だ。
 零は気怠げに身を乗り出して、遠慮のないため息を吐いた。

「なんだよミカちゃん。何の用」
「ミカちゃんはやめろ。お前、その髪……また何か妙なことをやってるのか!? 犯罪者の相手は警察に任せろとあれほど言っただろう。被害者をカモにするな!」
「じゃあ捕まえろよさっさとよー。都外逃げられたら手も足も出ねぇくせによー」
「馬鹿にするな、少しは連携が取れ始めたところだ!」
「少しかよ」

 十がそろりと下を見下ろしてみると、そこにいたのは予想外に、いかにもエリート然とした青年だった。
 仕立ての良さそうな細身のスーツに、フレームのない眼鏡。細面でなかなかの色男だ。
 姉のことを名前で呼んでいるものの、恋人じゃないのかといった疑問は抱かない。「万里」を名乗るのが嫌いな姉は、どうせ彼に名前しか教えていないのだろう。
 顔をのぞかせた十に、警官は眉をひそめてみせた。

「何だ、新人か?」
「え、僕? ちが……」
「まだ君は若いだろう。悪いことは言わない、もっと真っ当な職を探すんだ。何なら、俺が働き口を紹介してもいい」

 ますます面倒くさそうな顔になった零が、頬に落ちかかるざんばら髪を掻き上げた。

「阿呆。弟だ」
「弟? 似ていないな」
「父親が違うからな」
「その嘘は悪趣味すぎると思います姉さん!」

 十は思わず声を上げた。
 ぎょっとしたようだった警官が、思い切り顔をしかめて零を睨む。

「……言っていい冗談と悪い冗談があるだろう!」
「頼むから息をするように嘘をつかないでよ……! 母さんが泣くよ!」
「泣くようなかわいいタマかよ」

 やはりさきほどの優しさは、記憶が見せた幻想に違いない。
 無造作に頭を掻きながら欠伸をする姉に、十は思わず頭を抱えた。

「あー腹減った……。十、来るとき商店街あったろ。サバとミソ買ってきな」

 それに反応したのは、警官の方が先だった。

「ふむ、今日の献立はサバの味噌煮か。ぜひご相伴に預かりたいな」
「帰れ。でなきゃ死ね」

 心底いやそうな顔で零が切り捨てる。
 遠慮のない悪態におののきながら、十は思わず唸った。

「ど、度胸ありますね、ミカさん……!」
「ミカではなく、三門みかどだ。猛獣の檻の中で食べようが、旨いものは旨いからな」
「その猛獣の製作物だろうがボケ。帰れ。貴様に食わせるサバはない」
「材料費と豆大福で手を打たないか?」

 しばしの沈黙。
 やがて、零は盛大な舌打ちをした。

「十。三人分買ってこい」
「あ、うん。わかった」

 案外仲がいいのだと意外に思ったが、口にすればロフトから蹴落とされかねない。
 十はおとなしくうなずいて下に降り、ザイル並みの神経の持ち主に一応の挨拶をした。

「弟の十です。ええっと、いつも姉がお世話に――」
「なった覚えはねぇ」
「ごめんなさい社交辞令です!」

 喉元に刃を突きつけるような殺気が降ってきて、慌てて弁解する。
 三門が同情めいた目を向けた。

「……君も苦労しそうだな」

 そう言う本人がなんとなく、苦労に一役買いそうに思えたのは気のせいだろうか。
 それが正しい予感であったことを十が知るのは、そう遠くない未来のことである。