【 已己巳己(いこみき) 】
己と已と巳の字形が似ているところから、互いに似ている物を喩えていう言葉。紛らわしいことの喩え。

 扉の向こう側は、呪いが商われているとはとても思えないほどの光に満ちていた。

 三階ほどの高さのビルはその半分以上が吹き抜けで、ガラスと鏡が複雑に絡み合う天井から床まで日光が届いている。背面も左右も他のビルが立っているにもかかわらず、不思議な明るさが、白を基調とした空間を支配していた。
 元はギャラリーだったそうで、内装も風変わりだ。壁面から飛び出たような階段の途上にはロフトのような広いスペースが二つ。天井を仰げば見える、壁で囲まれた小部屋は、まるで大樹に拵えられた鳥小屋のようだった。

(お……落ち着かない……!)

 万里 十ばんり とおは、絶望的な気分で内心に叫んだ。
 古き良き日本家屋の湿った暗がりが既に恋しい。まぶしすぎるにもほどがある。もっとこう、どんよりひっそり慎ましやかにやってくれてもいいはずだ。何しろここで行われていることは、どう転んでも明るくないし健康的でもない。

(なんだろう、この後ろめたさ。溶ける。明るすぎて溶ける。どこかに隠れたい……!)

 よろめきながら、十は開けたばかりの扉を確かめた。
 (呪)已己巳己――かっこじゅ、いこみき、と読むらしい。
 カーキグレイのプリントは、確かにここが姉の城だと主張していた。
 漢字ばかりで一見すると中国語のようだが、由緒正しき四字熟語だ。しかし呪い屋だとはいえ、なぜ「かっこじゅ」なのかわからない。名前に至っては普通読めない。おまけに漢字が四種あるように見せかけて三つしかない。祖母は「性悪がよく出ている」と鼻で笑っていたが、十が同じことを言えば姉に蹴倒されるのは必至だ。
 そんなことを思い出して、ふと、得心が行く。

「……あ、そうか。これもしかして、天邪鬼の結果……」

 つぶやきの途中で何かが目の前に降ってきた。
 虫の知らせで、十はあわててのけぞる。前髪を掠め、ゴッと鈍い音を立てて床に転がったのは、赭色のくすんだ石だった。
 赤ん坊の頭ほどもある真ん丸い凶器に、音を立てて血の気が引いていく。

「危な……! 死ぬ! 当たったら死ぬ! ちょっと姉さんー!?」
「こっちだ。上がってきな」

 見上げれば、ロフトの上にひらひらと振られる手が見えた。
 十は落ちてきた石を抱えて奇妙な階段を駆け上がり、姉に向かって、全力で抗議を叫んだ。

「シャレにならないから! 本当にシャレにならない! 久しぶりに会う弟の頭かち割る気ですか!」
「割れてないから幸運だな。喜べ、お前の頭の外側は今なお無事だ」
「外だけ!?」
「中身の苦情は親に言え」

 姉は振り返りもせず切り捨てる。十は声もなく床に膝を突いた。
 目の前には、大掛かりな〈呪〉が据えられていた。
 蜘蛛の巣がいくつも繋がれ、重ねられたような幾何学系。要所要所に絡められる文字と媒介。姉――万里 零ばんり れいは呪術士としては若年に入るが、腕は折り紙付きだ。呪術士というのは性格が悪ければ悪いほど上達が早い、とのたまっていたのは、他でもない本人だった。
 零は十の手からひょいと丸い石を取り上げ、天井から降り注ぐ陽光にかざして、目を眇めた。

「……さすがにちょっと歪んだろうな。まあ、欠けなかっただけマシか」
「この高さから落としたら凶器だと思いますそれ」
「妙なひとりごとが聞こえて、つい手に力が入ったんだが」
「申し訳ありませんでした!」

 勢いよく土下座した十に鼻を鳴らし、零は紅珠を〈呪〉に差し出した。
 細い糸が音もなく、生き物のようにそれを絡めとり、あるべき場所へと収めていく。一瞬だけいくつかの赤い文字が浮かんだかと思うと、溶けるように消えた。
 全貌を眺め、十は感嘆の息を吐いた。
 大胆で緻密なその細工は、内容をきちんと読み取ることは出来ない十でも圧倒される。
 実家では禍々しいばかりだったそれも、こうして光を浴びていると、まるで何かの芸術作品のように見えた。
 零は両膝を床についたまま、大がかりな呪を丹念に編み上げていく。呪糸を紡ぐ腕はたおやかで柔らかな曲線を描き、きめ細やかな肌は象牙のようだ。長い黒髪は朱の組紐でぞんざいに束ねられているが、床に落ちて波を描く髪は艶やかに光を弾いた。

「……姉さん。僕は今、お日様の下で呪いなんてかけていいのかを問いたい気分です」
「明るいほうが作業効率がいいに決まってんだろ」
「いくらなんでも明るすぎると……! もうちょっと世間に遠慮しつつやってほしい!」
「うるせぇよ根暗」
「ひど! 違うよ! 暗くて狭いとこが好きなだけだ!」
「胸張って言うことか根暗」
「……あんまり悲しくて溶けそうです」
「溶けろ溶けろ。いっそ灰になれ。火葬する手間が省ける」

 容赦ない連追撃に、十は胸のあたりを押さえて前屈みになった。
 あまりにも変わらないやりとりにちょっと涙が出そうになる。相変わらず姉は、綺麗な容姿と残念な性格の持ち主でいるようだ。

「もう少しくらい、暖かく迎えてもらえると思ってた僕が馬鹿でした……」
「そうだな。うるさいからそろそろ黙れ。気が散る」
「本当に仕打ちに容赦がない!」
「黙らせて欲しいか?」
「黙ります!」

 直立不動で回答すると、鼻で笑われた。
 否応なしに昔のことを思い出す。ちょろちょろとついて回る弟を、彼女は面倒くさそうに罠に引っかけてはいじめて遊んでいたのだ。――我ながら、よくそんな鬼のような相手を慕っていたものだと思う。子供の思考はわからない。
 やがて零が諸手を払って、けだるげに腰を上げた。
 光を弾く蜘蛛の巣のオブジェをためつすがめつ眺め、低い声で、一声放つ。

「――よし。行け」

 応えるように、鈴に似た音がどこからか響いた。