いつかという言葉の中で

 

 事件の終わりは、一本の匿名電話から始まった。

 醤油醸造工場の近くに、死体が埋まっているという情報だ。半信半疑ながらも、被害者の名前まで出されたために、警察が現場に立ち寄った。すると、確かに何かを埋めた後があり、そこから腐乱した他殺死体が出てきたというのだから、話は冗談ですまなくなった。
 土中三十センチメートル程度の深さで、腐臭は地上に届かなくなる。それでも、すぐ傍に何ヶ月も死体が埋まっていたと言う事実は、近辺の住人を震え上がらせた。

 紙屋可奈子の死体が発見されたその後は、一言で言えば、大騒ぎだった。

 小さな街に起こった大事件だ。事実が明るみに出ていくうちに、人々はその奇怪さや残酷さにひどく興味を示した。
 平凡なサラリーマンが、前妻と子供二人を殺害し、さらに再婚相手の若い女性までも殺したというのだ。しかも被疑者である紙屋正和は自失状態で、おそらく精神に異常を来していると見られている。
 最初に発見されたのは中学三年生の娘で、新潟へ転校したと思われていた。万一起訴することになれば、検察側はこれを被疑者の計画的行動として使うだろう。更に、自宅で発見された妻の死因は検視の結果、疑問を残したまま窒息死とされ、その謎めいた死がさらにマスコミを煽り立てた。
 高校生の娘は家の床下に埋められていた。前妻の遺体はまだ見つかっていないが、生存の可能性は低いと見られている。

 問題は、被疑者がとても警察での取り調べを受けられる状況ではないという事だ。マスコミの報道によると、返答することはおろか、自分で食事をとることもままならないという。精神科医の医者は彼に二桁を越える病名をつけたが、それを治療することは出来なかった。

 事件は憶測で発展していった。

 彼らが事実を知ることは、きっと永遠にないだろう。

 

     *

 

 平凡なサラリーマンに、一体何が起きたのか。一体何が、彼をこの凶行に走らせたのか。
 リポーターが熱のこもった声で繰り返し、紙屋家が、すっかりお馴染みになってしまった斜めのアングルで画面に映った。
 似たような放送を繰り返すテレビを、晶はため息を吐いて消した。素晴らしい創作だと思う。以前から気にくわないとは思っていたが、徹底的にマスコミ嫌いになった。

 夏休みだというのに、報道陣は鬱陶しいほどに学校に押し掛けてきた。
 被害者の周囲でさえこの扱いだ。被疑者が勤務していた企業は、更にひどい状況だろう。
  なまじ進学校だったため、補習で多くの生徒が登校していたことが裏目に出た。学校側は対応に困り、補習の盆休みを早めるという事態になった。
 被害者の数少ない友人だった晶も、何度もマスコミに捕まった。「何か困っている様子はなかったか」だの「父親のことで何か相談を受けたことはないか」だの、警察の事情聴取でさえ億劫だったのに、そんなものには応える気にもなれない。
 ショックだったし、傷を抉られるような行為を繰り返されてむしろ果てしなく機嫌は悪かったため、しつこい報道陣についに切れて、生放送のカメラに向かってえらくきつい批判をしてしまった。

 あまりに理論的で歯に衣着せぬ物言いだったため、数年前に起きた「何で人を殺しちゃいけないの?」という発言の時と同じようにマスコミは慌てたが、その事で特集は組まなかった。利益がないからだろう。

 真子と仲が良いことを知る人間が少なかったため被害を逃れていた弘貴は、それを見て引いていたが、母親には受験生の娘の行動だというのに爆笑して褒められてしまった。
 こんな人だったのかと、妙にしみじみと思った。代わりに咲に怒られたが。
 そんな事があった後も、どうやって調べたのか、報道陣が自宅に電話してきて父親がひどく怒り、電話番号を変えるという事件も起きたりしたのだが――家族旅行にも行ったし、一週間もすると大分落ち着いてきた。

 晶はため息を吐いた。

 紙屋冴華の死体には、二匹の黒猫の死体が寄り添っていたという。
 神社で、そして向こうの世界で、自分を助けてくれた猫なのだろうと晶は考えていた。
 もしかしたら、と晶は思う。あの猫たちは、本物の「紙屋冴華」に関係のある猫だったのではないかと。彼女を殺した蛇女に復讐したのか、それとも彼女を蛇女から解放するためだったのか――。
 それすらも、勝手に感傷に浸っている、つまらない自分の憶測なのだろうけれど。

 晶は腫れた目元を擦った。
 同じ様なことばかり繰り返していたので、ひりひりと痛む。
 ちょっとしたことで、いや、特に何もなくても、ふと泣いてしまうのだ。いい加減、何がそんなに悲しいのか解らなくなっていた。

 最後のあの日、教室に戻った晶は、その場でわんわんと泣きだしてしまった。よく解らないがともかく涙が止まらなくて、弘貴に宥められてしゃくり上げながら学校を出た。
 その後コンビニでチューハイを買って、ぐじぐじ泣きながら、弘貴が買っていた菓子をつまみに公園で飲んだ。未成年には売れないというステッカーがレジに貼ってあったが、店員は何も言わなかった。
 弘貴はため息を吐きながらも、支離滅裂な晶の愚痴にずっと付き合ってくれた。
 彼はやけに飲み慣れていたような気がしたが、晶は飲むのが初めてならば缶を空けたのも初めてだったので、吐きはしなかったものの、へろへろになって家に帰った。

 話に聞くような、記憶が飛ぶようなことはなかったし、いい気分にもなれなかった。ただ気持ち悪くなっただけだ。あれが酔うという事なのだろうか。
 しかも、翌日はひどい二日酔いに悩まされた――大人はやたら飲み会に行くが、何が楽しいのだろうと晶は思う。

 今思い返すと、あの時の自分はかなり言動がおかしかった気がする。
 無性に恥ずかしくて、気まずかった。たまらなくなって、晶はリビングのソファーで、クッションに顔を沈める。

 妹の咲は起きてからずっと、「忙しい」を連発しながら、家の中をバタバタ駆け回っていた。
 ぼんやり見ていると、実に朝から、洗濯物を干して風呂を洗って、掃除機を掛けて、布団を干して昼食を作って食べさせて。今は朝の食器と一緒に皿洗いをしている。

 台所の水音を聞きながら、晶はふらりと立ち上がった。
 咲は油ものとそうでないものをわけながら、洗剤で泡だったスポンジで油の付いた皿と格闘していた。
 半分寝惚けたような顔のまま、カウンター越しに妹の顔を眺めた。

「ん、何? お姉ちゃん」

 咲は手を留めずに、視線を落としたまま聞いた。
 ぼんやりした目のまま、おもむろに晶は言った。

「……私も手伝うわ」
「……え」

 咲が呆然とした顔で晶を見上げた。姉がそんな事を言い出すのは初めてだ。
 気遣わしげな顔をして、恐る恐る尋ねる。

「……お姉ちゃん……何か、変な物でも食べたの……?」
「……ならいい」
「あ、ごめん冗談だってば! 手伝って!」

 晶がため息を吐いて背中を見せると、咲が慌ててそれを呼び止めた。
 冗談だということは解っていたが、そんなに手伝っていなかったかと晶は不機嫌な顔で隣に立って、皿を濯ぎだす。
 咲は笑ってそれを見ながら、ふと聞いてきた。

「でも、お姉ちゃん。本当にどうしたの?」

 晶は黙ったまま、手を止めた。

(……何となく、思って)

 可奈子の境遇を、咲に重ね合わせているだけかも知れない。
 だけど、解ったのだ。辛いのは自分だけじゃなくて、きっと今まで咲には晶以上の負担が色々掛かっていて、文句を言いながらもきっちりそれをやってくれていて。
 きっと、自分には出来ない。すごいと素直に思う。だけど、それにいつまでも甘えていてはいけない。
 そんな簡単なことにやっと気付いたけれど、ちゃんとそれを言葉に出来るほど、自分は素直でもないから。

「……何となくよ」

 照れたように口を尖らせて、晶は呟いた。
 そんな姉の様子に肩を竦めて、咲は笑った。

 

 

 

 ザアアア……と音を立て、蛇口から流れる水が青いバケツを満たしていく。

(そういや、蛇口って蛇の口って書くんだよな)

 何か関係があるのだろうかとつい考えて、弘貴は苦笑した。癖になってしまっているのかも知れない。
 あの日、もうすべては終わったのだけれど。

 紙屋冴華は、戸籍を持っていたらしい。人面犬が言っていたように、恐らくあれは人間の体を奪っていたのだろう。
 「紙屋冴華」ではなく、「蛇女」が実際にどうなったのかは知らない。知らなくても、良いと思った。

 結局、自分は何が出来たのだろうと思う。
 きっと、何も出来なかった。自分はあまりに子供で、覚悟もなかった。
 彼女を救ったのは自分ではなかったが、それでも、彼女が救われたのは事実で。……もちろん、悔しくないとは言わないが。

 あの時のことを、晶と話し合ったことはない。もう、意味のないことだからだ。
 だが、あの世界が精神的な物であることを考えれば、蛇女を殺したのは、紙屋正和の僅かに残った正気だったのではないだろうか。

(……強いな)

 胸中に呟いた。父親とはそういうものなのだろうか。多くの家庭で蔑ろにされるようになった、今なお。
 彼にはやはり実感できなかったが、自分の父親もそんな人間なのかも知れないと思うと、少し慰められた。無意味に母親を悲しませたくないし、夢は夢のままでいいから、今でも会おうとは思わないが。

 寺が用意している借り物置き場に行き、弘貴はそこに引っかけてある金柄杓を取った。

 あの日、晶は手放しで泣いていた。本当は自分も落ち着いてなどいなかったのだけれど、彼女のつまらない話に頷いていると、何だか気が楽になった。
 他人の感情に反作用される。自分は、一人では生きていけないなと苦笑混じりに思う。
 ふと振り返ってバケツを見ると、水が溢れ出しそうになっていた。弘貴は慌てて水道に戻って水を止めたが、勢い余ってバケツを蹴ってしまった。

「うわっ」

 衝撃でひっくり返りそうに傾くバケツの口を掴む。こぼれた水がコンクリートに叩きつけられて、ジーンズと運動靴を見事に濡らした。

「あちゃー……」

 思わず顔を顰めたが、まあ夏だしすぐに渇くだろうと気を取り直して、視線を上げた。
 ぐちぐちと水音のするスニーカーを踏みしめながら、バケツを提げて墓地の中を歩き出すと、お墓参りに来たらしい老婆と目があった。
 にこりと笑って相手が会釈する。同じ動作を返した弘貴に、老婆は笑ったまま聞いた。

「お墓参りですか?」
「あー……はい」

 多分、そんなところになるだろう。弘貴はそう思って、曖昧に頷いた。
 けれど、きっと、少し違う。
 今日自分がここに来た理由。それはもっと単純で、重要な――。

「今はお盆ですから」

 穏やかに、老婆が言った。

「きっと、聞いてくださいますよ」
「……え?」

 驚いて視線を上げると、そこには誰もいなかった。

 夏の蝉が騒がしく鳴き立てる。
 じりじりと照りつける太陽を仰いで、弘貴はため息をついた。

「……そりゃどうも」

 白い光はちらちらと目を射す。バケツを持ち直して、弘貴は真子の墓へ向かった。
 日当たりのよい場所だった。
 冬は良いけど、夏は暑いよなあと思った。
 墓石は当たり前のことだがまだ新しくて、焼けそうなくらいに熱くなっている。

 とりあえず定石通り、バケツから水を掬って墓石にかけた。
 きらきらと水飛沫が上がった。何度も。いくつも。

 何となく照れ臭くて花は用意してこなかったが、割と新しいガーベラが花立てに供えられていた。父親であるわけはないから、他の親戚でなければ晶だろう。

(一人で来たのか?)

 いかにも彼女らしくて、何だか笑えた。

(……あいつは、何を話したんだろうな)

 弘貴は柄杓をバケツに入れると、ひとつ深呼吸をした。
  それから目を開けて、眼前の少女の墓を見る。

「…久しぶり、紙屋。何カ月ぶりだっけ?」

 平凡な切り出しだなと思いながら、ふと、やっぱりあいつもこの墓に入ってるんだから、聞いてるんだろうなと思った。
 四十九日は過ぎていないので、ここにいるのかどうかは解らなかったが。

「俺さ、紙屋に、ずっと言えなかったことがあって。なんか、こう……いろいろ、考えたんだけど。やっぱり、言わなきゃなって思ってさ」

 本人を目の前にしているような気がして、やたらと緊張した。
 だけど、今の自分なら。
 笑って言えるだろう。次の言葉を。

「俺、紙屋が好きだ」

 この先がどうなるかなんて解らないけれど、それだけは確かだと、そう思える。

 微かに風が吹いた。
 けれど相変わらず蝉の声はうるさいし、太陽はしつこくて容赦がない。
 とりあえず、弘貴は笑って見せた。彼女が現れてはくれないかとほんの少しだけ期待していたのだが、現実はそれ程甘くないようだ。

「じゃあな。また来る。……多分」

 それからふと、思いついて付け加えた。

「……そうだ、姉ちゃんとちゃんと仲良くしろよ、可奈子」

 二人が一緒にいる墓を見て、悪戯じみた苦笑を見せて。
 右手に軽くなったバケツを引っかけると、弘貴は踵を返して歩き出した。