腕の傷が重さを増していた。耳の奥で響く音は割れるようで、頭痛を引き起こしている。切れた息を吐き出す喉がずきずきと痛んだ。
(甘かった……)
衛兵の誰が敵か味方かは解らない。ただでさえ混乱しているこの管理局の中で、そんな確認をしている余裕はない。自然と、出会う人間全てと敵対する羽目になる。
殺さずに無力化することが、こうも負担になるとは思わなかった。相手が多数だとは言え、一度にせいぜい二人、大抵は一人。実質上は極端に不利な条件ではない。上がりきった息を押さえ込むようにして、何人目とも知れない相手を床に切り伏せる。傷を負わせないことはもうできなかった。急所を外すのが精一杯だ。
自分を過信していた。省みてみれば、いつもそうだった。父のことも、リーホアの言葉も、他の全ても――思い込みで判断して、他の可能性を考えようとも思わなかった。あるいは意図的に耳を塞いでいたのかもしれない。自分に都合が悪いことは、全て。
混濁した思考を振り払うように首を振る。
最後の扉にたどり着いて、シファは拳を叩きつけた。
「……そんな!」
鉄の塊のような重い扉は、新しいダイヤル式の鍵が掛けられていた。付け焼刃の細工で開くようなものではない。
(どうしよう……どうしたら……!)
鐘のような音が耳の奥から響く。焦るままに扉を叩くと、弾かれるような、わずかな違和感があった。
(中に、ユズリがいるから?)
この感覚は、自分の能力を使うときにも似ている。何かが引っかかっている――何が?
必死に記憶をたどり、シファは打たれたように顔を上げた。
「属性反発……!」
初めて出会った夜、シファの能力とユズリの能力は、確かに反発を起こした。
火や水、風などの属性は、純粋にそれだけである場合のほうが遥かに少ない。火寄りの風、風寄りの水などが殆どだ。あの時は人一人が吹き飛ぶ程度のものだったが、意図的にそれを強くすることは不可能ではない。
扉の隙間に剣先を当てる。音は相変わらず煩く騒いで集中をそいだが、吸い込んだ息を止め、シファはその柄を握り締めた。
脳裏に結んだ光景は、先ほど見たばかりの光だった。何もかもを灼き尽くす破壊の光。
(……お願い……!)
力任せに剣を打ち付けた瞬間、膨れ上がるように空気が動いた。力が爆ぜ、天を崩すような轟音が耳を突く。
疲労に重くなった体は、受身を取る余裕もなく壁に激突した。手をつき、肩で息をしながら顔を上げると、鉄の扉を支えていた煉瓦が大きく砕け、道を開けていた。
拉げた扉を乗り越え、シファは足を引きずるように走った。
床を蹴るたびに痛みが跳ね上がるようだった。腕も頭も耳も心臓も脈打っているかのようだ。堪えかねて、重くなった剣を打ち捨てた。
赤い鉄の空間を螺旋状に走る階段は、遠く深く続いている。禍々しい円筒に繋がるパイプが、喪われた精霊王に縋る無数の手に見えた。鉄色の高炉の熱に呼吸が苦しくなったが、シファは必死で走り続けた。
掠れた声で、姿の見えない相手の名を呼ぶ。
「……ユズリ!」
高炉の唸るような音の中、応える声は聞こえなかった。耳の奥でわんわんと響き続ける音だけにすがり、長い長い階段を駆け下りる。
――誰かを守りたいという思いは、なんて身勝手なのだろう。
相手がそれを望んでいるかどうかなど関係がない。そんな、押し付けがましい感情だ。守られる者がそれを拒むのは間違っているかのようにさえ感じてしまう。突き詰めれば、それは単なる自分自身の願いだというのに。
自分も同じだ。父を責める資格などない。どちらもを守ることなどできなかった。こうして一つを選んでしまっている。
十二年前に何があったのかはわからない。それでも、もはや助からない母を寂しがらせることになっても、彼は娘を守るために奔走することを選んだのだろう。きっと母もそれを知っていた。だから、一言だって父を責めはしなかった。
それもわからずに父を責める娘を、母は、どんな気持ちで宥めていたのだろう。
父を認めたくなかった。批難を受けようとも娘を守ろうとするような、妹を亡くして涙を落とすような、そんな温度が彼にあるのだと思いたくなかった。公人に徹して理想論を振りかざす人間なのだと思いたかった。そんな父を憎む方が楽だったからだ。
自分を責めるよりも、そのほうが楽だった。なんて身勝手な感情だろう。
(ごめんなさい、お願い、無事でいて)
――まだ謝っていない。まだ怒っていないし、怒られていない。だからどうか。
地の底へ向かって走りながら、彼女は必死で何かに祈っていた。
やがて円筒状の高炉の下に、懐かしい少年の姿が見えた。
「……ユズリ!!」
張り上げた切実な声にも、彼は視線を上げない。空中に伸ばされた手は真っ直ぐに高炉の中心へ向いていた。
何層にも重ねられた鉄の殻の中、意思さえ持たない何かが脈打ったような気がした。
「ユズリ!!」
彼がようやくこちらを見た。驚くようにみはられた目に構わず、シファは階段を蹴る。
抱きつくようにして飛び掛られ、少年の体が床に倒された。空中に向けられていた右手をシファは夢中で押さえ込む。
「シファ、危ない――」
「うるさい!」
とっさに脳裏を過ぎったのは、属性反発だった。干渉能力は弾きあっている間は正常な効力を発しない。掴み取った手を、無理やりに掴み取る。
属性を同じくする力が触れ合い、空気が弾けるような痛みを覚えたが、シファは必死にその手を握り締めた。指が千切れそうだ。彼の手はひどく冷たい。自分の手が熱いのかもしれない。
耳の奥で悲鳴のように突き刺さる音が、やがて、ぷつりと途切れた。
「……!」
間に合わなかったのか。
シファは絶望に顔を上げる。
「……シファ」
耳に届いたのは、何よりも聞きたかった声だった。
どうしてだろう。
ユズリは呆然と、胸中につぶやいた。
どうして、彼女がここにいるんだろう。
無理やりに握り締められた手は離されてもまだ痛かったのだけれど、泣いたのは、彼女のほうだった。
「良か……った」
肩口でこぼれた声に、ユズリは困惑した目を向ける。
「良かった、生き、てた。……良かっ……!」
どうしてここにいるのかを聞こうと思ったのだが、彼女はそれどころではないようで、泣きじゃくりながらうわごとを繰り返した。
しがみつくようにして嗚咽を堪える背中に、彼は恐る恐る手を触れる。
「……シファ?」
「わかっ……わかってるわよ、勝手なこと言ってるって、わがままだって!……でも、そんな……勝手に、いなくなるなんて……!」
彼女の言葉は支離滅裂で、意味が良くわからなかったけれど、腕を握り締めた震える手は痛いくらい強かった。
「……シファ」
こんなにも強く、はっきりと、願われたのは初めてだった。死ぬ意味を初めて問うた男は無口と無表情が服を着て歩いているような人間だったから、彼にとって、それは生まれて初めて触れる、彼のための激情だった。
――いなくならないで。生きていてと、震える肩は何よりも雄弁に叫んでいた。
「シファ……泣かないでくれ」
困りきったユズリの声に、彼女は首を振った。泣いていないとでも言いたいのだろうか。
どうしていいのか解らなかったが、胸の奥が焦げ付くような思いがした。
(駄目なんだ)
ぼんやりとした思いに、彼は胸中へつぶやいた。自分がすべきことは、この少女をこんなにも苦しめる。それが、ひどく嫌だと思った。
(これじゃ、駄目なんだ……)
あまりにも他人任せでおぼろげな、それはようやく芽生えた自我だった。彼にとってはひどく不可解なものを持て余しながら、首を傾げる。
足の上に彼女が乗っていたので、だんだん痺れて痛みを訴えてきた。
こんなときにはなんと言うのだったろうかと考え込み、思いつかなかったので、ユズリは結局、一番好きなものを口にする。
「ありがとう」
こんなときにも「ごめん」じゃないのかと、シファは笑った。
――嬉しくて出た涙が、こんなに優しいなんて知らなかった。
*
それから半時ののち、帝国軍は管理局を完全に制圧した。
別動部隊での奇襲作戦が効を成し、人質に死人は出なかったものの、一瞬の油断からエネルギーシステムが一部損壊した。核自体に被害はなく、復興も可能であると算盤は弾かれたが、復元に掛かる費用と元のようなエネルギー供給が可能になるまでの損害額の大きさに、財務府は再び頭を抱えることとなる。
錯綜する情報の中、ヘルド帝国が声明を発表したのは、その日の夜のことだった。