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それはまるで、安らぎに似て

 期限があるというのは辛いものだ。
 学友たちがレポートの提出日が迫るたびに漏らす一言だが、今回ばかりはシファもそれを思い知ることになった。この場合は先送りにしてきたつけが回ってきたわけではないものの、睡眠不足と訓練と学科と出国手続きが詰め込まれた日程が何日も続くと、さすがに集中力が途切れてくる。
 もっとも、幹部養成課程では実地訓練が加わり、平均睡眠時間は四時間を切るという。アカデミーと違い実戦で使うための士官を育てる機関だ。厳格であるのは当然だが、このくらいで音を上げていては先が思いやられるだろう。それがシファには不甲斐ない。
 学科ならば睡魔と闘う苦痛はあるものの、まだ障害になるほどのものはない。それよりも、問題は実技訓練にあった。
 切れの悪い手足を叱咤しながら模擬剣を振り下ろす。鈍い音を立てて打ち合い、すぐに離れた。力差に逆らわず後方へ飛んだシファは、地面に足をつく前に左手を閃かせる。
 だが、瞬きをする程度の呼吸で、相手の長躯が目の前に迫っていた。

(しくじった……!)

 踏み込みが早い。能力に対する集中を急いで解き、一瞬で間合いを詰めたニドの剣を無理な体勢で受ける。中途半端に捌かれた刀身は、片腕で振っているにも拘らず、容易に翻って彼女の腹を打った。
 痛みに上げそうになった声を、どうにか飲み込む。それまでだった。息一つ乱さず、教官が矢継ぎ早に注意点を投げる。

「すぐに退こうとするな。相手の速さに騙されるんじゃねぇぞ、目が慣れた頃に仕掛けてくるもんだ。あとはやたらと能力に頼るな。隙ができる」
「……はい」
「よし、じゃあ走って来い。次!」
「はい!」

 緊張した声が上がった。負傷して退役したとはいえ、フリス・ニドは帝国の英雄である。隻腕となってなお圧倒的であるその強さに、憧れを持つ者は多い。
 痛みも治まってきたので、シファは静かに呼吸を整えた。剣を立てかけてもう一度間接をほぐしていると、先に叩き伏せられていた筈のバシュタルトが声をかけてきた。

「ずいぶんと悠長だな」
「どうしてとうに負けたあなたがここにいるのかしら。まさかもう走り終えたわけでもないでしょうに、ぼんやりして白昼夢でも見ていたの?」

 半ば反射で嫌味を返し、シファはふと首を傾げた。

「……珍しいわね。あなたが一人でいるなんて」
「ふん。貴様の浅はかな認識など、知ったことか」

 毒づいて視線を外す様子は、何かを言いあぐねているようにも見える。怪訝な顔で許婚を見返すと、彼はこぼすように言った。

「父上は……まさか、貴様に――」

 言葉半ばで、バシュタルトはいかにも不愉快そうに顔をしかめた。

「……いや、いい。それより、余計なことをするなよ。何を企んでいるのかは知らんが、貴様の行動は目に余る」
「随分な言いようね。貴方の鳥目に止まるほどのことはしていないわ」

 嫉妬でもしているのかとからかうだけの気力はなく、ため息のような声になった。彼は鼻を鳴らして背中を向ける。どことなく嫌な違和感を覚え、シファはそれを見送った。

(……怪しまれてる?)

 だとしたら、どこまで勘付かれているのかが問題だ。考えてみれえば、囮として世話をした青年のところまでは顔を出す余裕がなかった。
 予定が増えたと、思わず嘆息する。どちらにしろ翡翠亭には顔を出すつもりだ。逆方向にしなかっただけ、ましというものだろう。
 頭の中で算段を立て直しながら、長距離を均一なペースで走りきると、訓練場が歓声に沸いていた。あの教官に誰か勝ったのだろうか。顔を覗かせると、それに気付いた級友らが息せき切って彼女を呼んだ。

「シファ! ああもう、あなたもうちょっと早く帰ってきたら良かったのに!」
「……何?」
「イェンよ! 勝ったの! あのニド教官によ!?」
「すごかったのよ! 能力なしで、しかも三年生なんて初めてじゃない? 前から強いとは思ってたけど……」
「あ、ずるい!」

 なにやら妙にはしゃいだ少女たちに、シファは曖昧な返事をした。
 イェンは北端の生まれで能力を持たない。現在の帝国の風潮で、一般的に能力持ちは無条件に優先される傾向がある。必然的に、彼は余り注目されずにきたはずなのだが――

「……春の到来?」
「え? 何、何か言った?」
「……なんでここで、それが何だか想像できちまうんだろうな……」

 いつの間にか近くにきていたイェンが、うんざりしたようにこぼす。きゃあっと上がった声に渋面を見せていたので、シファは苦笑しそうになった。

「おらガキども、いつまでも騒いでねぇでとっとと次来い!……と……ああ、エレニノフ、戻ったなら医務室に行ってやれ。カルタテが呼んでるそうだ」
「何か問題でも?」
「毎度おなじみ、能力波の測定だろ。やっこさん、どうもお前がお気に入りだな」
「……」
「……あの中年女、まだ諦めてなかったのかちくしょう、っつう顔だな」
「……教官」

 イェンが隣で吹き出した。冷ややかに視線を送るが、慣れているせいか効いた様子はない。顔を逸らしてなおも笑い続ける。

「代弁してやっただけだ。優等生も大変だな」
「別にそこまでは思っていませんよ。疎ましいだけです」

 本音は十分の一ほどに収縮した。幼い頃に受けた検査の数々は否応なしに苦い記憶を呼び起こす。入学当初、貧血になるほど血を抜かれて以来、権力を振りかざすことも辞さず徹底的に避けてきたのだが――さすがに、堂々と吹聴できる話ではないだろう。父親を嫌っていながら父親の威を借りているのだ。
 利用できるものはすればいいだろうと友人は言うが、引っ掛かりを覚えてしまうのもまた事実だからたちが悪い。

 そんな風に、多忙だとはいえ、彼女の日々は概ね穏やかなものだった。
 心配していた捜索の手もなく、建国祭の前日には最低限必要なものを取り揃えることができたのは幸いだった。偽造旅券は本来ならば一月はかかる物品だ。勿論、支払った対価もそれ相応のものになったが。
 日程的には相変わらずの綱渡りだったので、シファは夜も遅くに翡翠亭を訪れた。床に並べた旅券や通行許可証はそれなりの数に上り、狭い部屋には足の踏み場がなくなってしまう。興味深げに眺めるユズリの様子には相変わらず緊張感というものがなくて、些細な質問に話がどんどんそれていったことに彼女が気付いたのは、三十分も過ぎた頃だった。
 ひとつ不自然な咳払いをして、シファは手書きのメモを差し出す。

「あなたの身元がわかれば、あなたを追う人間に見つかる可能性があるわ。だから、念のためにこの設定を頭に入れて、人に訊ねられたときにはこの通りに答えて」
「わかった」

 前回の例を教訓に易しく細かい説明を行うと、ユズリは素直に頷いた。
 しかしながら、前回も素直に頷くだけ頷きはしたのである。要は自分の意図が正確に伝わっているかどうかが問題だ。
 彼は手渡された紙を何の表情も浮かべずに読んでいたが、ふとシファを見上げた。

「名前も違うのか?」
「あなたの名前は目立つのよ。響きは近いものにしたけど……間違えないように、っていうのも難しいわね。人に訊かれたら、大抵の事は一緒に行く人が答えてくれるから、慣れるまでは黙っていて」

 考え込むようなユズリの様子に、シファは名前を変えるのが嫌なのだろうかと首を傾げる。嫌だと言われても、譲歩できる事ではなかったが。
 何も言わないならば放っておいても構わないということを学習していたので、シファはそのままぼんやりとベッドにもたれた。一通り彼が書類や証書に目を通したら、いくつか質問と確認をする役目が残っている。
 手も口も動かさずにぼんやりしているのは、今の彼女にとってひどく苦痛だった。毛布の差し入れが、余計に眠気を誘う。
 それとも、これはユズリのせいかもしれない。一見無愛想なこの少年は、言動が素直なのか抜けているのか解らなくて、肩肘を張ることも忘れてしまう。相変わらず苦手ではあったが、嫌なものではなかった。
 うとうとと眠りに引かれ始めたシファに、ユズリが首をかしげた。

「疲れてるのか?」
「そうね……少し」

 ぼんやりした答えに、苦笑を刻んでしまう。自分らしくもない。

「……あなたを守るって、約束したの。自分で決めたことだから」

 そう、いつの間にそれを忘れていたのだろう。最初は取引上の義務感だけだったはずだ。立場を理解しない相手に苛立っていたのに、今では、彼を無事にエスト・エンドへ送りたいと個人的にも思うようになっている。

「……眠いなら、寝てていいぞ。読んだら起こす」

 低い声でかけられた言葉に、夢現でうなずき――

 

 ――そして、空が白むころ目を覚まして、文字通り跳ね起きた。

「……ッ!!」

 血の気が引く音を聞いた気がした。もう夜が明けている。慌ててコートから引っ張り出した時計は、アカデミーでの起床時間まで二時間足らずを指していた。

「……起きたのか」

 どうやらつられて目を覚ましたらしい。寝ぼけ眼で声を掛けてきたユズリにすっかり寄りかかっていたことを理解して、シファは思わず立ち上がった。

「な、どうし、えっ……て、そうじゃなくて!!」
「なんだ?」

 唐突な動作に、毛布が床にずり落ちる。わけが判らないといった様子で、ユズリはシファを見上げた。

「起こすって言ったじゃない、どうして一緒に寝るのよ!」
「起こしても起きなかった」
「嘘!」
「本当だ」
「そういう意味じゃ……ああもう!」

 信じられない失態に思わず頭を抱えたくなったが、抱えている場合ではない。こんな時期に無断外泊したと知れたら大事だ。
 散らばった書類を引っつかんで部屋を駆け出たシファは、思い出したように顔を戻した。

「また明日来るから、続きはそのときに話すわ!」
「わかった」

 足音を殺す余裕もなく宿を出た。早朝なので人の気配は少ないが、新聞を配っていた少年が不思議そうな顔を向けていく。
 他に手段もないので大通りで馬車を捕まえ、座席にへたり込むと、シファは思わず両手にため息を吐き出した。

「……何やってるのよ……」

 そこではたと、渡すべき書類をすべて持ってきてしまったことに気付く。
 更には、今日が休日であることを思い出して、彼女は今度こそ頭を抱えた。