16

ラプラス

 凍りついた空気は、蹴り飛ばされた男の体が機材にぶつかる、喧しい音で破られた。
 悲鳴を上げるように老いた体が軋んだが、レツィトは口から漏れた呻きを噛み殺した。

「……この、じじい……!」
「残念、だったな……貴様らなどに、この装置は直せまい……!」

 憎悪を撒き散らす若造を見て、レツィトは苦痛の中に笑みを浮かべる。
 寸前で照射目標を跳ね上げた彼の右手は、振り払われた際に強打して親指が曲がっていた。激しい痛みの中、局長としての役目を果たした男は、もはや叶うことない望みを思う。
 異常を知った軍は、すぐにここへ駆けつけるだろう。ユズリを逃がすだけの猶予はない。ようやく見つけ出した活路は、もう塞がれるのを待つばかりだった。

 ――すまない。

 一度目を伏せ、レツィトは敵を睨み上げる。
 命を落とすことになろうと、せめてこの国やこの都の、できうるすべてを守るつもりだった。

 

 

 

 混乱に凍りついた沈黙の中、ケリエ・サイセンがうめく様に吐き捨てた。

「こんな馬鹿な……どういうつもりなの!?」
「今のは……?」
「MEACよ! 冗談じゃないわ、何でこんな……!」
「落ち着いてください! 街に向けられていれば、この程度であるはずがありません!」

 恫喝の声に、ケリエは呆然とシファを見た。そしてすぐに、忌々しさをこめて舌打ちする。

「……どっちにしろ、冗談じゃないわよ。何考えてるんだか……!」
「聞き覚えがありませんが、MEACとは? 開発中の兵器ですか?」
「そうよ。MEASを利用した対空砲……まだ全然実用段階じゃないけどね。遠距離でモノ狙えるもんじゃないし……多分、制御部に不備起こしてる筈よ。だから、二度はない……」

 口にした説明に、自分で安堵したのだろう。小さく嘆息し、ケリエは短い髪を掻き上げる。

「二度目はないわ。一朝一夕で修理できる代物じゃないもの。あとは……」
「……IRE」

 呆然とした呟きが落ちた。
 空回るような音が割れるように耳元で響いていた。ユズリに近づいているというのに、消えるどころか強くなっている。
 バシュタルト総司令官の言葉を信じるなら、『箱』は本来自分を守るための絶対的な能力だ。けれどその安全は、MEAS内部に蓄積されたIREが爆発しない限りのものである。

「臨界を超えるということですか?」
「……そうよ」

 顔色を変えて踵を返したシファに、イェンが慌てて腕を掴んだ。

「どうする気だ?」
「予定は変更しないわ。軍が来てからじゃ遅い」
「馬鹿、落ち着け! この状況で何ができる!?」
「相手は素人よ。地下の動力源を破壊すればMEASは停まるわ!」

 振り払おうとした手は、逆にきつく腕を握り締めた。弾くように睨み上げたイェンの顔は、いつになく険しいままシファを見据える。

「……放して」
「駄目だ」
「このままじゃユズリが死ぬのよ!」
「だからどうした!!」

 感情に任せた叫びに、シファが目を瞠った。

「実戦経験もないくせに生き残れるとでも思ってるのか!? 殺すのを躊躇してるうちにやられるに決まってる! それとも全員生け捕りにでもできる気かよ! 頭冷やせ!!」

 畳み掛けるような言葉だった。反論の言葉がどうしても吐き出せず、シファは唇を噛んでうつむく。

「今ので、軍もこっちに向かってる。どう足掻いたって間に合わない。……諦めろ」
「……いやよ」

 細い声に、イェンが顔をしかめる。シファは顔を上げることが出来ないまま、吐き出した。

「……もう、何もできないで泣くのはいやなの……!」

 母が死んだとき、なぜ父を憎んだのか。
 医者でもない娘に病に衰えていく母を救うことなどできなかった。母の寂しさを消すことができるのも自分ではなかった。何一つできなかった。ただ喪っただけだった。
 ――帰って来て。帰って来て。お父様が帰って来てくれたら、きっとお母様も笑ってくれる。必死にそう願っていた想いは、裏切られたのだという憎しみに変わった。
 自分が求められなかったことを、自分の無力さを認めることができずに、その痛みを父へとなすりつけていただけだ。
 本当は、とうに気付いていた。

「……シファ」

 肩を震わせるシファに、イェンが困惑気味の声をかける。気まずい空気の中、彼女はゆっくりと呼吸を整えていたが、やがて唐突に振り返った。

「サイセン女史」
「あ……ああ、何よ?」
「地下の動力システムを停止させるには、どうすればいいかご存知ですか」

 ぎくりと身をすくめたケリエに、シファは平静そのものの声で問いかける。

「……東と西とあるけど」
「両方です」
「……そりゃそうよね。東はコード入力だけで、西は操作キーとコード入力よ」
「その操作キーはお持ちですか?」
「まさか。局長しか持ってないわ」

 ケリエが首を振るのを確かめ、シファは衛兵が帯びていた剣を拾い上げた。
 ちょうどいい位置に穴がないので、剣のベルトを腰に括りつける。息を吸って吐く間に、覚悟は決まった。

「停止用の鍵は、どこに?」
「局長室の、机の下にボードがあるのよ。そこね」
「コードは?」
「東が〇五二六二二、西が七四三三九〇」

 数値を頭に刻みこみ、シファはイェンをかえりみた。

「……MEASだけでも停めるわ。あなたは、彼女を連れて外に」

 ぐしゃぐしゃと髪を掻き回し、彼は肺の中の空気を全て搾り出す勢いでため息を吐く。

「解ってんのかよ……俺がお前に手ぇ貸したのは、あのままだと身代わりになるだの何だの言い出しそうだったからだってのに……」
「……しないわよ。そんな嫌がらせ」
「じゃあ何をやってでも生き延びろよ。自殺志願者に協力するなんざ、真っ平だからな」

 確認の声音だ。不思議そうに見返したシファにそっぽを向いた彼の顔は、不機嫌にしかめられていた。

「……あたしも、手伝ってもいいわよ」

 口を挟んだケリエに、二人は怪訝な目を向けた。彼女は軽く眉を上げる。

「局長室って最上階よ。あたしなら操作キーがなくても停止させられるし、二手に分かれられるんじゃない? こんなとこ放っていかれるよりマシだわ」
「……そうではなくて……何故です?」

 先ほどの質問には、動揺していたために答えたのだと思っていた。管理局の職員である彼女にとって、協力は職務違反に他ならない。

「ユズリを逃がしたいんでしょ。……あいつも、そうだったらしいからね」

 ケリエはつまらなさそうに鼻を鳴らし、こぼすように言った。
 あいつというのは、ヴィクトール・ケルグレイドのことだろう。そういえば面識があったのだと、シファはわずかに表情を和らげる。
 それは、すぐに掻き消えたが。

「……ありがとうございます。イェン、私は彼女と西側の動力室へ行くから、あなたは東をお願い」
「二手に別れるのか?」
「時間がないわ」

 渋る様子を見せたイェンに肯き、シファは缶のアルコールを口に含んだ。水音が気になるので置いていくしかない。
 気分の悪さと頭痛は引いたが、絡まるような音は耳の奥に響いていた。
 ――まるで、帝国の終焉を引き寄せるからくりのように。

 

 

 

 この施設を少人数で局部的に制圧するなら、最も優先されるのは制御室だ。
 シファがそう予測したとおり、高炉が設置されている地下は殆ど無人に近い状況だった。敵の目的はまだ明確ではないが、MEACなどという兵器を作動させた以上穏便なものでは有り得ない。当初の目的が失敗に終わったのだとすれば、MEASの高炉を破壊しようとする可能性も否定できない。
 唯一安心できるのは、IREが爆発を起こさない限り「箱」であるユズリの身に心配はないことだ。バシュタルト総司令官の言動からも、空間歪曲型の障壁は物理的な危険を阻むことが出来ると受け取ることが出来た。それは判断と言うよりも、むしろ不安がる自分自身に言い聞かせる理屈にも思えたが。
 ちらつくガス灯の明かりはひどく覚束ない。地下二階へたどり着くと、シファはイェンと視線を合わせた。ここからは二手に別れることになる。次の合流は目標を確保しての脱出時だ。何かがあっても、お互いに頼ることは出来ない。

「気をつけて」
「お前もな」

 短い言葉を交わして背中を向けると、振り返らずに走り出した。
 管理局の内部は外観に反して画一的な様相をしているため、同じ場所を何度も通っているような錯覚を覚える。管理局の中でも、高炉や管制室のある中央棟はそれなりに歴史が古い。
 鈍く響かない足音の中に、危なっかしいヒールの音が混じっていることにふと気付いて、シファはケリエをかえりみた。

「大丈夫ですか?」
「……ちょっと、ペース落としてくれると、嬉しいんだけど」

 自分の半長靴と違い、走ることを念頭に置かれていない靴だ。渋面で向けられた言葉に躊躇したものの、怪我をされては余計に足手まといになる。
 シファは舌打ちしたい気持ちを押さえた。耳の奥で、急き立てるように音が鳴る。

「動力室は最奥ですね」
「そうだけど」
「鍵はレバー・タンブラーですか?」
「……は?」
「先に行きます」

 怪訝に聞き返したケリエに言い残し、シファは薄暗い灯りに照らされた廊下を駆け出した。事前に確認していた配置図の通り、階段から最も離れた場所に、重々しく小さな鉄の扉が姿を見せる。剣を慣れない鞘に戻して確かめると、錠は聞いていた通りの型だった。
 コートの内ポケットから抜いたスケルトンキーを差し込み、がちゃがちゃと回す。いびつで貧相な金属は、数度目の引っかかりで一回転した。
 ウォードに引っかかる余分部を削った簡単なものだ。現在主流であるレバー・タンブラー錠の一般的な型であれば開くと太鼓判は押されていたものの、安堵に思わず肩が落ちる。
 ちょうど追いついてきたケリエが、呆れたように声を上げた。

「……ちょっと、アカデミーのお嬢ちゃんが何でそんなことできるのよ!?」
「つくりが簡単なんだそうですよ」
「そうじゃなくてねぇ……」

 彼女が言いたいことは解る。シファ自身、ニドから不恰好な鍵を渡されたときには、なぜこんなものをと呆気に取られたものだ。少なくともアカデミーの学科には開錠に関するものはない。
 胡乱げな視線を受け流して扉を開けると、隙間から稼動音とともに、こもった空気が流れ出した。内部は思っていたよりも狭く、黒い楕円状のタンクが中央に固定されている。
 ガス灯を探していたシファに、ケリエが憮然と声を掛けた。

「明かりならないわよ、ここ。ガス漏れ起こしたら大事だから」
「見えますか?」
「一応ね。ドア開けといて」

 頷いて、シファは影にならない位置で扉を押さえた。ケリエはタンク前の装置の脇にかがみこんで、パネルの螺子を外し始める。ドライバーなどよく持っていたものだと口の中につぶやき、シファは室内に視線を巡らせた。
 核を納めた高炉を稼動させているのが蒸気動力でないことは知っていたが、自己生産エネルギーの循環装置は考えていたよりも小さなものだった。幅はアカデミーの噴水と大差ないだろう。管理局の地下に収まるのだから当然といえば当然だが、今握り締めている剣を突き立てれば破壊できそうな規模だ。
 ――どいつもこいつも勘違いしているようだがな、この国はMEASがなくなったところでそう簡単に潰れやしねぇ――
 皮肉じみたニドの言葉が脳裏を過ぎる。
 我知らず剣の柄へ触れたとき、ケリエが思い出したように声を掛けた。

「……そういえば、聞いたんでしょ? あんたも『同じ』だってこと」

 ぎくりとして手を離し、シファはかろうじて平静な声で答えた。

「あなたもご存知だったんですね。……教えてはいただけませんでしたが」

 口にして初めて、違和感に気付いた。今までそれどころではなかったために思い当たらなかったが、彼女はユズリのことを知りながら意図的にぼかして話をしていた。騙されたと言っても、あながち間違いではない。
 それに何より――総司令官でさえ知らなかったことを、どうして彼女は知っているのか。
 ケリエは答えず、作業を続けながら訊ねた。

「あんた、これから一体どうしたいの?」
「……どうでしょうね」
「国を出るつもり?」
「何故です?」

 ――否定にならなかった。シファは胸中で舌打ちして表情を取り繕う。意図どおりの答えを返してしまったようで、ケリエは軽く鼻を鳴らして腰を上げた。
 コードを打ち込む白い背中はそれ以上を口にしない。言いようのない不信感を覚えて、シファは眉根を寄せた。

「父親には、何も言わないわけね」

 唐突にぶつけられた批難と、レバーが倒されたのとは同時だった。
 低く消えゆく稼動音の中振り返る女を、シファは口唇を噛んで見据える。

「そんな時間はありません」
「はん、言い訳じゃない」
「……邪魔をされる訳にもいかないんです」
「邪魔、ねぇ……」

 小馬鹿にした口調でいい、彼女は肩をすくめた。明らかな挑発に視線を伏せると、シファはため息とともに苛立ちを飲み込む。説得すべきは彼女ではない。
 内開きの扉と互いの位置を計算する。左足を後ろに踏み出したとき、小さな金属音が耳に届いた。

「……動かない方がいいわよ。帝国のものと違って、これは連射できないような玩具じゃないから」

 向けられた銃口に、シファは愕然と立ち尽くす。
 現在主流となっている前込め式のものは、撃つたびに弾丸と火薬の争点が必要となるため、狙撃や奇襲に用いられるのが主だ。
 その常識を覆すものが、帝国のものではないとすれば――

(まさか……!)

 警備の厳重なエネルギー管理局で、何かを成そうとするならば、最も簡単な方法は何だ?
 その問いに対するレックニアの答えは、自分たちの出したものと同じだったのだ。
 広い権限を持つ内通者。局長には劣るものの、MEASの主任技術員である彼女は十分に要件を満たしている。
 静まり返った部屋の中で、ケリエは淡々と続けた。

「この国は駄目だわ。支配地域を闇雲に広げて、大して役に立ちもしない能力者なんかの研究にかまけて。……MEASなんていう不安定なシステムの上に立ってるくせに、自分たちが正しいんだと信じて疑わない。古い古いって馬鹿にしてるレックニアに、火器でも医学でも劣っているくせにね」
「……甘んじて支配を受けろと? あなたは、レックニアが正しいとでも……!」
「そう、それよ。単純な二者択一。あんたたちには白か黒かしか存在しないのよねぇ?……正しいのは自分達だから多少の矛盾は仕方ない、レックニアは間違っているから否定しか許されない……馬鹿馬鹿しくてやってられないわ!」

 うめくように吐き捨て、彼女はひとつ息を吐いた。

「あたしはね。もう、うんざりなのよ。……だから決めたの。このふざけた世界の全部、利用してやろうってね」

 ――何を、勝手な事を。
 シファは胸中につぶやいたが、声にはならなかった。
 気付いてしまったからだ。彼女がこの国を裏切る、もっとも重きを占める理由に。

「……妹さんのためですか」
「だったら何よ?」

 笑みを掻き消して、彼女はシファを睨め据えた。そこには、肯定の響きしか残らない。
 そうであれば納得がいく。取引の対価であったにも拘らず、彼女の妹はまだ病院を移ってすらいない。恐らく、病名を知られないためだったのだろう。
 確かに彼女の言うとおり、レックニアの医学は帝国よりも発達している。一部の富裕層のみが利用できるものとはいえど、帝国での不治の病はレックニアでは回復可能であるとさえ吹聴されていた。彼女がそこに希望を見たのだとすれば、理解できない話ではない。

「そんなことより……いいの? 時間がないわよ」

 唐突に切り出したケリエに、シファは怪訝な目を向ける。

「……どういうことです?」
「MEASは事故が起きればとんでもない規模の被害が出る、危険なシステムよ。……じゃあ、こんな異常事態なら、『安全装置』はどう作動すべきかしらね」

 顔色を変えたシファへ、彼女は冷ややかに笑んだ。

「『MEASに異常が発生した場合、速やかにIREを処理せよ』――ここ一年、あの子はそう指示されてるわ」
「……!」
「『箱』はね、臨界に達していなくてもIREを爆発させることができるの。……四十年前と違って、研究は一応進んでるのよ。MEACと同じ、爆発させる方の技術だけどね。ちゃんと緊急用のスロープも用意してあるわ。もちろん出口は外じゃなくて、精霊王の残骸のお膝元だけど。……様子は飲み込めた?」

 どうにか平静を保つことが出来たのは、耳元で空回り続ける音がまだ煩いほどに鳴っていたからだ。IREはまだ爆発していない。ユズリはまだ生きている。
 けれどそれも、いつ消えてしまうか解らない。
 冷たくなる背筋に汗が伝う。シファは唇を噛み締め、銃口を見据えた。手傷を負ってでも最下層へ向かわなければ間に合わない。そんな感情を読んだかのように、ケリエは喉を鳴らした。

「もうひとつ、良い事を教えてあげる。レックニアの軍部にとって邪魔なのはMEASだけじゃないわ。やり手の総司令官でもない。元老院内の弱腰連中を唆す、国政の元首――そう、あんたの父親よ」
「な……!」
「馬鹿みたいに権限の広いガーディアンが、可愛い可愛い娘のことで話を持ちかけたら……いくら用心深い人間でも、何も知らずに、のこのこと部屋に入れるでしょうね」

 彼女はひどく愉快げに、笑みを深めた。

「さあ、どうする? 今なら間に合うわよ。選ばせてあげるわ……父親か、あの子か」

 シファの顔から血の気が引いた。怒りか恐怖か解らない感情に震える指先を握り締める。
 落ち着け。落ち着かなければ。相手の言葉がどこまで本当かも解らない状況で、感情に流されてはいけない。
 そう考えれば考えるほどに喉が乾いた。
 どうすればいい。どうすれば――いや、どちらを優先しなければならない?
 必死に自問しながら、シファは視線を上げた。愉悦に歪む女の顔を睨め据え、声を絞る。

「……なぜ、そんなことを、私に……」
「さあね。どうするの? 時間がないわよ」

 彼女に確かな目的があるかどうかは解らない。ただ、自分に何かを選ばせようとしているように思えた。こんなに回りくどい事をしてまで、一体何を?

(……違う!)

 今はそんなことはどうでもいい。構っている時間などない。
 シファは指先に意識を寄せた。能力に必要なのはイメージとそれに連なる動作だ。剣を抜けば、その間に撃たれてしまう。

「私は……」

 脳裏に描いた風は赤い色をしていた。
 握り締めていた親指を強く弾き出す。不揃いに圧縮された空気が、目の前の敵に踊りかかった。

「きゃっ!?」

 短い悲鳴は銃声に掻き消された。左腕に走った熱さに構わず、シファは部屋を転がり出る。走りながら剣を抜くと、熱はじわりと痛みに変わった。狙いを逸らされた銃弾は掠めた程度だ。創を確かめる暇などないが、致命的なものではない。
 耳の奥で響く音は、割れるように続いていた。思い出したように吐き気がこみ上げてくる。これから最下層に向かえば、もっと強くなる。
 こんなときだと言うのに、泣きたくなった。

(ごめんなさい)

 誰にかはわからない。父にではないような気がしたが、自然に浮かんだ言葉が喉に熱くて唇を噛んだ。
 一連の状況を受けて、帝国は暗殺を警戒しているはずだ。いかにガーディアンといえども、要人中の要人を暗殺することは難しい。
 切迫しているのはユズリの状況だ。時間もない。父と違い、自分が止めなければ確実に死んでしまう。――だから彼を優先させるのは、正しい判断だ。
 だけど、それは、全て後からつけた理由のように思えた。今、自分は、父親を見捨てようとしているのだ。
 父が母を見殺しにしたのと同じように。

(……違う、そうじゃない!)

 シファは、胸中で激しく否定した。その必死さがまるで事実を認めようとしないもののようで、悔しさに歯噛みする。

(間違ってなんかいない。これで間違ってなんかいないのに……!)

 混濁した迷いを掻き捨てようとするが、それでも、取り返しのつかないことをしようとしているような不安が足に絡む。
 階段が視界に入ったとき、衛兵の制服を纏った男が階上から姿を現した。MEASが停止したためだろう。抜刀して走るシファの姿に、驚いた顔を見せる。

「な……お前、ここで何をしている!?」
「テッドワーズ! その子を捕まえて!!」

 遠く背後から飛んだ声はケリエのものだった。ヒールの打つような足音が、転げそうな勢いで近づいてくる。
 男が反射的に剣を握る。シファは外套の内側からナイフを引き抜き、数本まとめて放った。能力に意識をやるだけの余裕はない。
 驚いて振るわれた剣は、一本を残してナイフを打ち落とした。その間に懐へ飛び込んだシファは、空気の流れを意識しながら男の腹へ剣を振り上げる。
 火花が散るような音がし、防具の硬い手応えがあった。それでも、能力で強化された攻撃なら、内臓に衝撃を与えることはできる。

「がっ――」

 くぐもった声が上から降ってきた。折れた膝を力任せに払い、体勢を崩した男の首筋へ剣の柄を振り下ろす。
 頭二つ分大きな体が床に崩れるときには、ケリエが両手で銃を構えていた。

「……どういうつもり!?」

 唸るような問い掛けに、シファは男の制服を放した。盾にするには体勢が崩れている。視線を投げて、階段がすぐ脇にあることを確かめた。

「選んだだけです。……邪魔をしないでください」
「馬鹿言ってんじゃないわよ! 父親を見殺しにするっていうの!?」

 他人の言葉で突きつけられた言葉が、殴るように響いた。耳の奥の音さえかき消すほどに、抗うことすら許さず意識の中にねじこむ。
 相手が自分の選択を決め付けていることにすら、シファは気付けなかった。

「今までずっと、安穏と守られておいて……今さら、関係ないだの知らなかっただのって言い訳が通じるとでも思ってるわけ!? どこまで甘ったれてんのよ!!」
「……あなたに何が解ると言うんです!? ……私は……!」
「は! じゃああんたは何を解ってるっていうのよ! 父親があんたのためにどれだけ苦労してきたか、どれだけリスクを背負ってきたかも解っちゃいないくせに!……あんたが今まで、一体何をしてきたって言うのよ? 笑わせるんじゃないわ!!」

 ――あの人のせいではないのよ。
 悲しげな母の言葉が、消すことのできないしみのように浮かび上がった。
 目の前に突きつけられた事実が喉を塞ぐ。感情をかき乱して閉じ込めてしまう。

(私は)

 声にならない。苦しい。
 どうして、こんな。

(私は、そんなことは望んでいなかった)

 母を悲しませていたのは自分だなどと、認めたくはなかった。母がすべてを知った上で父を理解していたのだとしたら、今まで自分が拘泥してきたものは――あまりにも惨めでちっぽけな思い込みになってしまう。
 ずっと守られていたのだという、ただその事実だけで、すべての言葉が言い訳になる。

「いい加減、思い知るべきなのよ!! わかりなさいよ!!……何もできない? 当たり前じゃない! あんたは、ただ守られてただけの甘ちゃんなのよ!! 大事に大事に箱の中に入れられてるくせに、それに気付きもしないで……! あんたの父親が、あんたの周りの大人が!……どんな思いであんたを守ってきたか、少しは考えてみたらどうなのよ!!」
(私は)

 本当は解っていた。自分が認めたくなかったのは、嫌だったのは、そのことだと。
 すべての原因が自分にあるなんて思いたくなかった。本当は途方に暮れていた。どうしていいのか解らなかった。
 あんなにも、許せないと思っていたのに、一体何を憎めばいい。

「……それは、私への言葉ですか?」

 迷わないことなど無理だった。目の前が霞んだ。泣きたくなどなかった。自分がしなければならないことを、何度も思い出さなければ、このまま膝を突いてしまいそうだった。

「何を……」
「あなたは同じことを、妹さんに言えるんですか?」
「なっ――」

 険しい顔で絶句するケリエを、シファは顔を上げて見据えた。

「他人を踏みつけにして守られて、それを受け入れろというんですか? 説明もしないで、ただ何も考えずに感謝しろとでも言うんですか!?……守られていたのは確かです、わかります、だけど……私にだって、守りたいものがあるんです!」

 父はずっと、何も言わなかった。あの日、何も知らずに父をなじった娘にさえ、すべてを飲み込んで何も告げなかった。
 お前のためだなどと、一度だって言わなかった。
 少し考えれば解ることだ。あの地位に上り詰めるまで、彼がどれだけの辛苦を舐めて娘を守り続けてきたのか。どれだけのものを犠牲にして、隠し続けてきたのか――想像がつかないほど、子供ではない。
 だけどそれを認めるには、あまりにも胸に溜まったものが多すぎて。

「あ……あんたに何ができるっていうのよ! 無駄だって言ってるでしょ!?」
「それでも――」

 相手の動揺で銃口が逸れた。シファはためらわずに懐へ踏み込む。刃の鈍い煌きに、ケリエの顔から血の気が引いた。慌てて銃を持ち直した彼女の手を、シファの左手が捉える。
 銃声が鼓膜を打った。
 無理矢理に逸らされた銃口は壁を向いていた。至近距離にある深い緑の瞳が、記憶にある誰かを思い出させた。

「それでも、私は……ユズリに、生きていて欲しい……!」
 血を吐くような声に、ケリエが立ち竦んだ。無防備になった体に当身を受けて、彼女は床に屑折れる。その手から銃を奪い、シファは階下へ身を翻した。
 冷たい床の感触の中、遠ざかる足音を聞きながら、ケリエは項垂れた。
 わなないた唇から、声はこぼれなかった。

 

 

 ケルグレイドは口数の少ない男だった。優しいくせに無愛想で、不器用で。
 意識する前に惹かれていたからそれは全て好意で見えていたけれど、今となっては腹立たしいだけだ。大事なことは何も言わないで飲み込んで、勝手に裏切った。口下手だなんて言い訳にもならない。

『ユズリ?……ああ、「箱」の子のことね』

 他人のことを訊ねることなど珍しいので、少し驚いたような気がする。あの時にはもう自分は国を売っていたのだけれど、日常に大した変わりはなくて。
 彼が少年の境遇に同情していることには、すぐに気付いた。自分の分野である技術的な理由と、自分が納得しているわけではない政治的な理由まで挙げて説明したのだけれど、結局納得はしなかったようで。
 ただ黙り込む彼にさじを投げ、確か、こう言ったのだ。

『仕方ないじゃない。他に方法なんてないもの』

 そこで、彼はようやく言葉を発した。
 低く響く声はとても好きだったけれど、その時は、やれやれと肩をすくめただけで流してしまった。やれやれ、何も解ってないんだから。仕方ないわね。そんな気持ちで。
 あの時、彼はこう言ったのだ。
 そう、あの子と同じ目で。

『……仕方がないのか?』

 あのときの言葉は、本当は疑問ではなくて、
 もうそこで止まってしまっているこの国に、目の前の私に、責めるような思いがあったのかもしれなくて。
 だけど。
 だけど、私は――

 

 

「……ッ!」

 ケリエは険しい表情で顔を上げた。
 ふらつく体を叱咤し、どうにか立ち上がる。倒れた仲間から銃を手に入れ、少女を追って階段を駆け下りた。走りにくさなど、もう頭になかった。

(駄目よ。そんなの、許さない……!)

 シファ・エレニノフを初めて見たとき、何て甘えたガキなんだろうと思った。
 守られて育つことの幸福さも知らないで、何を粋がっているのか。父親がいない苦労を、母親よりも大人でなければならない苦痛を、知りもしないで。
 だから、あいつの遺志を継ぐような、馬鹿な真似をするのだ。
 同時に好都合だと思った。あいつは死んだけれど、ここに代わりがいる。見捨てさせてやればいい、あいつが守ろうとしたものを。それで全て否定できる。あいつが命をかけた全て。
 ――それは、ただの衝動だった。
 裏切ることは仕方がない。けれど裏切られるのは我慢ならない。理屈にすらならない感情論だったが、その矛盾に彼女は気付かない。
 最下層まで駆け下りたケリエは、肩で呼吸をしながら視線を巡らせた。行き先はわかっている。そう胸中に吐き捨てたとき、不意に不自然な影が差す。

「……!!」

 見上げる間もなく、気配が降ってきた。
 ケリエは身を捻って避けようとしたが、ヒールがパネルの隙間に引っかかる。姿勢を崩した瞬間、銃身を刃が弾いた。
 重い手応えと耳障りな音が、心臓に早鐘を打たせる。転ばなければ手首が落ちていただろう。床を滑った銃を目で追い、到底届かないと知ると、ケリエは諦めたように目を伏せた。
 ひどく呆気ない、穏やかな気分だった。
 引きつった呼吸を繰り返し、喉元に突きつけられた切っ先から視線を上げる。走り慣れていない足は、もう碌に動きそうになかった。

「……忘れてたわ……あんたも、一応、軍人に近かったんだっけ……」
「そうですね」

 シファは一瞬迷いを見せ、低くつぶやいた。

「妹さんは、もうあちらに?」
「は……そりゃあね」

 人質のようなものだと、ケリエは嘲う。
 馬鹿なことをしたものだ。こんな子供にこだわって、結局自分が追い詰められていれば世話はない。妹のためにこんなことを始めたはずなのに、結果的に妹を一人にしてしまうことになるなんて。
 彼女が他に武器を持っていないことを確かめると、シファは拘束もせずに剣を引いた。自分の甘さにか、ため息をつく。
 胡乱げに視線を寄越すケリエに、彼女は銃を拾いながらこぼした。

「教えてもらえますか?」

 静かな声だった。

「もしあなたが、いつか妹さんにあなたのしたことを責められたら……あなたは、どう答えますか」

 感情の消えて見える少女の顔は、先ほどの激昂のかけらも残していなかった。
 どうなのだろう。床の感触を手に覚えながら、ケリエは胸中でつぶやいた。きっと何も考えていなかったら、逆上して怒鳴りつけたはずだ。だけど、もうそれはこの子にぶつけてしまった。大事に大事に守ってきた妹が、いつかこの子と同じ言葉を口にしたら、自分は何と答えるだろう。

「……なにも、言わないことにするわ」

 するりと出た言葉に、自分で納得した。

「ごめんなんて死んでも言えないし、あたしはあの子のためだって思ってるし、わかって欲しいなんてわざわざ言うのも嫌だし。……それじゃ、何にも言えやしないじゃない。あんたのせいだわ。どうしてくれるのよ」

 八つ当たりじみた言葉に、相手は苦笑した。気をつけなければわからないほどの些細な変化は、かつて惹かれた男を思い起こさせた。

「何も言われないのも腹の立つものですよ。……生き延びてください。あなたには、まだ、守るものが残っているんでしょう」
「は? 何言って……」

 頑張るも何も、当局に捉えられては二度と会うことはない。怪訝に顔をしかめたケリエに、少女は再び、きびすを返して駆け出した。
 ケリエはその背中を呆然と見送っていたが、やがてずるりと壁にもたれた。まさか二度も見逃されるとは思わなかったので、天井に向けたため息はひどく気の抜けたものになった。
 疲れた手で、白衣のポケットに手を伸ばす。
 煙草の箱と一緒に出てきた物に視線をやり、彼女は呆れのような諦めのような、弱々しい笑みを浮かべた。