13

行く先への供犠

 ひどく疲れていたはずなのに、夜が明ける前に目が覚めた。
 アカデミーの寄宿舎とは違うベッドで、シファは気怠げに寝返りを打つ。自分が今いる場所が生家だと思うと、それに付随する様々な記憶が押し寄せてきた。
 父はきっと帰ってこなかっただろう。強権的であるのに顔も見せない。馬鹿なことをと叱りもしない。けれどそうなったところで、自分はきっと口を利かないのだ。簡単についた想像が、悔しくて唇を噛んだ。

(……情けない)

 ユズリに抱いていた感情は、何だったのだろう。最初は取引に対する義務感だと思っていた。次にはわずかな好意だと思った。けれど、それは羨望だったのかもしれない。命を賭してまで守ってくれる父親。その姿が、羨ましかったのだろうか。
 それだというのに、自分の父親がそうであったと知った途端、覚えたのは絶望だった。

(どうして、黙っていたの?)

 帝国の未来を誰よりも憂えている人間だと思っていた。母の死に際にすら傍にいなかった父は、個人的な感情など大儀のために犠牲に出来る人間だと、そう思っていたのに。

(どうして)

 どうして自分を庇っていたのか。執拗なほどの和平への姿勢は、よもや、すべて娘一人に起因していたのか。
 鈍い音が、静かな室内に響いた。
 叩きつけた拳に思考を打ち消してしまうことが出来ず、手に爪を食いこませる。耳の奥からカラカラと音がする。同じであったはずの少年との落差が、余計に感情を逆撫でた。

(どうして……!)

 知っていたならもっと時間はあった。彼の立場に殉ずるなら切り捨てるべきだった。愛して欲しい、守って欲しい、ああ確かに自分はそう思っていたのだろう。だけど、他人を踏みつけにして与えられた愛情なんて、誰が喜んで受け入れられる。
 ぎりぎりと握り締められていたシファの手が、ふと力を失った。

(……もう、疲れた)

 何も考えたくなかった。自分がどれだけのものを知らずにいたのか、どれだけの偽りの中で安穏と暮らしていたのか。
 それが逃げであることを、シファは耳を塞いで否定した。




      *


 ユズリが護送車から降りると、柵の中の一面の砂利の上に、管理局の無機質な公舎が広がっていた。
 砂漠の上へ孤独に佇む城のようだ。一切の有機物を持たないその光景は、ユズリにとってひどく違和感のあるものだった。
 その中から姿を見せた男は、疲れたような悲しいような、ほっとしたような顔をしていた。どうしてだろうかと首をかしげたユズリの隣で、老齢の女性士官が流れるような敬礼を示す。それに二、三の言葉をかけ、彼はユズリの視線に気付いたのか、どこか寂しげな笑みを浮かべた。

「それでは、レツィト局長――」
「ええ。ありがとうございます、中佐」

 護送車が去っていく音の中、彼は迷うような素振りを見せ、やがて何かを諦めたかのように訊ねた。

「何かが、見つかったかね。ユズリ」
「何か?」
「たとえば……そうだな。君が、守りたいと思うようなものが」

 まるで願うような声にユズリが思い出したのは、少女の泣き出しそうな顔だった。

「たぶん、そうだ」
「……そうか」

 先ほどよりも幾分穏やかに微笑み、局長は踵を返した。
 ユズリは自分の手に視線を落とし、軽く握り締める。年かさの友人はこの手を無理に引いて、そのままいなくなってしまった。彼女は、何かひどく怒っていたようだったが、手を離してくれてほっとした。
 きっと、自分はあの少女がいなくなるのは嫌なのだ。だからこれでいい。

(……ありがとうって、言えなかったな)

 その言葉は、ユズリにとって特別なものだ。正確にはそう説かれたのを鵜呑みにしただけのことなのだが、あの少女が初めて言った「ありがとう」は、何だかとても嬉しかったので、本当のことなのだろうと彼は思う。
 耳の奥で響き続ける音は、泣いているかのように聞こえた。誰がだろうと不思議に思いながら、彼は檻の中へ足を踏み入れる。
 冬の曇り空は、冷ややかに、赤煉瓦の施設を押しつぶしていた。




      *


 塞いだ気分へ重石を乗せるように、曇天は帝都を更に冷え込ませていた。
 何をするでもなく、ぼんやりとベンチで凍えている自分が滑稽で、イェンは自嘲気味に息を吐く。白く濁った色はすぐに消えた。それを眺めていた目の前に、少女の小さな足が立ち止まる。

「……風邪を召されますよ」

 細い声に顔を上げると、リーホア・エトセイルが、沈んだ様子で見下ろしていた。

「何か、用か」
「……シファが、戻らないんです」

 総司令官に計画の殆どを話したのは、他でもないイェン自身だ。シファが軟禁されているのであろうことは容易に想像がついた。良家の子女である彼女の場合、それが自宅であっただけのことだ。

「私、シファにひどいことを言ってしまって……お願いです、何かご存知なら、教えてください」

 イェンは沈黙した。リーホアは泣き出しそうな顔をするが、立ち去る気配はない。

 ――彼女は、少々入れ込んでいる節があるのでね。

 一通りの事情を説明した後、総司令官はそうつぶやいた。
 以前なら「まさか」と一笑に付したはずの考えだ。彼女は違うのだと、その辺りにいる女と一緒にしないでくれと――そう、言えなかった。
 女というものが恋を理由にして無謀な真似をすることもあるのだと、彼はよく知っていた。彼女のような、それまで恋に無縁だと思われていた人間がそうなりやすいことも。アスター公爵家が零落した要因は、まさにその女の情念によるものだったからだ。
 シファがあの男をかばうことで惨事を引き起こしてしまう以上、イェンには彼女を止める義務があった。
 ――それでも事実に変わりはない。
 彼女の信頼は、二度と還らない。

「リーホア」

 澄んだ目で見つめてくる、傷一つない少女には、きっとそんなことは解らないだろう。

「俺は、あいつを裏切った」

 瞠られた空色の目が断罪のように思えて、安堵を覚えた自分に笑ってしまう。だが、天使に譬えられる少女が見せたのは、責めるでも悼むでもない、静かな苛立ちの色だった。

「それで、あなたは満足ですか?」
「……なんだって?」
「後悔できないことならそれでも構いません。謝ることが出来ない事だって、あると思いますから。……だけど、それを言わないのは卑怯です。言い訳をしないのは潔いかもしれません。それでも、人を傷つけます。言われなければ解らないことだって、人間にはたくさんあるんです」

 卑怯というその厳しい言葉が、彼女には似合わないと場違いに思った。
 ふと、空色の瞳に、自嘲の色が浮かぶ。

「……勝手なことを言っているのは、わかっているんです。だけど……私は、あなたが羨ましいのに」
「羨ましい?」
「シファは私に、とても優しいでしょう?……その代わり……いいえ、だからこそ、シファは私を頼らないし、私の言葉を聞いてはくれないんです。私を守らなければいけないって、そう思っているから……守る立場にいるひとは、守る相手に弱さを見せないから。だけどきっと、あなたには甘えられるんです。シファは、あなたを対等に見ているから」

 考えもしなかった言葉に、イェンは呆然とリーホアを見た。

「自分ができないから誰かにお願いするなんて……駄目だって、わかっています。だけど、今、シファはあなたを必要としていると思うから……どうか、話をしてください。聞いてあげてください。お願いします」

 彼女は深々と頭を下げた。イェンはそこでようやく、目の前の少女がリーホア・エトセイルだということを思い出した。

(……女って……)

 心の底から、よく解らないと思った。引き出しの中に引き出しがあるものだから、何が本当の姿なのかさっぱりだ。
 もしかしたら、シファもそうなのかもしれない。強くて傷つきにくいように見える捻くれ者の彼女は、本当は――何度も泣くのを我慢していたのだろうか。
 イェンはため息をつくと、根の生えた腰を上げ、リーホアの頭を無造作に撫でた。

「……わかった。俺の負けだ」

 花開くようにリーホアが笑んだ。硬い表情がほっとほころぶのを見やり、彼も笑い返す。
 随分冷えてしまった。リーホアと別れ、コートを取りに戻ろうと扉をくぐったところで、彼は後ろから猛烈な勢いで追突された。

「だッ!」

 階段を踏み外しそうになって、ようやく踏みとどまる。
 敵をかえりみて、彼は抗議の声をあげた。

「……てっめ……何しやがる、ラオ!」
「やかましい! お前、なに抜け駆けしてやがる!!」
「は? 抜け駆けって――」

 そこでようやく、リーホアに対する先ほどの行為がまずかったのだということに思い当たった。幸い会話の殆どは聞かれていなかったようだが――本人がいかに妹や弟に対する気分でやったことであろうと、恋に落ちた状態の男の攻撃目標となるには十分である。

「……馬鹿、あれはそんなんじゃ……」
「ほざけっ! ずりーぞちくしょう!」
「知るか! 勝手に勘違いして八つ当たりするな!」
「背後からの攻撃に気づかねぇ野郎に言われたかねぇな! どうせリーホアの可愛さにぽーっとしてたんだろ!」
「違うっつってんだろ!?」

 不毛な言い争いは、そのまま祭りの後の中庭に大きく響いた。
 案の定、リーホア狙いの学生が便乗してくることとなり、イェンがアカデミーを出るのは昼をとうに過ぎた時刻になる。




      *


 眠ることも出来ないまま、時間は刻々と過ぎていった。いくら考えてもまとまらない思いに、シファは膝を握り締める。響くような頭痛が、余計に彼女を憔悴させた。
 これはMEASの影響だろうか。ここは管理局から随分と遠い。理由がどちらでも大差はないはずだが、気分は否応なしに沈む。
 ざわざわと自分の中からこぼれる音の煩わしさに唇を噛んでいると、混濁した頭が、昨日の記憶を掘り起こした。

(……どうしてなんだろう)

 あのとき彼に伸ばした手は、振り払われたわけではない。自分が離してしまったその手を、後悔しているのだろうか。

(駄目なのに)

 そう、後悔している。それでも、彼の手を離さないという選択はどうしても認められない。どう足掻いても、自分は、それが間違っているということを知っているのだ。
 それだというのに何度も何度もそのことを考えてしまうのは、そうしたかったと願っているからなのだろうか。

(そうすることは、出来ないのに?)

 だとしたら相当な馬鹿だ。滲んだ涙が許せない気がして、シファは膝に額を押し付けた。
 帝国はMEASを捨てることはできない。この国が広大な領土に混在した民族と宗教を支配していながら反抗勢力が多数派とならず、国としての形を保っているのは、レックニアという共通の敵と税の軽減とある程度の権利の保障が揃っているためだ。MEASを失えばそのバランスは崩れる。辿り着く結果は内乱と敗戦でしかない――それは余りにも簡単な理屈だ。頭ではこんなにも納得できるのに、どうして感情は言うことを聞いてくれないのだろう。
 ユズリを死なせたくない。自分とて死にたくはない。その願いが間違っていることなど、嫌になるほど知っている。それでも、目の前の現実を受け入れられない。
 あの時は感情に任せて、許されないことだと叫んだ。それは傲慢だと切り捨てられた。
 バシュタルトは知っていたのだ。もしも犠牲者が彼女の知らない人間ならば、彼女は仕方のないこととして受け入れただろうという事を。
 それは、人間としては当たり前の感情だ。既知の人間が――好意を抱いている相手が、理不尽に死ななければならない現実を、容易には受け入れられないことは。
 けれどそれが、シファには許せなかった。
 何よりも、自分自身がそれを受け入れられなかった。あまりにも身勝手すぎる。それでもその身勝手さだけが、じりじりと思考を侵食していく。

(あの瞬間をやり直すことが出来たとしても、私は、引き止めることなんてできないのに)

 幾度目とも知れない否定を繰り返したとき、部屋の扉が叩かれた。
 人払いしている筈だ。胸中で舌打ちし、シファはくしゃくしゃと髪を掻き回す。そのまま無視を決め込んでいると、ノックは次第に苛立ったような大きな音に変わっていった。しつこい割に勝手に入ってくる様子がないので、彼女は渋々とベッドを降りた。確実に悲惨な顔をしていると思うので、出たくはなかったのだが。
 扉を開けると、シファは驚いて目を瞠った。

「……何だ、その顔は」

 不遜な態度で言ってのけたのは、不仲であるはずの許嫁だった。

 

 

 

 義母が余計な気を回して、シファの私室にはあっという間に茶の用意が整えられた。
 その場で追い返すつもりが、あまりの珍客に呆然としてしまったのが間違いなく事態の一因だろう。投げやりな気分でため息を吐き出し、シファは椅子にもたれた。

「……それで、何の用?」

 ぞんざいな口調で問いかけると、カデナーノイ・バシュタルトは忌々しげに腕を組んだ。

「ぶしつけな女だな。愛想の一つも見せられないのか」
「何の連絡もなく押しかけてくるのは、ぶしつけじゃないのかしら」
「謹慎された許嫁を心配して何が悪い」

 ――どういう風の吹き回しだ。
 シファは心底嫌そうな顔を見せる。

「……大雪が降ると迷惑だから、その口を閉じて今すぐに帰って欲しいわね」

 あからさまな憎まれ口に、彼は珍しく激高しなかった。カップを戻し、冷えた声で返す。

「何をした?」
「……何のことかしら」
「昨日、父上がアカデミーにいらした。各地でレックニアの総攻撃が始まったにも関わらずだ。話をしたのはアスターのようだが、奴と父上の接点は貴様しかない」
「零落したとはいえ元は名家よ。バシュタルト氏も彼のお父上とは知己でしょう」

 白々しく返すと、睨みつけるような目で一蹴された。

「労働者を拾ったと噂で聞いたときから、妙だとは思っていた。貴様ならば、面倒を避けるためにそいつを隠すことなど訳もないはずだ。わざとそうしなかったとしか思えない。……そこにきてこの謹慎だ。答えろ、何をした? 俺だけが何も知らないのは気に食わん」
「……だから、何?」

 気に食わないのが、何だというのだ。ため息に近い声でこぼし、彼女は湧き起こる奇妙な苛立ちに視線を落とした。

「知ってどうするの? 私からそれを聞いて、あなたに何かできるとでも? どうにもできないことを知ったところで自己満足に過ぎないのに、好奇心だけは持ち合わせて。それで何も出来なかったらどうするのかしら。都合の悪い事実は嘘だとでも突き放して、耳を塞ぐ? 何の意味もないじゃない」

 一息に吐きだして、笑いたくなった。
 ――滅茶苦茶だ。そのまま、自分への言葉ではないか。

「……違う」
「おい……?」

 手に顔を伏せたシファに、バシュタルトが困惑した声をかける。

「ごめんなさい、ただの……八つ当たりだわ」

 そのまま、部屋の中に沈黙が降りた。
 顔を上げるのが苦痛だった。バシュタルトは憮然とした顔で黙りこんでいたが、やがて紅茶を飲み干して腰を上げた。

「話にならんな。俺はアカデミーに戻る」

 シファは肘を握り締めた。

「貴様は一体誰だ? 俺の知っているシファ・エレニノフという女は、生意気で小賢しくて図太い、諦めの悪い奴だったがな。貴様のような腑抜けた女は知らん」
「……言うわね」

 否定できない自分が滑稽だ。彼は構わず、冷ややかな言葉を投げつける。

「お前は最後まで、そこでいじけているつもりか?」
「……」
「俺を失望させるな」

 父親と同じ台詞に、シファは吹き出した。
 こちらを奮い立たせようという意図が明らかに透けて見える。本当に、彼の言葉とも思えなくて、何だか無性に愉快になった。

「……何がおかしい!」

 顔を真っ赤にして怒鳴るカデナーノイに、少し待てと手で示す。無理に声を飲み込もうとしたせいで、腹筋が痛んだ。

(ああもう)

 兄弟揃って、こんなに笑わせてくれるとは思いもしなかった。
 勿論、それは嫌なものではなかったけれど。

「だって、可笑しいでしょう。あなたが私を励まそうとしてるんだもの」
「……なっ……ば、馬鹿を言うな! 俺はただ貴様がうじうじと女々しいのが気に入らないだけだ!」
「まったく……本当に、そうよね。返す言葉もないわ」

 いつもなら、女々しいという言葉につけこんで怒涛のごとく反論を押し返すところだが、シファは笑って受け流した。
 そのとおりだ。いじけて現実に耳を塞いでいる自分はなんて情けないのだろう。今すべきことは必ずあるはずだ。何もかも終わってしまった後で途方に暮れるのでは遅すぎる。
 憤然と部屋を出て行く許婚を、彼女は笑みの混じるため息をついて見送った。

「ありがとう、バシュタルト」

 珍しい、彼女の悪意のない苦笑と呼び方に、カデナーノイが言葉に詰まる。
 その後で予想通りに顔をしかめてそっぽを向いたので、シファはまた吹き出しそうになる。舌打ちして部屋を出ようとした彼は、ふと、思い出したように足を止めた。

「さっきの答えだがな。俺は自分が知らされなかったことが気に入らなければ、教えなかった奴を責めるぞ」
「……それがあなたのためでも?」
「それはそいつの都合だ。俺の都合じゃない。判断材料も与えられていないのに、責任など取ってたまるか」
「子供の理屈ね」

 彼は思い切り顔を歪めた。

「訊ねておいてどういう言い草だ? 俺はお前の、そういう偉そうで理屈じみたところが大嫌いなんだ!」

 扉を閉めるけたたましい音を聞きながら、シファは可笑しそうに肩を震わせた。
 理不尽な現実を割り切ることが出来ないのは、子供だからだ。子供であるということを彼女は嫌っていたが、それは、大人であるということには繋がらない。
 どうせ子供なのだ。そう認めてしまうと、思った以上に気が軽くなった。

(……私の、欲しいものは?)

 望む資格がないと思っていた問い掛けを反芻する。他の全部を考えなければ、答えは簡単に出た。

「……行かなきゃ」

 顔を上げ、彼女は小さくつぶやく。
 少なくとも今だけは、その声に迷いが消えていた。