07

赤い坂の上

 帝国中央図書館は、ありとあらゆる書物を収める帝国唯一の国立図書館である。アカデミーから近いこともあり、利用者には学生の姿もよく見られる。
 移動式階段の上で、シファ・エレニノフは眉間に皺を寄せていた。
 シファは基本的に表情が乏しい。だからこそ表情を作ろうとしていないのに、傍目に解るほど険しい顔をしていることは珍しかった。

「……定着するぜ?」
「何が?」
「皺」

 イェンが自分の眉間を叩くと、書籍から目を上げたシファが何とも言えない複雑な顔を見せた。差し出された紙袋から服や日用品が覗いているのを見て、シファは本を閉じる。

「……お疲れ様。助かったわ、自分で行くと目立ちすぎるから」
「ああそうかよ、お役に立てれば光栄の至りでございます。……ところでお前、服がいくらすると思ってるんだ?」

 投げやりじみた皮肉に、彼女は本を書架に戻しながら首を傾げた。

「わからないから適当に渡したんだけど、そんなに多かった?」
「……安物買うっつっただろ……いや、いい。言うな。何となく解った」

 安物のつもりで渡した金額は、どうやら予想を大きく外れていたらしい。これだから金持ちはと言わんばかりに、イェンが手を振る。

「で、そっちはどうだ」
「……さっぱりよ。さすがに、MEASの意味すら解らないとは思わなかったけど……」
「固有名詞なんじゃないか?」
「水道網は『蜘蛛の巣』でしょう。何らかの意味はあると思うのよ」

 階段を降りると、シファは思案げに呟いた。
 ヴィクトール・ケルグレイドが引き換えとした息子の保護が虚言でなかった以上、MEASの欠陥もまた真実である可能性が高くなった。逼迫した危険ではないならばなおさら、叩けば埃が出るはずだと踏んでいたのだが――収穫らしい収穫は皆無に等しかった。
 確かに、科学技術は門外不出の情報であることは疑うべくもない。万一レックニアがMEASの開発・運用に成功すれば、帝国の正当性は大きく揺らぐことになる。
 約五十年前に開発された新しいエネルギー生産システム。取り掛かりを探すには退職者を当たるほかないだろう。口を割らせるのは一苦労だろうが、それを可能とするだけの弱みを持つ人間も、必ずいるはずだ。

「……キーンからもそろそろ報告が来るでしょうし、まずはそれからね」
「あいつか」

 遠縁の男の名前を聞いて、イェンが苦味のある声で応じた。
 彼らの共通の知り合いであるガーディアンは、シファには個人的な忠誠心を、イェンには家を背負った敵愾心を抱いている。理由は本家と分家の複雑な関係だが、初対面で空気のごとく思い切り無視されたとなれば、良い印象を抱けというのは無理な話だろう。

「……お前が、裏で色々やってるのは知ってたが……ここまでだと本気で不穏当だな」
「何もしてないわよ。少なくとも今まではね」
「じゃあ、親父さんに喧嘩売る準備か?」
「そうね。早いところ大詰めに入れたならいいけど」
「……ご苦労なこった」

 イェンは呆れたように言って、その話題を打ち切った。
 MEASの危険性は下手をすれば帝国を破滅に導くものだが、上手く利用すれば、父親を蹴落とすことも不可能ではないかもしれない。目的の小ささに自嘲じみた思いも抱いたが、己の内に宿る復讐心は、手段となりうるものを手にした今、確実に延焼し始めていた。

「八方塞がりってわけでもないだろ。あいつは何も知らないのか?」

 思い出したようにイェンが訊ねた。ユズリの事だろう。

「……恐らくはね。どこまで本当かはわからないけれど」

 自分の聞く「音」についても、追われている内容についても、彼はわからないの一点張りだった。声にも表情にも変化が見られないので真偽の判断は難しい。それに、問い詰めるには自分にも負い目があった。
 父親の死を、彼女はまだ伝えていない。
 隠し通すことはできないし、そうするつもりもない。けれど、切り出すことが難しいのも事実だ。感傷的な思いに、わずかな苛立ちを混じらせてため息をつく。

(そういえば……一度も、聞かなかった)

 父親が、見知らぬ少女に何を頼んだのか。父親がどうしたのか、どこにいるのかさえ。
 薄情なものだと思い、人のことを言えない自分に気付いてため息をつく。
 光庭から見える外の風景は、いつのまにか赤味を含んでいた。




      *


 翡翠亭につく頃には、太陽は既に沈み始めていた。
 紙袋を提げて顔を覗かせると、暖かい湯気が空腹をくすぐる匂いを含んで迎える。駆け回るような様子に多少気後れしながら、シファは老婦人に声を掛けた。

「こんばんは、マリン。彼はいる?」
「さっきまで手伝ってもらってたけど、部屋じゃないかねぇ……あらまあ、わざわざ持ってらっしゃったのかね」

 紙袋の中の衣料品を見て、彼女はエプロンで拭いた手を頬に当てる。前にいた「客」の古着を使うつもりだったのだろう。

「よければそのまま使って。中に今回のお礼も入ってるから」
「おやまあ。でもねぇ……」
「馬鹿野郎、素直に貰っときゃいいんだ。客は客なんだからな!」

 軽快な音を立てて野菜を刻みながら、主人が厨房から怒鳴り声を飛ばす。夫人は苦笑したが、シファは素直に頷いて同意した。

「そういうこと。お礼じゃなくて費用ね。受け取ってもらえなかったら、私が気にするわ」
「はいはい。それじゃあ、せめてお夕飯くらい食べていっておくれよ」

 気安い言葉に頷き、彼女は用件を済ませようと階段を上っていく。店の奥に入ると、途端にざわめきが遠ざかる。どう切り出すかを考えながら隠し部屋の扉を開け、シファは呆然と立ち尽くした。
 見渡さずとも一望できる室内には、彼の影も形も見当たらない。

(まさか……!)

 心臓が冷えた。嫌な予感はすぐに具体的な想像になり、シファは慌てて食堂に駆け戻る。

「グルガ、マリン! 彼は外に出たの!?」
「あ? 部屋にいねぇのか」
「いないから聞いてる!」

 老人が顔をこわばらせたのを見て、シファは苛立たしげに扉を睨んだ。

「……たぶん外に出たのね。探してくるわ」
「ああ。すまねぇな」
「あなたが謝ることじゃないわ。もし戻ったら、部屋に閉じ込めておいて」

 責められるべきは当人だ。この際放っておいてしまおうかと投げやりな考えも浮かんだが、さすがにそうも行かない。
 街は沈みかけた夕日に染まっていた。燃えるような冷たい色に急かされるようにして、シファは視線を巡らせる。じきに仕事帰りの労働者が道を埋め尽くす時間帯だ。早く見つけなければ、厄介ごとになる。
 夕日を見ると、どこか現実感の薄い既視感が指先から染み込むように思えた。まるで何か忘れようとしていることを思い出させようとしているかのようだ。居心地が悪く、冷え始めた指先を握っても拭えない。
 水道橋に差し掛かったところで、ぴたりとやんだ耳の奥の「音」に、彼女は頭痛を覚えて足を止めた。捜し人はこちらに気付きもせず、ぼんやりと欄干にもたれている。

「……何をしているの?」

 咎める声にようやく気付き、ユズリが彼女を振り返った。特に表情を変えることもなく指差した先では、赤く燃える夕日が坂の向こうに半分沈んでいる。

「あれを見てる」
「そういう意味じゃないわ。どういうつもり? 人の話を全く聞いていないのね」
「……知り合いには会ってないが」

 不思議そうに返されたので、シファは引きつった笑みをもってそれに応えた。

「……そう、つまり一語一句省くことなく対象と目的と行動を明確に指示しなきゃいけないということなのね解ったわ。不特定多数の誰かにあなたを見られてはまずいから出歩くなという事実が大前提での言葉だったのよ解ったわね!」

 小声で一息に言いながらぐいぐいと両頬を引っ張ると、彼はいたたと顔をしかめた。どうやらこの朴念仁にも、一応の痛覚はあるらしい。

「……そうなのか」
「考えなくても、そうよ」
「そうか。わかった」

 素直とも思えるほどにあっさりと頷いたのだが、どうにも殊勝さが見えない。
 散々心配をかけさせておいて、これだ。なんて暢気なのだろう。痛むこめかみを押さえたシファは、彼がまた、視線を坂の向こうにやっているのに気付いた。
 煉瓦を敷き詰めた道は長く広く伸びて朱の色を染み込ませ、その上に人や馬車が黒い影を投げている。振り返れば青い城が空に尖塔を伸ばしていたが、彼は背後の光景には興味がないようだった。

「……そんなに夕日が好きなの?」
「いや」

 じゃあ見るなと言いたい。呆れるシファを気にした様子もなく、彼は小さくつぶやいた。

「エスト・エンドは、こことは風が違うと聞いた」
「……ああ……」

 それで、覚えておこうとしたのか。ため息のような声で頷いて、シファはほんのわずかな間、視線を逸らす。
 誰がそう言ったのかは、訊かずとも推測がついた。

「……聞かないのね、あの人のこと」

 淡白な口調を心がけて切り出すと、ユズリが振り返った。
 背中から当たる冷たい夕日が、表情に乏しい顔の輪郭を覚束なくさせる。わけもなくざわつく胸を押しやるように、シファは言った。

「亡くなったわ」

 彼は、じっとシファを見つめ返してきた。
 長い沈黙がそのまま怪訝さに変わった頃、ようやく、小さな声が落ちる。

「そうか」

 顔色一つ変えない彼の反応に、シファは自分のことを棚に上げて眉を吊り上げた。

「それだけなの? 随分――」

 放ってしまった言葉が、逆流したかのように喉を塞いだ。
 口を押さえた手が、わずかに震えた。無神経にも程がある。頭に上った血が引いてしまえば、残るのはどうしようもない罪悪感だけだ。
 謝らなければと、そう思うのに、同じ場所から出るはずの声が出てこない。

「……あの」
「シファは、父さんが好きなんだな」

 息苦しさに俯いたところだったので、何を言われたのかすぐには解らなかった。
 虚を突かれたまま顔を上げると、かえって不思議そうに見返される。
 ――今、彼は何と言った?

「父さんって」
「仲が悪いって聞いた。でも、そうじゃないんだな」

 自分の親子関係のことを差しているのだと理解して、シファははっきりと不快感を覚えた。とんでもない誤解だ。

「嫌いよ。ろくに口も聞かないくらい」
「そうか?」
「そうよ。どういう解釈をしたらそうなるの?……あなた、随分愛されて育ったんでしょうね」
「シファもそうだろう」
「……だから、どうしてそうなるの?」

 苛立ちと否定をこめて睨みつけると、ユズリはしばし考え込む仕草を見せた。

「こう……ばっとなって、ぐっとくるところとか」

 さっぱり意味が解らない。

「……私に解る言葉で話してほしいんだけど」
「だから、がっときてしんとなるところだ」
「お願いだからさっきのと具体的にどう違うのか説明して」

 こめかみを押さえて唸ると、彼はそのまましばらく沈黙した。
 自分でも解らないようなことを言っていたのかと、シファは目を眇める。どちらにしろ、その内容は彼女には受け入れがたいものだ。

「シファの父さんは、忙しいんだろう」
「それが何?」
「忙しいと、言いたい事が全部言えなくなるんだって聞いた。気持ちがちゃんと伝わらなくて、角を立てかけて――」

 ふと、語尾が不自然に途切れた。今度は何を言う気だと、何が何でも否定してやりたい気分でシファは彼の言葉を待ち構える。
 ユズリはしばらく眉根を寄せて黙っていたが、やがて、ぼそりとつぶやいた。

「舌を噛んだ」
「……は?」

 シファは呆気に取られて彼を凝視した。あれだけまじめな顔をしておいて、一体何をやっているのだろう。
 そのまま、一呼吸分の空白が流れた。
 たまらずに吹き出したシファは、慌てて口元に手をやる。それでも、隠しようもないほど肩が震えてしまった。

「……シファ」
「ご、ごめんなさい……あの、ちょっと、待っ……」

 一度始まってしまった衝動は、そう簡単に収まってはくれない。困りきったユズリの前で、シファは今にも漏れ出しそうな笑い声を必死に噛み殺す。

「……面白いのか?」

 彼が途方に暮れているように見えたのは、気のせいだろうか。
 痛み始めた腹筋を押さえながら、自分がこんな風に笑えることを、シファは久し振りに思い出していた。





 イーゲル・バシュタルトは疲労の影も見せずに車を降りた。エネルギー管理局と良く似た、白く荘厳な軍本部庁舎が、夜景に照らし出されて主を迎える。心なし空気が張りつめたのは、時期のためだけではないだろう。部下の敬礼を鷹揚に受けながら、彼は執務室までの長い道のりを歩いた。
 実に十日ぶりの帰庁だった。レックニアの大規模な作戦は、ほぼ疑いようのないところまで来ている。すべきことは雪崩のように彼の予定を覆い尽くしていた。
 エレニノフは従軍経験こそあるものの、指揮官としての経験が浅い。政治家としての才能は軍という特殊な組織には及ばなかった。確かに元首として、失態続きの軍を野放しにすることはできないだろう。だが、明らかに海軍を見限る彼の対応は、志気を低下させずにはいられない。
 月のない夜だった。帝都有数の景観を誇る執務室からは、まばらな街の灯りが遠く見えた。窓に映る、やや土気色をした顔を撫でる。痛みと皺の目立つようになった目元を押さえ、バシュタルトは皮肉とも自嘲ともとれぬ笑みを浮かべた。――年月は、確実に過ぎていた。
 この頃、よく昔のことを思い出す。
 襟を緩めないまま椅子を引いたところに、秘書官が緊張の面持ちで現れて、来客を告げた。

「予定にはないはずだが?」
「それが……」

 言いにくそうに出された名を聞き、バシュタルトは口角を上げた。――なるほど、悩むはずだ。すでにただの民間人でありながら、その名の意味する英雄性は、規則を押し通すには厄介なものがある。
 椅子に身を沈めたまま、彼は隻腕の客を迎えた。

「……わざわざ出向いてくるとは、どうした風の吹き回しだ?」
「そろそろくたばっちゃいねぇかと思ってな」

 鋭い視線に怯む影もなく、フリス・ニドは横柄に返した。その態度にはいささかの遠慮も敬意も、そして打算も存在しない。友と呼べる男の変わらぬ様子に、バシュタルトは似合いもしない苦笑を浮かべる。

「しかし、しばらく見ない間にずいぶん老けこんだじゃねえか。まずい酒ばかり飲んでるんだろう」
「誰に向かって言っている」

 ニドは「土産だ」とにやりと笑い、書類で埋まったデスクに瓶を置いた。その無骨な輪郭に、バシュタルトがわずかばかり目を細める。

「……そういえば、ニ十年ほど前だったか。私が入れたボトルが忽然と消えたことがあったのだが」
「ほお。ニ十年も前のことを良く覚えてるもんだ」
「隻腕の伊達男がしつこく押し切ったようだが、心当たりがないようだな」

 しばし、乾いた沈黙が落ちた。

「高給取りのくせに根に持ちやがる」
「稼ぎたいならば戻ってくればいい。英雄殿の後釜は、まだ見つかっていないのでな」
「見つからねえのは要らねえからだ。必要になれば作られる。そういうもんだろ」
「だが、誰しもが継げるものでもない。フリス・ニドの名は、だからこそ今でも生きている」

 何の感慨もない単調なその声は、しかし責めるような色を含んでいた。
 ニドは肩を竦めるだけだ。わかりきった反応に今更落胆するはずもなく、バシュタルトは執務机を離れた。

「今日も基地回りだったんだろ。クーベルや西アイレストの共和国連中は大丈夫なのか?」
「セモン自治区を含め、エレニノフが手を回している。少なくともこの攻撃の間は大人しくしているだろう。問題は、外よりも内だな」
「オズランか」

 ニドはボトルを取り上げ、バシュタルトのグラスに琥珀の液体を注ぐ。

「担ぎ出した革新派自体も、そろそろ抑えられなくなっているようだ。ローウィーが気を揉んでいる。選挙法の改正案について、私に仲立てを頼みたいらしい」
「選挙なあ。……お前としちゃ、どうなんだ?」

 気のない問いに、バシュタルトは皮肉な笑みを浮かべた。

「確かにこの件に関してエレニノフは強硬だ。理由があるにせよな。……だが、私は軍の人間だ。政に干渉すべきではない。お前もそう言っていたと思ったが」
「議員様に転向でもしてみるか」
「悪い冗談だな。私には他にすべきことがある……そろそろ、後継者を育てたい」
「いくらなんでも早すぎるだろ。……あいつをそれに仕立て上げる気か? それこそ冗談だ」

 それが誰を差すのかは明白だ。バシュタルトは、端正な顔に薄く笑みを浮かべた。

「それが用件か」
「半分はな。……今度の作戦案、お前が書いたと聞いたぞ。今のお前がそんな博打を打つ理由なんざ、他に考えつかん」

 通常、最高司令官が作戦の立案を行うことはありえない。
 それは必ずしも能力的な問題に限られない。ヘルドにおける総司令官は政治的な要素の強い地位である。軍事的な失敗は確かに司令官の責任となるが、作戦案までをも手がけていれば、更迭まで取り沙汰されかねない。この時期に首を挿げ替えることはできないだろう。だからこそ、矢面に立つような真似は避けなければならない。
 あえてそれを選んだ男の思惑は、まともな考えの人間ならば呆れずにいられないものだ。それがわかっているからこそ、ニドは苦虫を噛み潰す。

「甘く見られたものだ。私は負ける賭けなどしない」
「それなら尚更だ。あいつはまだ十七だぞ」
「妙なことを言う。お前が前線に出たのはいつだ?」
「三十年も前の話じゃねぇか。時代が違う。第一、ご大層な名がついたのはもっと後だ」
「十分だ。十年もすれば、合わない服も着こなせるようになるだろう」

 ニドは眉を吊り上げた。

「……何を考えている?」
「ようやくだ。……ようやく、停滞していた歴史が動き始めた。戦争は十年を待たず終わらせる。その後に必要となるのは二つ、軍縮と保守化だ。彼女は、その旗印になる」
「敵にも味方にも疎まれる旗か」
「さてな。彼女の手腕次第だが……それこそ、本望だろう」

 グラスを傾け、彼は冷えた色の目を細めた。

「捨てるつもりも失うつもりもないそうだ。そのためになら何を義性にしても構わないと、本気で考えている。そんな人間が保身などに傾くと思うか?」
「……お前が、ガキの理想論を真面目に受け取るとはな」
「そう切り捨てるものでもない。彼女の信念は現実的だ。失ったことで保守的になったのは、女ならではかもしれないが……それにしては、手段を選ぶつもりがないようだな。上に立つことすらそのための布石としか見ていない。私は、彼女の信念を買うつもりだ」

 ニドはため息をこぼし、がりがりと頭を掻いた。

「よく言うぜ。要はあいつがエレニノフの娘で、クルックレンの孫娘だからだろうが」
「無論、それもある……だが、ずいぶんと辛口だな。師の言葉とも思えんぞ」
「あいつは、潰れるまで気づかん。それから止めても遅いんでな」
「選ぶのは彼女自身だ。それに相応しい人間が地位を望むなら、協力を惜しむつもりはない」

 空々しい言葉だったが、それには少しばかりの本音も混じっていた。 
 確かに、今の彼女には彼女の血――特に、軍縮に拒否反応を起こすであろう、クルックレン財閥の近縁であるという――以上の魅力はない。だが、少女の潔癖さが伸びしろを感じさせるのも事実だ。それは、彼女が望むような政治指導者としての力とは違う、実務的な能力ではないが、育て方次第ではバシュタルトの計画を円滑に遂行する駒になるだろう。
 ニドがグラスを置き、涼しい顔の旧友を見据えた。

「ひとつ教えてやる。俺が教師なんざやってるのは、ガキを一人でも多く生き延びさせるためだ」

 バシュタルトは口角を持ち上げる。この男らしい話だった。

「お前がどう考えようが、あいつがその邪魔になるようなら、遠慮なく妨害させてもらうぞ」
「信用がないな」
「お前の顔は昔っから胡散臭いんだよ。痛くもない腹を探られたくなきゃ、それらしく見えるように化粧でもしとけや」

 もっともらしく言ったニドに、バシュタルトは喉で笑った。 
 久方振りに出てきた、何の含みもない笑い声だった。