18

光の庭

 戦乱の中の安定はついに破られ、大陸は激動の時代に入った。
 公式には別の主体による攻撃だとされたが、エネルギー管理局を占拠した反政府勢力の裏にレックニアの存在があることは明白だった。
 彼らはMEASと精霊王の関係を認識しており、それを開放することを目的としていた。それは即ち、資金と指導を与えた背後の存在――レックニアが、MEASがどういったものであるのかを認識していることになる。
 それは、帝国が主張してきた「正当性」を、根底から揺るがす情報だった。
 国内で精霊王信仰を認めていることを考えても、否定するほかない事実だ。属国の多くで燻り始めた疑念は、確実に、内乱の火種をその内に抱いていた。
 ヘルド・レックニア両国は自らの抱える問題から国民の目を逸らすため、激しく互いを非難し、報復を誓った。水面下で続いてきた両国の歩み寄りは水泡に帰し、歴史は大きな転換点を迎えることとなる。



      *

 思案げに見つめていた鋏を引き出しに戻して、シファは壁の時計を見上げた。管理局につく頃には、ユズリの検査も終わっているだろう。
 部屋を出ると、細目の顔を精一杯難しげにしたキーンが目礼した。一足早く帰国して以来、多弁なはずの彼は一言も口を利いていない。

「管理局に行こうと思うんだけど……まだ怒ってるの?」
「……」
「……強情ね」

 ため息混じりにつぶやくと、こめかみの辺りに動きがあった。それでも口を一文字に結んだままなのだから、これは相当根が深い。口を開かせるのを諦めて、シファは部屋を後にした。

 ケリエ・サイセンは、ひとつの置き土産を残していた。
 廊下の真ん中に投げ出されたメモ帳には丸一冊に渡る難解な数式が書き連ねられており、その冒頭には乱雑な字でこう記されていたのだ。
 ――歪曲壁の二重展開、と。
 「箱」とは、捻じ曲げた空間によってその名のとおり外部と隔離された空間を概念とする。それをひとつの宇宙と見立て、内宇宙と外宇宙のそれぞれに展開することが可能だ。問題は、衝撃の所在である。それが内宇宙にあれば「箱」のみが損傷を受け、外宇宙にあれば周辺域が損傷を受ける。ケリエ・サイセンがその長い科学式で示したのは、二つの「箱」をそれぞれ内宇宙と外宇宙に展開するという方法だった。
 確かに箱という隠語通りに能力を捕らえ、二つの箱に大小があったと考え、大きな箱の中に小さな箱を入れたなら間に隙間ができる。内宇宙の中での外宇宙の展開が可能であれば、二つの内宇宙――人間の肉体を保全したまま、IREの処理が可能である。メモはそう説いていた。
 問題となるのは属性反発だ。シファが当初ユズリを取り逃がした時のように、同じ能力は互いに反発し合う。しかし裏を返せば、それさえ解決することができれば実現可能な計画だということだ。
 この技術が確立すれば、「箱」は命を落とすことなくIREを処理することが出来る。それはまだ可能性の段階ではあったが、既に軍に包囲された管理局から逃げることよりも随分現実的な可能性だ。
 そしてシファは、その可能性に賭けることを選んだのだった。
 その後は散々だった。シファ自身の反逆は結局表沙汰になることはなかったものの、病院に駆けつけた義母とリーホアは揃って大泣きし、キーンからは長ったらしい説教の手紙が届き、アカデミーの面々は武勇談とやらを聞きたがって群がる。一連の事情聴取の方がよほどましだとこぼしたシファに、イェンは自業自得だと笑った。
 そのイェンは足に怪我を負い、病院に送られたそのまま入院することとなった。自分が決めたことだから謝るな、その代わり貸しが一つだと先に釘を刺されたので、シファは釈然としない感情を持て余すことになる。わざとだと笑われた時には、思わず患部を叩いてしまったが。
 総監暗殺は無事に未遂と終わり、多忙の隙間を無理やりに押し広げて怒りにきた父親には、話をする暇もなく引っ叩かれそうになったので思わずひょいと避けてしまった。
 しまったと思ったときには、空気が凍り付いていた。はらはらと見守っていた周囲が凍り付いていたが、ニドがその場で大爆笑したものだから、仕切り直すタイミングは見事に逃げていってしまった。
 相変わらず父と娘の中はぎこちないどころか険悪なままだ。頭で考えていたことのひとつさえ行動に移すことが出来ない。謝ることも怒ることも話すことも、素直にできるようになるにはまだ時間がかかりそうだった。

 

 

 管理局の赤い煉瓦の中に迎え入れられると、シファは軍総司令官の姿に表情を止めた。
 彼も珍しく動揺に似た空気を見せて、ぎこちない笑みを浮かべる。

「来ていたのかね」
「ええ。……あなたとお会いするとは思いませんでしたが」

 とげの隠れた言葉に、手厳しいなとバシュタルトは肩を揺らした。いつもならばさも当然のように理屈ぶった皮肉が返ってくるところなので、シファは妙な感慨を覚える。

(この人でも、疲れることがあるのね……)

 人間である以上当たり前のことなのだが、赤い血が流れているのかと問われると首を傾げてしまうような印象を持っていたことに気付いて苦笑する。今回の事件では、さしもの彼も憔悴せずにはいられなかったらしい。ここ一連の事件にことごとく身内が絡んでいた父は、そういえば倒れそうな顔色をしていた。

「怪我はもういいのか?」
「はい。もともと、そう大層なものではありませんから」

 大人しくしておけば支障はない。淡白に答えたシファに、彼はそうかねとうなずいた。

「……それにしても……大人しく引き下がるとは思わなかったが、随分、思い切ったことをしたものだな」
「若輩者ですから」
「なるほど。便利な言い訳だ」
「……残念ながら、本当に、なにもできてはいないのですけれど」

 結局事態を解決の方向に導いたのは、ケリエ・サイセンが最初から知っていた方法でしかないのだ。あれだけ必死に足掻いたのに、現実とはそんなものなのだろうか。

「ままあることだ。人生の中には、打つ手のない難題が積まれている。いつかは己の力で変え得ない不条理に出会うものだ。……君がその壁にぶつかったとき、どうなるのかを知りたかったというのは、少なからずあったのだろうな」

 彼は笑った。いつもの皮肉めいた薄笑いではなく、どこか、羨望を噛み締めるかのように。

「君は、運がいい」

 シファは不思議に思って、彼を見上げた。言葉だけならばその通りだと思えるのに、あれだけ言葉で叩き伏せてきた彼は、まるでそれを喜んでいるように思えたためだ。

(……こんな風にも、笑える人だったのね)

 自分がこうなるのだろうと思っていた大人は、感情に流されず、全てを理解して統制している人間なのだと思っていた。けれど、そうではないのかもしれない。大人とは、年を重ねているだけの、同じ人間なのだ。
 そこにある経験を、シファは絶対的なもののように感じていた。権力も理性も知識も、自分に足りない全てがそこにあるのだと思っていた。けれど、それらを剥がしたところにあるものには、そう極端な違いがあるのだろうか。
 それが人の本質であると言うのなら、案外、今と変わらないものなのかもしれない。取り繕うことや押し隠すことを覚えるだけで、中身までが無傷であり続けることはできないのだとしたら――自分は無神経だったのだろうかと、おぼろげに思った。

「閣下、お時間が……」

 気を揉みながら口を挟んだ佐官に、バシュタルトは片手を上げて答えた。

「ああ、それから――カデナーノイが駄目ならば、ユズリでも構わんよ。好きなほうを選びたまえ」
「……は?」

 間の抜けた声を出したシファに、彼は似合わないほど楽しげに片目を瞑ってみせた。

「言っただろう? 私は、君を気に入っているんだよ」

 呆れるやら意外に思うやらで、シファは悠々と去っていく帝国軍の総司令官を、呆然と見送った。

「……本当に気に入られていたとはね……」
「いえそこじゃないでしょう指摘する場所は。息子をだしにしていらっしゃるんですか、あの方は……まさか、本気でシファ様をバシュタルト家に迎えられるおつもりでは……!?」
「それはないと思うけど、あるとすれば逆ね。……ところでキーン。口を利いているけど、いいの?」

 彼が打たれたように口をふさいで、目を白黒させたので、シファは可笑しそうに笑った。

 

 

 

 その部屋は、光に満ちていた。
 天井を仰ぐと、大きく取られたガラス窓から空が見える。一瞬、外に出たような錯覚を起こすほどに、花や緑の彩色が溢れていた。
 皇府の宮殿の庭に似ている。けれどそれよりも、どこか無機質さが強い。陽光に照らされたその部屋は、地下であっても日中ならば灯りを必要としない設計になっている。
 エスト・エンドの数多ある別称のひとつに、光の庭というものがある。大地母神ウルハの恩恵を受けた「聖地」であるあの島は、豊かな緑と温暖な気候を持つ。楽園を意味する名なのだろう。
 ――裏を返せば、それは箱庭だ。
 大陸でどんな惨事が過ぎようと常に変わらない、隔離された聖地。この狭い庭からユズリを連れ出し、その新たな箱庭へ行けと言い残した男は、そこに何を見ていたのだろう。
 彼のことを憎むほどに強く想っていた女性は、まだ捕らえられていない。素直に心配することはできなかったし、逃げ切ることができたと考えるのも難しかったが、ただ漠然と、無事でいればいいと思った。

「ユズリ」

 近づいて声を掛けると、本を読んでいた少年がようやく顔を上げた。薬で抑制しているとはいえ、いまだ高い数値を保つMEASの影響のため、些細な音では気付かないらしい。

「シファ。検査に来てたんだな」
「ええ」
「カデナは来てないのか?」
「見ての通りね」
「……そうか。そうだな」

 口調は平坦だが、どことなく残念そうに見える。
 シファはため息を落とした。彼はすっかり兄の気分になっているらしい。当の腹違いの弟は、いきなり知らされた事実にいまだ混乱と衝撃のさなかで悶えているのだが。
 一時は帝国を裏切る覚悟まで決めたというのに、居心地が悪いほど穏やかだ。周囲が何も知らないためだとはいえ、彼女にとっては、許婚の反応が一番共感できるものだった。

「聞き流してくれる?」
「? ああ」

 座らないのかと首を傾げたユズリに、シファは心臓を落ち着けながら言った。

「……髪を伸ばしてたの、理由があったわ。本当はつまらないことだってわかっていて、それでもずっと割り切れなくて……でも、もういいから、切ろうと思っていたんだけど」

 不意に苦笑して、シファはユズリを見た。

「やっぱり、やめたわ。……今までの私を覚えていようと思うから」

 父に当てつける形で母に似せてきた髪。それは、自分の矛盾を凝縮した物のように思えた。
 けれどきっと、今自分に必要なのは、過去の情けない自分を切り捨てることではないのだ。忘れることでも目を逸らすことでもない強さが、これから何度絶望にぶつかっても諦めない強さが欲しい。
 ――いつか髪を切る時は、それがなくても、歯を食いしばって胸を張って生きていけるようになったときだ。
 そうか、とだけ彼は返した。予想通りの淡白な反応に安堵する。自分の決意を誰かに聞いて欲しがるだなんて、子供じみているとは思ったのだけれど。
 変わりたいと思えただけ、何かが変わったのだろうか。
 ふと目を上げると、鏡で集められた光が屋内庭園へ柔らかく注いでいた。整いのある箱庭の中でそれらはひどく自然で、シファはほんのわずか笑みを浮かべる。

(いつか)

 彼が見たいと言った、光の庭へ。
 この国とは違う風が吹く場所へ、いつかたどり着く日のために。