彼女がどんな人間だったのかを、弘貴はきっと今でも、わからずにいる。

 結局、付けられるのは推測くらいだ。実際のところなど本人にしかわからなくて、むしろ、本人にすらわからないものなのかもしれない。
 理由をあげることが出来なくても、ただ、思いだけは確かに存在したはずで。

 揺らぎ続けるまま、ただ静かに、この感情が消えるのを待っている。

碧空

 

 ことん、と小さな音がした。

 杉野弘貴は顔を上げ、シャープペンシルを置いた紙屋真子が、小さくため息をつくのを視界の端に引っ掛けた。
 窓のはるか上で、鳥が長く鳴いた。
 トンビだろうかと胸中で呟き、弘貴は彼女に声を掛ける。
  地球温暖化が警告されて久しいが、その影響か、梅雨の時期がやけに蒸し暑い。

「紙屋」

 真子が自然な所作で、弘貴に視線をやった。
 彼女の仕草は、そのほとんどにとても流れがあると、弘貴は思う。
 自然な、と表現するのが一番しっくり来る。真子は首を傾げ、放課後の教室の中で無人の机をいくつも挟んで、弘貴の言葉の続きを促した。

「神坂が心配か?」

 風邪で休んだ親友の名前が出て、真子は苦笑して答えた。

「ああ、うん、それもあるんだけど……」

 ふと、表情がかげる。
 なんでもないからと呟いた真子に、弘貴はシャープペンシルを回しながら、参考書に視線を落として言った。

「独り言なら聞くけど?」

 おかしそうに真子は笑った。
 けれど語尾はため息に混じり、視線をそのまま窓の外に投げる。
 珍しく晴れ間を見せた6月の空が、薄く透き通っていた。

 沈黙の中に、カチカチというシャープペンシルの芯を出す音が響く。
 真子は雲が青を掠めていくのを見上げながら、ぽつりと呟いた。

「……杉野君って、妹さんと仲いいよね」
「は?」

 思わず顔を上げて、弘貴は真子を見た。
 真子が首を傾げ、不思議そうに聞く。

「何?」
「いや、ああ、多分なんとなくわかるんだけどな。なんでそんな話になったんだ?」
「この間見かけたの」
「どこで?」

 日時と、百貨店の名前を挙げた真子に、ああやっぱりと杉野は苦笑う。

「従妹だよ。お互い一人っ子だし、まあ妹みたいなもんだけどな」
「……そうなんだ」
「似てたか?」
「うーん……そうだね、雰囲気が、似てるかな」

 俺はあんなに馬鹿明るい奴だと思われてるんだろうかと、弘貴は思わず胸中にうめいた。
 真子は苦々しく笑い、容貌には似合わない類の笑みを浮かべた。

「ちょっとね。コツでも教えてもらえたらなって思ったの」
「コツ?」

 妹と上手く接することが出来ないことを、彼女が悩んでいることを、このときまで弘貴は知らなかった。
 真子は人の感情に鈍くはない。加奈子が自身を嫌っていることを、ほとんど確信のように感じていた。気づいていたのだ。そしてそれを、どうにかしたいと思っていた。
 つまらないすれ違いが、どうにもならないような悲しい事件を引き起こすことなど、このときの彼らには想像もつかない事だった。
 弘貴は頭を掻き、中途半端なことを言うことになるだろうかと思いながら口を開いた。

「あー……何だろうな。特に好かれるようなことした覚えないんだけどさ」
「うん、でもあの子は杉野君のこと、好きみたいだね」
「……血ぃつながってないからかもな」
「だったら参考にはならないかなぁ」

 肩をすくめて笑った真子に、おぼろげにだが事情を推察して、弘貴が腕を組む。

「……紙屋ってさ。見た目わかりにくいだろ」
「そうかな?」
「怒ってるのかどうかとかさ。話してみれば結構わかるけど」

 ふーん、と興味深げに真子が肯いた。
 杉野は苦笑し、下手なことを言う可能性を覚悟で言葉を続けた。

「妹だろ? 仲良くしたいなら、そう言ってみるのもいいんじゃねえか」

 真子は何かを考え込むように、顎に手を当てた。
 うん、と小さく呟いて、ひどくすんなりと納得したように肯く。

「そうかもしれないね。ありがとう、やってみる」
「いや、まあ……そうだな、頑張れよ」

 幼い子供のように素直な返事に、弘貴は戸惑い気味に答えた。
 どちらかというと、解ったようなことを言ってしまったような気がしていたのだが。

 言葉を奇麗に受けとめることが出来るのは、彼女の美点だと思う。
 下手につつくと騙されやすそうだよなと思い、思わず笑った。

「なに、どうかした?」
「ああ、いや。なんでもねぇよ」

 首を傾げた真子に、弘貴は時計を見つつ言った。

「そろそろ帰るか」
「あ、そうだね」

 もうこんな時間なんだと呟いて、机の上を片付け始めた真子に、弘貴は意を決した。
 またとはないチャンスだ。逃す手はない。

「紙屋、家どっち?」
「和田のほうだけど」
「そっか」

 それなりに思いきって、緊張を噛み殺しつつ、何気なさを装って弘貴は言った。

「途中まで一緒に帰らないか?」

 驚いたように、真子が弘貴を見る。
 そして、緊張のしすぎで憮然として見える横顔に、笑って肯いた。

 






 梅雨が明ければ、高校三年の夏が訪れる。