悪意の成れの果て

 

 晶はおぼろげにでも、自分の将来の姿を考えることに、ひどく拒否感を持っている。
 自分がどんな職業を持ち、どんな思想を抱き、どんな風に生涯を終えるのかを。
 刹那的に生きているわけではない。現在すらも、直視しているわけではない。幼い頃の過去に至っては、思い返すことすら厭っている節がある。

 それでも一番怖れているのは、未来を考えることだった。

 認めることはないが、晶は自分の性格が母親に似ていることを良く知っていた。そして、それを嫌悪していた。
 仕事に情熱を傾ける母の生き方を、間違いだと思っている訳ではない。ただ、自分はそうはなりたくないだけだ。かといって性格上、専業主婦を望むなんてこともできない。
 夢を持たないのは、母に対する幼い反抗なのかも知れない。

 ただ、それと解っても何かを見つけられる事は、ないだろうとも思っていた。

 

     *

 

 収納部屋の中を懐中電灯で照らし、晶は電気カーペットの箱を押しのけると、左手でそれを支えて奥を覗き込んだ。
 鉄製の青い工具箱を見つけ、手を伸ばして引っぱり出す。中に入っていた釘や金槌やドライバーを物色しながら、呟いた。

「金槌はやばいわね……リーチが短いし、攻撃力は低いし……痛覚があるなら、効きそうだけど。……うーん、ドライバーは……役に立つわけないわよねえ……」

 ため息とともに、工具箱を元に戻す。いつもなら、「何やってるの、お姉ちゃん!」とばかりに咲が口を出してきそうな所だが、幸い妹は友達と映画を見に行っていた。
 自分の死体を掘り返してくれと言う真子の願いに、さすがに晶は驚いたが、「向こうの世界」でとの話に思わず胸を撫で下ろした。

 問題は、あちらでは心霊現象が起きるということだ。弘貴は現実の方がいいのではないかと言ったが、真子はどうしても譲らなかった。
 弘貴が理解できずにいると、晶が弘貴を引っぱっていって、「あんたにはデリカシーってものがないの!?」と真子に聞こえないところでどやしつけた。
 死体は見るも無惨な状況だ。それを友人や好きな男に見られることが、少女にとってどれだけ辛いことか、解らないのかと。
 無論、好きな男と言うところは徹底して伏せたが。

 願い自体が常軌を逸していたが、おそらく、それが彼女の未練なのだろう。
 物理的な意味より、精神的な意味なのだと晶は思う。それは真子との別れを意味していたが、断ることは出来なかった。
 決心が鈍らないうちに、実行しなければならない。

 そして彼女は向こうの心霊現象に対抗すべく、武器を漁っているというわけだ。
 晶はしばらく中腰でごそごそやっていたが、ふと、頭を上げて振り返った。

「真子、暇ならビデオでも見てる?」
「え? でも……」

 戸惑ったような真子の表情に、晶は頬を掻いた。

「見られてると、何か妙な感じだし。二人で入るには狭いしね。そこのテレビのとこにビデオ置いてあるから、見たいのあったら言って」
「……うん」

 邪魔になっているのだと感じて、真子は項垂れながらも素直に従った。
 襖で仕切られた収納部屋は、一階の屋根裏についている物置のようなものだ。そこを出た部屋には、すぐにテレビとビデオがある。
 テレビの台の下には、VHSのビデオテープがずらりと並んでいた。真子はそれを一つひとつ眺めていたが、不意に、不思議そうな声を上げた。

「ねえ、晶ちゃん。これ、最後のだけないの?」
「え?」

 晶が手を止めて、押入れから出てきた。真子が指さしたテレビドラマの題名を見て、呆れたように腰に手を当てる。

「あんたに貸したじゃない、それ」
「……え……?」
「それの最終回、可奈子ちゃんが見逃したんでしょ? あんたが見るわけないじゃない、恋愛もの苦手なくせに」
「ね、ねえ、それって、いつのこと……?」

 真剣な真子の表情を大して気に留めず、晶は顎に手を当て、少し考えてから答えた。

「六月の終わりじゃなかった? 多分」
「そう……なんだ」

 呆けたように自分を見上げる真子に、記憶喪失ならそんな事は覚えていないかと、晶は肩を竦めた。

「そういえばそれ、貸したままね。まあ仕方ないけど……まさか、敵城に乗り込んでいく訳にもいかないしね」

 晶は冗談めかして、洋画のビデオを手に取った。

「あたしのお薦め。あんた、こういうの好きでしょ? 見てたら」
「あ、う、うん……」

 慌てたような真子の返事に、晶は首を傾げながら倉庫に戻った。
 真子はテレビの前で立てた膝を抱くと、唇をきつく結んで、何かに耐えるかのようにじっと画面に見入っていた。
 膝を抱えた手が、どんな感情からか、震えていた。

 

 

 

 「向こう」に行くにあたって、問題はもう一つあった。

 現実に帰らないようにしなければならない。保存不可能なロールプレイングゲームのリセットボタンを押すようなものだからだ。
 鍵となるのは音である。つまり、人や騒音が無い場所で、引きずり込まれるのを待つしかない。
 真子が示した場所は弘貴の家から近かったが、母親がいつ帰ってくるか解らないため、リストから落とした。

 三人で他の案を相談した挙げ句、学校の教室を借用することにした。もちろん昼間ではなく、夜になってからだ。
 この学校のシステムでは、事務室に鍵を返さなければ用務員にそれと勘付かれる。それについては、弘貴が悪知恵を働かせた。日中の鍵の管理は甘い。学校から持ち出して、複製を作ろうと提案したのだ。
 学校の近辺に、その店があったための発想だ。都合のいいことに教室の鍵は一般的な民家のものとほとんど同じで、疑われる可能性は低い。
 ポケットの上からその固い感触を確かめ、弘貴は腕時計に目を落とした。

 八月六日。今日は何の日だっただろうかと考え、原爆の日だったなと思い出して納得した。
 県が県である。小学生の頃は学校で集会があったが、さすがに高校生にもなるとそれもない。

 今夜は綺麗な半月だった。薄く細い雲が上空で流れていて、やけに幻想的だなと思いながらそれを見上げた。そういえば、中学校で習った上弦と下弦の見分け方は、弓の弦だった。とっさにどちらか思い出せないで、思わず考え込んでいると、晶が訝しげな顔をした。
 学校に侵入すること自体は、さして難しいことではなかった。
 裏門の近くには線路沿いのフェンスがある。弘貴はそれに足をかけて壁の上に登り、例のダイオキシン問題で使われていない焼却炉の脇に飛び降りた。
 シャベルは大きすぎて背中のザックに入らず、手に持っていたのだが、地面に当たってカツンと音を立てた。

「大丈夫か?」

 晶を振り返って小声で聞くと、彼女は平気だと頷いた。暑いだろうが、Tシャツにジーンズを履いている。懸命な判断だと弘貴は思った。

「っ……!」

 着地したときにバランスを崩し、晶は危うく悲鳴を呑み込んだ。
 弘貴が手を伸ばして支えたので、転けずにすんだが、心臓がどくどくと音を立てる。

「あ……ありがと」
「いやいや」

 役得だ。弘貴は胸中に呟いて、壁の向こうの真子に言った。

「紙屋、行けるか?」
「……無理だと思う……」

 ため息をついて、真子はぼそりと呟いた。
 そうして、情けない声で続ける。

「……壁、抜けるね?」
「あ――ああ、そっか」

 そういえばそんな事が出来たなと思いながら、弘貴は壁から離れた。
 するりと手が入ってきて、真子がおそるおそる壁を通った。

「うう……気持ち悪いよう……」

 泣きそうな顔で真子は愚痴る。二人は思わず声を殺して笑った。

 学校の明かりはすっかり消えて、静寂が日中とは違う空間を支配している。
 晶はごくりと唾を飲み込んで、薄い月明かりに照らし出される四階建ての校舎を見上げた。以前の自分なら、絶対にこの時点で帰ると言い出したことだろう。
 用務員室は正門側の校舎にある。見つかる可能性は低いだろうが、注意は払わなければならない。何と言っても、受験生なのだ。夜の学校に面白半分で忍び込んだことがばれれば、自分では見ることの出来ない内申が怖い。
 三人は、扉のついていない入り口からこそこそと校舎に入った。南校舎は後から増築したからだろうか、階段にシャッターがついていない。そこから、教室がある四階まで昇った。
  リュックの中で起きるにぎやかな音を、出来るだけ起てないように押さえた。
 そうやって、気を使っていたのは理由にならないだろう。階段を上りきった時点で、彼女は既に息切れしている。

 学校から目的地までは、直線距離でも五〇〇メートル程ある。大丈夫かよと弘貴が聞くと、持久力はあるのよと不機嫌に返された。――確かスポーツテストの持久力項目に、踏み台昇降運動、つまりは階段の登り降りがあったような気がするのだが。
 教室の前にたどり着き、弘貴が鍵を開けて中に入った。それから廊下側の窓を開けて、再びドアから外に出る。内側からは鍵が掛けられないのだ。
 真子と晶が荷物を持って、教室に入ってから、ドアを施錠すると、弘貴は窓から中に入って、再びそこの鍵を下ろした。
  ややこしい一連の作業を終えた弘貴に、晶が呆れたように言った。

「しかし、まあ……考えたわね」

 一晩のうち何回か用務員が見回りをしているらしいが、鍵が閉まっているかどうか確かめるだけで、鍵束を持ち歩いている訳ではない。弘貴は文化祭の準備で遅くなった時に用務員と話した事があったので、それを知っていた。

「あんた、常習犯じゃないの?」
「ひどい誤解だ」
「その反応が胡散臭い」

 辛らつな晶の言葉に、弘貴は苦笑して返した。
 外から人影が見えてはまずいので、床に座り込む。
 学校内は土足なので、汚れかたが激しい。夏休み中で利用人数が少ないとはいえ、掃除をしていないのだ。
 晶は弘貴の行動に顔を顰めたが、汚れを払って渋々そこに座った。

「そうだ、紙屋。一応用務員さんの様子見てきてくれないか?」
「うん、わかった」

 教室に入る前に言うべきだったのだが、すっかり忘れていた。まあ、真子なら鍵を開ける必要はないだろう。
 真子は床に置かれた荷物を乗り越えようとして、シャベルの柄に足を引っかけて見事に転けた。
 一体どうやったのかは解らないが、とりあえずシャベルは動いていないので大音響は起こらなかった。それにしても、間の抜けた光景である。

「お、おい、大丈夫か?」
「う……うん……いたいよう」

 情けない真子の言葉に、弘貴と真子は同時に吹き出した。

「わっ、笑わなくてもいいじゃない!」
「いや、すげえよ紙屋。もう天才級だな。……くくっ……普通、こんな見事にズッこける幽霊なんていねえよ」

 必死に笑いを堪えながら、弘貴が言った。……フォローになっていない。真子が、涙目になった。

「ひ、ひどいよ! わ、私だって、気をつけて……」
「さらにすごい、気をつけてあのコケ方ができるのか!」

 床を這って笑いを堪える弘貴に、真っ赤になって真子は立ち上がった。

「もういいもん! 杉野くんのばかあっ!!」
「あ、ちょっと、真子……!」

 晶の制止も聞かずにそのまま駆け出すと、真子は扉を通り抜けて逃げていった。
 ぱたぱたと軽い足音が、余韻のように響いていく。これも普通に考えれば心霊現象だろうか。
 晶はこめかみを押さえて、ため息をついた。

「あんたね……そうやって真子で遊ぶの、やめなさいよ。小学生じゃあるまいし……」
「いや、なんかあいつ見てるとつい……」

 弁解しかけて、ふと、弘貴は笑顔を消した。
 晶が訝しげに彼を見る。

「何よ?」
「……いや。おかしいよな、それ」

 何が、と晶が聞いた。弘貴は口元を手で覆って、独白するように呟いた。
 疑惑が、確信になった。

「……俺、紙屋をからかって遊んだことなんて……」

 ますます解らない顔をする晶に、はたと気付いて弘貴は曖昧に苦笑した。
 明らかに、誤魔化すような笑顔だった。

「悪い、何でもない。気のせいだろ」
「……別に、いいけど。それで、あんた何持ってきたの?」

 やたらと大きなザックに目を遣って、晶が聞いた。
 ああ、と頷いて、弘貴が中身を出し始める。なかなか考えられた品揃えだった。おそらく、事前に買い出しに行ったのだろう。

「とりあえずそこのシャベル。それから目潰し用のカラースプレー。化学のセンセー学生運動やってたらしいから、火炎瓶の作り方でも聞こうと思ったんだけど、焼いても死なない訳だから却ってこっちが危ないしな。同じ理由で可燃性スプレー使った即席火炎放射器も不可、ってな訳で威嚇用にネズミ花火。ガスマッチと、あと糸とハサミ」
「……糸とハサミを何に使うのかも気になるけど。……そっちの微妙に軽そうなご近所のコンビニの袋の中身は何……?」

 やたらに詳しい描写をして、晶が膨らんだ袋を指さした。
 半透明なので中身は大体解るのだが、わざわざ口にするのは明らかに別の意図を含んでいる。弘貴はあっさりと答えた。

「菓子だけど」
「……そうじゃなくて、だから何でよ?」
「あっちに行くのにいつまでかかるか解らないだろ。向こうはこっちの都合なんざ考えてくれないしな。腹の足しにはなるだろ」

 晶はひどく深いため息を吐くと、自分のリュックを傍らに寄せて口を開いた。

「私は懐中電灯と、それから殺虫スプレー。……効かないとは思ってるからつっこまないで、お願い。シャベルはなかったから……無いよりいいし、スコップ。ただし園芸用のやつ……何だか、だんだん言ってて悲しくなってきたわ……」

 晶はぼやきながら、重そうなスーパーのビニール袋を弘貴に渡した。
 何かと思って弘貴が中を見ると、ボールすくいなどで使われるゴムボールが一杯に入っていた。ものすごい量だ。

「……何だこりゃ?」
「見てのとおり、ボールよ。咲が得意なの。ここから下に降りるのは階段でしょ? 人海戦術で来られたら足元にばらまくの。少しは効くんじゃない」

 成る程、と弘貴は頷いた。晶は更にリュックの中身を探って、小さな丸い目覚まし時計を床に置いた。

「これは?」

 弘貴が聞くと、晶は呆れたように言った。

「あんた、どうやってこっちに戻るつもりだったの? 朝までここにいる訳にはいかないわよ。……帰り道はないんだし、いくら何でも二時間もかからないでしょ。セットしておくわ」

 現在時刻は十一時過ぎだった。いつ向こうにご招待されるのかは解らないが、一定時間毎にタイマーの時間を延長させれば問題ないだろう。

 ふと、家の方は大丈夫だろうかと、晶は思った。
 寝ているようにカモフラージュして、部屋のドアに鍵を掛けて、窓から抜け出てきたのだ。地震や火事でも起きない限り、ばれないだろう。万一ばれたら大目玉だ。

「じゃあ、準備しながら待つとするか」

 弘貴が言った言葉に、晶はふと顔を上げた。

「……真子を? 蛇女を?」
「じゃ、両方」
「じゃあって何よ」
「まあいいだろ。ほら」

 弘貴は買い込んだネズミ花火を渡すと、幾つかを取って着火場所を揃え、糸で縛った。
 確かに、一つだけで投げるよりも効き目があるかも知れない。細いミシン糸だったので、おそらく着火後にばらけるだろう。
 晶はため息を吐いて弘貴を手伝った。
 時計のカチコチという音が、目覚まし時計と教室の壁時計でずれて響く。しばらく黙々と作業を続けた後、目覚まし時計のタイマーを十分ずらして、晶がぽつりと呟いた。

「……あんた、パスカルの言葉知ってる?」
「パスカル?」

 哲学者であり優れた数学者でもあったパスカルの名言といえば、弘貴は「人間は考える葦である」という言葉を思い出す。単純に中学時代、数学の教師がプリントに書いていた常套句だったからなのだが。弘貴がそれを口にすると、晶は数度浅く頷いた。

「それもあるけど、それじゃなくて。『人間は実に不幸であり、人生は実に空しい。だが、ひとつの玉を転がすという、実に他愛もないことで、もう十分に慰められてしまう』……なんかやけに印象に残って、覚えてたんだけど」

 へえ、と弘貴は返した。晶は作業の手を止めずに、淡々と続けた。

「でも、難しいのは、いつ、その『玉』を転がすかって事だと思うのよ。転がすのは自分じゃなくて、他人だったりするし。要するに、タイミングよね。ちょっとしたことですごく嬉しくなることもあるし、何とも思わないこともあるし……」

 なぜこんな事を言いだしたのかと弘貴が訝っていると、晶はひとつため息を吐いて、手元に目を遣ったまま呟いた。

「真子って、そういうの、何かわかってたわよね。なんでもないことなのに、重い気持ち、さらっと軽くしてくれて。……自覚なんてなかったんだろうけど」

 ふと苦笑して、晶は口元に手を当てた。
 彼女が真子のことを過去形で語っている事に、弘貴は気付いていた。
 そして、その理由も、推測できる。彼女と自分の感情は違う事も。

「神坂……」

 弘貴の視線に、晶は眉根を寄せて呟いた。

「ごめん、なんでもないわ。忘れて」

 弘貴は頷いた。
 理解はしていた。もうすぐ、二度目の別れが来る。
 二人はそれ以上何も言わず、手元に視線を落としていた。

「晶ちゃん」

 いきなり背後から呼びかけられ、晶は驚いて振り返った。

「ま、真子。おかえり、びっくりしたわよ」
「うん。……杉野君、用務員さん、テレビ見てたよ。ちょっとうとうとしてた」
「そっか、ありがとな」

 真子は二人の傍まで来ると、ちょこんと床に座った。どことなく、元気がないように見える。

「どうしたの?」

 まさか、弘貴に対してまだ怒っている訳ではないだろう。
 晶が聞くと、真子は小さく呟くように言った。

「……ごめんね」
「え?」

 晶と弘貴が、訝しげな顔をして真子を見た。

「……私のせいで……いっぱい、迷惑かけて。こわい思いさせて。でもね、私……楽しかったよ。二人に会えて、よかった」
「……迷惑なんかじゃないわよ。馬鹿ね」

 晶が怒ったように言った。急に改まった真子の言葉に戸惑っていたし、別れるのは悲しかったし、何より、照れ臭かった。
 そんな感情を隠そうとしているのが弘貴には解った。それは彼女の性分だし、真子もきっと解っているだろう。

「……青春だな」
「茶化すな!」
「茶化さないでっ!」

 晶と真子が揃って怒鳴った。ただし、晶は声を潜めて。
 それを軽く受け流して作業を再開しながら、弘貴は何となく誤魔化すように口ずさみだした。

  ――若葉芽吹く学び舎に
   望むは伸びる我らが道

 晶は一小節聞くと、半眼になってうめいた。

「……校歌歌ってどうすんのよ、あんたは」

 しかも高校のものではなく、弘貴と晶が通った中学校のものだった。
 弘貴はきょとんとして、それから首を傾げる。

「そうか?じゃあ別の」

  ――そーらーを越ーえてー、
   ラララ星の彼方ー

 軽い調子の歌声に、晶が顔を顰めた。

「……何それ?」

  ――十万馬力でー、
   赤ぐーみ優ー勝ー♪

 がくっ、と晶がつんのめった。真子が合点がいったようにぽんと手を叩く。大昔のアニメの替え歌だ。
  晶が小声で弘貴に食ってかかった。

「……ちがうでしょ!? だいいち赤組って何。何で優勝。ねえっ?」
「ほら、小学生の時の運動会の」
「……応援歌?」
「そうそう」
「……何で応援歌?」
「意味は無い。ふっと浮かんだから」
「……そうよね……」

 気疲れしたように、晶はがっくりと肩を落とした。二人の掛け合いに、真子が可笑しそうに笑う。弘貴は取り澄まして続けた。

「じゃあ次、国歌――」
「ああもう、黙ってやりなさいよ! 第一あんな辛気くさい歌こんな時に歌わないで!」

 どうやら彼女は反対派らしい。弘貴は真子と顔を見合わせた。

「確かに、入学式には合わないかもな」
「あ、でも、卒業式には合うよ」
「そんなことはどうでもいいから、口より手を動かして!」
「ああ、静かにしろって。バレるぞ」
「くっ……」

 歌はうるさくないのかと言いたかったが、弘貴にからかわれていることに気付いて晶は口をつぐんだ。
 気分の悪さを誤魔化すように、目覚ましのタイマーを十分ずらす。
  そのとき、唐突に、その場の空気が変わった。

「……どうやら、いらっしゃったみたいだな」

 弘貴は唇を舐めて呟いた。素早くザックを背負い、シャベルを晶に預ける。真子の姿は、この場から消えていた。
 弘貴はネズミ花火の袋をズボンのベルトに引っかけて、窓から外に出ると、教室のドアを開けた。
 晶は緊張した面持ちで外に出ようとして、不意に――誰かに首筋を撫でられた。

「きゃあっ!?」

 悲鳴を上げて、晶は振り向きざまに相手をシャベルで殴り倒す。鈍い手応えがして、男の幽霊がのけぞった。
 弘貴は舌打ちすると、晶からシャベルを受け取って叫んだ。

「行くぞ!」

 賽は投げられた。

 

     *

 

 少女は、他に誰も動かなくなった教室で、窓際に立っていた。

 月が冷ややかに輝いて、教室の中を薄く照らしている。
 本当に、綺麗だった。
 少女はぽつりと呟いた。

「……ごめんね……」

 彼女は、ひどく淋しそうで、泣きそうな顔をしていた。

「……怒るかな。……きらわれちゃうかな。……でも……」

 それ以上の言葉は続かなかった。
 そして、少女は、教室から姿を消した。

 

 

 

 階段に差し掛かると、晶の予想が正しかったことが証明された。

 幼い子供達が、感情のない白い目で二人を見上げていたのだ。体が小さいだけ、その光景は不気味だった。
 相手が動く気配を見せないので、弘貴は晶に気付かれないように深呼吸して、声を投げてみた。

「なあ、お前ら、そこどく気あるか?」

 子供達が嗤笑した。それは次第に空気を揺るがす程の哄笑に変わったが、それでも目には相変わらず感情が灯らなかった。
 一人が動いたのを契機に、子供達は階段を駆け登り始めた。

「神坂! ボール頼む!」
「わ、わかった!」

 晶は遠慮なく、ボールを階段にぶちまけた。普通の子供なら戸惑って立ち止まっただろうが、彼らは構わず走り登ろうとしたので、足を取られて落下していった。
 次々に、激しく鈍い音が響いた。ひどく嫌な音だ。晶は思わず身を竦めたが、弘貴に促されて階段を駆け下りた。
 怖いと思ったら負けだ。頭を切り換えろ。そう自分に言い聞かせながら、弘貴が完璧に明るい声で言った。

「一回こうやって、大暴れしてみたかったんだよな」
「あんた、受験ノイローゼなんじゃないの!?」
「あ、そうかも」
「否定してよッ!」

 下にはボールと子供の幽霊が散乱していた。既に、何人かは身を起こそうとしている。
 腕がすっかり違う方向に曲がっていたり、頭がほとんど後ろを向いていたりしている悲惨な状況が目について、弘貴は思わず視線を逸らした。

 ボールを踏まないよう、床を滑るようにしてそこを曲がり、三階に差し掛かった。
 暗かったので、晶は懐中電灯を出して辺りを照らした。再び階段を駆け下りて、弘貴は足を止め、呻いた。

「……ここはRPGのダンジョンか?」

 一階ごとに敵を配置するな、と弘貴がぼやいた。上から子供達が追ってくる気配もないが、その理屈の所為だろうか。
 ここの「敵」はゾンビの群れだった。晶が必死で悲鳴を押さえ込みながら、懐中電灯の光を逸らす。

「神坂、火」
「あ、え、う、うん!」

 晶は慌ててガスマッチを出そうとしたが、手がもつれて取り落としてしまった。

「ああああ! ちょっ、待って、ごめん!」
「あー、解ったから、落ち着け!」

 わたわたとガスマッチを拾った晶の手からガスマッチを取り上げると、自分でネズミ花火を着火させて、弘貴は階下に次々と投げた。ゾンビが呻いて左右に身をよじる。
 普通の幽霊なら駆け回っただろうか、ともかくゾンビの動きは、定番通りに遅いようだ。

「悪い……なっ!」

 弘貴は一応に謝りながら、シャベルをバットのように振って、突破口を開いた。
 やはり遠慮が入っていたのだが、妙にゾンビは軟弱だった。腐っているからだろうか。どちらにしろ、ぐしゃりという妙な手応えがものすごく肌を粟立てて、殴った後を直視できない。

 晶は怯えながらその後をついていったが、不意に短い悲鳴を上げた。
 弘貴が驚いて振り向く。蹴躓いた晶が階段を落ちかけて、咄嗟に彼はその服を掴んで引っぱった。腕を掴もうとしたのだが、届かなかったのだ。

「お、おいおい……、大丈夫か?」
「だ、大丈夫。それより、早く――」

 ここを離れようと言いかけて、晶は言葉を止めた。
 彼女の肩を、ゾンビの一人がのそりとした動きで掴んだのだ。

「い……いやああああっ! 離して!!」

 言うだけでなく、アメリカ製の人を撲殺できそうな長さと重さの懐中電灯で相手をのした晶に、弘貴がぎょっとして動きを止めた。――そろそろ、キレてきたのかも知れない。
 女の子には、腐った死体は生理的に耐えられない物なのだろう。弘貴にとっても、見て気持ちのいいものではないが。

「あああ、やだ! すごいやだ! あれはやだ!!」

 妙な液体が付いた肩をごしごしと擦り、半泣きで喚きながら階段を駆け下りる晶を横目に、弘貴は、からかうのには加減をしようと強く思った。今はゾンビよりも、隣にいるこの少女が怖い。
 彼の胸中での不安を他所に、その後一階に下りるまでは、何も出ては来なかった。
  待ちかまえられてはいなかったので何かが起きる前に駆け抜けようとしたのだが、一階の大きな壁鏡から伸びた手が、晶の二の腕を掴んだ。

「きゃあっ!!」

 弘貴が驚いて振り返ると、晶の腕が肘の辺りまで鏡に引き込まれていた。
 頬の痩けた青白い顔の少女が、不気味に微笑みながら、晶を引きずり込もうとしている。

「ちょっ、やだ、離してよ!」

 その光景に弘貴は思わず逃げ腰になったが、何とか堪えて言葉を絞り出した。

「神坂、鏡殴るなよ、引き込まれるぞ」
「わかって……って! 見てないで助けなさいよ、杉野ぉっ!!」
「だから、落ちつけって」

 口調だけは落ち着き払って弘貴は言うと、もどかしい手つきでネズミ花火の束に五つほど火をつけた。
 そしてそれを、鏡の中の少女目掛けて投げつけた。
 波紋を作って「向こう側」に沈んだネズミ花火が、内部で音をたてて暴れ回る。
 この世のものとは思えない悲鳴があがった。

「熱っ……!」

 晶が指先の火傷と恐怖に身を竦めた刹那、弘貴が彼女の肩を掴んで鏡から引き離す。苦悶する鏡の少女の姿が、ちらりと視界をよぎった。
 思わず目をそらした弘貴に、晶が噛み付くように叫んだ。

「ちょっと、火傷したじゃない!」
「悪かったよ」

 謝るだけ謝っておいて、弘貴は駆けだした。晶も慌ててそれに続く。
 また鏡に引き込まれるのは、ごめんだった。

 

     *

 

 南校舎から校門までは、アスファルトで舗装されている。
 大雨が降ると洪水さながらの水たまりができる場所なのだが、この時そこへ溜まっていたのは、水ではなかった。

「ちょっと……冗談でしょ……」

 足を止めた晶が、泣きそうに呟いた。
 懐中電灯の光で照らすと、校門を目前にして、一面に血溜まりが広がっていたのだ。

「……どう思う、神坂?」
「やめてお願い考えたくない!」

 叫びそうな勢いで耳を塞いだ晶にため息を吐いて、弘貴は血溜まりの中心に目を遣った。
 ひどく静かだ。深さはどれくらいだろうかと思いながら、彼は口を開いた。

「……俺、手が生えてくるのに一票」

 そう呟くのと、ぼこりと水面に泡が立つのとは、同時だった。
 疑問に思った次の瞬間、無数の手が血の海から飛び出した。

「お」

 冷や汗をかきながら弘貴が頭を掻くと、晶が半泣きで悲鳴を上げた。

「あんたの所為よ!? どうしてくれるのよこの馬鹿!!」
「いや、そう言われましても」
「とにかくどうにかしなさいよ! 出られないじゃない!!」

 襟首を掴んだ晶にがくがくと揺さぶられながら、弘貴は唸った。はっきり言ってどうしようもない気がするが、こんなパターンで何か話がなかったかと考える。
 そう言えば、古事記か日本むかしばなしか何かで血の海を渡る船のような物がなかっただろうか。ああでも、六文銭とかいうのがいるんだった。
 それは三途の川の渡し賃だったが、弘貴がそんな事を考えたときだった。
 ギイギイという、何かが軋むような音に、晶が彼の首を絞める手を止めた。

「何……?」
「さあ。舟じゃないか」

 不安げに辺りを見回す晶に、けほけほと咳混じりに弘貴は言った。
 音はだんだんと、背後から近付いてくる。
 弘貴の言葉は半分冗談だったのだが、校舎の蔭から姿を見せたのは、大昔に使われていたような木の小舟だった。
 編み笠をかぶって、細長い棒のような物を持った船頭も乗っている。

「……うそ」

 晶が呆けたように呟いた。そうしているうちに舟は二人の前まで差し掛かり、アスファルトを波のように掻き分けて、止まった。船が通った後を見ると、何事もなかったかのように元通りのアスファルトが敷かれている。
 船頭は二人の胸元――三途の川を渡るために、六文銭を掛けている筈の場所――をじっと見上げていたが、ふいと視線を外すと、船を進めようとした。
 だが、それを阻んだのは少女の手だった。
 晶が舟の縁に足をかけて、船頭の襟首を掴んだのだ。

「お、おい、神坂……」
「乗せなさい。問答無用よ」

 完全に目が据わっている。どうやら再び限界を超えたらしい。開き直りとも言える。
 とりあえず舟が止まったので、弘貴はザックを抱え直して乗り込んだ。晶もそれに倣って、座り心地の悪い板の上に座る。
 アスファルトの上に浮かんでいるような状況なので、いつもより視線がひどく低くて、妙な印象を覚えた。
 動いてくれるだろうかと弘貴は懸念したが、船頭はのろのろと船を進め始めた。
 ごつ、ごつと、突き出た手に時折ぶつかりながら血の海を進んでいく。手は自分から動く気はないようで、されるがままに掻き分けられていた。
 校門に舟をつけると、ゆっくりと船頭が振り返った。その顔には目鼻がなかった。弘貴は危ういところで声を呑み込んだ。
 晶が訝しがっているのに気付いて、勢い良く振り返って早口で言う。衝撃は、何とか頭の隅に追いやった。

「神坂、俺今から登るけど、落ちると困るから見ててくれ」
「はあ?」
「いいから」
「……わかったわよ」

 渋々ながら晶が頷くと、弘貴はスコップを校門の向こうに放った。
 門に足を掛けると、両腕に体重を掛けて、懸垂の要領で上に登る。
 晶の視線が横に行かないのを確かめながら、弘貴は不安定な状態で晶に手を貸した。少し高さがあるので、彼女の腕力では少し難しいだろう。
 どうにか無事に学校の外に出ると、ようやく二人は息をついた。
 どちらかというと、ぐったりしたため息だったが。

「……ねえ。私、思ったんだけど」
「……おう」
「……もしかして、考えたことが具現化してるんじゃない?」
「……だな」

 全部じゃないけど、と付け加えて、弘貴は宙を仰いだ。考えても具現化していないこともあるので、影響を受けていると言った方が正しいかも知れない。
 見上げたそこには真っ暗な空が広がっていたが、辺りが暗いためにそう違和感はなかった。

「今さらだよな、解っても」
「厄介だわ」

 晶が眉を顰めて言った。

「私はともかくどこかの誰かさんは、ホラー映画の知識が豊富みたいだもの」
「……スミマセン。どうも」

 映画はあまり見ないのだが、とりあえず素直に謝っておいて、弘貴はスコップを拾い上げた。
 いい加減感覚が麻痺してきても良い頃だが、晶のようにキレない分、どうにも消化できていない気がする。虫や爬虫類等の生物なら、まだしも気が楽なのだがと、弘貴はまた同じ事を思う。
 道路には、一定の間隔を置いて街灯が点いている。懐中電灯は必要なさそうだったが、晶は点けたままにした。

「ルートは予定通りでいいか?」
「いいけど。……何も考えないでよ」
「そっちもな。多分、そうでなくても何か来そうだけど」

 黙っているとどうしても何か考えそうなので、話しながら行こうという事になったのだが――はっきり言って、話題がなかった。
 仕方がないので黙々と大通りに向かって歩いていたが、弘貴はふと思いついて、口を開いた。

「なあ、神坂」
「何?」

 話しかけられたことにほっとしたような顔で、晶が返した。

「今さらついでなんだけどさ。こっちの世界に来ない方法、いいのがあった」
「は?」
「……ウォークマン。補習の時は出来ないけどな」
「……あ」

 晶が目を瞠って、手の平を口に当てた。確かに、曲をかけ続ければ問題ない。晶は深く嘆息して、肩を落とした。

「……間抜けね、気付かなかったわ……。私、ウォークマン持ってないのよね……」
「俺も。何か非文化的だな」
「非文化的っていうか……だって、使わないじゃない。歩いてるときに聞いてたら、危ないし……」

 不満げに、言い訳じみたことを晶が口にしたところ、弘貴が彼女を振り返って、意地悪げに笑った。

「優等生だしな、お前」
「……煩いわね。ほっといて」

 晶がむくれて横を向いた。その仕草が何だか妙に幼くて、弘貴は吹き出した。こう言うところに、三條は惚れたのかも知れない。
 再び歩き出しながら、ふと、弘貴はもう一つの質問を思いついた。

「なあ。お前さ、何でそんなに三條の事嫌いなんだ?」
「……何よ、文句あるの」

 名前を聞いただけで、晶の声が険悪になった。
 やれやれ、と弘貴は肩を竦める。これは相当な嫌われようだ。

「あいつ、そんなに悪い奴じゃないぜ?」

 晶は返事をしなかった。仕方無しに、一人で続ける。

「そりゃあ、調子のいいところはあるけどな。見た目ほどいい加減じゃないし――」
「だから何? 嫌いなものは嫌いなのよ。あんたに関係ないでしょ」
「ま……そうなんだけど」

 しくじったかと思って、素直に弘貴は話を止めた。ぶらぶらと振り回していたシャベルを肩に乗せる。
 この雰囲気では、ますます和解の日が遠のいたようだ。彼は胸中で友人に手を合わせた。謝罪とお悔やみの意味を込めて。
 街には、いつもなら街灯に群がっている蛾も、夏の風物詩である蚊も、遠吠えする犬もいなかった。
 動物の存在しない街は、やけに無機的に思える。植物はあるのだが、自分では動かないので、何も音がしないせいだ。

「……嫌いなのよ」

 長い沈黙の後、晶がぽつりと呟いた。
 弘貴は一瞬何の事か解らずに立ち止まり、少し後ろを歩く彼女を見た。晶はそれにつられて、足を止めた。

「……あいつは、人のこと、見透かした気になってるから。偉そうで、腹が立って、それで、私がやたら子供に思えて、だから……すごく……むかつくのよ」

 晶は大きく息を吸って吐き出すと、忌々しげに前髪を掻き上げた。

「……何言ってるのかしら、私。馬鹿じゃないの?」

 弘貴は、聞かなかった素振りでまた歩き出した。晶はそれ以上何も言わなかった。
 だが、弘貴はまた立ち止まった。
 電柱の下に、犬の姿を見つけたのだ。

「……神坂、あれ」

 弘貴が振り返ってそれを示し、晶がぴくっと足を止めた。
 それと同時に、犬が振り返った。
 二人は目を瞠った。その犬は、人間の男の顔をしていたのだ。柴犬の体に、中年男の顔を張り付けたかのような姿。それは、弘貴達が小学生の頃に全国を騒がせた、人面犬そのものだった。

「何見てんだよ」

 偉そうに、人面犬が定番の台詞を言う。
 晶は怯えるよりもむしろその言い方が癇に障り、思わず言い返した。

「何ふざけたこと言ってるのよ。あんたが勝手に振り向いたんでしょ? そうでなきゃさっさと通り過ぎてるわ。妙な因縁つけないでよね」
「何か文句あんのか」
「あるから言ってるのよ。頭悪いんじゃないの?」

 弘貴は口を挟むことが出来ずに、一人と一匹(と言っていいものか)のやり取りからとりあえず視線を逸らした。客観的に見て、どうにも妙な光景だったのだ。

「で、あんた喋れるんなら答えてみせなさい。蛇女って何な訳?」

 晶の突然の問いに、弘貴はぎょっとして、人面犬は「ケッ」と笑った。

「んな事も知らねぇのかよ。ハ!」
「バカ犬のくせに偉そうね。なら、あんたは知ってるっていうの?」
「そりゃあ知ってるさ」

 人面犬はごろりと道路に寝転がって、大きな欠伸をした。

「蛇女ってのァ、人に憑くものよ。そいつの願いと引き替えにしてだな。ああほら、アレだアレ。オマエが読んだ話にあっただろ。田んぼに水をやるから娘を大蛇が嫁にくれってな、アレだな」

 水乞型の蛇婿入りの話だ。微妙に違うような気がしたが、晶はふうんと頷いた。

「んで、まァいわゆる交換条件ってなヤツだ。あとは身体のっとるなり魂喰らうなり……、ヒッ!」

 人面犬の体が、びくんと引きつって跳ね起きた。

「何よ?」

 人面犬の怯えた視線を追って振り返り、晶は愕然とした。
 文字通りの大蛇が、その巨躯を引きずって、今にもこちらに飛び掛かろうとしていたのだ。
 弘貴は、咄嗟に晶を突き飛ばした。

「ギャンッ!!」

 逃げ遅れた下半身を大蛇に食いちぎられて、人面犬が悲鳴を上げる。赤い血がボタボタと宙を舞った。
 構っている余裕はなかった。こちらに来て怪我をしたことはないが、死んだらどうなるか解らない。
 人面犬の千切れた半身が地面に叩きつけられるのを見届けずに、弘貴は晶を急かして掛け出した。
 晶は右の膝と手の平と腕を擦り剥いていたが、泣き言を言っている暇などない。
 この状況では逃げ続けることは出来ないだろう。いつものように、元の世界に戻るのを待つ訳にはいかないのだ。
 後ろを一瞥すると、器用に方向転換した大蛇が、ものすごい勢いで飛び掛かってきた。
 弘貴は晶の腕を掴んで、脇道に引き入れた。大蛇が失速できずに地面を滑っていく。晶は、傷の痛みに顔を顰めた。

 虫や爬虫類なら大して怖くないと思ってはいたが、随分と戦闘力の高そうな物を出してきたものだ。焦りに舌打ちしながら、弘貴は蛇を倒す方法は何か無かっただろうかと考えた。
 記憶の中からは、一つしか引き出せなかった。「日本むかしばなし」だ。
 一番良いのはタールだが、自転車屋は逆方向だ。ただ、この先にはタバコの自動販売機がある。
 ズボンのポケットに手をやったが、禁煙しているためにタバコはない。そのかわり、小銭の感触がした。そのまま掴んで引っぱり出すと、晶に聞く。

「神坂、大丈夫か?」
「平気よ、それより、逃げなきゃ……」

 彼女の気丈さが衰えていないことを確認して、弘貴は晶に小銭を握らせた。

「そこの自販機で、タバコ買ってくれ」
「……は?」
「ヤニだよ。やらないよりいいだろ」
「わ……わかったけど、あんたは?」

 大通りをずるずると這っていく蛇の身体が、ぴたりと止まった。ようやく勢いが殺げたらしい。蛇は後退できない。次は、方向を戻してこちらに来るだろう。
 スコップを地面に置いて、弘貴は言った。

「俺は、時間稼ぎ」

 

 *

 

 弘貴は蛇のいる通りに戻ると、頭の隅から引っぱり出した知識を反芻した。
 蛇の目は瞼が動かず、眼球を保護するのは鱗だが、色も識別できるほどに視覚が優れている。外耳や鼓膜はないが、物体の振動や周波数の低い音波を内耳で感知する。
 特別の触覚器官はないが、触れられることに対する知覚は鋭敏だ。
 補食の仕方は、毒のない場合、そのまま呑み込む物と、締め上げて殺す物がある。狙いは熱で定める。

 相手には毒があるだろうか。どちらにしろ噛み付かれれば、毒が回るのを待つことなくあの人面犬と同じ末路をたどることになる。

 カラー図版で乗せられていたガラガラヘビの獲物の捉え方は、確かピット器官とよばれる赤外線感知も可能な温度変化の感知器官を用いていた。
 視野は一八〇度だが、ピット器官の感知範囲は二五〇度以上だ。振動音の感知範囲は、頭の真横の直線範囲だけだが、文字としての知識はあまり実用性がない気もする。

 弘貴はズボンの後ろポケットに意識をやった。晶には言わなかったが、そこには、小学生の時に図工の授業で使っていた小刀がある。
 ナイフでもないかと思ったのだが、この他には折り畳み式の簡易な果物ナイフしかなかったのだ。格好はつかずとも一応「刀」ではあるが、こんな大蛇の相手を出来る武器ではない。
 ファンタジーの世界なら考えられるだろうかとふと思ったが、傍目に見る限り歯が立ちそうにない。弘貴は早々にその手段をリストから捨てた。囮なら囮らしく、逃げの一手を取った方がいい。

 熱源として、ネズミ花火を使う。弘貴は方向を変えた蛇の斜め前方に、火をつけて投げてみた。
 大蛇は見向きもせず、弘貴に襲いかかってきた。

 慌てて地面を転げて、何とかそれを避ける。蛇が勢い余ってやはり地面を滑っていった。
 温度が高すぎて生物と判断しなかったのだろうか。視覚で確認したからだろうか。それとも、ネズミ花火の効果を自分で疑っていたせいか。

 どちらにしろ、相手がまた方向転換するまでに次の手を考えなければならない。弘貴は冷や汗を拭った。
 カイロでもあれば良かったのだが、生憎今は夏だ。弘貴は背にした自動販売機に体重を預けて立ち上がり、ふと、思いついた。
 ポケットに手を入れると、まだ少し小銭が残っていた。出してみると、偶然にもぴったりの金額だった。
 急いで硬貨を自動販売機に入れると、缶コーヒーのボタンを押した。落ちてきた缶を、もどかしく取り出して熱さに顔を顰める。
 だが、ちょうどいい大きさだ。蛇の好物である、鼠と同じくらい。もっとも材質はアルミだし蛇は普通の大きさではないが、考えていると際限がない。これはネズミで、あいつは絶対に引っかかるのだと思い込むしかない。

 弘貴は脇道に入ると、大蛇の進行方向に缶を投げた。
 舗装道路でそれは小気味よい音をたてて跳ね、転がっていく。大蛇はそれを無視した。やばい、と弘貴は胸中に呟いた。 そのとき、慌てて道の端に寄った彼の足元から、何か黒い物が飛び出した。
 それは、猫だった。大蛇が獲物の姿を捉えて、そちらに襲いかかる。

(何だ? 何で猫が――)

 疑問が浮かんだが、答えが出るより猫が喰われるのが先だった。
 目の前を奔っていく大蛇の勢いに掻き消された、短く甲高い悲鳴に、彼は思わず目を瞑って顔を逸らす。
 その瞬間、弘貴はあの猫が自分を助けたことに気付いた。

「杉野!」

 疑問に思う間もなく、晶が弘貴を呼んだ。どうやら、用意が出来たらしい。彼はちょうど大蛇の体で分けられた道路の、晶のいる側の道端にいた。
 晶の元に戻って、弘貴は呆気に取られた。彼女はゴムボールが入っていたビニール袋を、両手に提げていたのだ。

「……やけに多くないか?」

 小銭は千円もなかった。ビニール袋一杯のタバコは買えないだろう。
 弘貴が訝しげに訊くと、晶は視線をあさっての方向に向けて決まり悪げに答えた。

「ちょっと色々あって、自販機、蹴飛ばしたらね……」
「……おいおい」

 現実では壊れていないだろうから構わないだろうが、普通それくらいで壊れるだろうか。
 それとも、これも空想の産物なのだろうか。そういえば、そんなテレビコマーシャルがあったような気がする。
 晶は誤魔化すように大蛇を指さすと、必要以上に張り切った口調で言った。

「ほら! 早いとこ行動!」

 晶からビニール袋を受け取ると、重石にスプレー缶を入れてその口を結び、弘貴は大蛇の前に立ちはだかった。
 ふと、そこになって、脂と煙草の俗語であるヤニは同一のものなのかという疑問が浮かんだ。

(ちょっと待て、いいのか?)

 ここまで来て後には引けない。
 ニコチンには毒があるし、こうなれば脂とヤニで掛詞だ、言霊の国なんだからどうにかなってくれと自棄のように願って、袋を強く掴む。
 大蛇が飛び掛かってきた。煩いくらいに脈打つ心臓を誤魔化して、弘貴は必死にタイミングを計る。
 大蛇が弘貴を呑み込もうと、穴のような大口を開く。

(今だ!)

 弘貴は大蛇の口にビニール袋を投げこみ、すかさず横に跳んだ。
 花屋の前に置かれていた自転車に肩から突っ込むことになったが、食いつかれるのはなんとか回避できた。

「す……杉野! 大丈夫!?」

 けたたましい音を立てて転んだ弘貴に、晶が今だ失速しない蛇の身体を挟んで叫んだ。
 弘貴はそのまましばらく倒れていたが、やがてのろのろと自転車を押しのけて体を起こした。
 あちこち撲ったようで少し痛んだが、外傷は右手の甲の皮が剥けている程度だ。
 獲物を取り逃がして方向を戻そうとしていた大蛇が、突然苦しげに身を捩った。いや、暴れ出したと言った方が正しいかも知れない。遠くにあった尾が、電柱を叩き倒した。
 電線が切れて、バチバチと白い火花が散った。大きく振れた切っ先に当たりそうになって、晶が慌てて身を引く。
 彼女の体すれすれを跳ねた電線は、大蛇の胴体に当たって止まった。

 バチンと、何かが弾ける嫌な音がした。

 大蛇の体が一度、大きく仰け反って、それから力を失った。
 地面に横たわる巨躯から、白い煙が沸き起こる。
 弘貴はしばらく様子を窺っていたが、大蛇が再び動き出す気配はない。不審に思いながら、大蛇の体を大きく迂回して、向こう側に渡った。
 電線は切れた片方に触れただけでは、大して電流を流さない筈なのだが。いつだったか、おそらく小学生の頃に漫画の化学本で読んだ覚えがある。
 道の反対側に行く途中で、その疑念は解決された。
 倒れた電柱が道を分断して、民家の屋根にめり込んで出来たトンネルを足早に通り抜けたときに、彼は見つけたのだ。

 切れたもう一方の電線が蛇の尾の下敷きになっているのを――そして、蛇の躰の下からはみ出た、潰れた黒猫の尻尾を。
 偶然ではなかった。この猫が、意図的に電線を触れさせたのだ。
 現実離れしたその回答を、確信に近い思いで受け止めた。

「杉野、無事!?」

 晶が右足を庇いながら、ひょこひょこと弘貴に駆け寄ってきた。血が妙な状態で固まってしまったのだろう。どうにも痛々しい。

「……そっちの方が無事じゃねえって」

 弘貴はため息を吐いて晶を止めると、歩いて青果店に戻った。
 店の前の水道からホースを外して、ティッシュペーパーは持っているかと晶に聞いた。晶はリュックからそれを取り出すと、「あんたの方が先よ」ときっぱり言い置く。
 こんな時の女が譲らないのを知っていたので、弘貴は大人しくそれに従うことにした。
 晶はティッシュペーパーを水道水で濡らすと、弘貴の右手の甲の傷を丁寧に拭った。皮が剥けて予想より悲惨だったが、出血は大したことがなかった。

 それから、自分の怪我は直接水で流した。傷に滲みたが、面倒だと思ったのだ。足の傷の方は、弘貴に後ろを向かせてGパンを脱いで洗った。傷は広いが深くなかったようで、もう出血は止まっていた。

「……ああ、もう。穴空いちゃってるわ」

 ため息を吐いて晶は言った。同時に、ズボンを履いていて良かったと安堵する。そうでなければ、もっとひどい事になっていただろう。

「大丈夫だろ。本当には」

 弘貴が疲れたように言った。晶が舌打ちして呟いた。

「現実でなくても、痛いのは痛いわね。死んだら本当に死ぬかも……」
「……やな事言うよな」

 弘貴は苦笑いしながら、道路に倒れている大蛇を見た。
 ホラーというより、怪獣映画のような光景だ。戦闘制限時間三分の変身ヒーローや米国空軍の代わりに、猫という援軍が手を貸してくれなければ、危なかっただろう。

「これ、蛇女……じゃ、ないわよね」
「違うだろ。それなら、もう向こうに戻ってる」

 弘貴の言葉に、晶は頷いた。これが人外のものの仕業であることに、彼女は初めて確信を持ったのだ。

「ねえ、気付いた?」

 再び歩き出しながら、晶が言った。

「何が?」
「あいつ、私たちのこと本当に殺そうとしてたわ」

 それがどうしたのかと思って、弘貴は訝しげに晶を見た。

「わからない? 今までのはただの『怪奇現象』だったわ。私たちを驚かせるだけで、攻撃してきたことはなかったのよ」

 そういえば、と弘貴は頷いた。時間的な問題もあるのだろうが、確かに今まで、実際に命の危険に晒されたことはなかった。
 少なくとも、自分たちは。
 金崎理恵に会ったとき、弘貴を襲った老婆は殺意を持っていたが、少し定義が違うのかも知れない。
 それは、どういう意味を持つのだろうか。

「そういや、一度に二種類以上の霊は来なかったな。しかも今回は共食いときた」
「何か不都合があったとしか思えないわね。話されて困ることでも……?」

 晶が顎に手を当てて、考え込んだ。

「そうだ、神坂。さっきの大蛇なんだけどな……」

 弘貴は自分たちを助けた黒猫のことを晶に話した。晶は訝しげに眉を顰めて、それから聞き返した。

「……黒い猫?」
「ああ。なんだよ、心当たりでもあるのか?」

 晶はしばらく俯いて、そうかも知れないし、そうじゃないかも知れないと曖昧に答えた。その表情はひどく暗い。言うべきではなかっただろうかと思って、弘貴は無理矢理に話を戻した。

「あー……まあ、とりあえず、今回のは今までとは違うよな」

 晶は頷いた。小さく息を吐いて、平静な声で言う。

「……そうね、確かに、違うわ。なんとなく、空間自体が違うような気がするし」

 弘貴はそれに同意した。感覚的なものだが、ひどく違和感があるのだ。
 晶が前髪を指で掬って掻き上げた。以前に見た仕草だと弘貴は思った。

「だけど、外的要因が解らないわ。今までと今回と、何か違う?」
「は? 色々違うだろ」

 弘貴は不審げに晶を見た。今回は目的があって、自分からこの世界に来たのだし、装備を調えて、元に戻れるようにタイマーも用意している。
 晶が小さく首を振った。

「そうじゃなくて、蛇女にとって、よ」

 弘貴が納得して唸った。考え得る可能性は一つだ。

「行動を知られてる?」
「……最悪、そういう事になるわね」

 ふと、弘貴は思い立った。金崎理恵は、この世界で死んでしまったのではないだろうか?
 あの時の、彼女の行動を思い返す。
 弘貴は狂った人間を見たことがなかったが、もしかすると、弘貴が腕を掴んだあの時彼女の目に過ぎった感情は、狂気だったのではないか。
 もう一つ、符合がある。この世界について晶と話し合ったとき、彼女はこれを精神的な空間と定義した。弘貴もそれに同意した。SF的な表現をすれば、この世界での死は、精神の死ということにならないだろうか。

(精神が死ねば……どうなる?)

 推測に上がるのは二つだ。狂人となるか、廃人となるか。
 それぞれに推測を巡らせているうち、四車線の大通りに出た。
 渋滞で有名な道路である。原因はこの区域で高速道路が途切れていることにあるのだが、それが出来れば通り過ぎるだけの町になることは疑いようもない。
 いつもなら交通量が多くて、その上近くに横断歩道もないため、回り道の地下道を通らなければならないのだが。

「どうする?」
「いいじゃない、渡りましょ」

 あっさり言うと、晶はすたすたと道路を横断し始めた。
 確かに、地下道はかなり怖いだろう。実際何が起こるか解らないだけに、なおさら。

「シャベル、壊れてない?」

 道路を渡りながら、晶が聞いた。随分と、殴ったり投げたり落としたりしていたからだ。
 これなしでは、本来の目的を達成するのは難しい。園芸用のスコップでは些か心許ないだろう。
 弘貴は金の部分を手で掴んで、揺さぶってみた。新しく調達しただけあって、強度に問題はなさそうだ。

「大丈夫だろ」
「そう」

 対向車線に足をかけたとき、二人はふと、エンジン音に気付いて目を向けた。
  そして、愕然とした。自動車が、ものすごいスピードで突っ込んできたのだ。
 慌てて駆け出し、二人は道路を渡った。ガードレールを乗り越えた弘貴の足すれすれを、赤いスポーツカーが駆け抜けていく。

「……あっぶね……」

 大きく息をついて呻くと、晶がぺたんと歩道に座り込んだ。その表情は蒼白だ。
 弘貴は、訝しげに聞いた。

「どうした?」

 しゃがみ込んで晶の目の前で手を振ると、彼女は「聞かないで……」と力無く返してきた。
 しばらく考えて、弘貴はぽつりと言った。

「……ドライバーが首無しだったとか?」
「言うなって……! 言ってるでしょうが……っ!!」

 怒っているのか怯えているのかおそらくその両方の表情で、晶が弘貴の首をぐいぐいと締め上げた。
 実際はついでに、助手席で血みどろの女性が手を振っていたのだが。平静になっていた晶には、ショックの大きな光景だった。
 彼がこの世界の住人になる前にようやく気を晴らせると、晶は手を離した。

「……マジで殺されるかと思ったんだけど」
「でしょうね。途中まで本気だったから」

 事も無げに晶は言ってのけた。感情の浮き沈みの激しさに、弘貴は舌を巻く。
 まあ目的地まで彼女が逆ギレの無敵状態を保っていてくれた方が、都合はいいのだが――そうなったら逆に、自分は余裕を失うかも知れない。

 大通りを渡れば、目的地はもうすぐだ。二人は黙りこくって、高架線沿いを歩いていった。
 普通に歩くだけなら大したことのない距離なのだが、既に二人とも、ぐったりと疲れている。
 晶の足取りは、特に心許なかった。この状態で走ったら、また過呼吸を起こすかも知れない。
 浮かび上がる不安自体が過呼吸の最たる原因なのだが、彼女はそれを自覚していなかった。

「……なあ」

 先を歩く弘貴が、口を開いた。晶は俯けていた視線を上げて、彼の背を見た。

「……何よ?」

 訝しげに、晶は聞き返した。弘貴は答えなかった。迷っているように晶には見えた。

 何を、だろう。
 なんとなく解るような気がしたが、本当は解っていないのかもしれないとも思う。

「……いや、何でもない」

 弘貴の呟きは、ひどくあっさりとしていた。
 晶は不安が頭を擡げるのを感じたが、それを口にすることはできなかった。
 そう、とだけ晶は答えて、それきり、また会話が途切れた。

 

     *

 

 真子が示した場所は、醤油の醸造工場前――高架線の下にある、空き地のひとつだった。
 醤油の強い臭いはどこか腐臭にも似ていて、幼いころに、探検と称して友達と地面を掘り返したことがある。
 そのとき出てきたのは、石ころと蚯蚓だけだった。
 だが、今日は違う。

「……どの辺かしら……」

 空き地の中に入って、晶が周囲を見渡した。弘貴は晶から懐中電灯を受け取ると、地面を照らして歩いていった。
 そうして、顔をしかめる。高架線の、太いコンクリートの柱の近くに、土を掘り返した跡があった。

 その一帯だけ、不自然に草の高さが違う。一度枯れて、もう一度生えてきたのだろう。
 二人は、視線を交わした。

「……俺がやるから、下がってろよ、神坂」

 弘貴がザックを下ろして晶に渡しながら言った。晶は何も言わなかった。
 ここにあるのは、本物ではない。おそらく、腐敗してはいないだろう。それでも、いざとなると、晶にはためらいがあった。
 弘貴はシャベルを地面に立てると、土を掘り返し始めた。

 ざくり、という音が、静かすぎる世界に響いた。
 表情にこそ出さなかったが、弘貴は自分の心臓が早鐘を打っていることに気付いていた。煩いくらいに、耳元で音がする。
 死体を傷つけてしまわないように、少しずつ、地面を掘り返していく。シャベルの先に当たった硬い感触に身を竦め、ただの石だということを確認して胸を撫で下ろす感覚を幾度も味わった。

 十分ほど、その作業を続けただろうか。
 土に差し込んだシャベルが、何か柔らかい物に触れた。

 弘貴は体を強張らせると、ひとつ深呼吸してから、土をゆっくりと掻き分けた。
 そこに出たのは、剥き出しの人間の脚だった。

 異臭はなかったが、弘貴は吐き気を堪えながら晶を呼んだ。彼女はびくっと体を竦ませると、恐る恐る顔を上げて、穴に近付いた。
 深さは一メートル足らずだった。
  その中を覗いて、晶は息を呑んだ。カタカタと震える指で、地面をぎゅっと握る。

「……シャベル、貸して……私がやる……」
「……駄目だ。そこにいろよ」

 弘貴はきっぱりと言った。彼女の声は、ひどく動揺していたからだ。
 満遍なく掘り返していたので、死体の顔の位置を割り出すのはそう難しくなかった。
 弘貴は目測をつけると、穴の端に降りて、手で土を掘り始めた。土は、夏の気温の中で、ひどく冷たく感じた。爪の中に土が入り込む。指先がかじかんでいく気がした。
 その内、頬のような物が土から露出した。弘貴はそれをなぞるようにして土を払い、少女の顔を地上に出した。

 だが。

「……え……?」

 呆然とした弘貴の声に、晶が身を乗り出した。弘貴は震える指先を握りしめて立ち上がった。
 視界に入った少女の顔に、晶も目をみはる。
 弘貴は、絞り出すような声で呟いた。

「……これ……誰だ?」

 それは、知らない少女だった。少なくとも、弘貴はこの少女と面識はない。
 けれど、それが誰であるのかは、察しがついた。本当はもうずっと前に、解っていたのかも知れない。ここにいるのが誰か。なぜ真子が、この世界で死体を掘り返してくれと言ったのか、そのもう一つの意味。
 晶が、小さく呟いた。

「……可奈子ちゃん……」

 弘貴が晶を見上げると、地面にへたり込んだまま晶は繰り返した。

「……これ……可奈子ちゃんよ。真子の……妹の……」

 予想通りの言葉だった。
 まだそうと決まったわけではない。この場所に、真子と妹、そして母親が埋められているのならば、疑問に思うことではない。
 それでも、ここは思念が作る世界だ。現実ではない。
 だから――そうなのだろうと、弘貴は思った。
 金崎理恵との関係。
 中途半端な記憶喪失の理由。
 彼女から感じた、すべての違和感。
 それらが、一本の線で結ばれた気がした。

 不意に、近付いてくる足音が聞こえた。
 二人はそちらを見た。

 真子だった。
 彼女は無言のまま、死体の入った穴まで来て、小さく呟いた。

「……みつけた。……わたしの……死体」

 

 

 

 紙屋可奈子は、自分の家が嫌いだった。

 彼女にとって家庭は安らぎの場所ではなく、友達と別れて家に向かう足取りは、いつも重かった。
 学校は楽しかった。仲の良い友達もいたし、のんびりとした気風の公立学校は、彼女の性格に合っていた。
 だが母にとって、可奈子は「出来損ない」だった。
 姉が通った私立中学の受験に失敗したときから、母は目に見えて態度を変えた。彼女は、娘に失望していたのだ。
 可奈子は母の愛情と引き替えに、時間的なゆとりと幾ばくかの自由を得た。
 父は気の弱い人で、母には何も言えない。優等生の姉は妬ましかったし、何を考えているのか解らない。

 家に帰ると、可奈子は一人だった。母に何かを言われるのが怖くて、友達と長電話も出来なかった。
 そして。
 受験生となった今年、あの日に、すべてが起きた。

 可奈子は日頃の母の嫌味で、まだ六月だというのに、気持ちが疲労しきっていた。
 三年生になって又入れられた塾に行く前、家の階段を下りていた可奈子は、母が誰かと電話している声に気付いた。
 可奈子は足を止めて、その言葉を聞いてしまった。

「ええ、真子は本当にもう、出来た子で。家の手伝いもしてくれるし、勉強も頑張ってますから、きっと国立の……え? ああ、可奈子ですか……」

 母が、はっきりと解るほど声のトーンを落とした。
 それまでの上機嫌はどこに行ったのか、冷たく素っ気ない口振りで言う。

「あの子は、駄目ですよ。本当に、最近は言うことを聞かなくなって。ええ、あの子はいいんです、うちには、真子がいるし……」

 母の声を遮るように、玄関のドアが開いた。姉が帰ってきたのだ。
 彼女は可奈子に気付くと、少し笑いかけてきた。
 嘲笑された気がした。
 真子は靴を脱ぐと、トートバッグの中を探りながら言った。

「可奈子。私ね、今日、友達から――」

 ビデオテープのような物を持っていた気がするが、それを待つ気はなかった。
 玄関にいる姉を押しのけて、可奈子は家を飛び出た。姉が驚いたように彼女の名前を呼んだが、可奈子は立ち止まらなかった。

(いやだ。もういやだ)

 無茶苦茶に道路を走りながら、可奈子は胸中で叫び続けた。
 嫌いだ。皆みんな、大嫌い。何も言わない父も、自分を疎ましがる母も、すべての原因である姉も、この自分自身も!

 可奈子は息を切らせて、足を緩めた。
 胸が塞がっているような感じがして、苦しかった。

「大嫌い、いなくなっちゃえばいいのに。皆、死んじゃえばいい!」

 小さく呟いた、それは確かに呪詛だった。

 ――だけど。
 それに応えて欲しいなんて、誰も。

「……それが、あなたの願い?」

 泡立つような声が、可奈子の言葉に返してきた。
 冷や水を浴びせられたように、びくりと可奈子は身を竦めた。それは、自分の汚い心情を聞かれてしまったからではない。
 背後に、人ではない何かとても嫌なものが、寄り添っていたからだ。

 可奈子は意を決して振り返ったが、そこには誰もいなかった。

 思わず、ほっと息を吐く。
 ――よかった。私の気のせいだったんだ。
 そうよ、そんな事あるはずないじゃない。どうかしてる。

 胸中に繰り返して、その場から逃げるように、可奈子は塾に向かった。
 そこで友達と会って、くだらないお喋りをして、講師が来て慌てて席につき、塾が終わったあと、友達と一緒に少し軽くなった心を抱えて家に帰った。

 それから、三日が過ぎた。

 恐ろしいほどに、何もない日々だった。
 この日々が、嫌なことも良いことも含めて、ずっと続いていくものだと思っていた。
 普通なら、他愛もない現実。
 けれど、すべては、錯覚などではなかった。

 

     *

 

「ただいま……」

 その日、塾から帰宅した可奈子に、返ってくる言葉はなかった。
 家には明かりが全く点いていない。何故か、オーディオからけたたましいほどの音楽が流れている。
 奇妙に思いながらも玄関で靴を脱いで上がった可奈子は、何か柔らかい物に蹴躓いた。

「……!?」

 可奈子は、びくりと体を強張らせた。
 何だろう。不安に高鳴る胸を押さえながら、彼女は恐る恐る、明かりのスイッチに手を伸ばした。

「ひっ……!!」

 それが何かを知った可奈子は、掠れた悲鳴を上げた。
 それは、姉だった。背中に包丁を生やして、うつぶせに倒れている。
 明らかに、絶命していた。

「あ……ああ……!!」

 可奈子は、後ずさるように、カタカタと震える指でリビングの扉に触れた。
 最初から半開きだったようで、それはするりと開く。
 可奈子は、ゆっくりとその中に視線を遣った。

「……!!」

 自分が見た物が信じられず、可奈子は、ふらりとリビングの中に入った。
 玄関から漏れる薄明かりの中に、父が立っていた。その手には、血に染まったガラスの灰皿。
 そして、彼の足元に転がっているのは――無造作に床にあるそれは――かつて、母だったものだった。

「あ……や……! お……お父さ……」

 ゆらり、と父が顔を上げた。ぞっと、背中が粟立つのが解った。その顔には、本当に、何の表情もなかったのだ。
 くすり、と背後で笑い声がした。
 父が、ゆっくりと可奈子に近付いてきた。

「あ……い、いや……!」

 可奈子は後ずさると、踵を返そうとして誰かにぶつかった。女だった。顔を上げると、美しい顔立ちにひどく妖艶な笑みを浮かべていた。
 可奈子の目の前で、だんだんと、その顔が醜く変化していく。

 それは、蛇だった。

 悲鳴を上げて逃げ出そうとしたとき、彼女は後頭部に、強い衝撃を感じた。
 体から力が抜けて、ずるりと床に倒れた。
  くすくすという笑い声が、耳元で回り続けていた。

「これがあなたの望みでしょう?」

 嘲るように、声が言った。

 

     *

 

 目を覚ましたとき最初に思ったのは、自分は誰で、ここはどこだろうということだった。
 記憶が混乱していて、頭がはっきりしない。ページを剥ぎ取って、無理矢理に付け加えられた本のようだ。

 紙屋真子なのか、紙屋可奈子なのか。
  矛盾する記憶が継ぎ接ぎになっていて、そんな大きなことが解らない。
 一つだけはっきりしていることがあった。それは自分たちが殺されて、あの化け物が、彼女を見張るためだけに、紙屋家に巣食っているという、植え付けられた情報だ。
 途方にくれて、あてもなく歩いた。やがて夜が明けた。そのうち昼になり、人通りが増えた街を歩いたが、誰も彼女には気付かなかった。
 ふと、健康食品店のショーウィンドーに目をやり、ぼんやりと足を止めた。

(……ああ)

 そこに映っていたのは、真子の姿だった。だから自分は、紙屋真子なのだろうと思った。
 記憶をたどって高校まで歩き、そこで、杉野弘貴と神坂晶に会った。
 二人は驚いたものの、彼女のことを、快く受け入れてくれた。
 嬉しくて、楽しかった。自分が何であるかなど、どうでも良くなっていた。
 そうして次第に、恐怖に囚われ始めた。

 記憶が一枚、また一枚と剥がれるように、自分が誰であって、どうしてこんなことになったのかを、じわじわと認識させられたからだ。
 言い出すことなど出来なかった。彼らが姉を本当に大切に思っていたことは、もう充分に知っていた。その姉を殺したのは、自分の悪意だ。

 どうしてこんなことになったのだろうと、泣きながら考えた。
 あの女は、私が願ったからだと言った。

 ――私が、願った? 何を? 家族を殺すことを? 自分が姉になることを?

(……そうか)

 そうして気付いた。嫉妬と羨望にまみれて、押し潰されそうだった。姉のようになりたかった。悔しくて悲しくてどうしようもなくて、大嫌いだった。
 姉のようになりたいと。そうだ、そう願っていた。

  ――でも、違う。こんなのは、違うのに!

 泣き喚いても現実は消えない。言い出せないまま、友達を一人殺してしまった。
 後悔した。逃げ出したかった。けれど、今の状態を、手放したくなかった。
 決意するまでに、ひどく時間がかかった。

 自分がこの世界から消える方法。

 それを、口に出すまでに。

 

 

 

「……どういう……ことなの……」

 信じられない思いで、晶が呟いた。
 真子が口にした言葉は、この死体が彼女のものであると――彼女が「真子」ではないという事を示している。
 弘貴は、どこか諦めに近い思いで納得していた。
 今まで感じた違和感の、すべてにつじつまが合う。おかしな程幼い反応も、無邪気で見慣れない笑い方も、時折見せる何か言いたげな目も、すべて。

「……なあ、紙屋」

 平静な声だった。自分でも驚いて、弘貴は少し笑ってしまった。

「これで良かったか?」

 少女は微笑んだ。
 彼がすべてとは言わなくても、事実を、知っていると感じたのかも知れない。

「うん」

 彼女が頷いたその時、強い悪意がその場に生まれた。
 ざわりと、空気が変わる。

「……ふふ……良かったわね」

 色を含む笑い声が響いた。
 穴から這い出た弘貴が、真子を――いや、可奈子を後ろに庇った。
 落ち着いた足音が、ゆっくりと近付いてくる。晶が震える手で、懐中電灯を握りしめた。
 暗闇から姿を現したのは、弘貴の予想通りの姿だった。

 紙屋冴華。
 彼女は、艶やかに微笑んだ。赤い唇が、やけに鮮やかに映った。

「もうこれで、お終い。満足でしょう? 可奈子ちゃん。今度は、私の願いを叶えてちょうだい」

 ひどく親しげな声だった。だが、同時にどこか薄ら寒い。
 弘貴は戦慄が意識を支配していくのを感じながら、ズボンの後ろポケットに手を入れた。
 硬い感触があった。躊躇う暇はなかった。小刀の鞘をポケットの中で外しながら、彼は平静を装って言う。

「……ああ、やっぱり、あんたが『蛇女』なんだな」

 文献で得た知識のどれもが無意味だと、本能で悟っていた。
 どこかで、相手が手を出してくることはないと思い込んでいた。迂闊だった。まさか、本物が出てくるとは……!
 紙屋冴華はゆっくりと口角を持ち上げ、首を傾げた。

「……残念ね。あなたもとても魅力的だったのだけれど……私はこの娘と契約しているところだから」
「契約ね……一体どんな?」

 少しでも、話を長引かせようとした。
 晶が掛けたタイマーは二時間。それまで保つだろうか。いや、もしタイマーで元の世界に戻れたとしても、可奈子は共に戻れるか、確信を持てない。
 目の前の存在は、恐怖でしかなかった。弱点など見あたらない。彼女はこの世界の支配者だ。
 裡の葛藤を抱えての言葉だったが、弘貴の質問に、可奈子がびくっと身を竦ませた。

「あらあら……知らなかったの。ふふ、そうよねぇ、言える筈がないわね。嫌われてしまうかも知れないものね……」

 くすくすと笑いながら、紙屋冴華は言った。
 嫌な笑いだ、と弘貴は胸中で舌打ちした。可奈子を追い詰めようとしているのが、手に取るように解る。

(……追い詰める?)

 自分の考えを、弘貴はふと反芻した。
 そう、追い詰めようとしている。だが、一体何のために? 相手にその必要性があるというのか?
  この女は狡猾だ。無意味な行動ではあり得ない。

「ふふふ……。ねえ、可奈子ちゃん。あなたは何を願ったかしら?」
「……!」

 可奈子が弘貴の服を握った。
 晶がそれを見て、堪りかねたように怒鳴る。

「やめなさいよ! 別に、こっちは聞きたくなんか……!!」

 紙屋冴華は可笑しそうに笑った。
 自分の優位を信じて、まるで疑っていない。

「その娘はね、お姉さんが、あなた達のお友達が、死んでしまえばいいと思ったのよ」

 晶が目をみはる。弘貴は予想していたのか、少し息を吐いただけだった。

「やめ……やめて! お願い、やめて!!」

 可奈子が泣きそうに叫んだ。
 紙屋冴華は目を細めてそれを眺め、続けた。

「お姉さんだけじゃないわ。父親も、母親も、自分自身も――皆死んでしまえって、あなた、そう言ったでしょう?」
「やめてえっ……!!」

 可奈子は両耳を塞ぐと、その場にくず折れた。
 晶は愕然として、何も言えなかった。口の中がひどく乾いていた。
 何を言えばいいのかわからない。それよりもまず、自分の感情の正体を、掴みあぐねていた。
 そこに弘貴が、口を開いた。

「……だから、何だよ?」

 低い呟きに、視線が集まる。彼は淡々と言った。

「人間なら、誰だって悪意を持つことがあるんだよ。死にたいとか殺したいとか、口に出すこともある。でも、本当にそうして欲しいなんて、一体誰が言った?」

 本当に可奈子がそれを望んでいたなら、今、こんなに苦しんでいるわけがない。

「あんたがやってるのは、体のいいお節介なんだよ。――いや、それですらないか。単なる補食のための罠だ。ただの言いがかりだ。あんたとしては、契約が成立しさえすればいい。そうだろ?」

 突き付けるような口調だった。
 晶は、彼が本当に怒っているのだと感じた。怒鳴らないし、ひどく冷たい口調だが、確かに、とても強く、怒りを感じていると。
 自分に言ってないことがあるのだと言うことは、こんな時でも腹立たしかったが。
 紙屋冴華は微笑んだ。だが、それはそれまでの余裕を少し損ねている気がした。
 そう、彼女のこれは擬態だ。餌を得るための。それを巧みに用いて、逃げ場がないのだと思いこませようとしている。

 なぜ、そんな必要があるのだろうか?

「何で知ってるのか、って顔だな。悪ぃけど、あんたが思ってるほど俺達は馬鹿じゃない。これは仮説だけどな。あんたは、現実世界じゃ普通の人間か、それ以下の力しかない。紙屋と契約しても、直接手を下さずに、親父さんを使ってる。ネタは多分、この世界だな? 頭がイカれちまうまでいかなくても、ひどい衰弱状態に追い込んで、言う事を聞かせる位は出来るだろ。……ああ、違うか? こっちの世界で死ねば、精神がやられるのかもな。まあ、どっちでもいい」

 金崎理恵とは違う。自分達に対するあれは、ただの遊びだった訳だ。
 それは口には出さなかった。実際、今この世界で、優位に立っているのは彼女の方なのだ。
 時間を稼げ。いくらでもいい。
 弘貴は胸中に呟いて、更に口を開く。

「金崎理恵は、紙屋に対する脅しか? もういいだろう、ってとこを聞くとな」

 許せなかった。ただそれだけの理由であの少女は殺されたのだ。真子や、可奈子の死よりも、それはひどく現実的に思えた。
 可奈子と晶が、それぞれに驚愕の表情で弘貴を見た。後で晶にどやされるだろうと弘貴は思った。まあ、後があれば、だが。

「人面犬が言ってたよ。あんたは人の願いと引き替えに補食をするってな。紙屋の願いは、姉貴としてこの世界にいることか? だから、泳がせてたんだな。もう願いは叶えてやったとでも? 理由は知らないが、元々条件を満たせばいいだけらしいからな。更にあんたが自分で言いだしたことを聞くと、あんたは契約者しか補食できないらしい。この世界に引っ張り込むのも、契約者の関係者……どういう規定かは知らないが、そいつらに対してしか出来ない。しかも、契約者に抵抗されると、補食もうまくいかない。つまり、あんたが――」
「……お喋りはその辺りにして貰おうかしら」

 感情もなく微笑んだまま、紙屋冴華は言った。弘貴が思わず言葉を失ってしまう程、それは凄味のある声だった。

「そうね、大体あなたの言うとおりよ。大したものだわ。この状況で、虚勢を張れるなんて。でも……それも、あまり意味はないようね」

 晶は「ひっ」と短く息を呑んだ。紙屋冴華の美しい容貌が、深い緑にてかる鱗で覆われていったのだ。
 後には爬虫類独特の、細長い瞳孔の目と、赤くちらつく舌が出てきた。
 震える手で小刀を強く掴みながら、本当に「蛇女」だったのだと弘貴は思った。
 本人が名乗ったわけでもないし、可奈子の言葉はひとつの喩えかと思っていたのだが。

「一つ、間違いがあるわ。私がその子を放っておいたのは、ずたずたに傷つけて、絶望させるためよ。そうでしょう? 何て他愛もない」

 晶が、噛み付きそうな目で蛇女を睨んだ。
 弘貴は時間を見たかったが、諦めた。相手にタイマーの存在を知られてはならない。
 それでも、果たしてどれくらい先なのか解らなかったし、一度ここから抜け出したとして、それが問題の解決に繋がるのかも解らない。

 考えろ。
 どうにかしなくては。

「さあ、可奈子ちゃん。こっちへいらっしゃい。私はあなたの願いを叶えたでしょう? これ以上を望むのは、贅沢というものよ。……それとも……折角あなたの味方に付いてくれた、大切なお友達が、ひどい目にあってもいいのかしら」

 穏やかなくせに、突き刺すような声だった。可奈子が蒼白になる。
 上手い言い方だと弘貴は思った。だが、相手の思うとおりにいかせる訳にもいかない。どうするかと考えているうち、晶がふらりと前に進み出た。
 紙屋冴華は――蛇女は、訝しげにか、楽しげにか解らない様子でそれを見る。

「……ふざけんじゃないわよ」

 晶が言った。いつもより低い声のトーンに、弘貴は何となく推測をつける。
 嫌な予感がした。

「私たちを助けたかったら……ですって? 性根が腐った真似してくれるじゃない。言っとくけどね、こっちは今まで散々怖い思いさせられて、すっかり感覚が麻痺してきてんのよ。やれるもんなら、やってみれば!?」

 これには弘貴が慌てた。あまりに無謀すぎる挑発だ。蛇女はくすくすと笑った。
 声だけは、以前と何ら変わりない、とろけるようなものだった。

「その娘は、もう死んでいるのよ?」
「それがどうしたのよ! 知ったことじゃないわ!」

 晶は語気を強くして言い返した。たとえ死んでいても、今まで仲良くしていた少女が、こんな化け物に喰われてしまうのは我慢ならなかった。
 蛇女は鱗の生えた手を口元に持ってきて、面白そうに言った。

「元気のいい女の子は、好きよ。でもね……その威勢は、一体いつまで続くかしら?」

 蛇女の指が、指揮棒を振るように動く。
 だが、何かが起こるよりも先に、可奈子が叫んだ。

「お願い、やめて!! もういいから、言うこと、聞くから! お願い……!!」

 悲痛な声だった。
 蛇は微笑み、晶はやめろと首を振った。

「こっちにいらっしゃい」

 勝ち誇ったように蛇女が言った。無論、鱗に覆われた顔から表情は伺えないが。
 弘貴は隠すように小刀を握りしめたまま、蛇女の隙を必死で探した。
 鱗は刃を通すだろうか。眼球は? 透明な鱗で保護されているとは読んだが、本にはその強度までは書かれていなかった。
 普通の蛇と同じように考えてはうまくいかないだろう。どちらかというと、人間寄りなのかも知れない。

 小刀の威力を考えても、刃渡りは小学生の工作用だけにかなり小さい。強度はあるが、一応研いだものの鋭さにも心許ない。
 だがそれらの何よりも、問題は――相手を刺すことが出来るかどうかだ。たとえ相手が、化け物であっても。
 弘貴はそういった意味で、普通の少年だ。誰かを刺した経験などある筈もない。中学に入ってからは、取っ組み合いの喧嘩もした事がなかった。
 弘貴の脳裡を、野崎理恵の生気のない虚ろな眼差しが過ぎった。
 我知らず、彼は右手に力を入れていた。

「真子、駄目よ!」

 晶が叫んで、可奈子の腕を掴んだ。

「あら……邪魔しないで頂戴」

 舌なめずりしながら、蛇女が悠然と言う。
 次の瞬間、土から突き出た手が、弘貴と晶の両足首を掴んだ。

「!!」

 弘貴は顔を歪めた。彼女の言葉は晶ではなく、自分に向けられていた。気付かれていたのだ。
 可奈子は晶の手を剥がして、ゆるく首を振った。

「ありがとう……ございました。騙してて、ごめんなさい」

 可奈子は少しだけ微笑むと、踵を返して、蛇女の前に立つ。
 蛇女は満足げに笑い声を漏らして、可奈子の首に手を伸ばした。
 弘貴は藻掻くが、足をしっかり掴まれていて動けない。手に斬り付けようと、小刀を振りかぶったときだった。

 どん、という音がした。小さな悲鳴と、呻き声が耳に届いた。

 それが何の音か解らずに、弘貴は視線を上げた。
 可奈子が地面に尻餅を付いていた。
 蛇女が元から開いていた目を更に見開き、体を硬直させていた。

 そして、蛇の背後には。

「……お父……さん……?」

 可奈子が、信じられない思いで呟いた。
 蛇女の背中に出刃包丁を突き立てていたのは、紛れもなく、彼女の父親だった。

「貴……様ぁ……っ!!」

 蛇女が苦しげに身を捩り、身の竦むような形相で振り返る。
 その背中に足をかけて、ずぼっ、と彼は包丁を抜き、倒れた蛇女を仰向けにして、その口内に刃を叩き込んだ。
 蛇女は、びくびくと痙攣していたが、彼が包丁から手を離すと、ぐったりと動かなくなった。

 あっけない、最期だった。
 蛇女の返り血を浴びたまま、可奈子は地面にへたり込んでいた。

 父がのそのそと立ち上がり、虚ろな目で彼女を見下ろした。
 正気ではなかった。

「可……奈……、すまな……か……」

 掠れた言葉を残して、彼はふつりと力を失い、娘に倒れかかった。
 弘貴が見たのは、そこまでだった。白濁化する意識の中で、気付く。

 すべてが、終わろうとしていた。