「もしもし、神坂で――」
『あ、神坂? 俺だけどさ』
その声が耳に届いた瞬間、晶は迷いもなく、ほぼ脊髄反射で受話器をたたきつけるようにして通話を切った。
プラスチックのぶつかり合う烈しい音に、咲がびくりとして、恐る恐る振り返る。
(ああっ! お姉ちゃんの背中から闇が……っ!!)
それだけで、電話の主が知れた。
姉が毛嫌いしている人間はもう一人ほどいるのだが、ここまで徹底的に機嫌を損ねるのは一人だけだ。
実は咲にとってはケーキをおごってもらったりアイスを買ってもらったりジュースを買ってもらったりと色々恩恵を受けていて結構好きな「気のいいお兄さん」なのだが、姉にこれを言ったら確実に数日は一言も喋らなくなるだろう。
受話器を押さえつけたまま俯き、静かに肩を震わせる姉に、咲はびくびくしながらポテトチップスの袋を閉めた。
ついでにあまり面白くないラブストーリーを演出していたテレビの電源を落として、こそこそと避難しようとしたとき、玄関のチャイムが鳴った。
「あ……あたし出るねお姉ちゃん!」
慌てた声で言い、咲は玄関に向けて走った。
はーい、と返事をしながらスニーカーを引っ掛け、引き戸を開ける。
そうしてそこに立っていた人物に、思わず悲鳴を上げそうになった。
「さ……ささっ、三條さんっ! だって今電話……ええ!?」
「ああ、ケータイだったからなー。ま、そんなわけで。神坂いるだろ?」
「い、いますけど三條さん、あの、悪いこと言わないから本気で今日は止めといた方が……」
「おーい、神坂ー。デートしようぜー」
「あああああ! お願い話聞いてー!!」
あっさりと無視されて咲が叫ぶ。
――何でこう懲りないのこの人は!
泣きたくなりながら扉に縋りつくが、これくらいで諦めるような男であれば、とうの昔に姉から手を引いているはずである。
そうこうしているうちに、引き攣った表情の晶が玄関先まで来て、なんだか今にもぶちきれそうな空気で口を開いた。
「……あんた……一回死なないと、本気でわかんないみたいね……?」
低められた声が、どうにも冗談に聞こえなくて咲は青ざめた。
三條は気にした様子もなく、にこやかに笑って言った。
「まあまあ。受験生にも息抜きは必要だぜー?」
「今何月だと思ってるのよ!? 第一あんたと出かけたりしたらストレスは溜まるわ血圧は上がるわで気分転換になんてなりゃしないわ!!」
「冷てぇなァ。お前の顔見たくて足運んで来てんのに」
「あたしは今あんたの顔は杉野の次に見たくないのよ!!」
――凄まじいまでの拒絶だ。
つれないなどと言うレベルではない姉の対応に、咲は引き気味に口を挟んだ。
「……あ……あのさ、お姉ちゃん。ちょっとばかり言いすぎじゃ……」
「こうでも言わないとわからないのよ、こいつは!」
「あーあ、お前ってホント意地っ張りなー」
「ほら、解った咲!?」
大して答えた様子を見せない三條に、晶が人差し指を思いっきり向けて叫ぶ。
確かに、ここまで言われて愛想を尽かさない高校生と言うのは大したものだろう。
鈍そうには見えないんだけどなあと、咲は心底不思議に思って三條を見た。
けれど、と。
ふと、咲は思う。
夏の、あの凄惨な事件から沈みがちだった姉は、三條が来てからかう度にものすごく怒っていた。
本当に遠慮の欠片もなく、全力で。
一人でぼんやりしている時の姉は、どこか辛そうで、泣きそうで、自分を責めているような――後悔している様な顔ばかり、見せていたのに。
親友を助けられなかったことを、責めているのかもしれない。
そんなのは仕方のないことだと思うのだけれど、あまり紙屋真子と面識のない咲でさえショックだった事件だ――精神的に脆い姉が、自分を追い詰めてしまわないかと心配だった。
他人を怒るという行為は、そんな姉にとって、恐らくいい方向に働いていた。
もしかしたら、三條はそこまで考えていたのかもしれない。
――いつだったか、どうしてわざわざ怒らせるのかと聞いたときには、笑ってはぐらかされてしまったが。
「あの、お姉ちゃん……」
その間もぎゃんぎゃんと玄関先で言い合う二人に、見かねて咲が口を挟んだときだった。
背の高い父が、咲の後ろから三條を見下ろしたのは。
「……何の騒ぎだ」
「こんにちは、小父さん」
「父さん!」
にこやかに、三條が挨拶する。
母には良く冗談じみて「お母さん」などと呼んだりするが、彼は父親に対しては決して「お父さん」と言ったりはしない。
火に油を注ぐと言うことを、充分に理解しているからだろう。
頭のいい人なのになあと咲は思い、とりあえず父に前を譲った。
寡黙で常識家である父は、自分から理不尽な事を言い出したり門前払いを食らわせたりといった行動には出ない。
そう、とりあえず睨むだけだ。――その睨みというのは実のところ、以前咲に絡んできた高校生を、それだけで沈黙させたと言う逸話を持つのだけれども。
「最近、根を詰めすぎてるようでしたから、息抜きに誘いに来たんです」
「だから! あたしは行かないって――」
間髪入れず、晶が怒鳴る。
父が娘の肩を引いて、家の中に入れた。
「……聞いただろう。帰れ」
静かに話していると言うのに、なんだか妙に怖い。
ウチのお父さんって何者なんだろうかと咲が胸中に呟き、視線を外す。
三條は、内心はどうか知れないが見た目は笑顔を崩さないままで、恐らく晶に向かって言った。
「ヒロ・ヤマガタの個展なんだけど」
「……ちょっと……それって」
「タダでついでに記念品付き。おまけにメインの絵は今回を逃したらアメリカに持って行くらしいんだよな」
「……この、卑怯者……っ!」
「そんなに俺が嫌なら券だけやるけど。息抜きはそこそこやっとけよ」
そんなことを言われて、じゃあ券だけ貰いますなどと言える性格をしていない。
悔しそうに三條を見る娘を見下ろし、父は僅かに息を吐いた。
「……晶」
「と……父さんが一緒でいいなら……っ」
って、おーいお姉ちゃん、何処の世界に保護者同伴でデートやる高校生がいるのー!
「ああ、それじゃお願いします、小父さん」
ってそれでいいの三條さん!?
それは勿論、ここで嫌だだのと言ってしまえば、話がこじれるのは目に見えているが。
そうなったらお姉ちゃんは意地を張って行かないって言い出すでしょうが。
お父さんも勿論怖いでしょうが。
はあ、と咲はため息を落とした。
(……愛されてるなぁ……お姉ちゃん……)
果たして、それが事実か咲の勘違いかは知らないが。
無理やりに巻き込まれた咲が、道中の車内の空気に凄まじく疲労するのは、まだこの時点では決まっていなかった。