――あの人を責めないで。
悲しげに母は言い、水気のない手でシファの頬を撫でた。
――お願いよ、私の可愛いシファ。あの人を責めないで。あの人のことをわかってあげて。お願いよ、シファ……
胸の奥を、喉元に向けて引っかくような声だった。否定はそのまま喉の奥に押し戻されてしまう。
シファはうつむき、スカートを握り締める時分の手を睨んだ。小さすぎる手だった。何もできない無力な手だ。それが、潰してしまいたいくらいに悔しかった。
――おとうさまなんて、きらい。
その言葉をもう一度吐き出すことはできず、それでもその暗い炎は焼きついて消えようとしない。娘のそんな気持ちを察していたのだろう。母は最期まで、やがて頬を撫でてやることすらできなくなっても、同じ言葉を繰り返してばかりいた。
夫を誰よりも理解し、愛し、支えていた女性。母は理想的な妻だったのだろう。だが、父がそれに値する人間であるのか――今のシファに、うなずくことは出来ない。
母が眠るように息を引き取ったのは、花の咲く穏やかな日だった。医者にはもとより、春を迎えることはないだろうと言われていた。庭木が葉を落とし、雪に埋もれ、花をつける。母はその間、必死に病と闘っていたのだ。
だというのに、父は一度たりとて姿を見せなかった。
父が多忙であることは幼いながらに理解していた。それでも、母が病に倒れたのだ。明日をも知れぬ身となったのだ。シファは父が帰ると疑いもしなかった。それが叶わないことを知り、やがて願うようになった。その次には祈った。そして、とうとう絶望した。
家の人間は口を揃えて、旦那様はお忙しいのですよと言う。背中を向ければため息を落としているくせに、シファには、お聞き分けくださいと悲しげな顔をする。大事なお役目があるのです。仕方がないのです。そんな言い訳じみた言葉を飽きるほど聞かされた。
――それは、おかあさまよりも大事なことなの?
幼い子供の言葉に、彼らは痛ましげな顔を見せたものだ。その後で何と答えられたのか、シファはよく覚えていない。口先だけの否定など聞きたくはなかった。そんなことはないと言うのなら、なぜ父は帰ってこないのか。
母は寂しそうなまま、ひっそりと息を引き取った。
父を家に戻したのは、無機質で温度のない、信号で伝えられただけの、死去の報だった。
ニドは泣き始めた空から目をそらした。
細かな春の雨は凍えるようで、疲れた体から温度を奪っていく。白い御堂は淀んだ雲に押しつぶされ、かすむように見えた。
今も昔も、葬儀にいい思い出を持つ人間などいないだろう。ニドはまといつく香木の煙を追いやるかのように手を払い、ひとつ、ため息のように肩を揺らす。
真新しい墓の前には、動こうとしない小さな影が佇んでいた。故人と友の間にあった、まだ年端もない娘だ。母を失って気落ちしているのだろうが、このままでは風邪を引いてしまう。
雨足が忍び寄ったこともあるのだろう。娘の好きにさせていた父親が、ためらうような間ののち、細い肩に手を置いた。
ささやくような雨音を、不意に乾いた音が切り裂いた。娘が父の手を払いのけたのだ。驚いて壁から背を離したニドの耳に、まだ舌足らずな声が届く。
「あなたの……」
しゃくりあげたのは、一度。父親と同じ色をした瞳は、迷うことなく彼を見上げた。
「……あなたの、きたいにはこたえます。しなければならないことはやります。……だからもう、わたしに、かまわないでください……!」
目にも声にもありったけの憎しみを込め、幼い体の全てで、彼女は父親を拒んでいた。
震える声を残して、身を翻す。遠ざかる背中に、ニドはようやく声を取り戻した。
「おい――」
引き止めようとしたニドを、彼が手で制した。そのまま首を振るのを見て、胸中に苛立ちが湧き上がるのを感じる。
何も言うなというのか。あれだけの憎しみを抱かせ、それを浴びせられても。
泣き続ける天を仰ぎ、ニドは忌々しげに舌打ちした。喉に絡まる香木の匂いは、細い雨音の中に溶けて、次第に消えていく。
――あの人を責めないで。
すがるような願いは行き場を失い、空しさだけが、彼女の眠る場所へ横たわっていた。