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建国祭

 建国祭は初火・奏双・終記の三日間で構成される。最も重要とされる一日目は式典が行われ、それが終わると帝都の中央通りをパレードがゆっくりと回る。そしてその夜から翌日の日没にかけて、庶民がもっとも待ち望む大祭が催されるのだ。
 露店が市場や大通りを埋め尽くし、各地から集まった楽隊が空気を華やかに飾り立てる。夜には運河に花火が上がり、帝都の劇場には噂の女優を一目見ようと人々が押し寄せる。
 帝都のみならず、この日ばかりは帝国の領内にくまなく祭りが広がるのだ。中央政府の補助を受け、どんなに小さな街も食べ物と踊りでいっぱいになる。逆を言えば帝国はこの祭りに相当の予算を割くことになるのだが、国務府は民衆への解りやすい恩恵は平定に欠かせないものであるとの方針をいまだ覆していない。この日に気を緩めることができないのは軍人と警吏くらいのものだろう。

 ――そしてもうひとつ。奏双の日は、シファにとって少しばかりの違う意味を持つ。

 

 久々に足を運んだ生家は記憶と違う匂いがあって、なぜか安堵を覚えた。
 父が新しい妻を迎えたのは、その意味で、シファにとっても正解だったのだろう。幸福な幼い時間はもう記憶のかけらさえ埋もれてしまい、思い出すことは苦痛でしかなかった。
 明るくお節介な性格の義母をシファは嫌いではない。よくあんな父と結婚などしたものだと思いはするが、彼女は善良で思いやりのある女性だ。それはわかる。わかっているのだが――だがしかし、シファは現在、これ以上ないほどに渋い顔で紅茶をすすっていた。
 約九十度の角度から注がれる二つの視線は、確かめるまでもなく好奇心に満ち満ちている。そのひとつは彼女の義母であり、もうひとつは、今日十五の誕生日を迎えた従妹のものだ。

「……ただの噂です、義母上。どうしてそんなことになったのかは知りませんが……」
「だってシファ、アカデミーでも噂になってたのよ? 背が高くて、優しそうな人だって」

 ――お願いだから煽らないでリーホア。
 内心でうめくシファをよそに、上品な物腰の婦人が我が意を得たりとばかりに両手をあわせた。

「まあやっぱり! ねえシファさん、ご遠慮なさらなくていいのよ。本当のところは、どうなのかしら」

 国務府総監令嬢が、下町の労働者と恋仲である――彼女が用意した囮の噂は、そんなところにまで発展していた。近頃はやりの映画にしろこの噂にしろ、人々はよほど身分違いの恋というものが好きらしい。なにせ、わざわざ見物に寄る人間がいたくらいだ。

「……ですから、成り行きです。後は気まぐれです。ご期待に添えず申し訳ありませんが義母上が期待していらっしゃるような要素はどれだけ探しても一片たりとて存在しません。ただの噂です」
「まあ。そんなに恥じらわれなくてもよろしいのに……。もしかして、他に意中の殿方でもいらっしゃるの?」
「興味がありません。いい加減に――」
「そうねぇ、やっぱりシファさんでしたら、包容力と頼りがいを感じさせる方がお似合いだわ!……それは勿論カデナーノイ様も可愛らしい方ですけれど……やっぱりシファさんの横にお並びになるなら、もう少しお背を伸ばされなくてはね。相変わらず仲違いなさっているのでしょう?」
「……ですから、義母上……」
「今まで、色めいたお話は聞いたことがありませんでしたけれど……そうだわ、イェンさんっておっしゃったかしら。あの銅色の髪の殿方はいかが?」

 ――どこから聞いた、そんな話。
 シファは内心でうめいた。かの友人と義母は顔をあわせたことなどないはずだ。人払いしてまでの「内密な話」がこれかと憮然とするシファのカップに、リーホアがくすくすと笑いながら紅茶を注ぐ。
 義母が、誕生祝いにリーホアを招きたいと手紙を送ってきたときには、良い案だと思ったのだ。母を亡くしたばかりだというのに少年たちの浮ついた空気は消えず、放っておけば従妹が相当な苦労をすることは目に見えていたからである。いかにそれが好意であろうと、束になれば当人には迷惑でしかない。
 昼食の簡単なものではあったが、義母は心をこめてリーホアをもてなした。従妹の嬉しそうな様子を見て安堵していた矢先にこれだ。返事をする努力を放棄しはじめたシファに、義母は思い出したように話題を変えた。

「そういえば、シファさん。明日もお休みでしょう? ぜひ今晩は泊まって……」

 言葉の途中で、扉がノックされた。顔を見せたのは年若い使用人だ。シファには見覚えがなかったので、新しく入った娘だろう。

「失礼いたします。奥様、先ほど旦那様が……」
「あ! 待ってちょうだい」

 慌てて言葉を遮った義母が、彼女の背中を押してそそくさと部屋を出ようとする。
 彼女の目論みを察して、シファは苦々しい声で呼びかけた。

「……義母上」
「あ、あら。……何かしら?」
「申し訳ありませんが、これから小用がありますので」

 義理の娘の物言いに、彼女は頬に手を当ててため息を落とした。

「……折角の祭事ですもの、シファさん。家族でお食事くらい……」
「顔を合わせて諍いを起こさない自信はありません。祭事にわざわざ空気をささくれ立たせるものでもないでしょう」
「シファ、そんな言い方……! あの、伯母様、シファはここに来る前から用事があるって言っていたんです。ですから……」

 リーホアが慌てて仲裁に入る。ぎこちなく強張った空気に、シファは視線を落とした。

「……すみません。口が過ぎました」
「いいえ、わたくしこそ……ごめんなさいね、余計なことをして。……でもそのうち、お気が向かれたら……ね?」

 穏やかに促された同意に、うなずくことはできなかった。
 不仲である父娘の間に立ち、義母はしばしば二人を引き合わせようとする。シファにとっては疎ましい以外の何でもないことだ。
 それでも、彼女を嫌っているわけではない。だというのにどうだろう。ろくに顔を合わさない父よりも、義母をよほど傷つけている。

(……何をしているんだか)

 自分の中に抱えた矛盾が、ひどく子供じみたものに思えた。理屈で判断して理屈で動こうとしているつもりなのに、結局は感情に左右されているのだ。
 気まずさを引きずったまま再訪を約束して家を出ると、物言いたげにしていたリーホアが、つぶやくようにこぼした。

「ねえ、シファ」
「……何?」

 言いたいことは予想がつく。ため息交じりに促すと、彼女は悲しげにシファを見上げた。

「伯父様も伯母様も、シファのこと、とても大切に思ってるのよ?」
「……義母はね」
「違うわ、伯父様もよ。どうしてそんなに否定するの?」
「リーホア……」

 咎めるように名前を呼んだ。それでも彼女は、ただ痛ましげな目をするだけで続ける。

「本当のことよ。シファはそれを見ようとしていないだけだわ。見ることも聞くことも話すことも、最初から全部拒んでしまっているのに……どうして、そんなことはないなんて言えるの?」

 ――あなたに何がわかるの。
 膨れ上がる言葉を無理に飲み込み、シファは表情を消してリーホアを見下ろした。
 自分を見つめる空色の目が、ふと、泣き出しそうに揺れる。

「……そうやって、耳をふさいでしまうのね」

 虚を突かれて立ちすくんだシファに、リーホアはきびすを返す。離れていく小さな背中を、シファは呆然と目で追った。
 いつものような、困ったようにたしなめる口調ではない。自分を慕ってくる可憐な少女が初めて見せた、打つような批判だった。 
 シファは無言のまま、くしゃりと前髪を梳いた。
 ごまかす必要もない、表情をなくしたままの顔が、強張ったまま手の影に隠れた。




      *


 MEASは高エネルギー体を核として化学反応を起こし、汎用エネルギー(GPE)と精製不可エネルギー(IRE)の二種に分裂させることでエネルギーを生産する。
 そのIREへの対処としてケリエ・サイセンを中心とするチームが考案したのが、MEASの解離性回復処理である。簡単に言えば定期的に急冷却・高圧処理を施すことにより、総生産量に対するIREの発生率を抑制するというものだ。ただその間は生産が停止するため、機甲兵団構想の採択を目的として、実施率の削減を迫られているのが現状だという。

(……っつっても、何か妙なんだよな……)

 釈然としない顔で、イェンは書架にもたれた。検査研究部の資料は専門用語が多く、辞書を引きながらでも中々読み進められない。
 政治的な動きを見る限り、安全装置である「箱」に対する反発や疑念はあまりにも少ない。それに、空間歪曲型の障壁などという御伽話のようなものを作るだけの技術がこの国にあるのならば、それはなぜ軍事利用されないのだろう。それらについての全てを、ケリエ・サイセンは解らないと言う。――少なくともあれは、確実に嘘だ。
 何かを隠しているのは明白だが、だとすれば、一体何だろう。

(……安全だってのが確かなら、俺は別に構わないにしても……あいつ、どうするつもりなんだ?)

 シファ自身も予測していたとおり、今のところ、MEASについて国務府総監を失脚させるだけの材料はない。
 できるならこのまま諦めてくれればいいのだが、妙なところで意固地な部分のある彼女のことだ。それは期待できないだろう。
 どうしたものかと天井を仰いだとき、祭事で人気のない図書室の扉が開いた。何気なく身を乗りだして、入ってきた人物を確かめ、彼は書架に足を引っ掛けそうになる。

(な……嘘だろ!?)

 慌てて資料を隠すことは忘れなかったが、様子を取り繕えたかどうか自信がない。その男はイェンに気づき、薄く笑みを浮かべた。

「久しいな、アスター。お父上はお変わりないか」

 不自然に息を呑み、イェンは敬礼を向けた。
 ここにいるはずのない帝国の重鎮。軍総司令官、イーゲル・バシュタルトに。




      *


 言葉にされて初めて気付くなど、情けない話だ。
 省みてみれば確かにそうだった。聞きたくない話を、聞いても意味がないと決め付けて言わせまいとする。聞き流してしまう。今までずっと、そうしては来なかっただろうか。
 扉の前で沈鬱なため息を吐き出して、シファはようやく顔を上げた。今日の予定に落ち込んでいるだけの余裕はない。そう蓋をした後で、明日ならば落ち込むことができるのだろうかと栓ないことを考えた。
 それでも、少なくとも人の話を聞くようにはしなければ――ただし、相手が父である場合を除いて。

(……やっぱりそこは無理。駄目だわ、考えるだけで胃の奥が……)

 ぼやきながら翡翠亭の裏戸を開けると、ユズリが待ちかねていたように椅子を立った。

「シファ!」
「ど……どうしたの?」
「祭りに行きたいんだ。行ってもいいか?」

 飛び出てきた言葉にシファは沈黙し、ややあって、怪訝そうに問い返した。

「……は?」

 思い切り険を含んだシファの声に、彼ははっきりとうなずく。店の奥で、店主と夫人が苦笑をかわしているのが見えた。

「すごい人だから何なんだろうと思ったら、祭りなんだ。今日は外に出ていいんだろう? おかみさんが、シファがうんと言えば祭りを見てもいいと言ったんだ」

 シファは無言で両側のこめかみを押さえた。格好だけではなく、本気で頭痛がする。一体いくつの子供の言い分だ。

「……駄目か?」
「駄目よ」

 取り付く島もない断言に、むうとユズリが黙り込む。そこへマリンがのんびりと口を挟んだ。

「そんなに気をとがらせなくとも……どうせ出るんだし、別にいいんじゃないかねぇ。帽子被ってればわかりゃしないよ」
「建国祭は反政府勢力や敵国工作員の格好の標的なんです。それだけに当局も警戒態勢を厳しくしているんです。つまりのこのこと無防備に出歩いていい状況だから今日を選んだわけでは――」
「……ああ、そういえば昔、お嬢さんもキーン君に似たようなことを言われてたねぇ。熱出てるのに、どうしても祭りに行きたいって」
「そんな昔のことはともかく! そんな危険を冒すだけのものじゃないでしょう、常識的に考えて……!」
「厳しいねぇ。ほら、駄目だよ、若い娘が眉間に皺寄せて」

 ――駄目だ、話が通じない。
 基本的な価値観の違いに目眩さえ覚え始めていると、ふとユズリと目が合った。
 そのまま何を言うでもなく、けれど物言いたげに見つめてくる。

「……」
「……」
「……」
「……っ」

 沈黙の衝突に、根負けしたのはシファだった。

「そうまで言うからには、今すぐに出かけられる準備はしているんでしょうね?」

 半ば自棄になっての問いかけだったが、ユズリは必要以上に大きく頷いた。

「ああ。ばっちりだ」
「……ばっちりって……いいけど、もう」

 無表情で口にする単語ではない。言いようのない疲労感に肩を落としたシファを見て、それを教えた張本人らしい老婦人が、耐え切れず吹き出した。

 

 半月足らずの短い付き合いだったが、夫婦の間には思うところがあったらしい。戸口に出てユズリを見送る彼らの目には、どこか孫子を見るような色があった。
 元気でいるんだよという温かい別れの言葉に淡々とうなずく様子を、シファは呆れた気分で横目に見た。おそらく感謝はしているのだろうが、それが顔に出ないというのは損な性分だ。そう思って、はたと、自分もそうなのだろうかと思い当たる。
 寒空の下、大通りは驚くほどの人込みと熱気に包まれていた。人の波はシファにとってはまどろっこしい以外の何物でもなかったが、忙しなく視線を巡らせている少年には速すぎるくらいのものらしい。そのままふらふらと人ごみに紛れそうな気配に気を揉んだシファが、はぐれないよう言い聞かせようと振り返ると、彼は感嘆をこめてつぶやいた。

「すごいな」
「郊外からも人が集まってくるから。それより、はぐれないように――」
「なあシファ、あれは何だ?」

 人の話はちゃんと聞けと教わらなかったのだろうか。彼女は諦め気味に肩を落とした。

「……練り飴よ。せっかくお駄賃も貰ったことだし、買ったら?」
「そうだな」

 硬貨を握り締めて露天へ流されていく少年を、シファは周囲に気を配りながら追った。芝居小屋や特産物、屋台などの呼び声が四方八方から放たれる。雑然とした活気は独特の空気の濃度を持っていて、酔いが回りそうなくらいだ。この中で人を探すのは骨だろう。
 小銭を出すのにもたついているユズリの手から硬貨を拾い、シファは屋台の主人に手渡した。きょとんと見てくる少年に、主人がけらけらと笑いながら半透明の駄菓子を持たせる。それは鮮やかに光を弾いて、ガラス玉のように見えた。

「後がつかえてるから。……買い物をしたことがないの?」

 店の前を離れながら訊ねると、彼は何の迷いもなくうなずいた。世間に不慣れである様子は温室育ちを思わせたが、ケルグレイドという家名に聞き覚えはない。貴族階級でもないなら、一体どんな環境で育ったのだろう。

「これはどうやって食べるんだ?」
「棒が二本あるでしょう。それをこう回して、白くなるまで……食べたことがないの?」
「ああ。ほとんど外には出てなかったからな。祭りも初めてだ」
「……学校は?」
「行ってない」
「でも、勉強はしているんでしょう? 家庭教師でも雇っているの?」
「……まあ、そんなところだな」

 そんなところというのはどんなものだろう。書類の読み書きは難なくできていただけに、初等学校程度の学力には思えない。
 飴を練る暢気な横顔を、怪訝に思いながら見ていると、ユズリは白くなった飴を二つに分けてこちらに差し出した。

「何?」
「シファの分だ」

 無感動に言われて、目をしばたいた。
 わざわざ分ける意図が、シファにはよくわからない。別に欲しいとは思わないのだが。

「……ありがとう」
「ああ」

 形ばかりの礼を口にして受け取ると、ユズリがほんのわずか、唇の端を持ち上げた。

(笑った?)

 笑えるのかと意外に思う傍ら、軽い音を立てて心臓が早鐘を打ち始める。焦るように視線を外したシファは、それが何に似ているのかを察して愕然とした。

(まさか、そんなわけが……)

 否定すれば否定するほど、動悸が耳に痛い。シファは眉間に皺を寄せた。まさか、みっともなく真っ赤になってはいないだろうか。
 彼女の焦りなど気付いた様子もなく、ユズリはいつも通りの抑揚のない調子で言った。

「甘いものを食べると、元気が出るからな」

 甘い物って、子供じゃあるまいし――そう呆れたシファは、ふと驚いたように彼を見た。

「……そう見えるの?」
「何がだ?」
「私、元気がないように見えるの?」

 ユズリは考え込むように首をかしげた。

「ああ。いつもはこう……もっと怒ってる」

 今日も怒っていた気がするのだが、いつもはあれ以上に怒り散らしているとでも言いたいのか。
 それ以上何も言う様子がなかったので、シファは複雑な気分で飴を口に含んだ。柔らかな舌触りとともに、安っぽい甘さが広がる。練り飴なんて何年ぶりだろう。昔はそれなりに甘いものが好きだったような気もするが、アカデミーに入ってからはご無沙汰だった。

(……元気がない、か……)

 機嫌が悪いと評されることはままあっても、元気がないなんて言葉は久しぶりに聞いた。
 何だかむずがゆいような気がして、シファは飴の棒を屑箱に捨てながら話題を変える。

「もう一度確認するけど……あなたのことは、祭りに参加してる楽隊に頼んだから。トーラのダフズまでは一緒に連れて行ってもらえるわ。南部最大の港町よ。そこから、エスト・エンドへの船が出てる。船に乗るまで面倒を見てくれるはずだから、心配しなくていいわ」
「そうか」

 まるで小さな子供扱いの慎重さなのだが、ユズリは気にした様子もなくうなずいた。

「そのころは夏の初めだろうから、海が荒れていないといいけれど」
「夏になるのか?」
「そうね。ここからエスト・エンドまでは、少なくとも半年はかかるから」

 黙りこんだユズリに、シファは首をかしげた。何か問題でもあるのだろうか。

「……なら、駄目だ。行けない」
「え?」

 呆気にとられて、シファは思わず足を止めた。人の波が押し寄せ、彼らは自然と脇道に追いやられる。
 今更、何を言い出すのだろう。苛立ったようにユズリの腕を引いて、ざわめきが遠くなるほど大通りから離れると、彼女は噛み付くような口調で訊ねた。

「一体、何の冗談なの?」
「……間に合わない」
「何に? 言っておくけれど、今だって十分危険な状況なのよ。これ以上、帝都に潜伏するのは無理だわ」
「違う。戻らなきゃならないんだ」
「……何を言ってるの?」

 どこか決然とした口調が、さらに彼女の苛立ちを煽った。ユズリは感情の読めない目でシファを見下ろす。

「駄目なんだ。やるべきことがある」
「だから、何が――」

 路地に影がかかり、シファは口を噤んだ。
 その正体に気付き、愕然と視線を上げる。
 黒い外套とともに威厳をまとう男は、石畳の狭い路地に現れるには、余りにもそぐわない立場と空気を持った人物だった。
 凍りついたように足を止め、彼女はその男を見つめる。

「バシュタルト総司令官……!?」
「予想よりも、時間がかからなかったか……なかなか縁があるようだな、我々は」

 ――どうしてここに?
 頭を埋め尽くす疑問と動揺を押し隠し、彼女は必死に計算を打ち出し始めた。確認できる部下は二人。恐らく、他にも隠れているはずだ。既に包囲されている。
 彼女の焦りを見透かしたかのように、バシュタルトは薄く笑みを浮かべた。

「アスター家の少年に事情を聞いてな」
「手の込んだことを……わざわざ不信感を煽らないでいただけますか?」

 シファはどうにか皮肉を返した。まさかこの混雑の中で鉢合わせするとは思わなかったが、要は、最初から泳がされていたのだ。
 祭りを彩る音が幾重にも重なり、大通りからにぎやかに響いていた。ふと、目を伏せたバシュタルトが、笑みを消して口を開く。

「そろそろ、十分だろう。気は済んだか」
「……ああ」

 意図を測りかねた問い掛けに、予想だにしない場所から答えが返った。
 シファは打たれたように振り返る。ユズリは表情のない顔を、間違いなく総司令官へと向けていた。
 激しい混乱が脳裏を駆け巡る。冷静だと評された彼女に出来たのは、呆然とした問い掛けを口にすることだけだった。

「……一体、どういう……」
「ああ……なるほど、そこまでは辿り着いていなかったか」

 バシュタルトは再び口角を持ち上げた。今までに幾度も見せた、含みのある目で先を口にする。

「彼は、『箱』だ」

 心臓が凍りついた。
 箱とは、MEASの安全装置の名だったはずだ。空間歪曲型の障壁を作り上げる、使い捨ての障壁。

(まさか、そんな……!)

 一度使えば壊れると、ケリエ・サイセンは言った。それが装置でなく人間であるのだとすれば、それは――紛れもない死を意味する。

「大した騒ぎを起こしたものだが……満足したならば何よりだ。戻れ、ユズリ」
「……お待ちください! 彼が『箱』であるというのなら、帝国は子供一人を犠牲にして、MEASを維持するということですか!?」

 バシュタルトが片眉を持ち上げた。シファは怯まずそれを睨み返す。感情的な批難だということは解っていたが、それよりも、止めなければという衝動がまさっていた。

「それが、何だね?」
「許される筈がありません! そんな――」
「許されない?……随分と傲慢なことを言う。私を失望させないでくれたまえ」

 逆流した血が頭を打った。目の前が真っ白に染まり、一切の言葉が喉の中に消える。彼の言葉が正しいと思ったからこそ、言えることなど残ってはいない。
 蒼白な顔で唇を噛む少女を一瞥し、バシュタルトは促すように名を呼んだ。

「ユズリ」

 うなずいて離れようとした彼の服を、シファはとっさに掴んだ。驚いたように振り返ったユズリに、言葉が出ずにうつむく。

「シファ……」

 何かを。
 何かを、言わなければ。
 このままでは駄目だ。こんなことは駄目だ。それがなぜかは解らないけれど、ならば、何を言えばいい?
 ――自分が正しくないことくらい、理解しているくせに。

「いいんだ」

 穏やかにさえ告げられた言葉が、砕けるように響いた。ユズリは、彼女の白くなった手を、壊れ物のようにゆっくりと剥がしていく。
 きっと自分は、途方に暮れた顔をしているのだろう。低い声が理不尽なほどに優しい。

「……ケルグレイドも、同じ事を言っていた。だから、いいんだ」

 ――何がいいの?
 そう叫びたかった。手を離したくはなかった。けれど、大して無理にでもなくほどかれた手は力を失って落ちてしまい、それを追う形で視線を伏せると、顔を上げることが出来なくなった。
 意味のない衝動ばかりが自分の中で渦を作って、形を見つけることもできずに滞る。

「重要人物を保護してくれたことに感謝する。……本部まで来たまえ、質問を受けよう」

 総司令官の一言で、周囲が慌ただしく動きを取り戻す。
 芝居じみた白々しさにうなずくだけの気力さえ、そこには残らなかった。