昼食の誘いを丁重に辞し、シファは軍本部を後にした。
特別区を抜けると、食事処の集まる場所柄か、遅い昼食を取る労働者の姿がちらほらと増えてくる。今日は昨夜の予想を裏切っての快晴だった。脇道を覗くと、あちこちに紐の橋がかかって、シーツの波が揺れている。
穏やかなその光景を前に、彼女は鬱々とした気分を持て余していた。
(……本当に、相変わらず……)
呼び出される事にはもう慣れたが、彼との会話は毎度のように疲れる。期待を受けているというよりも、あれは小生意気な生徒をからかっている教官の顔だ。
予想にたがわず、彼との会話で解ったことはごくわずかだった。事実の輪郭はあまりにもぼやけていて、はっきりしない。
――何が、本当なのだろう?
顎に指を掛け、シファは胸中につぶやいた。
(……納得してない……のよね、私は)
おそらく、そうなのだろう。騙されたこともヴィクトール・ケルグレイドが嘘をついたのだということも、納得がいく理屈はついているのだが、主観的な違和感が拭えない。
しばらく沈思していたシファは、やがてその足を昨夜のプラントへ向けた。
(どうせ近くだし、確かめればいい。そうしたら納得するでしょう?)
言い聞かせるように一人ごちて、狭い路地を抜ける。念の為と尾行を気にして大回りしたせいか、工場へ着いたのは、現場検証が十二分に終わっている時間となった。
昨晩と違い帯剣してはいないので、外套の内側に挿していた武器を抜いた。ペーパーナイフのような形状だが、先端には丸みがある。治安の悪い地域に入り込む彼女の身を案じてキーンが用意したものだったが、それは予想以上に彼女の能力に適合した。
帝都内での武装は反抗勢力への対策として原則禁じられている。だが、能力者はその規制を無駄にしてしまう可能性があった。昨夜の件を「上は大わらわ」だろうと評したイェンの意図も、そこにあったのだろう。
脇道から昨夜の工場にたどり着き、シファは訝しげに足を止めた。どの工場もけたたましく機械音を上げているのに、壁の向こうはしんと静まり返っている。不運にも事件現場となった事情はあるにしても、最近の経営者は政府に噛み付くことも多いはずなのだが。
どちらにしろ好都合だ。素早く視線を振って通行者がいないのを確かめ、彼女は壁に足をかけた。レンガの上を走る鉄格子を避けて、瞬く間に敷地内に飛び降りる。昨夜は暗がりだったせいか手狭に感じた配置は、日中ではもう少し余裕を持って見えた。倉庫の間で立ち枯れた草がそう思わせたのかもしれない。
(確か、奥から二つ目……)
鉄板をはめ込んだだけの扉には、幸いにも鍵はかかっていなかった。息を吸い込んでこじ開けると、錆び付いた大きな音がする。ぎくりと一度身をすくめて、今度はゆっくりと隙間を広げた。
小さな窓から差し込んだ光が、埃だらけの床に無数の足跡を浮かび上がらせる。夜が明けて徹底的に調べたのだろう。もしここに隠れていたのなら、間違いなく見つかっている。
(……捕えられたなら痕跡があるはず。それを確認してからでも遅くない)
ナイフを外套の内側にしまい、シファは自分に言い聞かせた。最初から誰もここにいなかったのなら、墓穴を掘る羽目になる。
先遣者が散々埃をかぶってくれたようで、倉庫の空気は咳き込むほどのものではなかった。平建ての簡易なつくりだ。乱雑に積み置かれた木箱は無理をすれば人が入りそうな大きさだが、中は全て確認されただろう。
(……?)
シファはぐるりと倉庫内を見渡して、ふと引っかかりを覚えた。
息を飲んで耳に触れる。まさか、と胸中でつぶやいたが、それは気のせいではなかった。
(音がしない!? それじゃ……!)
それを消した要因が、ここにあるということだ。
シファは慌てて視線を巡らせた。床に敷かれたパネルには、そこかしこに靴跡が残っている。膝をついてそれに触れた瞬間、指先に、弾くような痛みを覚えた。
「ッ!」
反射的に手を引く彼女の目の前で、かたりと音を立て、パネルのひとつがずれた。
下には暗い空洞が続いている。どうやら建設時から作られていたものらしく、板張りの地下室のような風合いだ。
シファは入り口をこじ開けると、迷いなくその中に飛び降りた。軋んだ音とともに、差し込んだ光の中で埃が舞い上がる。
麻薬か密輸品でも隠していたらしい。打ち捨てられた様子を見るに、現在使われているものではないようだ。闇に目を凝らすと、布や木箱の乱雑な山の影に、人の形を見つけた。
光を受けて、その影と目が合う。長い黒髪と細い体。昨晩見た少年に間違いない。それを認識すると同時、シファは思わず声を上げていた。
「……どうしてここにいるの!?」
少年が目をしばたかせる。頭の中で落ち着けと声がしたが、膨れ上がる呆れが苛立ちに変わってしまう。
「どうして、と言われても……」
「昨晩のうちに逃げられたはずでしょう! これで見つからなかったなんて、ありえない幸運なのよ! 何のために、彼が――」
――父親が、何のために囮になったと思っている。
叩きつけそうになった言葉を危うく飲み込んだ。こんな形で肉親の死を知らせるのは、余りにも配慮が足りない。
自分を冷静だと評した総司令官の言葉を思い出し、忌々しさに息を詰めた。
「……ともかく、ここから出ないと……怪我は? 立てるわね?」
いささか乱暴に少年の腕を引く。ふらりと立った少年の体は、そのまま前に傾いだ。
「ちょっ」
「……駄目だ」
抱きつかれる格好になって相手を叩き伏せようとした手は、間の抜けた音に凍りつく。
――それが少年の腹の虫だということに気付いて、シファは目眩とともに脱力した。
*
翡翠亭は、一階が酒場で二階を宿とする、この地方には典型的な宿場である。子供のいない老夫婦が取り仕切るその店は、料理が安くて美味いとプラントの労働者に評判だ。中でもシチューにはそれを目当てとする固定客も多く、こんな寒い日には、たっぷりと用意しておくのが習慣になっている。
そんな開店前の慌しさの中で、来訪者は裏口を叩いた。
「久し振り、グルガ。急で悪いけれど、何か食べるものをお願い」
「……お嬢? なんだ、珍しいな」
店の主人は目をみはり、既知の令嬢を迎え入れた。さらに珍しいことに、今日の彼女は一人ではない。帽子を目深に被った男がふらふらとついて入ってきたので、彼はいよいよ訝しむような目を向ける。テーブルを拭いていた妻も物珍しげに顔を覗かせた。
「おやまあ。お嬢さんの好い人かね」
「……その冗談は面白くないわ。よけいに疲れる」
心の底からため息をついたシファに、夫婦は顔を見合わせた。ともあれと店の中に二人を招き、妻が慌しく賄いを用意する。主人に差し出された白湯に口をつけ、彼女はようやく人心地ついた気配を見せた。
「……で? 一体どうしたってんだ」
「ちょっと、色々厄介なことになってる。……手を掛けて悪いけれど、彼をしばらく匿って欲しいの」
離れたテーブルで、出された食事を黙々と食べる少年に、二人は視線をやる。
黒髪黒瞳の、ひょろりと背の高い少年である。年齢はシファと変わらない頃だろうが、くたびれた作業着がどこか馴染まない。栄養のなさが理由ではない細い腕も足も、どう見ても労働者にはそぐわないものだ。
「極力、人目につかないように。一月でどうにかするわ」
「長いな」
「無理を承知で頼んでるのよ。今は他に『お客』もいないでしょう?」
体格のいい老人は、椅子に腰を降ろしながら渋面を作った。
この店には、政府に追われる反抗勢力を常習的に匿っているという弱みがある。帝国は統合と侵略で成長した国だ。反乱分子は各地に潜んでいる。帝都の一般区民と併合国の民はほぼ同等の権利を持っているが、それだけで人間の心を納得させることは出来ない。
帝国が属国の生活水準の底上げを重視するのには、そういった意味があった。支配を受け入れる民には恩恵を与える一方、反乱分子に対する粛清を大々的に行う――この宿の主人はそれを是としないという意味で、当局にすれば反逆者と大差ない。
シファ・エレニノフは国務府総監の嫡子だ。将来性のある少女との友好的な関係は、彼にとって家族と自分と、そして捨て切れぬ良心を守る手段でもあった。
「……仕方がねぇ。貸しにしておくぞ」
「ありがとう。感謝するわ」
「そろそろ店を開けるから、坊主を奥に引っ込めねぇとな。部屋はいつもの奴だ。それから……そうだ、お嬢。あいつの名前は?」
当然の問い掛けに、シファはわずかに言葉に詰まった。
「……ユズリ、ですって」
「そいつぁまた……」
革命を意味する古い言葉だ。何を考えてその名を授けたのかと考えると、ため息の一つも落ちるというものだろう。
「まあいいさ、客の素性に関わる気はねぇ。……あんたも気をつけろよ。下手して将来を棒に振る気はないだろう?」
「そうね。善処するわ」
「善処じゃねぇだろ。……親父殿に借りを作る羽目になるかもしれんぞ」
それは嫌だ。むしろ後者の方が相当に嫌だ。
眉間に皺を寄せた少女に、主人はやれやれと腰を上げた。
「ところであの頭、お前さんがやったのか?」
「ええ」
「えらくざんばらだな」
帽子で隠れていた少年の黒髪は、すっかり短くなっていたが、見栄えがいいとは言いがたい。後ろ髪を束ねて切り落としただけだったので、シファは気まずげに白湯をすすった。
「目立つから切ったんだけど……やっぱり、変かしら」
「まあなぁ。鋏なら貸してやるぞ」
言外に整えてやれと告げられ、彼女は沈黙した。手先の細かい作業は苦手だ。
店の主人は愉快げに笑い、少年と話し込んでいた妻に声を投げた。シファも椅子を立ってテーブルに近づく。たっぷりと盛り付けられていた皿は、すっかり空になっていた。
「……満足した?」
「ああ」
「……そう。それは良かったわね」
よくもまあ食べたものだ。遠慮も気負いも警戒も、欠片たりとて伺えない。半ば呆れて返し、シファはユズリを宿場の奥に促した。
少し手狭で、年季の感じられる建物ではあるが、ランプが照らし出す光景はどこか暖かだ。掃除も丁寧にされている。反逆者隠匿という殺伐とした現実と程遠い空気に、老夫婦のこの宿への愛情が感じられた。
「ここはシファの家なのか?」
「違うわ」
物珍しげに首を回しながら、ユズリが訊ねた。当たり前のように名前を呼びつけられたシファは多少憮然としたが、それには何も言わずに、柱の形をした扉を開ける。
身を屈めなければならないような小さな入り口の先には、一つの部屋が隠されていた。古びたベッドだけで手一杯の狭い部屋だが、しばらく身を隠すには十分である。
「入って。しばらく使わせてもらえるから」
「すごいな」
無感動に言われても、少しも驚いたようには聞こえない。シファは胡乱げに振り返った。
「……驚いてるの?」
「ああ」
言い方を間違えた。それで驚いているつもりなのかという意味だったのだが、解っていないのかとぼけているのかあっさりと頷かれてしまう。言葉だけを捉えれば素直にも思えるのだが、どうにも違和感が拭えない。
「……まあいいわ。座って、髪を整えるから。……言っておくけど綺麗に出来る保障なんてないわよ。変になったら、一応は謝るけど」
ユズリは無言で鏡を覗き込んだ。いつまでたっても反応がないので、聞いているのかとシファは顔をしかめる。
「どうかした?」
「いや……短いなと」
髪のことだろう。そういえば、「切ってもいい?」ではなく「切るわよ」と有無を言わせなかった気がする。さすがに焦り、シファは言い訳を探した。
「……この辺りで、男性が髪を伸ばす風習はないのよ。目立つのはまずいから……」
少年は答えない。感情が顔に表れていないので、何を考えているのかも解らなかった。
「何か理由があって、伸ばしていたの?」
「いや、多分そうでもない」
少しばかり妙な否定が、あっさりと返って来る。心持ち胸を撫で下ろすと、ユズリが彼女をかえりみた。
「シファには、理由があるのか?」
余りに真っ直ぐな黒い目が、唐突に心臓を軋ませた。
見透かされているかのような錯覚に陥り、シファは目を逸らす。
「……母が、長かったから」
答えは刺のように喉に立った。蜂蜜色の長い髪は、政界へ進むことの多い他の子女ならいざ知らず、軍の幹部養成課程へ進むことを決めている彼女には不適切なものだ。
あえて伸ばしているのは、父への些細な嫌がらせにすぎない。今更それを後ろめたく感じることに苛立ち、シファは話題をそらした。
「ともかく、どうにか揃えるわ。じっとして黙っていて」
少年が無言で頷くのを見て、塵が混じってぼさぼさの髪を櫛で梳いた。随分古い記憶を掘り返しながら、見よう見真似で髪を漉いて、毛先を揃える様に切っていく。どの程度まで切るとどういった感じになるのかさっぱり解らなかったので、嫌が応にも慎重になった。
真っ直ぐで濡れたように黒い彼の髪は、驚くほど指を滑る。ここに来るまでは何だか無性に腹立たしくてろくに見ていなかったが、低い声の割りに、顔立ちも小奇麗でどこか少女のようだ。――父親とは、余り似ていない。
つぶやいた言葉にわだかまりを思い出して、シファはわずかに目を伏せた。
聞きたい事は山ほどあるのに肝要なものを何一つ言葉にしていないのは、恐らく、告げるべきことを告げていないからだ。彼の父が死んだことを隠し通す事などできないし、そのつもりもない。それでもどういえばいいのかと思うと、どうしても黙り込んでしまう。
うろうろと思考をさまよわせながら、たっぷり一時間かけて一通り鋏を入れた頃には、彼女はぐったりと疲れ切っていた。
「……一応、終わったけど……」
「そうか」
表情も変えずに一言きりだったので、そう変でもないのだろうかと首を傾げた。もっとも、彼がよく見ていないだけかもしれない。
「まだ動かないで。髪を払うから」
少年がぴたりと動きを止める。立ち上がろうとしたそのままの姿勢だったので、何だかゼンマイ式の人形を思い出した。
「……座っていいのよ?」
妙な男だ。そんな事をしみじみと実感して、シファはタオルを引き寄せた。なすがままになっている様子は気性の大人しい大型犬を思わせた。無表情のくせにどこかぼんやりとした雰囲気が、そう思わせるのかもしれない。これは相当なぬるま湯で育ったのだろう。
「暫くここで暮らしてもらうわ。出来るだけ早くエスト・エンドに送るから。その間は、知人にも……家族にも、会わないようにして」
「わかった。ありがとう」
あっさりと向けられた言葉に、シファは思わず手を止めた。
「……どうしてそこでお礼なの?」
「うん。変だったか」
「普通は迷惑掛けてすみませんとか、そういう反応じゃないかと思う」
「そうか。すまない」
絶対にどこかおかしい。今までに会ったことのない種類の人間だ。釈然としない思いでシファは彼を見たが、やがて肩を落として続けた。
「……ともかく、ケルグレイド氏と約束した以上、私はあなたを守るわ。あなたも追われていることを自覚して、大人しく時機を待って」
頷いただけで、ユズリはそれ以上のことを聞いてこなかった。父親が自分のことをどう託したのか、なぜここにはいないのかとも。
もしかしたら、彼は気付いているのかもしれない。父親が既にこの世にないことに。
「シファ?」
呼びかけられて我に返った。至近距離にあった黒い目に、思わず身を引いてしまう。
「な……何でもない。私はアカデミーに戻るから、あとは片付けておいて」
一息に言い切るとタオルを押し付け、無性に居たたまれなくなって部屋を出た。
逃げ出したのだという自覚が次から次へと背中に圧し掛かってくる。店の裏口から外に出ると、冬の空気が急速に頭を冷やした。
夜の帳が降りた街は、店から漏れる明かりで彩られていた。食堂や酒場が多いこの地帯は、この時間から違う種類の活気が溢れ始める。どこか疎外感のある遠い喧騒の中、自分が、言うべきことも言えない臆病者に思えた。
アカデミーに戻る頃には、とうに門限を過ぎていた。シファは当然のように北門を乗り越え、寄宿舎へ足を向けた。今日の当直は神経質で知られる地理学の教官だ。いい加減、同室の少女が肝を冷やしているだろう。
ぽつぽつと点いた部屋の明かりが赤煉瓦を照らす。洗濯室の窓に手を掛けたところで、シファは不機嫌な声に動きを止めた。
「ずいぶんと遅いお帰りだな」
気配に気付かなかった。舌打ちしたい気持ちで振り返ると、薄明かりの中、イェン・アスターが横柄な態度で視線を寄越した。
「……勇者ね。こんなところを見つかれば大目玉よ」
「ああ、何とでも言え」
自棄になったように吐き捨て、イェンはシファを見据えた。
「あいつは何だ? プラントの労働者じゃないだろ。ましてや昨日の今日だ。無関係とは思えない」
よりにもよって――そう胸中で苦くつぶやきながら、シファは窓にもたれる。
敏いことにかけては折り紙付きの友人だが、好奇心で他人事に首を突っ込む人間ではない。彼の基準では、自分はよほど危ういところに足を踏み入れているのだろう。
「……参ったわね。尾行に気づかないなんて、どうかしてるわ」
「八割がたは偶然だ。目的地は変わらないからな」
残りの二割は何だというのだろう。
シファは苦く口角を持ち上げた。
「関わらないほうがあなたのためだけど」
「それができるなら、最初から静観してる」
「……まあ、もっともではあるわね」
言葉を選びながら視線を外すと、あやふやな認識が、胸中でようやく形を見せてきた。
気負う相手でもないので、シファはそれをそのまま口にする。
「……個人的な報復に、他人を巻き込むのが嫌なのよ」
「親父さんか?」
彼女の沈黙を肯定と受け取り、イェンはわずかな逡巡を挟んで訊ねた。
「……俺は、お前の敵にはならない。それでも話せないのか?」
「知ってるわ。でも、味方でもないでしょう」
口を出てきたのは皮肉じみた言葉だったが、正直な所、言うほどの不快感はなかった。
そのお節介が自分を心配してのものだと、わかっていたからだ。
「……いいわ。明日話す。頼みたいこともあるのよ、実はね」
わかりにくい笑みとともに肩をすくめる。イェンは頭を掻いて、「了解」とぼやくように返した。