03

凍える月

 父親のことを考えると、シファ・エレニノフはどうしても顔を強張らせてしまう。
 鉄面皮だの無愛想だのと散々に評してくれた学友たちがそれと気付くほどなので、よほどはっきりと嫌悪感が表れているのだろう。
 シファにとって、作らずに浮かぶ表情はそれくらいだ。
 意識しなければまともに笑うこともできず、他人に不快感を覚えさせてしまう。
 もっとも今の心境としては、努力して顔の筋肉を動かす気など爪の先ほども持ち合わせていなかったが。

「あの……だからさ、シファ。君が怒るのはわかるよ? そりゃ、今は演習中なんだし、ラオが悪いのはわかるんだけどさ、その……ええと、聞いてる?」
「一応はね」

 冷ややかな返答を受け、年齢にしては立派な体格の少年が肩を落とす。
 シファは外套の襟を合わせ、白い息を吐き出した。
 背に流した蜂蜜色の髪と深い緑の瞳。色合いこそ穏やかだが、十六、七という年頃の未成熟な風貌には、どこかぴんと張った糸のような印象がある。話し掛けやすいとは言いがたい彼女の空気が、少年をなおさら尻込みさせた。
 月は音を降らせそうな色をして、中天から地上へ紺碧を押しやっている。帝都は冬の盛りだ。天気は下り坂になると聞いたが、この寒さでは、降るとしたら雪だろう。
 連れの少年は大きな背を丸めながら、後ろをしきりに気にしていた。班の一人が遅れているのだ。優等生の彼女に限ってまさかとは思うが、今呼び止めなければ、もしかしたらこのまま本当に置いていってしまうかもしれない。
 少年が途方に暮れて頭を抱えたとき、がちゃがちゃと剣の金具が立てる音を連れて、騒々しい足音が追いついて来た。

「あ、ラオ! よかっ……ぐはあ!」

 ほっとして振り返ったところ、腹に頭突きを受けてひっくり返った。そのまま勢い余って共に倒れこんだ人影は、シファの足音が何事もなかったかのように遠ざかっていくのを聞いて、ばね仕掛けの勢いで起き上がる。

「おいこら待てッ! 置いてかなくたっていいだろ、シファ!」
「ナンパは休日にして欲しいものね」
「だから違うって! 美人がこんな夜更けに、一人で歩いてたんだぜ? 紳士として気にかけるのが当然……ってソニー! お前まで置いて行きやがってどーいう所存だ、あァ!?」
「だ、だって、ラオ……君って、いっつもそうじゃないか」
「せめて一声かけろ、この野郎!」

 小柄な少年が大柄な少年の胸倉を掴み、がくがくと揺さぶる。その様子はちぐはぐで、どこか喜劇じみていたが、ようやく足を止めたシファはにこりともせずに言った。

「楽しい?」
「楽しくない!」
「……息ぴったりね」

 無感動に呟き、彼女はそのまま踵を返す。
 帝都士官学校――通称アカデミーの課題である警邏演習は、士官候補生の彼らにとってそう重要なものではない。むしろ度胸試しの色が濃く、評価の可否は起こる事件と運次第といったところだ。窃盗から殺人まで、帝都の夜にはびこる犯罪は幅広い。
 夜半に響くいがみ合いを聞き流しながら、シファは軽く目を伏せた。
 からからと乾いた音が、転がり出るように響いていた。鼓膜を打つ音ではないので、耳を塞いでも意味はない。意識しなければ気付かないほど些細な音だが、耳を傾けるたびに決して消えてはいないことを知るのだ。まるで心音のように。
 物心つく頃からしみついていた音。能力の影響を受けているのだろうが、彼女が知る限りでそういった例は他にない。ゆえに対処しようにも方法がない。そもそも物質干渉能力は、発見より数十年を経た今なお不明な部分の多い分野だ。科学的な証明は多少先の話になるだろう。
 ふと、その音に別のものが混じった気がした。
 シファは足を止め、喧嘩を続ける二人をかえりみる。

「今、何か妙な声がしなかった?」
「声? いや、俺は聞こえなかったけど……酔っ払いか引ったくりか、それとも幽霊か?」
「どれもありえるわね」
「や……やめようよ、冗談じゃない!」

 二人の冗談に、ソニーが大きな体をすぼめる。彼が怯えているのが最後の可能性だと見て、ラオはにやりと口角を上げた。

「そういや、出るらしいぜぇ、この辺。自分の首を抱えた兵士とか、血みどろで泣いてる女とか――」
「やっ、やめてくれよ本当にッ!!」

 耳を塞いで上げた悲鳴が、思いのほか街路に響いた。シファの冷えた視線を受け、ソニーはぎこちない動きで耳から口に手を移す。
 この班長は興味がないような顔をしておいて、その実しっかりと見ている。騒ぎ過ぎだと報告されかねない。ラオが苦しい空咳を鳴らす。

「あー……でもほら、何もないならないで困るよな。報告することがねぇし」
「な、何言ってるんだよ。何かあったら困る、絶対困る」
「馬鹿。いいかソニー、俺らの班にはシファがいるんだぜ?」

 大げさに手を広げるラオに、彼は釈然としない様子ながらうなずいた。

「まあ、そうだけど……」
「いやー、今日の模擬戦は最高だったよな! バシュタルトの奴、顔真っ赤だったぜ」
「あの王子様の作戦はわかりやすいのよ。捻くれてるくせに目立たないと気が済まないものだから、付き合わされるほうは大変でしょうね」
「またまた、謙遜しちまって――」
「……それから先に言っておくけど、いくらおだててもカードの負け分は減らないから、そのつもりで」

 すげなく往なしたシファに頬を引きつらせ、ラオが慌てて両手を合わせた。

「シファさん、そこを何とか! リーホアがもうすぐ誕生日だろ? 金欠なんだよ〜」
「使うべきは懐より頭ね。あの子に貢ごうとする人間ならいくらでもいるもの。高価なものに、興味もないようだし――」
「あ、そう、それなんだけどさ、シファ。彼女、どんな物を贈れば喜ぶかな?」

 それまでおどおどしていた片割れまでもが話題に加わる。爛々と見つめてくる大小コンビの過剰な期待に、シファはこめかみを押さえた。
 士官学校には明らかに向かない彼女の従妹は、おっとりとした優しい笑顔とその健気さで、瞬く間にアカデミーの天使の名を獲得した。自然と仲介を期待する少年が詰め寄ってくることになったのだが、余計ないざこざを起こすとわかり切っているものに、誰が手を貸すというのか。
 面倒げに思案していたシファは、ふと眉根を寄せて立ち止まった。

「シファ?」

 疑問の声を手で制す。それと同時、号笛が甲高く夜空を裂いた。耳を澄ませると、逃げる足音が二つに、追う足音が遠く続く。
 視線を合わせ、彼らは肯きあった。三叉路の右は行き止まりだ。角を曲がってきてこちらに来るならそのまま牽制し、そうでなければそのまま袋小路に追い詰めればいい。
 結論は単純だった。だが、柄を握った弾みで、誰かの剣がほんの微かな音を立てる。それは思いのほか、静寂の中に響いた。

 舌打ちする間もなく不審者が土を蹴った。砂の軋む音とともに、姿を見せた敵が踊りかかる。
 シファは背後の二人を庇うように踏み込んだ。鞘走らせたそのままの勢いで、凶刃を弾き返す。耳障りな音が鼓膜を叩く。予想外の重さに崩れた体勢は角度を変えることでどうにか踏みとどめたが、息をつく間もなく、容赦ない追撃が打ち込まれた。

「シファ!」

 悲鳴じみた声で名が聞こえ、敵の顔が月明りにさらされる。壮年の男だった。目と鼻の先から咆哮のような殺気を浴びせ、男は打ち合わせた剣を強引に押しやる。
 それをどうにか受け流した瞬間――わざと剣を狙ったのだと、怒りとともに気付いた。

(……手加減した……!?)

 不審者は一瞬で彼女の脇を駆け抜けた。わずかな血の匂いを感じながら振り返る。岩のような体躯の男が、対象的に細い人間の腕を引いていた。引きずられるように走る背中に黒く長い髪が跳ねる。女だろうか。

「このっ……待て!!」
「ラオ、駄目だ!」

 何かが無性に意識に引っかかっている。何かがおかしい、何かが――一体何が?
 その正体に気付き、シファは打たれたように耳に触れた。

(音が……消えて……!)

 耳の奥の音は、いくら意識を向けても聞こえてこない。物心ついた頃から今まで、一度たりとて消えなかったというのに。
 ためらっているだけの余裕はなかった。
 闇に消える人影を追い、路地を蹴ったシファに、ソニーが驚いて声を上げる。

「えっ……シファ!? 深追いは――」
「すぐに戻るわ、先に行って!」

 仲間へと短く返し、彼女はもう振り返ることなく夜道を駆けた。
 大通りから一歩踏み込むと、一般区の路地はひどく入り組んでいる。高い壁に挟まれた道は複雑に曲がり繋がりあって、見通しが利かない。
 この判断が誤りであることは自覚していた。敵が力量の勝る相手だということも、十分にわかっているのだ。それでも、シファは相手を追わずにはいられなかった。

(……何者なの? 一体、どうして――)

 焦燥に足元をすくわれそうな気がして、シファは短く首を振る。

(今はそれどころじゃない。捕まえてから確かめればいい。……ともかく、あいつの足を止めないと……!)

 闇に消えては現れる後ろ姿は、帝都を縫う裏道を熟知しているようだった。袋小路を間違いなく避け、見通しの悪い道を選んでいる。
 しかし、それにも限界がある。幾つめかの角を曲がると、狭い路地が真っ直ぐに続いた。
 好機だ。
 相手の後ろ姿をはっきりと捉え、シファは剣先に意識を集中した。――刃ではない、衝撃のイメージを脳裏に結ぶと同時、剣を一閃する。

(……行け!)

 重い手応えとともに、ぶわりと不自然な風が舞った。
 月光を弾いた切っ先から、圧縮された空気が二人連れを襲う。無傷で捕らえられると確信した、その矢先だった。
 腹に響く音を立て、熱と光を持たない爆発が起きたのは。

 予想外の衝撃に踏みとどまることが出来ず、シファは背中から石壁に激突した。肺が圧迫され、わずかな間、視界が白く染まる。
 咳き込むように息を吐き出して、剣の柄を握り、シファはすぐに顔を上げた。
 わずかな間隙だったはずだ。だというのに、爆風をまともに受けたはずの不審者は、跡形もなく姿を消していた。

(……そんな!?)

 駆けるように壁から離れ、周囲に視線を巡らせたが、影の片鱗すら見当たらない。焦るまま表通りに出ると、夜半のざわめきの中、酒場から古い歌が漏れ聞こえてきた。
 霞がかった歌声を掻き消そうとするかのように、耳の奥で、消えていた「音」が再び転がり出てくる。
 ――完全に見失った。空回るような音に足を止め、シファは苦い顔で霜天を仰いだ。
 白く上がった息が、月の輪郭を霞ませる。剣を鞘に戻し、シファは乱雑に髪を掻き上げた。

(……さっきの爆発……十中八九、属性反発だわ。どういうこと……?)

 古代語で長々しい名前を持つ彼女の能力は、端的に訳すと「物質干渉能力」という。その名の通り炎や水などの物質に対して影響を与えるもので、同じ属性のものが同じ対象に発動した場合、反発して二次作用を起こす性質を持っている。シファの属性は空気であり、熱や光を持たないだけに属性反発の殺傷能力は低いが――それにしても、爆風をまともに受けたはずの不審者がああも容易く姿を消した事が、彼女に釈然としない思いを抱かせた。

(おかしなことが多すぎる。能力保持者は、帝都近郊の出生者にしか確認されていない……あの二人がレックニアの人間じゃないなら、一体、何者なの……?)

 国内の反政府勢力だと考えるのが妥当かもしれない。単なる犯罪者だと決め付けてしまうには、あの男の目が気にかかる。
 空々しさを助長するように、犬の遠吠えが響いた。まとまらない考えを集約しようと、シファはこめかみを押さえる。

(相手に土地鑑がある可能性は高い。闇雲に逃げているわけじゃないなら、軍部のある南西は避けるはず……どうやって帝都を出る?)

 人や物の出入りが激しく、紛れやすい場所。さらに、夜の間、身を隠す場所があればいい。
 ――その条件にもっとも適合しているのは、プラント地帯だ。規正法で深夜操業が禁止されたため、夜になれば人気が引くうえ、出荷や原材料の搬入は早朝から始まる。
 目的地を決めると、シファは夜のざわめきの中を縫うようにして歩き始めた。

(……見つからない可能性のほうが高いけど、今さらね。何もしないよりはまし)

 どちらにしろ嫌味を言われるのだと思えば、思い切ったこともできるというものだ。
 今夜の失態を耳に入れたとき、父はどんな顔をするだろう。ふと浮かんだ思いはひどく後ろ向きで、シファはわずかに苦笑した。
 母が死んだあの日から、彼女はずっと、父を許せずにいる。
 父なりに理由はあったのだろう。だが、それが母を見殺しにする理由となり得るのかと考えたとき、シファにはどうしてもうなずけないのだ。自分や母よりも大切なものがあるならば、それを奪ってやろう――そう幼心に誓った報復はいまだ収まる場所を知らず、そして時機を待つほかなく、思い通りに行かない現状に焦り始めていたのかもしれない。

(それでしくじっていれば、世話はないか……)

 父が行政の長へと上り詰め、もう五年になる。政治家としてはそれなりに優秀なのだろう、議会は彼をその地位に据え続けている。
 権力も人脈も情報も全てにおいて、今の彼女は何ひとつ父親に敵いはしない。所詮は被保護者の立場で、施政者に仇成そうとすること自体が無謀なのだ。
 苦く胸中にこぼして、シファは周囲に視線を巡らせた。
 プラント地区は当局の区画政策のため、生産工場以外の建築は許可されない。だから、プラント街という呼称は、プラント地区周辺に連なる食事処や酒場などを含んだものになる。昼にも夜にも騒がしいそこを抜けてしまえば、しんと静まった夜の無機質な光景に、耳の奥から響く音が重なった。
 からからという乾いたそれは、悲しい記憶ばかりを思い出させる。
 通りの両端に並んだ街灯は心もとなく、明るすぎる月光の布に覆われているようだ。その向こうへ姿を見せ始めた巨大な工場は歩いていくうちに数を増やし、完全な工業地帯になる。
 ささやくようだった音が、ふと、ひどく弱くなった。シファは打たれたように足を止め、振り返る。紡糸工場のプレートの下だった。

(……見つけた……!)

 こくりと鳴った喉を押さえ、彼女は慎重に剣を抜いて、工場の中へ足を踏み入れた。
 高い煉瓦に囲まれた敷地には、工場と倉庫が整然と建っていた。心音をかきわけるようにして、かすかに続いている音に耳をそばだてる。それはやがて、仕掛けが止まるように消え失せた。
 ずさんな読みは当たり籤に化けたようだ。確信とともに息を潜めたとき、背後から音もなく手が伸びた。

「動くな。武器を捨てろ」

 血の匂いが鼻を掠めたときには、既に硬い掌が口を塞いでいた。首筋に添えられた刃の感触に、シファは己の失態を悟る。

「先刻の娘か……馬鹿な真似を。何故追ってきた」

 低い声には明らかな苦さが混じっていた。必死に考えを巡らせながら、シファは唇をきつく結ぶ。失態に対する情けなさよりも、膨れ上がる反発心が胸を焼いた。
 ――私は、と唇を動かす。
 声を押さえ込んでいた厚い手が、そろりと離れた。

「……気にかかったのです。私と、同じではないかと」

 思わせぶりな言葉に、相手は応えなかった。
 首に突きつけられたナイフは冷ややかに存在を主張している。最初に手加減されたことを考えれば、演技であっても怯えて見せるべきだろうが、無意味な意地がそれを阻んでいた。

「先ほどの攻撃で属性反発を起こしました。それだけではない。何かが途方もなく、私と同じものであると感じました。……あなたは、何者ですか?」

 男は重苦しく沈黙し、やがて低く呟いた。

「……音か」

 芯を突かれ、身体が硬直する。それは明らかな肯定だった。男が耳元で喉を鳴らした。自嘲に近いその声を飲み込む前に、刃が首から離れる。
 怪訝さに振り返ったシファは、目の前で傾いだ巨体を、とっさに受け止めた。
 体躯にたがわない重さが肩と腕にかかる。支えようと回した手に、ぬるりとした液体の感触があった。
 どうにか男の背を壁に預け、シファは息を呑んだ。男の服を染める血の量は、それが致死的な傷であることを物語っていた。

(まさか……こんな出血で、今まで……!?)

 背中の傷でこの血なら、尋常な深さではない。どこから逃げてきたのかは知らないが、長い距離を走ることなど出来ない筈の状態だ。

「止血を――」
「しているが……無駄だ」

 熱に掠れた声で答え、灰色の瞳がシファを見上げた。父親とそう変わらない年齢だろう。重い印象を覚える目に、シファは唇を結ぶ。

「……頼みがある」
「何を……」
「息子を、エスト・エンドへ連れて行って欲しい」

 男は、顎で倉庫を示した。シファの脳裏を黒髪の後ろ姿が過ぎる。二人組の片割れは女かと思っていたが、どうやら少年だったらしい。
 一瞬だけ視線を向け、シファは膨れ上がる違和感に眉根を寄せた。
 何を言い出すかと思えば、逃亡に手を貸せとは――そう一蹴できなかった理由から、彼女は無意識に目をそらした。

「……なぜ、私に?」
「ここにいるのが、あんただからだ」
「……理由になりません」
「あんたには……十分な、理由だろう。こうして追ってきた」

 うまく表情を浮かべられずに、シファは視線を落としてため息をついた。

「なぜ、彼まで追われるのです?」
「……俺が、知ってはならないことを、知ったためだ。当局は、俺が……息子に、それを話したと考えている。捕まれば、どうなるかは、わかるだろう。……頼む」

 途切れがちな言葉は嘘から来たものか、それとも怪我のためなのか。シファは男の血を吸う地面を睨んだ。彼の話が本当であるとすれば、その懸念は確かに見当違いではない。それが帝国の現実だ。
 だが、彼の願いはあまりにも無謀なものだった。アカデミーの生徒であることも、彼女の身元も、今の時期に帝都から何ヶ月も離れるには目立ちすぎる。

(どうして――)

 握り締めた手が、血で滑った。シファはきつく眉根を寄せる。

(……無理だなんてわかりきってるのに、どうして、私は……迷っているの……?)

 死を目の前にしながら、男の目に恐怖はない。ただ息子の安否だけを口にするその姿に、彼女は我知らず感情を揺さぶられていた。

「……私に、それが出来ると思いますか」
「総監殿ご自慢の、ご令嬢だろう?」

 なるほど、とシファは皮肉に思う。身元を知られていたならば、買い被られても不思議はない。確かに彼から見たなら、彼女という存在は権力に近い場所へあるのだろう。
 迷っているだけの時間はない。追っ手が犬を使えば、血の匂いが彼らをここまで案内してしまう。
 シファは目を伏せた。困惑はまだ目蓋の奥で渦巻いていたが、それをねじ伏せるかのように静かな声を押し出す。

「……わかりました。では、取引を」

 疑念を目に浮かべ、男が顔を向けた。

「私は無条件の善意を信じません。リスクがあるならばなおさら。ご子息の安全を、安易にお約束することはできません」
「……それで……」
「対価として、あなたの持つ情報をください。……あなたが、何を知ってしまったのかを。その代わり、その情報がどういったものであろうと、私は私に出来るすべてで彼をエスト・エンドへ送り届けます」

 男の灰色の目がシファを見据えた。しばしの間、視線の拮抗が続く。
 正直なところ、シファはその情報に期待はしていなかった。エネルギー管理局は軍の研究機関に端を発したため、国務府の関与は歴史的に浅い。彼が持っているのは、彼女が望むような――父親を失脚させるに足るような情報であるとは思えない。
 取引にはならない。むしろ、それは彼の息子を守るために必要な情報だ。彼女にとって受け入れがたかったのは、善意でリスクを引き受けるという自分自身だったのだろう。

「……俺は……」

 張り詰めた空気を引き裂いたのは、犬の吼える声と、荒々しい軍靴の足音だった。
 号笛が甲高く響く。早すぎる、と振り返ったシファの袖を、男が強く掴んだ。

「……MEASには、重大な欠陥がある」

 掠れ声で告げられた言葉が、脳天を打った。二の句を告げずに目を見張るシファに、男はとつとつと続けた。

「あのシステムは、暴走する。今の安全装置は不完全だ。開発が遅れている。……猶予は、二年だ。あと二年で、大陸の三分の一が焦土になる」
「な――」

 MEASは帝国が女神の承認を得た証と言われるほどの、あたかも精霊王に代わる「神」を実体化させたかのような存在だ。それが大きな危険を孕むものだという彼の言葉は、にわかには信じ難いものだった。
 それが事実だとすれば、システムを停止せざるを得ない。帝国は膨大な戦費の多くを属国への輸出でまかなっている。MEASが停止し、産業が停滞すれば、属国に対する税を重くせざるを得ない。――どちらの要因も、内乱と敗戦の可能性を色濃く示している。

「……そんな、馬鹿な……どういう事です!? 一体、どうして……!」
「あんたを、信用する……あいつを……」

 すべてを言い終えることはできないまま、男の手が力を失い、地面に落ちた。
 既に事切れている様子に、シファは蒼白な顔で唇を結ぶ。

(まさか……そんな、馬鹿なことが……)

 ふらりと腰を上げたとき、一群の足音がようやくその場に到達した。彼女を取り囲むように膨れ上がった警戒心は、「待て」という高圧的な声に押さえ込まれる。
 肩でため息をついて振り返ると、シファはわずかに表情を硬くした。
 そこにいたのは、警備隊ではなかった。金の刺繍を施した藍の制服は、この国では特殊な地位のものだ。

(ガーディアン……)

 司法局特殊捜査部。帝国内のありとあらゆる事件に関し捜査・裁量権を持つ、主に属国の人気取りと違法団体の影響力低下を狙いとして設置された機関である。
 国民を動かすことができるのは政府ばかりではない。実質上、彼らは抵抗組織の地下活動を阻害する役割を負わされている。
 そのうちの一人が、皮肉げに顎を上げて言い放った。

「これはこれは、国務府総監令嬢ではございませんか! このような夜更けにこのような場所でお会いできるとは、さすが、将来を嘱望される士官候補生であるだけのことはありますな」

 随分と解りやすい嫌味だ。今回は明らかに自分に非があるため、シファはハンカチで血を拭いながら淡白に応じる。

「夜間警邏の演習中、不審者に遭遇しました。身元の確認をお願い致します」
「これは異なことをおっしゃる。私の記憶では、アカデミーの演習というものは我々の仕事に横入りするようなものではなかったはずですがね。まさかお一人で、相手を拿捕できるとでもお考えで?」
「ええ、ご覧のとおり。……残念ながら、既に手遅れのようでしたが」

 ガーディアンが片眉を跳ね上げた。もはや物言わぬ男を見下ろし、シファは続ける。

「私が発見したときには、既に瀕死でした。同行者を庇おうとしていたようですが……」
「……黒髪の少年は、一緒では?」
「囮になって、逃がしたようですね」

 何を解りきったことをと、態度で語った。若いガーディアンは何かを言おうとするが、同僚にたしなめられ、しぶしぶそれを飲み込んだ。忌々しげに舌打ちし、下級兵に指示を飛ばす。

「中を調べろ。おそらく、近くにいるはずだ。……エレニノフ嬢、事情は後日伺いましょう。ご協力いただけますね」
「ええ」

 剣を鞘に収め、シファは倉庫を見やった。
 動揺はまだ収まるところを知らないが、考えに沈んでいる場合ではない。彼の息子は間もなくこの場に引き出されるだろう。無理にでも身柄を引き受けなければならない。

(信じられないと言うより……信じたくない。……まさか、こんな情報だなんて……)

 何にせよ、約束は約束だ。自分にはあの少年を守る義務がある。早く失せろと言わんばかりの嫌味を右から左に聞き流してその場に居座っていると、やがて、下級兵の一人が倉庫から姿を見せた。

「いたか」
「いえ……中にはいないようです」

 ガーディアンの怒声を聞きながら、シファはわずかに眉をひそめた。
 夜とはいえ、明かりも犬も持ち合わせている。この人数でこれだけの時間をかけて、さして複雑でもない倉庫から少年一人を見つけられないほど、司法局の特殊部隊は無能ではないだろう。
 ただの時間稼ぎに付き合わされただけだったのか。シファは胸中につぶやいて、既に答えることのない相手を顧みた。
 適当な検死を済ませた死体はまだ運び出されず、布の下で冷たくなっている。「音」はまだ消えているが、その要因は、恐らく彼にあったのだろう。

(演技としては過剰に思えたけど……その方が、信憑性があるわね)

 初対面の小娘に、誰が大事な息子の命を託すというのか。自嘲をこぼしそうになったシファは、ガーディアンの噛み付かんばかりの視線に気付いて、肩をすくめた。

「……私は見ていませんが。その少年がそんなに重要なのですか?」
「権限外の情報に、あまり首を突っ込まないでいただきたいですね」
「そうですか。では後日」

 地を這うような声を軽くかわし、シファはきびすを返した。すっかり静寂を失ってしまった夜空を見上げると、明るい月に暈がかかっている。やはり、明日の天気は崩れそうだ。
 小さくついたため息は無音のまま、白く濁って消えた。