夏の華

 

 欝という症状は、多かれ少なかれ人間の中に存在するものだ。
 何もかもが嫌になる、何も考えたくなくなる。それが高じて自殺願望になったり、社会との関係を保てなくなる。
 いつか目にした、自殺を考えたことがあるかというアンケートでは、男子生徒よりも女子生徒に肯定の割合が多かった。一般論では、男よりも女の方が多感で、感情的だからだという。

 個人差はあるが、そうだろうと弘貴は思う。けれど、実際に自殺する割合は、女よりも男の方が高い。女は男よりも、ストレスを解消するのが上手いように感じるのだ。
 衝動的に死を願っても、多くの場合、それは一時的なものだ。その時期を越えれば、何事もなかったかのような日常や、楽しい出来事がある。ただ、いじめなどの場合は継続的に精神的苦痛が続くので、気分を晴らすことは難しいのかも知れないが。
 どちらにしろ、男は女のように騒ぐことは少ない。グループを作って遊んだりということは、大多数の少年はあまりしない。言うなればある種の個人主義で、変化が少ないのかも知れないと弘貴は思う。感情を表立たせて騒ぐことに、抵抗感がある。だから、その感情を緩和することも出来ない。

 弘貴は死にたいと思ったことはないが、誰かを殺したいと思ったことはある。

 例えば、片親であることを理由にいじめられた小学生の時。
 そして、見知らぬ男が仕事中の母親と歩いているのを見かけた中学生の時だ。

 それを実行に移したことはないし、ずっとそう思い続けることもなかった。結局、衝動的な感情なのだろう。人生の中でそれに支配されるのは、ほんの少しの時間なのだと思う。
 殺意も自殺願望も、抱くだけならまだ何も変化はない。
 ただ、自分の心の中に、ほんの少しの痼りを残すだけだ。やがてそれすらも年月の中に風化する。

 けれど、その感情を行動に移してしまったなら――きっともう、戻ることは出来ない。

 

     *

 

「……くん、杉野君!」

 寝惚け眼で頭を起こすと、真子が目の前で、焦った顔をしていた。
 読書感想文の本を読んでいるうちに、机の上で寝てしまったらしい。
 窓から入り込んできた風が、教室のカーテンをはためかせる。弘貴は伸びをしてから、教室机の上に広げた文庫本のページに、皺が入ってしまっている事に気が付いた。

「ねえ、もうすぐ補習始まるよ」
「へ? うわ!」

 時計を見ると、慌てて弘貴は授業道具を引っぱり出した。自習していた晶が、呆れたようにそれを見る。
 八月も、四日を過ぎた。
 再び学校に姿を見せた弘貴は、普段通りの様子を取り戻していた。暗黙の了解のように、弘貴の謝罪に対して、二人は何も問い詰めようとしなかった。
 気がかりだった真子の態度は、既に沈んでは見えなかったが、どこか明るい振る舞いが不自然で、何も言えなくなった。
 あの事故のことも、金崎理恵との真子の関係も、聞くことが出来ずにいる。
 無関係だとは思えない。何か、真子が話していないことがある。それは確信しているが、それを聞くべきなのか、まだ答えを出せずにいた。

 結局、自分はどうしたいのだろうかと思う。
 状況には何の変化もない。晶はいい加減心霊現象に慣れてきて、蛇女の正体を幽霊から掴もうと躍起になっていたが、案の定それも全く成果を上げていない。弘貴が、彼女を決定的に逆上させるような真似はすまいと胸中で誓ったくらいだ。
 このままでは、事態に進展は見られない。晶は実際、それを認識している様子だ。
 彼女が内心、変化を望まなくなっていることに、弘貴は気付いていた。自分にも似たような感情はあったからだ。
 この奇妙な日常が、余りに楽しくて変化がない。終わりが来ることを知っていながら、目をそらしている。晶も、口にこそ出さなかったが、真子をまた失うことを怖れているのだろうと思う。

 いつのまにかそれが、「蛇女を倒す」ことよりも、切実な願望になっている。

「あ、ねえ、杉野君!」

 おざなりに礼を言って、教室を出ようとした弘貴を、真子が呼び止めた。

「何?」
「えっと、あのね。今日、お祭りがあるでしょ? 晶ちゃんと、杉野君と……三人で行きたいなあって、思って……だめかな」

 しどろもどろに言いながら、上目遣いに真子は弘貴を見た。
 どこか、いつもよりも遠慮がちに見える。
 弘貴は曖昧に苦笑した。窓際の席に座る晶を見やって、言う。

「……神坂が嫌がらねぇ?」
「ううん、いいよって」

 首を振った真子の答えに、少なからず弘貴は驚いた。

「神坂、正気か?」
「……仕方ないでしょ。真子がどうしてもって言うんだから……」

 世界史の問題集から顔をあげないまま、不機嫌に晶は答えた。
 弘貴はわずかに苦い表情を浮かべたが、すぐにそれを消した。

「わかった。待ち合わせの場所と時間、決めといてくれよ」
「うん」

 嬉しそうに真子は頷いた。けれど、その笑顔にはどこか陰りがある。
 弘貴は気付いていた。それは、あの金崎理恵の事故が起きてからだということを。
 複雑な心境のまま弘貴は少しだけ笑って返し、教室を出た。

 

 

 

 帰宅した後、自室で机に向かうと、晶は英文に目を通しながら単語をチェックしていった。
 弘貴との約束には、まだ時間がある。
 受験生たる者、と、どこかで聞いた言葉を呟く。短い時間をこそ利用して、勉学に励むべきだと。
 晶は小さく息を吐いた。
 弘貴はどうでもいいとして、一時期落ち込んでいた真子も、大分元気になったような気がする。
 どうして落ち込んでいるのかと詰め寄ると、おいしい物が食べられないからだと笑って返されて、拍子抜けしたのが一週間前。――もちろん、深刻な悩みなどではない方がいいのだが。

(……違う)

 考え方を返れば、深刻な悩みなのかも知れない。
 物が食べられないのは、彼女が死んでいるからなのだ。明るく振る舞っていてもどこか影があるのは、そのせいなのだろう。そう思うと、悲しかった。
 考え込んでも仕方がない。晶は首を振り、英文に視線を戻した。
 どうやら、アメリカと日本の大衆文化の違いを論じているようだ。一通り目を通しながらの作業を終えて、書き出した解らない単語を辞書で調べた。
 弘貴は英語が苦手だと言うが、晶にとっては点稼ぎの教科だ。物理に比べると、よほど簡単だと思う。

 CDが一巡したので、晶はもう一度再生ボタンを押した。彼女はヘッドホンで音楽を聴くが、音量はかなり低い。最初はもう少し大きな音で聞いているのだが、だんだん煩くなってきて音を下げるのだ。
 だから、部屋の扉がノックされたのにもすぐに気付いた。

「どうぞ」

 咲ならノックのあと返事を待たずに入ってくるし、母は休日だと言うのに出勤している。真子はノック自体出来ないが、今は台所で咲と一緒にテレビを見ているから、違うだろう。
 晶の予想通り、入ってきたのは父だった。

「父さん、どうかしたの」

 ヘッドホンを外して問うと、父親は所在なさげに部屋を見回した。
 あまり片付けてないので、見て欲しくないのだが。
 そんな事を思いながら辛抱強く待つと、ようやく父が口を開いた。

「……勉強は、はかどってるか?」
「まあ、それなりに」

 父は「そうか」と答えたきり、また押し黙った。
 晶は父親のこういうところが苦手だった。無口で無愛想で、何を考えているのか解らないのだ。
 実際、今は質問の意図が見えない。
 唐突に、父が訊ねた。

「お前、将来は何になりたいんだ」
「え……別に考えてないけど」

 答えた後で、晶はしまったと胸中に呟いた。これでは会話の続けようがない。案の定、父はまた「そうか」と言ったきり黙ってしまった。

「えっと……そうだ、父さん。聞きたいことがあるんだけど、いい?」
「ああ……何だ」

 おかしなくらいぎこちない会話だと思いながら、晶は言った。

「なんで母さんと結婚したの?」

 予想だにしていなかったらしく、父がわずかに驚いた顔を見せた。
 それから、少し考える素振りをすると、訝しげに晶を見た。

「……恋人ができたのか?」

 聞きなれない言葉と生真面目な口調に、思わず晶は吹き出した。

「やだ、好きな人もいないわよ。だから聞いてみたくなったんだけど」
「……そうか」

 何となくほっとしたように、父は息を吐いた。うちの父さんも「お父さん」だったのねと、晶は妙な感想を抱いた。

「晶は……母さんが嫌いか?」

 父の言葉に、晶は不意を突かれたように顔を上げた。

「まさか。好きとは言わないけど、でも、尊敬してるわ。親だもの」

 口に出してから、本当だろうかと思って晶は俯いた。
 言い訳がましく、ぼそりと続ける。

「……仕事に熱心すぎるとは思うけど」
「そうだな……」

 微かな苦笑を見せて、父は頷いた。

「母さんは、仕事をしてる時が一番生き生きしてるんだ。母さんの人生だから、父さんはやりたいようにやらせようと思ったんだが……ただ……そのせいで、お前や咲に、無理をさせてるのかも知れないと思ってな……」

 晶は少なからず驚いていた。父とこんなに話をするのは初めてだったし、父の心情を聞くのも、そんな気遣いを聞いたのも初めてだった。

「……ねえ、父さん。母さんのどこが好きだった?」

 父は気むずかしそうな顔をした。けれど、なんとなく、照れているのかも知れないと晶は思った。
 しばらく黙りこくって、父はぼそりと呟いた。

「……いろいろだ」
「何それ」

 あまりにも幼げな返答に、晶が笑った。生まれて初めてだ、父親に親近感を持ったのは。
 父はそれを見て目を細めると、ようやく本来の用件を切り出してきた。

「夏休みが終わるまでに、皆で旅行に行こう。母さんも仕事に都合をつけた」

 突然の言葉だった。晶は目を瞬かせて、唖然としたまま言った。

「……父さん。あたし、受験生なんだけど」
「む……」

 父は困ったように顔を顰めると、たまには息抜きをしろと言った。
 とても、受験生の子供を持つ親の言葉とは思えない。
 晶は苦笑して、それに頷いた。

 

 

 

 二人との待ち合わせ場所に行くのに、弘貴は大回りをして紙屋家に向かった。約束までは、まだ二時間ほど余裕がある。
 何か策があったわけではないが、相手の様子を窺っておいても損にはならない。
 少し遠いが、部活を引退してから運動不足だったので、たまにはいいだろう。
 歩きながら、弘貴は考えていた。

 まず、真子の父、紙屋正和が家族を殺した。

 そして、真子は自分たちの前に現れた。

 彼女は記憶喪失だと言った。記憶喪失の定義はさておくとして、引っかかる点がいくつかある。

 その最も大きな物が、金崎理恵の死だ。
 彼女は中学生だった。真子や自分と年齢が合わないし、住んでいる場所は校区で考えれば同じだが、真子は私立中学の出身で、金崎理恵の通った公立中学とは関わりがない。
 つまり、金崎理恵と真子を繋ぐ糸は、無いに等しいのだ。

 妹の紙屋可奈子と交友関係があった可能性も考えられなくはないが、だとしても、真子との関係は薄い。真子が妹と不仲であったことは、話の弾みで聞いたことがある。
 ならばなぜ、蛇女は――これも、糸を引いているのが蛇女だと仮定しての話になるが――金崎理恵を自分たちと同じように狙ったのか。そして何より、なぜ真子は金崎理恵の死にショックを受けたのか。
 弘貴には、真子が沈んでいた理由をそう解釈していた。あまりにもタイミングが合いすぎる。おそらく、ニュースで彼女が事故死したことを知ったのだろう。
 それなら、なぜ真子はそれを隠すのか?

 二人が、自分から離れていくことを恐れたのだろうか。
 そうかも知れない、と弘貴は思う。自分たち以外には、彼女は見えないのだ。二人が真子から離れれば、本当に彼女は独りになってしまう。
 ふと、弘貴は足を止めた。

(違う、おかしい)

 胸中に呟く。
 彼女は記憶喪失だと言った。自分たちのことも覚えていなかった。
 それなのに、金崎理恵のことは覚えていたのか?
 辻褄が合わない。
 彼女が死んだショックで、記憶を少し取り戻したのだろうか。そうかも知れないし、事故での記憶喪失ではないのだ、少しずつ思い出していた可能性もある。
 ――けれど、もっと解りやすくて、信じ難い仮説も立てられる。

 弘貴はかぶりを振って、自らそれを否定した。

(意味がない)

 事実がどうであっても、彼女の好きにさせると決めたはずだ。
 考えを断ち切って、彼は再び歩き出した。
 カーブのきつい橋を渡る途中で、弘貴はふと、水面を見下ろした。
 水鳥が泳いでいる。工場が近いのになと感心しながら、弘貴は視線を上げた。
 やたら暑かったが、そのぶんだけいい天気だった。雲一つない空は、引きずっていた梅雨を忘れさせる。降っても晴れても暑いなら、晴れている方がいいと弘貴は思う。
 夕方とは思えない日差しに、汗がシャツの下を流れていった。彼は黙々と歩き続けた。 そのうちに、自分が本当に歩いているのか解らなくなった。
 周囲に木は群生していないのに、蝉の声が割れるように響いている。

 たまに、自分が一体何なのか解らなくなる。誰にでもあることかも知れないが、何故ここにいるのか、何故生きているのか、自分の、自我とは一体何なのかと。
 ひどく、無意味な問いだ。思春期とはそういうものだという。けれど、ならば、大人になればそんな事を疑問に思うことも、なくなるのだろうか。
 そう思うと、何だか馬鹿らしく感じてきた。
 真子の家には、一度彼女を送っていったことがあった。晶が学校を休んでいたときのことだ。そうでなければ、無理だった。
 自分の家も同じ方向だからと理由を付けたのだが、後で逆方向だということがばれて、笑われてしまった。彼女が本当に可笑しそうに笑うのは珍しいから、それはそれで嬉しかったのだが。
 弘貴は思い出し笑いをして、角を曲がった。

(……さーて……どうするか)

 少し考えて、一度、家の前を通り過ぎることにした。
 ゆっくりと歩きながら、ちらりと視線を遣ると、百日紅の白い花が道に乗り出していた。ごく普通の、日本的な一戸建てだ。
 すぐに引き返していると怪しいので、そのまま一〇メートルほど行って、自動販売機でジュースを買った。
 ガコン、と音がして、缶が転がり落ちてくる。それを手にとって、弘貴は冷たさに目を細めた。この機械を作った人は偉大だと思う。本当に。
 弘貴は自動販売機を背にして、もう一度真子の家に目を遣った。
 その時、家のドアが開いた。目を凝らすと、出てきたのは若い女のようだ。
 おそらく、紙屋冴華だろう。どこかに出掛けるのだろうか。

「すみません」

 弘貴は彼女に声を掛けた。門から出た女性は、足を止めて振り返った。
 妖艶な微笑を、浮かべていた。妙齢の女だ。真子の父は四十代から五十代だろうから、かなりの年の差という事になる。
 化粧はさほど濃くないが、派手な印象を受けた。口紅がやたらと赤く思えた。高そうな、きつい香りのコロンをつけている。
 弘貴は悟られないように相手を観察しながら、愛想良く笑って聞いた。

「この辺に、田中さんのお宅はないですか」

 流れるような仕草で、紙屋冴華は首を傾げた。

「さあ……ごめんなさい、最近越してきたものだから……」
「ああ、そうですか。すみません」

 弘貴が会釈してみせると、彼女は艶やかに微笑んだ。

「……どこの高校の方?」
「…安芸東高ですけど」

 弘貴は咄嗟に嘘をついた。家を訊ねただけの少年にする質問ではない。何か、感づかれたのだろうか。

「じゃあ、どうもすみませんでした」

 話を切りあえげて踵を返した弘貴は、紙屋冴華の一言に足を止めた。

「……あなたの――」

 甘く囁くような声だった。

「え……?」

 弘貴は振り返った。彼女は微笑んでいたが、どこか薄ら寒く感じた。
 必死に平静を装い、慎重に、口を開く。

「……何か?」
「いいえ、何も……」

 彼女はその顔に微笑をたたえたまま、小さく、何事か呟いた。
 それは、蝉の声に掻き消されたが――、

「……じゃあ」

 弘貴は今度こそ踵を返すと、足早にその場を去った。振り返ることはできなかった。
 角を曲がると、堪えきれずに走り出した。もつれそうな足で息が切れるまで走って、ようやく弘貴は立ち止まった。
 汗でTシャツが貼り付く。膝に手をついて、彼は肩で大きく息をした。

 ぽたぽたと、顎からこぼれる水滴がアスファルトに染み込んで、消えていく。利き手に握りしめた缶ジュースが炭酸飲料であることも、思いつかないほどに動揺していた。

 ――残念ね、と。

 彼女の掻き消されたはずの呟きは、そう聞こえた。
 弘貴は手の甲で汗を拭った。流れ落ちてくるそれは、暑さの所為だけではない。
 紙屋冴華に対して感じた、それは、恐怖という名の感情だった。

 

 

 

 今日の夏祭りは企業の催しで、この土地で人々に親しまれてきたものだ。
 それというのも、やはり大企業であるため、縁日と違って香具師だけでなく、社員である――つまり地元で、知り合いの――人間が店を出しているという特徴からだろう。
 野球やソフトボールなどの試合や駐車場に使われているグラウンドは、この日だけは様相を変える。
 テントがずらりと長い列を作り、ステージが建てられて音響や照明器具まで用意される。
 普段は地域のスポーツ大会くらいでしか人が集まらないのだが、この日は、市じゅうの人間がここに来ているのではないかと思うほどに人が多い。内容も近辺の縁日では見られないほど豊富で、大人から子供まで楽しめる行事だ。

「あ! ねえねえ、金魚すくい! やろう!」

 真子がはしゃいで言った。
 呆れたように腰に手を当てて、晶は返す。

「あんたねぇ。うちじゃ飼えないわよ」

 至って常識的な言葉に、真子は頬を膨らませると、ぼそりと呟いた。

「……晶ちゃん、お母さんみたい」

 弘貴が隣で吹き出した。じろっと睨んできた晶をかわすように、彼は真子に言う。

「俺の家で飼うよ。前に熱帯魚いたから、水槽あるし」
「じゃあ、出来るね。行こ!」

 ぱっと表情を輝かせて、真子が駆けだした。
 やれやれとそれを見送った弘貴の隣で、晶がふと呟く。

「……なんか、子供みたい」
「子供だろ?」

 振り返って手招きする真子を、弘貴は歩いて追った。晶が疑問の目でその背中を見たが、結局ため息をつくに終わらせる。
 晶が二人に追いついたときには、すでに弘貴が金魚と格闘していた。その後ろで、真子が声援を送っている。
 本当に変わったわね、と晶は思う。生前できなかった分を取り返すかのようにはしゃぐ真子を見ていると、自分は彼女のことを本当には解っていなかったのだろうかと、改めて思ってしまう。
 以前は、一言で言うなら真子は変わったテンポを持つ子だった。元より妙に行動的ではあったが、周りを振り回すと言うよりも、むしろ一人でいつの間にか行動していることが多くて、しばしば虚を突かれる。文化祭の実行委員会に入ったのもそうだったし、三年になって、時期はずれに絵画部に入部したのもそうだった。
 性格は死ぬまで変わらないと言うから、逆を言えば、死んでしまえば変わる物なのだろうか。

「わあっ、すごいすごい!」

 つまらないことに思考を向けていると、真子が歓声を上げた。
 晶が弘貴の手元に目を遣ると、アルミの器に黒い出目金がばたばたと泳いでいる。他にも、小さな赤い金魚が数匹いた。

「へえ……あんた、意外に器用ね」

 感心して晶が言うと、意外には余計だろと弘貴が笑った。
 その後も真子は精力的に、飴細工、カエル飛ばし、バスケットのシュートゲームに射的、フリスビー、ボールすくいにお化け屋敷と回り続けた。
 本人は見ているだけなのだが、やたらに楽しそうだ。フリスビーの辺りで晶はばてたが、真子は依然として元気だった。
 お化け屋敷は、以前遊園地で咲に引きずられて行ったとき、真っ暗な入り口で引き返したほどに苦手だったのだが――さすがに最近の異常現象で慣れただけあって、簡易な作りが微笑ましくすら思えた。向こうの世界の幽霊に比べれば、ゴムのお面などかわいいものだ。
 これも成長かしらとぐったりしたまましみじみ言うと、二人は可笑しそうに吹き出した。

「あ! ねえねえ、さいころゲームだって!」

 前方を指さして、再び真子が声を上げた。
 巨大さいころを転がして、出た目の合計点で景品を貰うゲームだ。高校生でやっている人間は、さすがに少ない。

(元気だよなあ)

 走っていく真子を見ながら、弘貴は苦笑した。体力の消費は関係ないのだから当然なのかも知れないが、元気な幽霊というのも何となく妙だ。
 景品を全て持たされた弘貴は、手首に掛けた金魚の袋を気にしながら、ふと呟いた。

「なあ神坂。いま三條に会ったら、すげぇ事にならねぇ?」

 真子の姿は他人には見えない。事情を知らなければ、意外な組み合わせの二人がデートしていると勘違いしても仕方がない状況だ。……少なくとも、途中で出会した知り合いは皆、驚いたり面白がったりしていた。

「……嫌な事言わないでよ。本当に出たらどうしてくれるの?」

 晶は思い切り顔を顰めた。まるで化け物か妖怪のような扱いに、弘貴は苦笑して頭を掻く。市内ではこの時期一番大きな祭りなのだから、彼が来ていても不思議はないのだが、そう言うとまた怒りそうだ。
 そんなことを思って顔を上げたそこに――弘貴はものすごく嫌なものを見つけた。

「……うわ、三條……」

 弘貴は思わず笑みを引きつらせて呻いた。愕然とした顔で立ち尽くしているのは、どう見ても、かの友人だ。
 晶は彼の姿に気付いて、あからさまに嫌そうな顔をした。どうやらこの間のことを、まだ根に持っているらしい。

「お前ら……マジで……?」

 呆けたように、三條は聞いた。何がだと晶が訝しげに眉を寄せる。
 事態がとんでもない方向に突進していることに気付いた弘貴は弁明を考えたが、もっともらしい言い訳など思いつくはずもない。どうするかと思っているうちに、三條がかぶりを振って口を開いた。

「……そうか……悪かったな。邪魔した」
「待て。待つんだ三條。お前はものすごい勘違いをしている!」

 きびすを返した三條を、慌てて呼び止めた。無様な態度をとらないのは美点かも知れないが、この場合勘違いから来ているため迷惑にしかならない。
 晶もようやく状況を理解して、心底うんざりしたように言った。

「ちょっと、何馬鹿なこと考えてるのよ。私、あんたも嫌いだけど、杉野のことも同じくらい嫌いなんだからね!」
「いやちょっと、それはいくら何でもきついぞ、神坂」
「なによ、第一あんたの所為でしょ!? 噂をすれば影が起つって言葉を知らないの!?」
「知らない。俺理系だし」
「一般常識よ、馬鹿!」

 弘貴と晶が大声で漫才じみた修羅場を繰り広げるが、周りも同じくらいに煩いため、あまり注目は浴びなかった。真子がちょこちょこと、二人の所に戻ってくる。
 三條は痛々しげに苦笑して、二人に言った。

「……わかったよ。悪かったな。これ以上見せつけられると、さすがに辛ぇしさ。……じゃあな」
「だから、待てって! 何でこういう時だけ物わかりがいいんだ、お前は!」

 弘貴が再び三條を止めたとき、晶が苛立ちもあらわに怒鳴った。

「ああもう、いい加減にしてよね! 今日は……真子のことでちょっと話があっただけよ! 私は杉野もあんたもこれっぽっちも好きじゃないし、むしろ嫌ってる! それだけよ、わかった!?」
「ちょ、晶ちゃん? よくわかんないけど、ちょっとひど……」

 暑いし、嫌な奴には会うし、とんでもない誤解はされるし。今日はとことんついていない。それら全部が鬱積の理由だ。
  晶は、これ以上話す事はないとばかりにそっぽを向いた。
 呆気に取られた三條が、にわかに我に返る

「……なんだ、そうか。そうだよなー。やー、よかったよかった!」
「ちょっ、離しなさいよ!」

 握りしめられた両手を晶が振り解こうとしたとき、腹に響くという音が、空に響いた。
 再び光が空に伸び、漆黒の夜空に、彩色の花が開く。

「わあ、見て晶ちゃん、花火だよ!」

 真子が声を弾ませて空を指さす。間の抜けた音を立てて花火が空へ駆け上がり、開いて、それからまた腹に響く音を立てる。
 晶は呆けた顔で、それを見上げた。
 周りの人間も、足を止めて空を仰いでいる。見事に喧嘩をやめさせた真子に苦笑して、弘貴も同じように花火を見た。

「きれいだね……」

 本当に嬉しそうに言う真子の声は、ひどく穏やかで、晶は我知らず頷いていた。

「……うん、そうね……綺麗ね」

 三條がきょとんとして晶を見て、それから笑った。晶ははたと自分の手がまだ握られていることに気付き、顔を顰めてそれを振り払った。
 青や、赤や、黄や、緑や。色は様々に変化し、様々な形で、夜の空を彩っていく。
 ぼんやりとそれを見上げながら、真子がふと呟いた。

「……もう……そろそろ、潮時かな……」

 弘貴が訝しげに真子を見て、何がだと目で問いかけた。
 いや――解っていたのかも知れない。けれど、解りたくなかった。

 真子は寂しげに笑って、弘貴を見た。
 その表情は、別れが近いことを如実に二人に語っていた。

「お願いがあるの。……わがままだけど、聞いてくれる?」

 弘貴と晶は、顔を合わせて頷いた。三條が訝しげに二人を見るが、構う気はない。
 真子は、はっきりと告げた。

「……私の死体を、掘り起こして欲しいの」

 夏の終わりを告げるように、花火が大きな音を立てて、消えていった。