梅雨の候に

 あまりにも何気なくて、当たり前で。
 けれどそれを、本当に大切だと思っていた。
 失ってしまう前から過ぎ去ってしまうことを惜しむほど。
 楽しくて、とても好きだった。




「……鬱陶しい」

 ぼそり、と。
 神坂晶の唇から低い声が漏れた。
 放課後の教室に残っている人影は少ない。その一人である杉野弘貴は手を止め、彼女の方に目を向けた。
 晶はわなわなと震え、机を拳で叩いた。

「なんっであんたがここにいるのよ!?」
「うっわー、冷てぇな神坂。俺がこんなに目一杯愛情表現してるってのに」
「邪魔なのよ鬱陶しいのよ! 今すぐあたしの視界から消えてちょうだい、目障りだわ!!」
「へえ、そんなに俺のことしか目に入らない?」
「……」
「あ、オイ神坂、机はやばい机は」

 額に青筋を立てて、教室の簡素な机を持ち上げた晶に、三條が声をかける。
 それにしても、毎度毎度よく飽きないものだ。
 弘貴は肩をすくめ、二つ前の席で、慣れたように騒ぎを聞き流している真子に声をかけた。

「紙屋、悪い。ここって何でこうなるんだ?」
「どこ?」
「応用の3。微分のやつ。途中までは解説で解るんだけどさ、ここからここがさっぱり」
「ちょっと待って」

 涼やかな声で返して、彼女はノートをめくる。
 冷たい訳でもそんな素振りをしている訳でもなく、彼女のもともとの性分なのだが、これはまともに会話をするようになってようやく気づいたことだ。
 頬杖を突いてそれを眺めながら、弘貴は思わず唇の端を上げた。
 人の質問にきちんと答えようとする。彼女の嫌そうな顔などそう見たことはないけれど、自分とて忙しい、と切り捨ててしまわない少女だ。
 買いかぶりだろうかと胸中に呟き、笑いそうになってしまう。
 何でもいいのだ。確かに解らないのは事実だし、勉強している人間相手に無駄口ばかり叩こうとは思わないけれど、話し掛けるのが楽しいのは間違いないのだから。

「……ちょっと、杉野! あたしが目を離してる間に何してるのよ!?」

 唐突に飛んだ晶の声に、弘貴は真子と目を見合わせた。

「何って、数学聞いてる」
「教えてるんだけど」
「真子、あんたも自分がやることあるでしょ!? 杉野なんか放っとけばいいのよ!」

 まあ、あいかわらずとことんまでこちらを嫌ってくれているものだ。
 弘貴は肩をすくめ、大して気にした様子もなく返した。

「紙屋の教えかた上手いからな。悪い、つい頼っちまって」
「大したことじゃないよ。
 晶ちゃん、これくらい負担でもないから大丈夫。気にしないで」
「……っ!」

 弘貴はともかく真子にまでそう言われてしまっては、返す言葉もない。
 眉間に皺を寄せて黙り込む晶に、弘貴は笑いたくなる衝動を堪えた。
 彼女はとてもわかりやすい。ただその分というか素直ではなくて、怒鳴ることで心配性な自分に対する苦々しさを誤魔化していて、可愛らしいと思うのだが。
 いつぞやクラスの男子にそう言うと、三條とお前の趣味にゃついていけねぇと、思い切りきっぱりと返されてしまったのだけれど。

「神坂ー、そんな言い方することねぇだろ、紙屋心配すんのわかるけど」
「……別に、そういうわけじゃないわよ! あんたには関係ないでしょう!?」
「まあそこが神坂の可愛いとこなんだけどさ、誤解されっぜ?」
「……あんったの言葉はいちいち現実味がないのよ……ッ!!」

 既に何度繰り返されたか知らないほどのやり取りだが、これがこの時間帯にこの場所で交わされることは珍しい。
 今日はどこか欝気味に思えていたので、発憤させようというつもりなのかもしれないが――逆効果にならないことを祈るばかりだ。
 席を立って真子の隣に座った弘貴は、彼女が小さく笑うのを見て首を傾げた。

「どうした?」
「ううん、三條君、本当に晶ちゃんのこと好きなんだなって」
「あー……そうか?」

 あれを見てそういった感想になる辺り、彼女も相当変わっている。
 思わず胸中に呟いた弘貴に、真子はノートと問題集の解説を指し示した。

「ここだよね。だから、これを入れる前にルート内の括弧を計算して――」
「うんうん」

 シャープペンシルで薄く書き込みながら、真子が説明していく。
 ようやく納得して、弘貴は息をついた。

「……あー、なるほど、解った」
「そう? 良かった。後は基本のとおりだから」
「ああ。ありがとな、紙屋」
「どういたしまして」

 ――そう言って浮かべた笑顔が。
 なんだか彼女にはとても珍しい種類のものだったので、思わず魅入ってしまった。

 真子が首を傾げ、弘貴に問い掛ける。

「何?」
「あ、いや、悪い。なんでもねぇよ」
「そう」

 あっさりと納得して、彼女は自分が解いていたページにノートを戻していく。
 そうか、俺ってこいつのこと好きなんだなと、なんだか妙な納得をしてしまって、弘貴は頭を掻いた。






 梅雨には珍しい晴れの日だった。
 やけに蒸し暑かったのを覚えている。
 あの頃はただ普通に、同じ教室で大したこともない話をするだけでも、本当に楽しくて。
 高校という限られた期間しかいられない場所であることが、なんだか本当に惜しいと思っていた。

 けれど、思いもしなかったのだ。

 あまりにも唐突に、どうしていいか解らないほど前触れもなく、それを失ってしまうことになるとは。