白い夢




 帰りたい、帰れない、懐かしい場所。






 泣きたいような衝動に駆られて、目を覚ました。
 暴れ出しようもない、ただ胸を強く突く、きつく縛る感情。

 弘貴は額に手の甲を落として、ゆっくりと息を吐き出した。
 見慣れた天井が、伏せた目蓋の向こうに消えた。

 ――いつの間にか、眠っていたらしい。
 横になっておいて「いつの間にか」も何もあったものではないが、素直な心情としてそう思った。

 足がはみ出たソファーの感触は、悪くはなかったが寝心地がいいとはいえない。
 あちこち固まった筋肉を自覚しながら、彼は両目を利き手で覆った。

(今……何時だ?)

 日は沈んでいないようだから、まだ昼だろう。
 最後に時計を見たのが午前十時頃だったから、多分昼食は取り損ねた。

 懐かしい、夢を見た。
 内容はよく覚えていないけれど、高校の時の――夏の前の、ほんのひと時の季節。

 もうどこにもあの時間はないのに。
 今、自分はこうして生きているのに。
 何か不満があるわけでもないのに。

 懐かしい匂いのする場所。

 錆びた色の記憶があんまり綺麗に残っているものだから、美化してしまってどうしようもない。

 卒業してから一度も、母校へ足を向けたことはなかった。
 あそこには、もうあの場所はないから。
 あの空気は、もうどこにも存在しないから。
 そんなことはいやと言うほど知っていたから。

 ああ、違うのかもしれない。

 知っている。戻れないことも、その場所はもうどこにもないことも、これがただの感傷だと言うことも。
 けれど、それを思い知らされることに、無意識に怯えていたのかもしれない。

 自分が抱いていた思いを、彼女に告げることは結局なかったけれど、
 どうしても、この胸にこびりついているのは後悔ではなくて、悲しいのではなくて、ただ、とても――

(……とても?)

 口の中で反芻して、弘貴は目をあけた。
 自分の感情を表す言葉を見つけられずに、ゆっくりと息を吐く。

 あまりにも力ない思いは、好きだと言う言葉からは変質してしまった。
 なのに、まだ消えない。
 思い出すたびに、泣きそうになって、ただ苦笑するほかすべを知らない自分に、苦さを覚えるだけだ。

 満たされていたのだろうか。あの頃は。
 将来がどうなるかわからなかった、それを目指して努力していたあの頃の方が、それを手に入れた今よりもずっと。

 別れは知っていた筈なのに、それがあまりにも突然で、どうしたらいいのか解らなくなった。
 喉の奥で絡まった言葉はそのまま嚥下してしまって、自分の中に根を張っている。

 彼女が知ったら、どう思うだろうか。
 そんなことを考えて、口元を緩めた。そこには、やはり苦さが残ったけれど。

 多分、「困ったね」と、他人事のように、なのに柔らかに、苦笑して、呆気ない口調で、呟くように。

 仕草も声もたった一年でおぼろげになっているのに、余計に胸を引っ掻くような感触を覚える。

 痛みと言うには鈍い。
 思い出というには鮮やかすぎる。
 懐古と言うには振り切れていない、中途半端で曖昧な空洞。

 ――帰りたい。

 意味のない言葉だと思いながら、浮かんだ言葉を口の中で転がす。

 帰りたい。あの場所に。
 もうどこにもないと解っているのに。それでも帰りたい。

 あまりにも遅い、喪失感だった。

 

 

 ふと、近くにある人の気配にようやく気づいて、弘貴はようやく体を起こした。
 そこにいた少女の姿に、そういえば、と口の中で呟く。

 床に座って音楽を聴いていたはずの従妹は、気持ち良さそうに惰眠を貪っていた。
 その存在をすっかり忘れてしまっていた弘貴は、自分の過ぎた現実逃避の産物を思って、苦々しく笑う。

 まだ回り続けているCDプレイヤーの電源を落とし、弘貴は文の細い体を慎重に抱え上げた。
 喉の奥で声を絡ませ、文が顔をしかめる。起こしたかとひやりとしたが、ソファーに寝かせると、そのまま気持ち良さそうな寝息を立て始める。
 自分の部屋に戻ってタオルケットを取ってきて、未だ丸みの見えない少女の体に掛けた。

 開いた眉間が、従妹の顔をいつも以上にあどけなく見せて、思わず笑みを浮かべた。
 床に腰を下ろすと、額にかかった髪を指で払い、穏やかな寝顔に何故かひどくほっとする。

 帰りたい。そう思っても、帰ることはもうできないけれど。
 今を生きることが苦しい訳じゃない。不幸である訳でもない。

 守りたいと思う存在がある。
 幸せを、何よりも願うひとがいる。

 これもあいつの影響かもなと、やはり苦くは思ったけれど、悪くはなかった。
 妹のような存在であることは確かで、それを大切にすることがすれ違い続けた二人を目の当たりにしたからかどうかは、違うともそうだとも言い切れなかったが、ただ、幸せになって欲しいと思う気持ちだけは、本当だろうと思う。

 

 どうか、適うなら。
 こいつは、何も失うことがないように。