08

香木

 シファが寮に戻ると、封書が二通届いていた。
 一つは義母からの手紙だ。彼女は定期的に、日常の他愛ないことや継子に対する心配ごとなどを綴って送ってくる。シファはもう一通を無造作に開き、その報告書に目を通した。
 数枚の紙に神経質な字で書かれた内容は、自分の期待に適うだけのものだ。

(ケリエ・サイセン……エネルギー管理局の検査研究部主任技術員か)

 まだ年若い、天才と呼ばれる種類の科学者だ。おまけに現役ときている。完全に自分の要望と合致する関係者の情報に、シファはわずかに口角を持ち上げた。――これで最後の一枚が小言で埋め尽くされていなければ、言うことはないのだが。
 決して無茶はするなと念を押しに押しているが、文面では首肯も取れずさぞもどかしかったことだろう。
 詳細な情報を頭に入れると、紙屑と一緒に細かく切り刻み、混ぜ合わせて屑篭に捨てた。
 一連の作業を終えてベッドに倒れこみ、シファは深々と息を吐き出す。
 父に対する復讐心は、幼いと嘲られても仕方のないものだ。それでもそれが今の自分を突き動かしている。ならば、その後はどうするのだろう。路頭に迷うような家ではないことを念頭に入れている自分は、いっそ滑稽だ。
 考えるのをやめて目を瞑ると、否定したはずの言葉がよみがえってきた。

 ――シファは、父さんが好きなんだな。

 馬鹿馬鹿しい。口の中でそうつぶやいて、シファは天井を見上げる。
 復讐は死者の為ではなく、生きている者の身勝手な理論だ。母はこんな娘を知れば嘆くだろう。そう解ってはいても、頭で割り切って処理できるものならばとうに諦めている。耳の奥で鳴る音がまるで責め立てるようで、意味もないのに耳を塞いだ。
 きっと、病床の母の横で帰宅を願っていた時間だけ、自分は父を憎んでいるのだ。母が見せた寂しげな笑顔を忘れることなど出来ない。泣きもしなかった父への怒りを、忘れることなど出来ない。
 そう必死に言い聞かせていたシファは、部屋の前で誰かが立ち尽くしている事に、しばらく気付かなかった。
 同室の少女が戻ったにしては、中に入る気配がない。怪訝に思いながらベッドを降りたとき、ようやく、ほとほとと扉が叩かれた。
 扉を開けると、蒼白な顔をした従妹が立ち尽くしていた。この寒さだと言うのに部屋着のままで、上着さえ掛けていない。

「リーホア?……どうしたの?」

 彼女は唇を震わせ、目を伏せて首を振った。そのとき散ったように見えたものが、見慣れないせいですぐにそれと解らなかった。

「シファ……お母様が……!」

 押し殺した悲鳴に目をみはる。
 時計の針が、かちりと音を立てて重なった。




      *


 その日、薄く晴れた空にはわずかな雲が浮かぶだけで、何の変哲のない絵のようだった。
 間近に控えた建国祭にかからないために、葬儀は遺体のないまま、血縁の死を実感する間もなく執り行われた。
 急なこととはいえ、曲がりなりにも帝国の有力者の妹である。葬儀には随分な数の人間が訪れていたが、実際に面識のある者はわずかだろう。苦い思いを噛み締めながら御堂に足を踏み入れると、焚いた香木の独特な匂いが纏わりついてきて、余計に気を滅入らせた。
 目立たないよう末席に腰を落ち着け、シファは視線を伏せる。
 レックニアに潜入していた諜報士官全てが殺されたという報せは、夜中に息を潜めて駆け込んできた。その情報は夜が明けるのを待たず帝国の上層部を震撼させたことだろう。それは恐れではない。激しい怒りだ。野蛮な支配者に滅亡を与えよと叫ぶ急進派の老将の顔が想像できてしまい、彼女は眉根を寄せた。
 叔母が死んだことへの悲しみや怒りよりも、昨晩からずっと、居心地の悪さが胸を占めている。
 僧官の鳴らす鈴の澄んだ音と、時折思い出したように響くすすり泣きはどこかひどく浮いていて、現実感がない。葬儀とはこんなものだっただろうか。母の時には幼かったので、記憶はひどく曖昧だ。
 喉に絡まるような香の中、リーホアはうつむくことなく顔を上げていた。泣き腫らした赤い目はひどく痛々しいが、どんな言葉をかけられても、どんなことを思い出しても、彼女は決して顔を伏せないだろう。

 ――もう大丈夫。だから、お願い、明日は声を掛けないでね、シファ。

 昨夜、落ち着くまで泣いた後、彼女はそう言って笑った。泣いてしまうから、と。
 諜報員は通常、親族には情報部の職員としてのみ知られている。母親であり妻である女性が家族を残して死んだ――彼女のその選択を、好ましく思う年寄りはまずいない。
 母が批難されるのが嫌なのだろう。悲しみを押し殺してまで凛とあろうとする従妹の姿を見て、シファは父親の背に目を移した。
 自分はどうだろう。彼が死んだとき、悲しいと思えるのだろうか。
 嫌な想像だと思い、わずかに顔をしかめる。
 広い背中は微動だにしない。予想通りのその態度に、諦めの入り混じったため息を落としたとき、父が不意に首を垂れた。

 心臓が不自然に鳴った。持ち上げられた彼の手は、目頭を押さえているのだろうか。
 まさか、と否定する思いが浮かび上がり、同時に、どうして否定しなければならないのかと軽い混乱を引き起こす。彼にとっては血を分けた妹だ。悲しくないはずはなく、そうあるべきだと思っていたはずだというのに。

 けれど、泣かなかったではないか――母の時には。

 急き立てられるように視線を剥がしたシファは、そんな自分に戸惑いを覚えた。
 違う、と口の中でつぶやく。
 何が違うのかを、彼女は決して理解しようとはしなかった。

 

 

「大丈夫ですか?」

 キーンの気遣わしげな声に、そんなにひどい顔をしているのかと苦く思った。

「私はね」

 そうは見えないと言いたいのだろう。いたわりの見える視線を受け流して、シファは僧官から外套を受け取った。
 御堂を出ると、空には雲が増えていた。冷えた空気をゆっくりと吸い込む。絡みつくような香木の匂いはまるで未練のようだ。後悔よりは浅く、歩く道程にやがて薄れる。

「報告書、昨日届いたわ。お疲れ様」
「はい」
「時期的にはぎりぎりね。一日遅れていたら、それどころではなかったでしょうし」
「……レンダリーの労働者を、お拾いになったと聞きました」

 少し遅れて歩く青年が、前触れもなく話を振った。シファは薄く口角を持ち上げる。

「ええ。喧嘩で負けたところに出くわしてね。勤めていた工場を首になったんだそうよ」
「わざわざ職までお世話なさったとか」
「お祖父様は、ねだられるのを喜ぶ人だから。知っているでしょう?」

 キーンが疲れたような顔で、首を振った。

「……あの男が有力な情報を握っているとは思えません。何か、お考えがあってのことだとは思いますが……」
「木を隠すために森を作るのは無理でも、似たものが重なって見えたならそれなりに錯覚するわ。それを用意しただけよ」

 彼が表情を固くしたのを確かめ、シファはそれきり口をつぐんだ。
 彼女が本当に隠したい者は他にいる。それを理解したからこそ、彼は渋る様子を見せたのだ。誰に聞かれるとも知れないこの場所で、これ以上の説明は必要なかった。
 慎重を期すには、ユズリと似た境遇に置かれる囮が必要だった。髪の色や背格好の似た人間を探すのは骨だったが、後は簡単な話だ。適当な知人に預け、祖父の傘下の工場に就職の口を利く――そちらを隠さずにいるだけで、丁度よく話題になる。たった一日の誤差であれば、曖昧な情報の中に紛れるだろう。
 しかし、自分でも口にした通り、ぎりぎりだったとシファは思う。叔母の死後にそんな行動を取ったのでは目立ちすぎた。
 そしてふと、違和感を覚えるのだ。自分は本当に血縁の死という事実を理解しているのだろうか。この息苦しさは悲しみではなく、従妹や叔父に対する同情のようでしかないようにも思える。
 可哀想にというそれは、どこか他人事だ。
 父親のうなだれた姿が脳裏に浮かび、彼女は思わず唇を結んだ。

「……シファ様?」
「何でもないわ。……今回の事件、司法局も動くのでしょう。あなたは行くの?」
「はい。明日、クェルドに発ちます」

 通常、諜報員は互いの存在を知らない。連絡には情報を混乱させるために「断ち切り」と呼ばれる連絡員を用いるため、一人の正体が判明したとしても、芋づる式に全員が捕らえられるような事態はまず起こらないのだ。
 どこから諜報員の身元が知れたかが不明である現在の状況では、本国に潜入することは危険だろう。恐らく帝国は、今後しばらく、回りくどい情報収集を余儀なくされる。
 ヘルドとレックニアの間には中立国を解した民間の商業ルートがある。いくつか点在する商業都市が独立を保っているのはそのためだ。ヘルドには市場が、レックニアの、主に植民地には物資が必要であることを考えれば、自然な流れであるとも言えた。

「大丈夫だとは思うけど、気をつけて」
「はい。……それよりも、どうかくれぐれも御身をお大事に。私がお側を離れている間、決して無茶はしないとお約束ください」

 あまりに真剣に繰り返すので、シファは大人しく頷いた。
 事実、無茶をする気はない。
 五日後に控えた建国祭は、人を国外に逃がすにはまたとない好機だ。人が多く集まり、そして離れていく。この数日で手配を整える事が出来れば、託された少年をその波に紛れさせたいと考えていた。だが、そのこと自体に直接的な危険が付きまとうことは、あまり考えられないだろう。

(……忙しくなりそうね)

 偽造旅券もその日までに仕上がるかどうか。彼を預ける相手も楽隊が挙がっているが、直接確かめることも必要だ。信頼できるという裏付けも。せっかく国外に逃がした被保護者を売り飛ばされたのではかなわない。
 しばらく門限を守ることは出来ないだろうと思い、シファは視線を上げる。
 薄い空は、顔色を変えることもなかった。