空は暗く沈みはじめていた。この季節、帝都の夕暮れはひどく短い。空気もさらに肌寒さを増していて、握り締めた掌に指先を冷たく感じた。
執務室の窓は警備上の理由から、外部から死角になる位置にくり抜かれている。薄暗さに目を細めると、急に部屋の照明が点いて、シファは一度目蓋を伏せた。
バシュタルトは彼女に椅子を勧め、思い出したように問いかけた。
「何か飲むかね」
「いえ……結構です」
耳の奥へ棲み着く音は、いつのまにか警鐘のようにけたたましくなっていた。胸を押す息苦しさも強くなる一方で、衝動に駆られて唇を噛む。精神的なものだとは思いたくない。
「……ご存知だったのですね」
「君らしくもないことをしたな。……あれが気に入ったか?」
「彼の父親に託されました。そんなものではありません」
バシュタルトが、わずかに目をみはった。
訝しげに見返したシファの前で、彼は肩を揺らせて笑い始める。
「は!……なるほど、巧い事を言う」
笑みに細められた目が、背中を粟立てた。嗜虐ささえ含み、彼はゆっくりと告げる。
「ヴィクトール・ケルグレイドと『彼』の間に、血縁関係はない。……あれは、私の息子だからな」
予想だにしなかった言葉に、シファは声を失った。それでは、今まで自分が根拠としてきたものは、全て引っくり返されてしまう。
「大方、あれの境遇に同情でもしたのだろう。赤の他人に手助けさせるには最適な虚言だが……馬鹿なことをしたものだ」
「……馬鹿なこと……ですか」
血の繋がった父親の言葉とは思えない。批難の響きに、彼は興味深げに顎を撫でた。
「すでに慣れたのだよ。十八年もそうしていたのだ。理解しろとは言わんが……君ならば、言わずとも理解しているだろう。違うかね?」
――頭が割れるように痛い。うるさい、と胸中で吐き捨てた。呼吸をすることすら難しく、膝の上で掌を握り締める。
「……構わないのですか?」
「今までにも散々聞いた台詞だな。無意味だとは思わないかね。何ら解決方法を持たないならば、それは他人の傲慢さでしかない」
どこまでも理性的な返答だ。帝国はMEASを捨てることができない。内部にも外部にもその理由は数多ある。解りきった答えだ。
けれど、その意味を噛み砕くことはできなかった。
目の前が霞み、シファは口元を押さえる。気を抜くと胃の内容物が逆流しそうだった。
「どうした?」
「……いえ……」
首を振ったが、声を発した喉が痛んだ。それが嫌悪感からきたものではないことをようやく理解して、シファは吐き気を必至に飲み込む。
様子の異変に気付いたバシュタルトが腰を上げたとき、部屋のドアが慌しく鳴った。
「失礼します、閣下――」
「入れ」
応じる声を受けて入室した佐官が、部外者の存在に放とうとした声を飲む。
バシュタルトは構わずに、用件を促した。
「何があった」
「も……申し上げます。エネルギー管理局から、緊急報告が入りました。IREが、急激に増大していると……!」
「……なんだと?」
「国務府より停止中の回復処理の再開が申請されました。……しかし、回復処理の停止が原因であると断定はできません。レツィト局長は、計画には反対しておりましたので……」
不信感をあらわにする部下に、彼は無表情で顎を撫で――ふと、ソファに座った少女をかえりみた。
その目が、得心が行ったように細められる。
「……閣下?」
「エレニノフの判断か……やむを得まい。近く三部会議を招集するだろう。そこで詳細な報告を受けると、そう伝えておけ」
「……は……」
佐官は反論を飲み込み、一礼して部屋を後にした。局長も、何の裏付けもなしに処理の再開を願い出るほど愚かではあるまい。恐らくIREという爆弾の処理と報告書の作成に忙殺されることだろうが、承認が遅れればまた揉める。厄介なことだと苦く笑み、バシュタルトは棚から酒の壜を出した。
黄金色の液体をグラスへ注ぎ、蒼白な顔をした少女へ差し出す。
「飲むといい。楽になる」
「……何の……冗談ですか……」
「毒は入っていないが?」
たちの悪い冗談で混ぜ返され、シファは苦々しげな顔で彼を見た。
それでもグラスを受け取り、一息ついてから口をつける。酒の強い匂いが鼻を突いたが、焼け付くような熱さとともにそれを嚥下すると、割れるように鳴っていた頭痛と吐き気が嘘のように消え去った。
酔いのせいではない。困惑した面持ちで、シファは総司令官の背中を振り返る。
彼は、壁に掛けられた剣を取り上げた。そのまま振り返らずに問いかける。
「気分はどうだ?」
「……これは……どういう――」
バシュタルトが唐突に抜刀し、振り向きざまに彼女に斬りかかった。
首のあった場所を剣が薙ぐ。反射的に床へ転がったシファは、体勢を直すために膝をついた。手を伸ばした先に剣を帯びていないことを思い出した頃、グラスが絨毯に落下して小さな染みを作る。それはそのままころころと転がり、やがて止まった。
一瞬大きく脈打って止まったかのようだった心臓が、再び壊れそうなほどの早鐘を打ち始める。
「何を……!!」
「……それもエレニノフの仕込みか。随分とニドにしごかれていたようだが……」
そのまま喉で笑い出した総司令官に、シファは困惑しながら呼吸を整える。彼は堪えきれない様子で笑っていたが、やがて息をついて、皮肉げにつぶやいた。
「あいつが、何故ああまで和平を求めるのか……彼の私に対する負い目も、君らしくもない行動も、すべてが理由のあるものだ。まったくもって、何もかも符号が合う。ようやく納得が行ったな……」
「どういうことです!?」
「剣の稽古を始める前、事故に遭った事は?」
「ですから、何の話を……!」
「君が咄嗟の危険に自ら対処できるよう……そう、己を無意識下に守る必要がないよう、ニドは殺さんばかりの厳しさで君を指南した。……なぜか? それは、君が何であるかを、何者にも知られぬようにするためだ」
何を言いたいのか解らない。困惑に揺らいだ少女へ、バシュタルトは静かに問いかけた。
「……不思議に思わなかったかね? 常の君であれば、この程度の事に感情的な反論など返さない」
「それは……!」
「それは共鳴だ。君は、『箱』の所有者なのだよ」
シファは打たれたように立ち尽くした。
信じがたい言葉が唇をわななかせる。声は出なかった。何を言おうとしたのか、彼女自身が理解していなかった。
バシュタルトは剣を鞘へ納め、冷えた声で続ける。
「『箱』は本来ならば自らを守るため、外宇宙に対して展開されるものだ。シェルターだとでも思えばいい。それを逆に展開することで、衝撃を内宇宙に完全に封じ込めるのだよ。核への共鳴は精神の状態にも影響を受けるようだが……主な症状としては、頭痛と吐き気だ。そして、アルコールによって抑制できる。……気分はまだ、優れないかね?」
「……私は」
「回復処理の停止が原因かどうかは不明だが、IREが増大している。『箱』は今までにない影響を受けているだろう。……あれは幼い頃から核に同調するよう調整しているのでな。先ほどまでの君は、大木の下の草のような状況だったというわけだ」
今は割れるように響いている音が、彼の傍では消えていたことを、シファは唐突に思い出した。
どうして忘れていたのだろう。どうしてもっと深く確かめなかったのだろう。自分が最初に彼に関わったのは、まさにそれが理由だったはずなのに。
「あれを守らねばならぬと、体の内から声でもしたか?」
答えを返さないシファを見て、彼はわずかに笑みを浮かべた。
「……安心するといい。それは『箱』がMEASに同調し、同族への保守本能を覚醒させたに過ぎん。……気に病むことはない」
違う、と叫んだはずの声が、喉で絡まった。
拳を固く握り締める。痛みを覚えても、混乱は鎮まらなかった。
「この事は他言無用だ。ただ、自分がそうであるという認識だけはしておくのだな」
信じられない思いで、シファはバシュタルトを見上げた。表情を拭い去った面からは、その考えを読み取ることが出来ない。
「なぜ……」
息子の身代わりにして然るべき存在であるはずだ。
それを見逃すと、たった今、目の前の男はそう言った。
「国政を司る者として、当然の選択ではないか?」
「……けれど、あなたは人の親でしょう!? 我が子と他人の命など、比べるまでもないことです!」
「異なことを言う。身代わりを望むほど、あれに入れ込んだか?」
「ごまかさないで下さい!」
烈しい声にも、彼は表情を変えなかった。
「この国に必要な犠牲だ。この国を動かす者として、選択できるものは限られている。……あれが『箱』であると知ったときから、既に決められていたことだ。あれ自身にも、己の命運を幼いころから説き伏せている」
「……ですが!」
「無駄な感情を与えるな。犠牲を強要される人間に、同情が何の役に立つ? 死にゆくものに余計な苦しみを与えるだけだ」
「では……ではなぜ、彼に教育を!? 諦めていないからではないのですか!」
彼はわずかに表情を歪めた。わずかに見せた苦い色は、恐らく迷いであったのだろう。
ゆっくりと息を吐き出し、バシュタルトは低い声で告げた。
「……私には、君の父親と同じ選択は出来ぬのだよ。シファ・エレニノフ」
シファは血が滲むほどに、拳を握り締めた。どうしようもないほどの衝動を痛みで押さえこむ。何が辛いのか悔しいのかさえ、見失い始めていた。
「……教えて下さい……どうしたら、こんなものを肯定できるんですか……!」
縋りつくような慟哭に、彼は答えなかった。
その判断を否定できないことなど、本当は解りきっているのだ。自分が間違っていることを知っているのに、認めたくないと駄々をこねているに過ぎない。
悔しくて苦しくて、目の前が揺れるようだ。
部屋に降りた静寂を破ったのは、焦りを感じる足音だった。バシュタルトが剣を壁に戻す。かちゃりという音が、まるで感情に鍵を下ろしたように響いた。
「……迎えが来たようだな。しばらくは大人しくしておくといい」
秘書室で言い争うような声が聞こえた。ほどなく、忙しない様子で扉が叩かれる。許可の声を受けて姿を見せたのは、記憶にある父の部下だった。
「お取り込み中失礼いたします。エレニノフ総監の御命により参りました。ご令嬢の身柄をお譲りください」
「……おや、大事な一人娘を迎えに来る暇もないと見えるな」
「公務中です。閣下が現在、場をお離れになるわけには――」
「それにしては、公私混同ではないかね? 君たちも要らぬ苦労をするものだ」
皮肉の応酬を聞きながら、シファは喉元までこみあげていた全てに対する怒りが、急速に小さく冷え固まるのを感じた。
何かを喪ったような疲労感が肩から足元へと染み込んでいく。視界が暗く沈む。まるで急に冬の夜を思い出したかのように、指先がかじかんでいた。
(もう、どうでも……)
そんな投げやりさが頭を過ぎったとき、もう一人の来客が遅れて顔を見せた。
「すまんが、そいつはうちの大事な生徒なんでな。連れて帰らせてもらうぞ」
唐突に割り込んだ声へ、ぎょっとした視線が集まる。国務府の青年官吏が愕然とその名を呼んだ。
「フ……フリス・ニド……!?」
「ほお。若者に知られとるとは光栄だな」
「……古い話だとはいえ、帝国の英雄の名だ。不思議ではあるまい」
バシュタルトの言葉に軽く片眉を上げ、アカデミーの教官は教え子を促した。
「エレニノフ、何をぼさっとしてる。帰るぞ」
我に返った黒服が、慌てた声を上げた。
「お……お待ちください! 我々は、エレニノフ総監から……!」
「あいつには言ってあるさ、そう目くじらを立てるな」
「し、しかし!」
「……良いと言っておるのだ、戻ってそう伝えるといい」
興味を失ったようにバシュタルトが言い、旧友を一瞥した。
「相変わらずのようだな」
「そりゃお互い様だ。ガキ虐めて楽しいか、お前は」
彼は答えずに鼻を鳴らした。やれやれと首を振り、ニドは座り込んだままのシファに近づく。
「おい、立たんか。帰るぞ」
腕を掴んで立たせると、彼は止める暇もなく軍本部から教え子を連れ出した。ただでさえ顔の知れた人物である。好奇の視線がちらほらと向けられたが、足を止められることはなかった。
外に出ると、沈みかけた夕日が路を赤く染めていた。
煉瓦に長い影が伸びる。
祭典の音楽はいまだ鳴り止まずに、あちらこちらで賑やかしく残り火を煽っている。
短い夕暮れを終えて、花火が夜空を飾るには、まだ少し時間があった。
いつの間にか腕は離されていた。シファは惰性で師の後を歩きながら、どこかぼんやりと、煉瓦の影を目でたどった。赤く染まる路はひどく静かに見えて、現実感がない。
「帰る頃には日が暮れるな、こりゃあ」
「……」
「腹が減っただろう。何か食っていくか?」
「……」
「……何とか言わんか。いつまでいじけとるつもりだ」
わずかに肩を震わせたが、やはりうんともすんとも応えない。ニドはため息をついた。
「難しいとは思うが、わかってやれ。あいつは――」
「言わないでください」
彼女がようやく発した言葉は、強く響いたわりに泣き出しそうな印象を抱かせた。
「……何を言われても……今は、否定しか出来ません」
頑なな言葉に顔をしかめ、彼は乱雑な手つきで頭を掻く。
「お前らはよく似た親子だよ。無駄に頭が回るもんだから、先回りして逃げちまう……全くなあ、厄介なとこばかり似やがって」
「……」
「あいつはお前を守ろうとした。それは事実だ。……それくらいは認めてやれ。公平さなんざ、机を離れりゃただの幻想に過ぎん。血縁と赤の他人をはかりにかければ、前者に傾くのは自然だろうよ」
「けれど……父は、公人です」
「お前がそれを言うのか?」
冷ややかな声に、シファは唇を噛んだ。
母を優先しなかった父を憎んでいたはずなのに、今自分が口にした言葉は、それと全く逆のものだ。明らかな矛盾が渦まき、喉の奥で質量を増していた。
「政治家も軍人も、結局のところは人間だ。口で言うほど簡単なことじゃねえ。……人間が人間らしく生きようとするのは、誰にも止められん。……止めるべきじゃないと、俺は思っとる」
「でも、私は……そうは、思えません」
水道橋から見下ろす街路を、祭りから帰る子供たちが走っていく。眠ってしまった子供を背負う父親の姿や、古市で発掘したストーブを抱えて家路を急ぐ労働者、楽しそうに話しながらゆっくりと歩いていく老夫婦。
穏やかな光景を照らす、夕日は冷たい炎のようだ。涙を堪える役にも立たない。
「……これはおかしい、あれは間違っている、そんなことは認められない……私は、そう言って否定するばかりで。……それなら何が正しいのか、自分で答えも見つけられないくせに……」
ニドはその横顔が見ているものを目で追い、難儀なことだと息を吐いた。
「……どうしたら良いんですか?……どうしたら、受け入れられるんですか? 守らなければいけないものも、他に方法がないことも、仕方がないことだっていうことも解っているのに……他にどうすることもできないのに、それでも、そんなのは嫌だって、そんな我がまましか思いつかなくて……本当に……」
――自分が嫌になる。
そうつぶやいた少女は、子供らしくないことを言っているようで、ひどく幼い子供のようでもあった。
ニドは若いことだと苦笑し、それ以上何も言わずに歩き始める。
何かを言われるよりもずっと楽だったので、彼女はうつむいたままそれに続いた。
彼が再び声を発したのは、連れ帰られた実家に足を踏み入れたときだった。
「シファ」
アカデミーに在籍するようになってから、名で呼ばれたことはない。振り返ったシファに、彼は口の端を持ち上げてみせる。
「お前はまだ子供だ。欲しいもんがあるなら、無理だの駄目だの聞き分けのいいことを言う前に、どうやったら手に入るか考えろ。多少の無茶はフォローしてやる。……それが大人の役目だ」
――欲しいもの。
口の中でつぶやいたシファは、そのまま表情を歪めてうつむいた。ニドはその頭をぐしゃぐしゃと撫でていったが、その手を振り払われなかったことに苦く笑う。
「お前は、生意気なくらいがちょうどいいな」
幼い頃と同じように、シファは顔を上げなかった。