01

煉瓦の檻

 世界は東の獅子の誕生から、西の羊の終焉を予言した――帝国の歴史書は、誇らしげにそう説く。
 それは東端の軍事国であったフィエが周辺諸国と強引な統合を果たし、ヘルド帝国を名乗り始めた経緯そのものに起因する。大陸全土を植民地として治めんとしたレックニアと、それに抵抗する形で同盟国を併合し、同盟の名を冠して成立したヘルド。この時から、大陸は二大国時代を迎えたのである。
 全世界の石炭総産出量の七割を手中に収めるレックニアと、新興国の国力には歴然とした差があった。当然のこと苦戦が予想されたヘルドであったが、その戦況はエネルギー改革により大きな転換を迎える。ありとあらゆる面で不利を極めていたヘルドは、効率性の高いエネルギー生産装置MEASの開発を皮切りに、その技術と産業を飛躍的に発展させたのである。
 また、ヘルド帝国の誕生は、同時に女神信仰の時代の始まりでもあった。光のシアと闇のヴァネ――創造と破壊をそれぞれに司る対の女神は均衡のあるヘルドを守護し、特殊な能力を持つ人間を生み与えた。その事実こそが歴史の承認を得た証であり、ヘルドの正当性を表す。彼らはそう豪語した。
 レックニアの東部侵攻より八十年。解放を謳い領土を広げたヘルドは、今やレックニアと並ぶ大国となった。植民地の奪い合いから始まった戦争は二国対立の構造に決着をつけぬまま、大陸は奇妙な安定期に入っている。民衆は戦時に慣れ、戦禍を知らぬ帝都の日常は、平穏に似た形を模りはじめていた。

 ――それが、どんなに薄氷のものであるかを、誰もが理解しながら。


      *


 机上に山積した書類の中から、皺ばんだ手が報告書を持ち上げた。
 既に頭の中にあるそれを開くことはなく、リゲン・レツィトは焦る気持ちを押さえるように、指の腹で表紙を撫でる。再びひどくなった頭痛が声ににじまぬよう気をやりながら、彼は慎重に口を開いた。

「……どうか、ご理解いただきたいのです、佐官。現在の状況で解離性回復処理を停止すれば、先に提出いたしました報告書の通り、同量のエネルギー発生に係るIRE(精製不可エネルギー)発生率が約三割増加します。……現状の運用を維持したとしても、二年以内に臨界超過を起こす計算なのです。それを――」
『どうやら誤解があるようですが、レツィト局長。誰も、回復処理を完全に停止しろと言っているわけではない』

 苦笑に近い声に遮られ、彼は冊子の上で手を握る。

『機甲兵団構想を実現するには、可搬動力の量産が必要不可欠となります。現在の総生産量の、七パーセントをそちらに充てたい。……だが、最優先事項であるプラントの生産率を落とすわけには行かない。それならば総生産量を増やすほかない……何も、難しいことを言っているわけではありません。おわかりいただけるでしょう。そろそろ、首を縦に振ってはいただけないものか』
「……しかし、それは……」
『七パーセント。我々が求めるのはその数値です。可能であることを呈示していただきたい。……それとも、回復処理の実施率を半減させる他に、現実的な代替案があるならば、お聞きかせ願えますかな?』

 レツィトは険しい表情で目を伏せた。
 帝国はもはや、MEASなしには機能しないと言っても過言ではない。大型化した工業プラント、帝都を網羅する水道設備、主要都市を結ぶ鉄道――それらを動かすのは、すべてMEASと呼ばれるエネルギー生産システムだ。その需要を削ることが非常に困難であることは、この半年、二回りも年の違う佐官よりくどいほどの説明を受けてきた。
 それでもなお、彼には、それを受け入れ得ない理由がある。

「……紡糸工場の稼働率は、制限できるはずでは? 現地での生産を圧迫していると聞きます。多少の緩和は……」
『輸出量を落とすと? どの地域に対してです?一部地域への規制を緩和すれば、全域に反発が広がる。さらに、七パーセントもの削減は事実上不可能です。議会にかけるにはあまりに不適切だ』
「ならば、『箱』を使うことが適切だとでも――」

 返る答えはわかり切っている。レツィトが苦く言葉を噛むと、回線の向こうで嘲笑の気配がした。

『……ええ。適切だということです』
「彼の代わりなど、いないのですぞ」

 両者の間に沈黙が降りた。それは相手にとっても同様に重大な懸念であるのだろう。

『……臨界超過を経たのちには、二十年の猶予が予測されています。それならば、十分な時間があるといえる』
「その予測は五年前のものです。正確ではない。……次が見つからなければどうなるのです? 確実でない以上、一年でも一月でも、実施は遅らせるべきだと――」
『それを決めるのは、局長、あなたではない。専門家の役目はデータと可能性を示すことのみだ。指針は我々が下す。……あなたはただ、我々の求める答えを裏付ける資料を出せばいいのです』

 ――佐官ごときが。
 感情的な言葉を、レツィトはどうにか喉へ押し込めた。
 帝国の戦況は決して悪くない。だが、軍部は敵国に対する決定的な優位を求めている。機甲兵団構想の実現は、特殊能力者を優遇する国務府の方針よりも確かに実利的だ。
 エネルギー管理局は軍の科学部から始まった機関だ。管轄を国務府へと移した今なお、その影響力が切り離されることはない。この件に関する圧力の多彩さがそれを物語る。
 レツィトにはどうしても、自分たちが取り返しのつかない過ちを犯そうとしているように思えてならなかった。仕方のない――そう、仕方のないことなのだろう。理性は確かにそう告げている。だが、そう繰り返されるたびに、彼の感情は本当にそうなのかと叫ぶのだ。
 そしてそれは、いつでも、形にならないまま跳ね返り、無力に床に散らばるだけだった。これからもそれは変わらないだろう。この国は恐らく、滅びを目の当たりにするまで、変わることはできない。

「……なぜそうも急ぐのです……制御できぬ力は、災厄にしかならない……」
『そのとおりです。ただ、あなたはその力の正体を見誤っている。……レックニアこそが我々にとって最も強大な災厄であると、何故気付けないのです』
「……存じております。しかし、必ずしも機甲兵団が必要だとは考えられない」

 押し問答の様相に、相手が意図してため息を聞かせた。

『局長、あなたは優秀な科学者だ。だが、政治家でもなければ軍人でもない。その点を良くご留意いただきたい。我々も、この時期に組織を混乱させることは、可能な限り避けたいと考えています。……おわかりいただけますね』

 管理局の人事権は軍にはない。管理局局長のポストが急に空くことがあるとすれば、それは彼が死んだときだ。
 穏やかならぬ言葉に、レツィトはあえて沈黙する。

『我々に、時間は限られています。……色よい報告をお待ちしていますよ』

 叩きつけそうになった受話器をゆっくりと戻し、レツィトは利き手で顔を覆った。
 緊張の切れた空気は、そのまま疲労となって染み渡るようだ。詰めていた息を深く吐き出したとき、執務室の扉が鳴った。

「……入りたまえ」
「失礼します」

 部屋に現れた妙齢の女は、レツィトの様子に軽く眉をひそめた。
 短く切り込んだ薄茶の髪は、妙齢の女性にしては珍しいものだ。きつい印象を与える相貌もあいまって、科学者といういささか世間から浮いた単語を違和感なく冠している。
 チェックシートを置き、ケリエ・サイセンはしかめ面で上司の顔をうかがった。

「局長、ご来客です」
「こんな時刻にかね?」
「ええ。ご子息だそうですよ。どう手を回したのか知りませんが、財務府からも圧力をかけさせるつもりのようですね」
「……腰の重くなる話だな」

 息子の苦々しい顔を思い出し、彼は鈍い手つきで瞼を押さえた。お互いに辛い立場だ。だが、ここで退くわけにはいかない。
 上司の土気色の顔に、ケリエは報告書を一瞥した。タイプライターの無機質な字がつづる内容は彼女も熟知している。なにせ、その報告書を括るサインは彼女自身のものだ。

「お疲れですね。ほどよく倒れそうな顔色ですよ。……読み直せば数値が変わるわけでもなし、倒れる前に休まれてはいかがです?」
「そうも言ってられんよ、ケリエ。正念場でね。ここを空けがちなのは悪いと思っているが……」
「外回りの方が、今は大変ですからね」

 癇の強さを伺わせる口調に、彼は苦笑した。

「そちらはどうだ。報告がないということは前進も後退もないということだろうが……」
「芳しくはありませんね。E1は回復処理の実施以降、低下の傾向にありますが……問題はE2です。まったく、偉大なる先人は大したものを残してくれたものですよ」

 彼女は皮肉げに肩をすくめたが、口にしている事態は深刻なものだ。
 開戦後間もなく開発された新システムは、深刻なエネルギー不足の解消をもたらすと同時に、腹の内に爆弾を埋め込む結果を招いた。当時の熱狂は今から見れば馬鹿騒ぎだ。その馬鹿騒ぎが収まり、ようやくその爆弾の存在に気付いたときには、MEASは蒸気機関に代わり、帝国の産業を支える存在となっていた。
 現在の技術では、システムの核の内部に蓄積されていくIRE(精製不可エネルギー)を処理する手段はない。臨界値を越えたIREの爆発が引き起こす惨禍を承知しながらも、レックニアとの戦争と国内の情勢が、その危険なシステムを手放すことを許さない。

(……いや……そうではないな)

 彼は顔を歪め、自らの考えを否定した。
 本当にその惨禍を防ぐ手段がなければ、帝国はもっと方法を考えていただろう。最小限の犠牲で収める術を知っているからこそ、この愚行は容易く繰り返されるのだ。

「E2の予測最大値をもう一度計算してくれ。どうにか、あと二年はもたせたい」
「二年ですか? 回復処理をこのまま続けても危ないと――」
「わかっている。わかっているが、わからない人間もいるのだよ。彼らの頭の中では、事態は数値と文字でしかない」
「その結果は紙を飛び出すってこと、理解してないんじゃないですか? 冗談にもなりませんよ。この状況で処理を停止したら、一年もつかどうか……たとえ『箱』を使ったとしても、次の臨界までは十五年がいいところです。無謀ですね」

 あまりにも簡単に打ち出された仮定に、レツィトは打たれたように部下を見た。

「……君は、『箱』の発動を見たいのかね」

 声が硬さをはらんだ。ケリエがそれに気付き、ばつが悪そうな顔で目をそらす。

「そういうわけでは……でも、現状では他に方法がありません」
「それを見つけるのが、君の仕事だ」
「勿論です。そのメカニズムを解明することこそが、帝国の発展であり臣民の幸福だと思っていますから。……現状の処理を継続すれば、たとえ二年のうちには無理だとしても、次にIREが限界値に達するまでは二十年が数えられます。彼のような犠牲を繰り返さないためにも、能力の解析を急がなければ――」

 口調は淀みなかったが、冷ややかでどこか薄っぺらな印象を与えた。局長は険しい顔で部下を見据える。染み出るような気分の悪さが、そのまま刺々しい声になった。

「……君の好奇心を満たすようなことは、避けたいものだな」

 ケリエがさすがに気分を害し、反論の形に口を開く。
 だが、否定の言葉が音になる前に、局長室の扉が慌ただしく叩かれた。

「失礼します! 局長、こちらにおいでですか!」
「何だね、騒々しい」
「じ、実は、先ほど――」

 警備責任者が青い顔で状況を報告する。
 その内容に、部屋の二人も顔色を変えた。

「……ばかな! そんなことが――!」
「確かに、ヴィクトール・ケルグレイドなのね?」

 蒼白な顔ではあったが、ケリエは冷えた声で確かめた。警備員がうなずくのを見るや、白衣を翻して扉に向かう。
 怒りに駆られた背中に、局長が焦りの混じる声を掛けた。

「ケリエ、君は……」
「彼が手引きをしている以上、当局だけでは対応しかねるでしょう。……ガーディアンが視察に来ていたはずです。検査研究部主任として彼らに協力を仰ぎますが、よろしいですね?」

 射るような視線に、局長は渋い顔でうなずいた。苛立ちをそのままぶつけるように扉を閉め、ケリエは廊下を歩いていく。
 信じられないとは思わなかった。事実は事実だ。どんな理由があったのかは知らないが、許すわけにはいかない。

(……どういうつもりなの、あいつ……!)

 彼女は胸中に吐き捨てた。
 その顔に浮かんでいたのは、紛れもなく、裏切り者に対する烈火のような怒りだった。




      *


 ――どうしてなのだろう。

 ユズリは自問しながら、前を行く大きな背中を見上げた。
 その背中は常なら壁のように真っ直ぐで、岩のようにたくましかった。それも今は苦痛に曲がり、斜めに走る傷が赤く染めていく。
 もう、駆けるようにして追わなくとも見失わない。そのことが、どうしようもなくユズリの感情をざわめかせた。

 ――どうしてだろう。どうして、ついてきてしまったのだろう。どこまで行くのだろう。どこまで、このままなのだろう。

 狭い路地で唸り声を上げていた風が、唐突に止んだ。冷えた月の色は触れれば切れそうなほどに鋭く、切り取ったような影を煉瓦に落としている。

「ケルグレイド」

 呼びかけても、彼は振り返らなかった。
 数歩駆けて近づき、ユズリは声を投げる。

「少し、休もう。血が……」
「歩ける。気にするな」
「でも」
「黙っていろ」

 ユズリは釈然としない様子で男を見上げた。そこに不安より不満の色が強いのを察してか、男が痛みに結んでいた唇を、わずかばかり笑うように歪めた。
 ここにいては駄目だ――寡黙な男が彼に告げたのは、その一言だけだった。
 なぜ彼がそんなことを言うのか、どうして駄目なのか、ユズリには全くわからなかったし、今もまだわからずにいる。
 どうしてなのだろう。
 そう疑問に思うばかりで、彼は引かれた腕を振り払いはしなかった。彼が物心ついた頃から教わっていたのは指示に従うことばかりで、彼自身の判断など、求められることも許されることも一度たりとてなかったのだ。
 けれど、いかに世間知らずだとはいえ、彼の傷が放っておいていいものではないことくらいはわかる。ユズリがもう一度彼を呼び止めようとしたとき、低く響く声が、振り返らぬままに問いかけてきた。

「……エスト・エンドを知っているか」

 きょとんと目をみはる、一呼吸分の間があった。

「ああ。昔、本で読んだ」

 そうかと答えたきり黙りこむ男に、ユズリは疑問の目を向ける。
 エスト・エンドは、古い神を信仰する島嶼国だ。かねてより神秘の代名詞として御伽噺や民話の終着点に用いられ、民衆にも馴染みのある土地だったが――レックニアの再三の侵攻を退けてからは、ますますその得体の知れなさに拍車を掛けている。

「いいところだ……静かで、こことは風の匂いが違う」
「……ケルグレイド?」
「もしも――」

 男が全てを口にするより早く、けたたましい警笛が夜空に響いた。追っ手の姿を確かめるまでもない。舌打ちする間も惜しんで男はユズリの腕を掴み、入り組んだ道を駆け出す。
 引きずられるようにして走りながら、ユズリは場違いにも、こことは違う風というものを考えていた。
 この年かさの友人は、それを見せたいのだろうか。どんなものだろう。どんなふうに違うのだろう。それを感じたとき、どんな気持ちがするのだろう。

 少年の胸の中、それはまるで絵本のように、平面の印象にしかならなかった。