市内心霊対策班
・探索開始

 

 杉野弘貴が初めて紙屋真子を意識したのは、桜が散り始めた頃だった。

 女の子には須らく優しくせよと、酔うたびに豪語した母親のせいだろうか。女子に限らず、彼は他人に手を貸すことにあまり躊躇いを持たない。
 だからそのときも、彼にとって、それは大したことのない行動だったのだ。

 

(……あれ)

 色とりどりの紙が適当に詰め込まれた、いかにも重そうなダンボール。
 廊下で遭遇したクラスメイトが、休み休み運んでいたのは、それだった。

「紙屋」

 呼びかけると、彼女はふと顔を上げて、ああ、と呟いた。

「次、移動教室だっけ」
「いや、次の次……それはどうでもいいんだけど、重そうだな」
「うん。重いよ」
「持とうか?」

 彼女はきょとんとして、弘貴を見返した。
 遠慮は日本人の習性だと認識していたので、正直に取り合うつもりはなかったのだが――彼女は予想に反して、笑って言った。

「ありがとう」

 少し、驚いた。
 「いいよ」ではなくても、「ごめんね」辺りが返って来ると思っていたのだ。最初から礼を言われたのは、初めてだった。

「あ、いや。……えーと、どこ運ぶんだ?」
「美術室」

 受け取った箱は、予想通り重かった。
 ふと、彼女が眉根を寄せる。

「……杉野君」
「ん?」
「煙草吸ってる?」

 ぎくりとした。
 実は今しがた、トイレから出てきたところだ。――本来の用途とは、違う目的で。

「……えーと」
「やめたほうがいいと思う」

 まあそう来るだろうとは思った。

「一回吸ってみたけど、すごく不味かったよ。健康にも良くないし、評判も下がるし、いいことなしだよね」

 まさかそう来るとは思わなかった。

「……いや、不味いからって言うならお前、クスリはいいわけ?」
「やってるの?」
「してないけど」
「じゃあ、問題ないよ」

 短い受け答えに、弘貴は頭痛を感じた。

「……あのー、紙屋さん? 何だか話ズレてる気がするんですけど」

 変な女。

 それが、最初に持った、紙屋真子に対する印象らしい印象だった。

 

     *

 

 弘貴は数式を解く手を止めて、思い出し笑いをこぼした。
 たった数ヶ月前の出来事なのだが、何だかそうは思えない。
 ひどく、懐かしい気がした。

 真子と再会して、もうすぐ一週間が経つ。

 相変わらず「向こうの世界」にはご招待されていたが、ここのところの変化は余りない。学校と塾と図書館を往復して、他愛のない会話をして、なかなか進まない受験勉強をして、時たま心霊体験に引っ張り込まれて、そんな日常の繰り返しだ。
 夏が勝負だと学校の教師陣や塾の講師陣は口を揃えて言っていたが、実は未だに、あまり実感がない。夏休みの学習計画表には、早くも二度目の修正を書き込んだ。

 ふと、弘貴は顔を上げる。「入るよ」という声とほとんど同時に、部屋のドアが開けられた。
 ヘッドホンを外して振り返ると、何だか眠そうな顔の母親が、部屋に入ってきた。

「お帰り。早かったな」
「んー……あんた、ガッコは?」
「今日、土曜日だけど」
「……そだっけ」

 外出したときの派手な服のまま、母親は机の横のベッドに腰を下ろした。
 そしてそのままぼーっとしていたが、大して珍しいことでもないので、弘貴は机に向き直る。
 彼女の手が伸びて、机上に転がっていた袋からチョコレートをつまんだ。

「太るぞ」
「口寂しいんだから仕方ないでしょ。あんたのせいよ、禁煙させるから」
「責任転嫁っていい言葉だよな」
「……ちょっと、自分をネタに親を脅したのはどこの誰?」

 弘貴は聞こえない振りをした。実際、そんな物が脅しになるのだから、ありがたいものだと思う。
 母親は天井に向かってため息を吐いて、ぼそりと呟いた。

「……あのさぁ、弘貴」
「何」
「……父親に会いたい?」

 弘貴は手を止めた。
 彼女が父のことを自分から話そうとしたのは、初めてだった。それなりの葛藤や決心があったのだろうが、何となく、それに応えてはいけないような気がして肩をすくめる。

「別に」
「……本当に?」
「今さらだろ」
「……そう」

 何だかほっとしたように、母親はもう一度ため息を吐く。
 話題を変えようと、弘貴は口を開いた。

「そうだ、俺、今日昼から出るから」
「あ。まーさか、女の子とデート? そうでしょ!」
「いや、別にそういうわけじゃ……」
「えー? でも女の子なんでしょ? どんな子? 今度うちに連れて来なさいよー」

 からかうように、彼女が弘貴の背中を叩いた。

「……あら?」

 しばらく待っても、息子の反応は返ってこない。訝しげに、母親が弘貴の顔を覗き込んだ。

「……母さん、痛い」
「え? あ、うん。ごめん……」

 目を白黒させる母親を振り返って、弘貴は何事もなかったように言った。

「なあ、腹へった。昼メシ」
「ちょっと、まだ九時よ」
「朝食べてないんだって、面倒で」
「まったく……お菓子食べてたくせに」

 ブツブツ言いながら母親が出ていった後、弘貴はペンを止めて、ため息をついた。

 真子はもう死んでいるのだと、改めて思い知らされる。その苦さに、どうしようもない感情を持て余した。
 悲しいのは確かだ。ただ、最初にそれを聞いたときのような憤りは、すっかり鳴りを潜めている。
 臓腑を焦がすような怒りは、一度空気を抜かれてしまってから、十分な膨らみを取り戻さない。彼女は事実として殺されていると、解っているのに。
 真子が、あまりに明るいからかもしれない。
 記憶がないからなのだろう。彼女が認識している事実関係は、新聞に書かれた文字と同じような「情報」だ。その人間との記憶が抜け落ちていれば、いくら血縁であっても、見ず知らずの他人に対する感情と大差ない。傷つく度合いも、多分少なくて済む。
 記憶とはそういうもので、死ぬということは、記憶がそれ以上増えないということなのだろう。減ることはあっても、もう新しく作られることは有り得ない。

 彼女は死んでいる。それを、理解しているのに、認めたくないと思っている自分を見せ付けられる。

 だから、母の言葉がこたえた。

 彼女を母に紹介することは、決してないだろう。本当はもう、紙屋真子はどこにもいないのだ。
 いま残っている彼女は、残像のようなもので――多分、中途半端に与えられた猶予期間なのだろう。
 そう遠くないいつか、自分の前からも姿を消す。
 そして、もう一つ。……これはもっと、認めたくない現実だ。

 弘貴は椅子の背を軋ませて、天井を仰いだ。ひっくり返りそうだとぼんやり思った。

「……馬鹿だよな」

 意味もなく呟いた言葉がやけに大きく響いて、彼は唇を結んだ。

 

     *

 

 日曜日の午後は、空一面を重たそうな曇が覆っていた。
 今にも雨が降りそうで、良い傾向だと晶は思う。今年の梅雨はいつ始まっていつ終わったのか解らないくらいにまちまちで、降水量が平年の値を大分下回ったのだ。
 ダムの貯水量も芳しくないようだし、ニュースでは水不足が心配されていた。

 水不足は嫌だ。切実に、そう思う。

 数年前に一度、給水制限が出されたことがある。地域の夏祭りが中止になったのは衛生上の理由で解らなくもないのだが、何の因果か運動会が午前のみに短縮された。
 小学校最後の運動会だったので、生真面目だった晶は悔しい思いをしたものだ。
 まあそれはそれでいい思い出――かどうかは置いておくとして、現実的に給水制限で困るのは、当たり前だが水が使えないことだ。その一定時間、水道はもちろんトイレも使えない。
 学校は屋上に貯水タンクがあるからまだいいが、家庭単位になるとそうはいかない。
 そんな理由で、雨が降るのは歓迎すべき事象なのだ。……本当に、今日家を出る時に傘を持って来さえしていれば。

 曇天を睨み上げて、晶はため息を吐いた。
 そこになって、ようやく来た待ち人の姿に、眉根を寄せる。

「遅い」

 弘貴を一瞥して、彼女は不機嫌に返した。

「晶ちゃん、まだ時間前だから……」

 迂闊だったとでも思ったのだろう。真子の言葉に、晶が顔をしかめた。

「待たせて悪かったよ。で、結局どうする気なんだ?」
「……あんたはネットで情報収集。あたしと真子は、寺と教会と神社めぐり」
「なるほど……」

 じろりと、晶が弘貴を睨んだ。

「何よ、その顔は」
「いや、聞いてたけどさ。……本気でやるんだなと」
「可能性は否定しない主義なの。限りなくゼロに近いとは思うけどね。霊能者なんて金儲けのための詐欺じゃない。馬鹿馬鹿しいったら――」
「神坂、こっち」

 弘貴が真子の肩を叩いた。触れることは出来ないので、正確には少しすり抜けたが。

「……何よ」
「俺らの常識転覆の先鋒」
「ええそうね、いちいち癇に障る男よね、あんた」

 真子が首を傾げた。

「二人とも、仲いいね」
「違うわよ!」
「いや違うだろ」

 揃って返された否定に、きょとんとする。
 疲れたように晶が眉間を押さえ、ため息を落とした。

「……もういいわよ、どうでも……杉野、四時にそこのクレープ屋で合流するから、遅れないようにね」
「クレープ屋?」

 高校生男子に、その手の店で待機しろと言うのか。
 思わず立ち尽くした弘貴に、真子が心配げに顔を覗き込んだ。

「もしかして、杉野君、甘いの苦手?」
「いや――」

 そうじゃないけどと、そう否定しようとして、弘貴は再び覚えた違和感に、苦さを覚えた。
 途切れた言葉に、彼女は不思議そうに首をかしげる。

「……紙屋、ちょっと悪い」
「え?」

 弘貴の手が、真子の頬に触れるか触れないかの距離で、動きを止める。
 そのままじっと凝視されて、真子が目を白黒させた。

「す、杉野く――」
「何やってんのよ、馬鹿!」

 晶が力いっぱい、弘貴の背中を叩く。景気のいい音がした。

「油断も隙もないわ、この変態! 行くわよ真子!」
「あ、え? う、うん……」

 困惑する真子に構わず、晶が苛立った足取りで踵を返した。
 変態と呼ばれるような真似をした覚えはないのだが。弘貴は口の中で呟いて、遠慮の欠片もない暴行を受けた背中をさすった。

「……もうちょっと、こう……限度ってモンを……」

 呟いて、そのままため息をついた。
 今更確認して何になるのだと、苦く思う。――自分の中の恋愛感情が、ひどく薄れていることを。
 昨日今日気付いたことではない。真子の傍にいても鼓動が高まらないし、格好をつける気にならない。告白すら考えていたはずなのに、好きなのだというその言葉が、違和感にしかならない。

 たった一週間だ。
 けれど変化を自覚するには、十分な長さだった。

(……冷めたのか?)

 相手が死んだから、恋ではなくなってしまったのか。
 それは、諦めに近い感情なのかもしれない。

(保身に回ってるのか)

 傷つかないように先回りしているのかもしれない。無意識下での自己防衛ではないと、どうして言えるだろう。
 そんな風に、自分自身のことを遠回りに見ていること自体が、感情からの逃げに思える。
 堂々巡りの思考にため息をつきたくなって、弘貴は乱雑に頭を掻いた。
 見上げた空は、重い雲を湛えていた。

 

 

 

 神坂晶は、杉野弘貴が嫌いだった。

 中学からの同窓ではあるが、ろくに話したことのない相手。それが親友に恋愛感情を持ったからといって、自分を上手いこと利用しようというのだから、彼女に言わせれば「腹が立たないわけがない」。
 もう少し穏便な言い方をすれば、単なるきっかけをそこに見出しただけなのだが、いわゆる大人しい少女に妙に受けのいい同級生は、彼女にしてみれば胡散臭さしか感じられない相手だったのだ。
 それでも、真子が彼を好きならば、別にそれで構わなかったはずなのだ。
 他人の恋愛ごとに構うのは大嫌いだったはずだ。
 それなのに、沈黙から逃げるように口を開いていた。

「あんた、真子のこと、どんな子だと思ってるのよ」

 必要以上に不機嫌な声になった。
 杉野弘貴は、難しそうな顔をして考え込んだ。

「……スポンジ?」

 ふざけるなと怒鳴った。

 六月の、雨の日だった。

 

     *

 

 市内散策にちかい霊能者探索計画は、大山を越えた頃、明らかに不首尾の色が強くなっていた。
 絶望に近い感情で、声が絞られる。

「……おかしい」

 低く、うめくように呟いた晶に、真子は困ったように笑って返した。
 缶ジュースを呷って、彼女は大袈裟にぼやいた。

「おかしいわよ。世の中善人が多すぎるわ……!」

 善人と言うよりは常識人か、はたまた現代人か、科学時代の申し子ということか。
 危惧していたようなしつこい勧誘には合わなかったし、門前払いを食らうこともなかったが、残念ながら彼女の予測したような反応は――要するに胡散臭い霊能番組のような反応は、殆ど帰ってこなかった。

 まず教会。カッターシャツにズボンという姿の神父に出鼻をくじかれながらも、「友達が蛇女に取り付かれているので助けて下さい」といった意味合いの話を婉曲にすると、まるでカウンセラーのような対応を受けた。思春期は不安定な時期ですから、という彼の一言に、解釈は集中するだろう。常識で信じられる話ではない。……唐突に悪魔払いなぞ始められても反応に困るが、とりあえず気が抜けた。

 次に寺。浄土真宗の寺で加持祈祷はこの辺りなら真言宗だと言われ、まず虚を突かれた。仕方がないので自転車を押して坂道を登って辿り着いた目的地では、当の住職に爆笑される羽目になった。理屈では納得できるが、こちらは真剣であるだけに腹は立つ。

 それから真子の希望で、超能力研究所などという怪しげな場所にも。思いのほか普通すぎる、善良さの滲み出た所長は、今のところ当初予想していた反応に一番近い対処をくれた。――気など送られても、効くとは思えなかったが。

「でも晶ちゃん、みんないい人でよかったじゃない」
「……それはそうなんだけど。そういえば、一回も名前聞かれなかったし。でもねえ……普通すぎるっていうのも、難だわ……」

 深くため息を落とした晶に、真子が噴出した。
 肩を張っていた彼女であるだけに、気が抜けてしまったのだろう。

「あと、神社だけだけど……どうする?」
「行くわよ。ここまで来たんだもの、中途半端でやめることないでしょ」

 疲れた声音ながら、晶はきっぱりと返した。
 彼女の性格からすれば、それはひどく自然な答えだったのだが――十分後、彼女は思わず後悔した。
 目の前には、小山を割る真っ直ぐな石段が、神社の門に向かって続いていた。

「……高い……」

 去年の正月、真子と二人で初詣に来たが、あの時は人で埋め尽くされていて、高さなど解らなかった。

「頑張って、晶ちゃん」
「はは……がんばるけど……」

 引きつった笑みを引っ込めて、晶は石段に足をかけた。
 一段一段が、学校の階段よりも高い。二十段ほど数えたところで、既に息切れがした。

(私は理系なのよ。ついでに帰宅部だったわよ。言っとくけど体力なんかありゃしないしついでに過呼吸持ちなんだからね、少しは低いとこに建てたらどうなのよ責任者!)

 などと、訳の分からないことを胸のうちで喚いていると、真子が弾んだ声で晶を呼んだ

「ねえ晶ちゃん、あれ見て!」
「……は……?」
「猫が寝てるー」

 ぐったりした表情で顔を上げると、真子が、階段脇の石灯籠の傍で手招きした。
 近寄ってみると、背の高い石灯籠の中に、確かに大きな黒い毛玉が見える。

「……なんて器用な……」

 石だけの単純な作りでガラスは張っていないし、明かりを点けるようにはなっていない。まあ猫なのだから、跳び上がって入ることは出来るだろう。
 それにしても、なぜわざわざこんな所で寝ているのだろうか。

「起きないかなあ。こっち向かないかな?」
「そうね……」

 曖昧に答えながらふと足元に視線を遣ると、同じような黒猫が、じっとこちらを見上げていた。

「……何か用? 猫助」

 何となく話しかけてみたが、ふいとそっぽを向くように、猫がきびすを返す。

「……むかつくわよ、猫太」
「あ、もしかして、この子のお友達?」

 代わって真子が聞くと、猫はニャアと鳴いて駆け出した。
 脇の茂みに消えた猫を見て、晶はぼそりと呟く。

「……可愛くないわね……」
「ねえ晶ちゃん、さっきの、聞こえたのかな?」
「え?……あ」

 真子の声は自分と弘貴以外に聞こえない。
 それを思い出して、晶は眉間に皺を寄せた。

「どうかしらね……偶然じゃない?」
「うーん……まあ、いっか。じゃああと半分とちょっと、頑張ろう晶ちゃん!」
「……うん」

 やたら明るく真子に言われ、晶は何だかとっても泣きたくなってうなだれた。

 

     *

 

 正月と祭りと七五三以外、神社にはほとんど人がいない。
 仁王像の立っている門をくぐると、急に空が開けた気がした。相変わらずの曇天で重苦しかったが、晴れていればきっと綺麗だったろうなと、少し残念に思う。
 砂利の中に敷かれた石畳を、本殿に向かって歩いていく。両脇の立て板には、文字を連ねた絵馬がぶら下がっていた。
 健康祈願や、安産祈願、受験の合格祈願等の言葉がやはり目に付く。それにしても、もう夏だ。一体いつまで置いているのだろうかと、晶は首をかしげた。

「ねえ、晶ちゃんもこれ書いた?」
「え? 書いてないわよ。あんた、一緒に来てたじゃない」

 訝しげに晶が言うと、慌てたように真子が首を振った。

「あ……そ、そうだっけ。ごめん……」

 ふと、絵馬をめくる真子の手が、動きを止めた。
 どうかしたかと晶が近付いて、彼女の手元を覗き込む。受験合格を願った、ありふれた文面を読み流して、はっと息を呑んだ。

 最後に書かれた名前は、紙屋可奈子。
 すでに亡い、真子の妹の名前だった。

「真子……」

 真子は少し唇を開いたが、結局また結んだ。
 何かを言いあぐねているかのように晶には見えたが、どちらにしろそれは、彼女の声になって出てくることはなかった。
 代わりに、ぽつりと呟く。

「ばかみたい……」
「……え?」
「……なんでもない。ごめんね」

 あまりにも彼女らしくない言葉だ。
 晶は顔をしかめたが、結局ため息をついただけで、問いただすことをやめた。
 真子の取り繕った笑顔が、何も聞かないでくれと言っていた。

「まあ、いいわよ。……それにしても、人っ子一人いないわね」

 ぐるりと視線を巡らせて、晶は呟いた。

「社務所、だっけ? 神主さんいるの。あれ、どこにあるのかしら」
「うーん……わかんないなあ」

 晶は賽銭箱の置いてある本殿の中を覗こうと、靴を脱いで木の階段を上った。
 キイキイというか、ギシギシというか、木の軋む妙な音がする。小学生の時に修学旅行で行った、京都だか奈良だかの鶯張りを思い出させた。

「……誰もいないわね」

 しっかり締まった戸の中は、薄暗くてよく見えないが、人影は見当たらない。
 はずれかとガラス戸から離れて、晶は廊下の脇に回った。

「なにかある?」

 後ろから頭を出した真子に、晶は首を振った。単なる行き止まりで何もない。
 八方ふさがりに、ため息を吐いて手摺りにもたれ掛かって、ふと――下に、猫が寝そべっているのに気が付いた。
 石段で見た二匹の猫より、ひときわ大きい黒猫だ。暑いのか、石畳の上にべったりと転がっている。

「猫の多い神社……」

 色は黒ばかりだし、なんだか不吉だ。思わず呟くと、真子も笑って同意した。
 平和ねぇ、と晶は思う。この間まで一日に一度くらいの割合で向こうの世界に引っ張り込まれていたのだが、ここ三日ほど音沙汰がないのだ。もちろんその方が有り難いのだけれど、不可解ではある。

「猫吉、あんた、神主さん知らない?」

 なげやりに話しかけてみたが、猫はこちらに一瞥をくれただけで、鳴きもせずにまた頭を下げる。
 ……かわいくない。

「むかつくわ……」

 思わず呟いた晶に、真子が苦笑したときだった。

 ふわり、と。
 妙な風が一瞬吹いて、止まった。

(……ああ、嫌な予感)

 隣に目を移すと、やはり真子の姿は消えていた。
 念のため空を見上げると、何もない闇が広がっている。それなのに暗くないことが、妙と言えば妙か。
 手摺りにもたれ掛かったまま、晶は呟いた。

「……三日ぶりねぇ。ふふふふふ……」

 乾いた怖い笑い方をして、晶は階段を下りた。
 弘貴がここにいれば、目が正気じゃないと呟いたことだろう。いや、とうとう正気を失ったかと同情したかも知れない。
 ともかく、ここには彼女一人だったので、そんな反応を見せる人間はいなかった。

 スニーカーを履いて、晶は爪先で石畳を蹴る。
 その左足を、床下から伸びた青白い手が掴んだ。

「きゃっ!」

 晶はバランスを崩して悲鳴を上げたが、すぐにキッと視線を落とすと、利き足でその腕を踏みつけた。

「びっくりさせないでよ、馬鹿!」

 足を離した手を、そう言ってどやしつける。
 弘貴が見たら、慣れたと言うよりキレたなと表現するだろう。いい加減恐怖よりも怒りが先に立ってきたため、アドレナリンの分泌で恐怖を覚えなくなってきた。
 晶は手を踏みにじったまま、虚空に怒鳴る。

「ああもう、手じゃ口きけないわね! ちょっと、喋れる奴出しなさいよ!」

 応えるように、ざわり、と空気が動いた。
 踏んでいた手がするりと抜けて、変わりに幼声の歌が聞こえてきた。

  ――かごめかごめ……
  篭の中の鳥は…いついつ出逢う…
  夜明けの晩に……
  鶴と亀がすべった
  うしろの正面、だーあれ……

 密やかな声で、姿の見えない子供達が囃し立てる。
 どこからともなく赤い着物の少女が現れ、晶を見上げると、薄い唇をニィッと歪めた。
 晶はたじろぎもせず少女を睨みつける。少女が楽しそうに笑う声が響いた。

 ――ネエ、アソボウ?

「受験生にふざけたこと言ってくれるじゃない。生憎、私は忙しいのよ!」

 忙しい割には、充実した休日の過ごし方である。
 クスクスと少女は笑うだけだ。何だか無性に腹が立って、相手に近付くと、晶は威圧するように少女を見下ろした。

「あんた、蛇女の手下なの?」

 ――ウフフフフ……

 少女はひらりと背中を見せて、小走りに駆け出す。
 手を伸ばして、晶はその襟首を掴んだ。相手の首が締まるが、構わず続ける。

「人の質問には答えなさい。死んでようが生きてようが、最低限の礼儀よ」

 少女はじたばたと藻掻きながら、悲鳴に似た金切り声を上げた。
 あまりの高さに、びりびりと空気が震える。
 たまらず耳を押さえた。晶の手から逃れると、少女はタッと駆け出す。

「あ……! 待ちなさいよ!」

 叫んだ途端、背中に、何かが抱き着いてきた。

「ひっ……!」

 思わず出かかった悲鳴を呑み込んで、晶は肩に張り付いた、手のような物を引き剥がした。
 べちゃり、と妙な手触りがした。重い音をたてて相手が地面に落ちる。

 晶は自分の手に目を遣った。
 血と膿の混ざった物が、べったりと手を汚していた。

 慌てて振り返って相手を見ると、腰から下が腐り落ちた女性が、砂利の上を這っていた。
 体中の火傷が膿んで、突き出ている肘の骨がやけに白い。そして、乱れた髪の隙間から、ぎょろついた目が晶をじっと見上げていた。

 戦慄に、晶は悲鳴を上げた。

 ――その時だった。

 ギャン、という潰したような猫の声が、彼女を現実に引き戻したのは。

「……あ……」

 空気が元に戻り、生温い風が吹き抜ける。
 晶は数度瞬きして、目の前にいる猫を見た。

「晶ちゃん、大丈夫!?」

 下にいた真子が、慌てて階段を上がってくる。
 手摺りの上の黒猫と顔を突き合わせて、しばらく沈黙した後、晶は廊下にずるりと座り込んだ。

「く……悔しい、びびった……」

 付き合ってられるかとでも言うように、猫が手摺りを飛び降りる。
 晶は深くため息を吐くと、それに視線をやった。

「あんた、助けてくれたの?」

 猫は晶を無視して、元の石畳の上に寝そべった。暑くないのかと思って、晶は苦笑する。
 真子は廊下を駆けて隣まで来ると、声を弾ませて言った。

「晶ちゃん聞いて! すごいんだよ! あのね、猫さんにも私の言ってること、解るみたい!」
「……え? じゃあ、あんたが頼んでくれたの? 猫に?」

 大真面目に真子が頷く。
 晶は、思わず笑った。

「そっか。ありがとね。あんたも」

 最後は猫に視線を向けて言う。やはり、素知らぬ振りをされた。
 実際、晶は猫が真子の言葉を解しているとは思わなかった。猫又でもないのだ、尻尾が分かれているわけでもないし、言葉を喋るわけでもない。
 猫については、割と妖怪話が多いのを思い出して、霊能力でも持ってるのかしらねと冗談交じりに思った。
 日本でも西洋でも、猫は人を騙すもの、災いをもたらす物としてのイメージが強い。人間に忠義を尽くすのは犬、気まぐれで我侭なのが猫というわけだ。実際飼ったことはないので、彼女にはよく解らなかったが。

 スカートの埃を払って立ち上がると、晶は真子を振り返った。

「神主さんも見つかりそうにないし、もう帰ろうか」
「あ、うん」

 弘貴の方は、少しは収穫があったのだろうか。
 はっきり言ってこちらは皆無に近かったが――それでも半日、普段行かない場所を歩き回ったので、何だかやたらと冒険した気分だった。

(まあ、こういうのも悪くないかな)

 たまにはね、と胸中に付け加えて、晶は苦笑した。

 

 

 

「あー……すみません、今日って何日でしたっけ?」

 公共施設の使用許可申請書に書き込んでいた弘貴が、顔を上げて事務員に聞いた。
 七月二十七日だと答えられて、再びボールペンを動かす。それから時計に目を走らせて、時刻を書き込んだ。

 アメリカの一人勝ち企業のOSも98が発売され、パソコンの普及率は鰻上りだが、残念ながら彼の自宅にはパソコンがない。従って、市が運営する施設に馳せ参じたのだった。
 百貨店が撤退した駅前のビルを活用した福祉関係の施設で、一、二階は食事街や本屋などになっている。インターネット体験室以外にも様々なサービスがあり、料金はかなり良心的で、利用者もそれなりに多い。
 中に通されてパソコンに向かうと、適当にエンジンを選んで、検索文字列を入力する。

(蛇女……っと)

 エンターキーを押して、思わずうめいた。該当件数が六万を越えたのだ。
 とりあえず、気を遠くしている場合ではない。それらしい項目を選んで、開いてみる事にした。

(蛇女情報掲示板……? そのままだな。なんだこりゃ)

 興味本位でそれを覗いてみると、どうやら本当に「蛇女」の噂をしているようだった。
 同じものかは知らないが、どうやら西麻布にも出現しているらしい。一世を風靡した口裂け女と同じく、都市伝説の形態だ。ラジオなどでも話題になっていたようだが、この田舎にまともに入る局は少ない。

(西麻布?……麻布って東京だったよな。あんまり関係なさそう……、ん?)

 ふと、書き込みのひとつに目を留めた。
 蛇女に遭遇したときの対処法が書かれている。
 油壺を投げると、それを舐めるのに夢中になるので、その間に逃げられるというものだった。

(そういや、小学校のとき……女子がべっこう飴持ってきてたような……)

 弘貴は苦笑する。時代は変わってもパターンは踏襲されていくものらしい。
 その後の話題は、壺入りでないと駄目なのかとかサラダ油は駄目かとか、そういった内容になっていた。
 いつだったか真子が言っていたように、子供向けの映画なら効きそうだが。
 何だか先行きが暗いような気がして、妖怪研究所のようなものはないかと手当たり次第に検索結果を開いていった。

 蛇は、歴史的な本にも多く登場しているらしい。
 蛇女房型の話では、「雨月物語」や「古事記」など有名な話が多く、外国文学ではヘロドトスの「歴史」に出てくるあのヘラクレスが、蛇女と子を作ったというくだりがあるらしかった。
 神や英雄が蛇を退治する形では、森鴎外の「雁」、兼好法師の「徒然草」、「イザヤ書」「ギリシア神話」「日本書紀」など、これまた錚々たる顔ぶれが並んでいる。
 「日本書紀」では、笠臣の祖縣守が瓠(ひさご)を水に投げ入れ、これを沈められなければ殺すと大ミヅチに言ったが、結局沈められずに退治したというものだった。
 「日本書紀」には明確な作者がいない。戦時中には本気で事実だと信じられていたらしいが、国が出来た後に編纂された話だ。作家でも雇っていたのだろうかと、弘貴は妙なことを考えた。
 途中まで目を通して、ウィンドウを閉じる。最初こそ興味を持って文献を漁っていたが、一週間もそれが続けば、いい加減飽きてくる。

(っつーか、役に立たないよな……)

 それなら何が役に立つのだろうかとふと思い、そのまま考え込んでしまった。

(……ネットで見つかるか? 普通)

 かといって、形になる成果を上げなかった場合の晶の反応は、大体想像がつく。
 次に検索に引っかかったページでは、物語の蛇は剣との関係が深いと論じていた。
 確かに、斜め読みした蛇の退治話では、剣が多く登場した。無論時代的な物もあるのだろうが、蛇の体内に剣があったり、剣が蛇に見えたりという話も多いらしい。
 日本では銃刀法に引っかかるので、簡単に入手は出来ないだろうが。合法に手に入れるにしても日本刀は高い。いつだったかデパートで特集展示されていた物を見たとき、安い物でも数十万という値段に目眩を覚えた。

 別の検索結果を流し見て、「お」と口の中で呟いた。
 チャットルームだ。数年前から日本でも盛んになった、インターネットを用いてリアルタイムの文章会話をするシステムである。

 題目には「妖怪談話室」とある。記録に目を通すと、四人の参加者が話していた。話題は、青山墓地のタクシーの話だ。
 直接話して、蛇女のことを聞いてみればいい。そう思って入室しようとした弘貴は、ハンドルネームの入力で手を止めた。

 チャットをするのは初めてだ。何となく、実名を名乗るのは抵抗がある。
 しばらく悩んで、結局格闘ゲームのキャラクターの名前を入れた。

『はじめまして、アキラといいます。よろしく』

 切り出しは随分文語的だったが、相手は好意的な反応を返してくれた。

『はじめまして! アキラさん。ナオヤです、どうぞヨロシク』
『はじめまして〜、アルヘッド19です。よろしく〜』

『どうもこんにちは、まやです』

 会話の合間に返ってきた返事の速さに、驚きながらキーボードを打った。
 慣れないので、手元を見ながらでなければ入力が出来ない。

『教えてください。蛇女って、知ってますか?』
『あ〜、知ってる知ってる!西麻布のやつでしょ?』
『え? 映画化したやつじゃない?』

 ここでも同じ話題が出た。そんなに有名なのかと思いながら、弘貴は続きを書き込む。

『友達から、聞きました。人に、取り憑くやつです』
『うーん、人にとりつくの? 蛇女が?』
『こっちは知りません』
『すまん〜、僕も知らないっす〜』
『そういえば、蛇女って美人なのかな』
『だったら、とりつかれてみたいかも!』
『いやあ、それはやばいっしょ』

 話がだんだんと別の方向にずれてきた。打つペースが遅いせいで、会話を自分のやりたい方向に持っていけないのだ。
 まいったなとこめかみを押さえたとき、それまで沈黙を保っていたもう一人が喋った。

『わたし、それ知ってます』

 弘貴は目を疑った。まさか、そんな人間がいるとは思っていなかったのだ。
 残る二人が進めていく会話の中をくぐって、弘貴は質問を打ち出す。

『どこでの話ですか?』
『長野です。わたしの住んでる、近くなんだけど……友達が、そんなこと言ってたの。蛇女に殺されるって……』

 まさか。
 大きく脈打った心臓に、半分は疑わしさから、文字を打った。

『まさか、その友達、死んでませんよね?』

 彼女の反応は、一分を過ぎても来なかった。それまでの返事が迅速だっただけに、違和感を覚える。

(まさかな)

 怪談話が好きな人間のチャットだ。間を置いて、恐怖心をあおる回答を出してくるに違いない。乗せられているだけだ――冷静さを保とうと自分に言い聞かせるが、落ち着かずにデスクを指で叩いた。
 痺れを切らして、再読み込みのボタンを押す。
 すると不意に、画面が静止した。
 どこをクリックしても動かない。フリーズしたのかと弘貴が思った矢先、画面が、血がしみ出すように上から下へと赤く染まっていった。

「……!」

 弘貴はマウスから手を離すと、周囲を見回しながら席を立った。
 人影は、変わらずパソコンの前に座っていた。ただし――それは、もちろん、生きた人間ではなかったが。

「げっ……」

 それが何かを確かめて、弘貴は思わず呻いた。
 それは人間の形をしていたが、腐臭を放ち、黴を生やしている。映画で見たゾンビそのものだ。
 椅子に座っていたゾンビが、のろのろとした動作で立ち上がる。
 弘貴は数歩後ずさると、脱兎の如くコンピュータールームを飛び出た。
 バリアフリーの大きな引き戸をきっちりと閉めておく。定石通りなら、相手の頭は悪い筈だ。

 腕時計を見ると、パソコンの使用時間が終わるまで、十分を切っていた。
 とりあえず動き続けるのがコツだ。慣れを覚えながら、弘貴はセンターの中を走った。
 人気のない空間はやけに静かで、自分のせわしい足音がひどく響く。
 ふと、キュルキュルというころを転がすような音が、背中に聞こえた。

 弘貴は振り返り、そして、思わず顔を引きつらせる。やつれた様子の看護婦が、壊れた抱き人形を乗せた車椅子を押して通り過ぎていた。
 唐突に、看護婦がこちらに方向を変えた。無理な動きだったが、車椅子は軋みもせずに回る。

「……まさか」

 呻いた刹那、駆けるような速さで看護婦が突進してきた。

「うわっ……!!」

 弘貴は慌てて背を向けると、全速力で逃げ出した。
 みっともないとは思ったが、ゾンビとは別の意味で相手にしたくない。心臓がけたたましくひた走る。耳元で動悸が煩かった。
 白い廊下を曲がり、ドアが開いている部屋を探した。貸し出し制なので、使用中以外は鍵が閉まっているのだ。
 ようやく見つけた多目的室に駆け込み、彼は急いで引き戸を閉め、鍵を掴んで回した。
 がちゃりと音がした刹那、顔を俯けたままの看護婦が、車椅子を激しく扉にぶつけた。
 新素材のやわらかい扉だ。壊れることなく衝撃で車椅子は跳ね返り、看護婦の腹部に激突した。

(……うっわ……)

 思わずきつく目を瞑り、弘貴はそろそろと扉から離れた。
 背中を向けて、ようやく周囲を確認する。
 印象的に、白い部屋だった。床はカーキ色のカーペットで、長机とパイプ椅子が部屋の隅に置かれ、書きかけのホワイトボードが陣を取っている。ひらがなで書かれているところを見ると、どうやら現実では、子供達が大人とレクリエーションでもしているところらしい。
 腕時計に目を遣る。まだ一分しか経っていない。
 相手がどこからでも出現できる以上、篭城は意味がない。弘貴が息を吐いた瞬間、甲高い悲鳴が遠く聞こえた。

「……!?」

 絹を裂くとも言い難い、狂ったような悲鳴。ぎくりとして、弘貴は動きを止めた。
 そうして、顔をしかめる。声は心霊現象ではなく、生きた人間の少女の声に思えた。声自体が、何かを怖れていたからだ。
 耳を澄ますと、また声が聞こえた。弘貴は窓に駆け寄って、下を見る。

  そして、異様な光景に目を瞠った。

 人のいない街中で、鎌を持った老婆が、逃げ惑う一人の少女を襲っていたのだ。
 弘貴は窓から離れると、入ってきた場所とは違う扉を開けて、部屋を転がり出た。
 看護婦と車椅子は消えていたが、わき目もふらずにエスカレーターを駆け下りる。途中、清掃ワゴンに立てかけてあったモップを取った。

 これまで、自分や晶以外の人間に遭遇したことはない。関係者であることは、おそらく間違いないだろう。十中八九、同じ立場の人間だ。

(じゃあ、誰だ?)

 社交的というよりマイペースだった真子の友人は、さして多くない。
 弘貴が一階に降りたとき、けたたましい音と、意味をなさない喚きが響き渡った。
 モスグリーンのTシャツを着た少女が、髪を振り乱して、商品の入ったワゴンを振り回す。
 老婆がそれを正面から喰らって、数歩よろめいた。
 ワゴンに積まれていた缶詰が床に散らばり、その車輪に引っかかった。
 少女が腕を取られ、足をもつれさせて転げる。
 老婆が鎌を持ち上げ、少女に近付いた。

(やばい……!)

 弘貴は反射的に走り出した。左手でモップを持ち、床に転がった缶詰を拾って老婆に投げつける。
 それは老婆の頭を掠めるに終わったが、注意をこちらに向けることは出来た。
 老婆がゆっくりと振り返る。深い紫のカーディガンに、長い丈のスカート。普通の、どこにでもいそうな老女だった。血みどろではないし、奇妙に大きかったり小さかったりするわけでもない。

 だが、その目には光がない。
 たったそれだけのことだ。それにも拘らず、足が竦みそうなほどの恐怖を覚えた。

 老婆が、鎌を擡げてこちらへ歩み寄る。
 床を蹴って相手が襲いかかってきた。
 リーチではこちらが勝っている。弘貴はモップの柄を両手でしっかり握って、バットのように振った。

 それは相手を捕らえ損ねて、空を切る。
 モップの重みでたたらを踏んだそこに、老婆が凶器を振りかぶった。

 やばい、と瞬間的に思った。そのまま床にしりもちをつくように転がった。どこかの誰かが捨てたガムが、手にくっつく。
 舌打ちする間もない。老婆がまた鎌を持ち上げる。

(くそっ……!)

 弘貴は左手で辛うじて握っていたモップを、無理のある体勢で振った。
 床を磨く部分が、運良く老婆の手に当たる。鎌が、その手からこぼれ落ちた。
 鎌がコーティングされた床に突き立ち、鈍い音をさせてコンクリートを削る。

 弘貴は取り落としたモップを放って、老婆の脇をすり抜け、襲われていた少女に駆け寄った。
 少女はぺたんと床に座ったまま、小刻みに震えていた。

「おい、大丈夫か!?」

 見覚えのない少女だ。自分よりも幾分年下に見える。
 床に膝をついた弘貴の問いかけに、少女は薄い唇を開いた。

「や……やだ。いやいやいやいやあっ……なんで、も、や、いや、いやああ!」

 感情を昂ぶらせて叫ぶと、彼女は頭を掻きむしった。
 弘貴は舌打ちして、彼女の肩を掴んだ。こちらに来て、もう十分は過ぎる。自分だけが元に戻ってしまうかも知れないのだ。

「おい、しっかりしろ! お前、今どこにいるんだ!?」

 少女は答えず、髪を毟りながらかぶりを振るだけだ。
 不意に影が差して、弘貴ははっと顔を上げた。
 天井の照明を背に、老婆が、鎌を振り下ろす。
 逃げられない。身構える間もなく、目を瞑った。

 だが、鎌が振り下ろされるその前に――妙齢の女性の声が、弘貴を現実に引き戻した。

「すみません、時間ですよ」

 職員の声で我に返って、弘貴は隣に立った女性を呆然と見上げた。

「……!」

 彼は慌てて立ち上がった。プリントアウトした紙を引っ掴むと、目を瞠る職員に構わずコンピュータールームを飛び出る。
 ザックにそれを押し込みながら走っていると、角を曲がるところで赤ん坊連れの女性にぶつかりかけた。
 おざなりに謝り、弘貴は再び走り出した。

 最初、あの少女は外にいた。ならば、あの世界に引き込まれたとき、彼女は外にいた可能性が高い。
 早く見つけなくては。じわじわと締め付けるような焦りに、弘貴は顔をしかめた。
 蛇女の正体を掴む手がかりだ何だという前に、あの少女の恐慌ぶりが気に掛かった。おそらく、向こうの世界からまだ抜け出ていないだろう。
 エスカレーターを一階まで駆け下りて、ビルを出ると、夏のむっとした熱気が肌にまとわりついてきた。

 中は寒いほどに冷房が効いていたので、あまりの落差に舌打ちする。
 そのまま、慌ただしく周囲を見渡した。歩いていくまばらな人波の中、少女が着ていた、モスグリーンのTシャツを捜し求める。

 弘貴は首をめぐらせながら、少女が走ってきていた方向へ急いだ。
 駅からこちらに逃げてきていた筈だ。
 交差点まで来てると、少女の姿を見つけた。赤信号の前で、立ちすくんでいる。

 直立不動のまま、彼女は微動だに動かない。
 弘貴は直感した。周りにはざわめきが満ちているのに、彼女はまだ「向こう」にいるのだ。
 舌打ちして、彼は人を掻き分けて少女に近付こうとした。

 唐突に、けたたましくクラクションが鳴った。ターミナルから出てきたバスが、小型自動車とぶつかりそうになったのだ。
 びくり、と少女の体が痙攣した。
 彼女はそのまま、交通量の多い交差点へふらりと足を踏み入れる。赤信号が、まるで目に入っていないかのように。

 突然のことに、周囲の人間は反応できなかった。

「やめろ!」

 弘貴は前にいる人間を押しのけて、少女に手を伸ばした。
 彼の手が、少女の細い腕を掴む。
 甲高い悲鳴を上げ、彼女はそれを振り払った。狂ったような声を上げたまま、交差点の中へと駆け出す。

 ――すべてがゆっくりとした動きに思えた。

 まるで、映画の中の世界だった。

 クラクションが幾重にも響く。

 駆けていく少女の体を、避け切れなかった乗用車が跳ね飛ばす。
 バネ仕掛けの玩具のように、簡単に、少女の体が宙を舞う。

 一呼吸置いて、ようやく、少女の体がアスファルトに叩きつけられる。
 自動車のブレーキだけが声を出す、一瞬の静寂。

 思い出したように、悲鳴があがった。人々が慌てふためくなか、若い男性が喚きながら携帯電話で通報する。
 弘貴は、動けなかった。
 喧噪の中、少女の虚ろな目が、弘貴を見ていた。

 

 

 

 死んだ少女は、金崎理恵という十四歳の少女だった。
 弘貴がそれを聞いたのは、警察の取調室だった。
 事故が起こる前の、弘貴の一連の行動を見ていた人間がいたのだ。怪しいと思われても仕方がない。その場での警察の質問に、弘貴が上手く答えられなかったせいもあるだろう。
 説明など、出来る訳もない。あの少女と自分とは、何の面識も無いはずなのだから。

 頭が上手く働かなかった。混乱していたのだろうが、まともな言い訳も思いつかなかった。取調中もひどく疲れていて、すぐにでも眠りたい気分だった。
 結局、数十分もすると解放された。弘貴が事件の直前までインターネット体験室にいたことを、職員が証言したためだ。
 もし彼が故意に彼女を殺したのだとすると、突然ビルの外に走り出て、偶然捕まった信号で、偶然出逢った少女を突き飛ばした――目撃者が一人、こう表現したらしい――ことになる。少女の事故死だと考えるよりも、更に不自然だ。

 翌日の新聞では、被害者は受験ノイローゼによる自殺だったと書かれていた。
 この一週間、少女の言動がおかしかったのだという。両親や教師、友人が、何も出来なかった事を嘆く言葉も載っていた。
 何度読んだとも知れないその記事にもう一度目を通して、弘貴はキッチンの天井を仰いだ。

 蝉の声が遠く聞こえる。
 寝転んで広げていた新聞を畳み、ソファーの下に放った。
 額を押さえて、ため息を吐く。体が怠い。何もする気が起きない。実際、今日で引きこもり三日目だ。いい加減、晶が家に乗り込んでくるかも知れない。

(……説明……するべき、だよな……)

 弱く、彼は胸中にこぼした。
 だが、まだ駄目だとも思う。頭が整理出来ていないのだ。
 それに、話していいものかも解らない。人が一人死んだのだ。それも、自分たちと同じ状況にあったであろう少女が。
 怯えさせる事になるかも知れない。
 弘貴は、またため息を吐いた。

(疲れた……)

 口の中でそう呟いたとき、チャイムが鳴った。
 面倒なので母親に出て貰おうかと思ったが、何となく相手が誰か解ってしまって、弘貴はのろのろと体を起こした。
 インターホンには出ずに、直接扉に向かう。ドアを開けると、案の定そこには少女がいた。
 ただし、一人だけで。

「……元気そうじゃないの」

 不機嫌さを露わにして、晶は言った。

「……紙屋は?」
「開口一番がそれ? 真子なら私の家よ。あんたと同じで、ここのところ塞いでるの」

 晶の言葉に、弘貴はぼさぼさになった前髪を掻き上げた。

「……何で?」
「こっちこそ聞きたいわよ。あんたはあんたで、補習三日もサボって! 大体、あの電話は何なのよ? あたしがあの時、何十分待ったと――」
「神坂」

 弘貴は、硬い声で晶の言葉を押しとどめた。

「紙屋が、何で?」

 彼が他人に不機嫌な顔を見せるのは珍しい。
 晶は思わず閉口して、それから忌々しげに返した。

「……知らないわよ。聞いても、誤魔化して答えてくれないし」

 晶は唇を噛んだ。弘貴は少し考えて、聞いた。

「……神坂、お前ん家、夕食の時テレビつけてるか?」

 いい加減苛立ってきたのか、彼女はとげとげしい声で言った。

「うちは大体ニュースよ。それより、あんた、ちゃんと何があったのか話し……ちょっ、杉野!?」

 玄関の扉を閉めようとする弘貴に、晶が慌てた。

「明日な」
「明日、って……! ねえ、杉野!?」

 閉められたドアを叩いた晶の手が、やがて、力無く下げられた。
 惨めさに、視界がにじむ。

「……何なのよ……」

 泣きたい気分だった。
 二人とも悩んでいるのに、私には何も話してくれない。
 そんな心細さが、胸の奥を締め付けている。晶は唇を噛み締めると、きびすを返してドアの前を去った。
 弘貴は彼女の足音を聞きながら、ため息を吐く。
 鉄の扉を背にふと顔を上げると、そこに母親の姿があった。怒っているのか面白がっているのか、解らない笑顔でこちらを見ている。

「悪い男ねぇ、女の子いじめるなんて」
「別に、いじめた訳じゃないだろ」

 不機嫌に言い返して脇を通り過ぎようとした弘貴の腕を、母親が掴んだ。

「ねえ弘貴。お母さんと一緒に、ご飯食べにいこっか」

 にっこり笑って、彼女は言ったのだった。

 

     *

 

 半ば母親に引きずられるようにして、辿り着いたのは、近所の回転寿司屋だった。

「……ケチくせぇ」

 ぼそりと呟いた弘貴の頭を、母親がどやしつけた。
 まだ夕食には早い時間で、店内はがらんとしていた。曲調を変えた流行りの歌が、妙に穏やかに流れている。
 テーブル席は四名からお願いしますという注意書きにも関わらず、母親は弘貴を引っぱっていく。客が少ないからか、店員も文句を言わなかった。

「何でも頼んでいいからねー」

 メニューを取り、うきうきした口調で母が言った。
 そう言えば、二人で出掛けるのも久しぶりだ。

「何でもっつったって、上限は三百円……」
「なんか言った」
「……いえ、何も」

 じろりと睨まれてそう返し、弘貴は席を立った。セルフサービスの冷水を取ってきて、母親に渡す。
 ありがと、と彼女は笑って、テーブルの脇を流れていく皿を眺めた。
 弘貴はちびちびと水に口を付けながら、ぼんやりと考えていた。

 チャットでの会話と、死んだ中学生。それに、真子の奇妙な態度。
 核心に近付くヒントは、おそらく多くある。
 けれど、それらを総合して考えられるだけの気力が、今の自分にはないのだ。

(……人が、死んだんだ。俺の目の前で)

 感情のこもらない言葉を、頭の中で音にした。
 悲しいと思うには自分は彼女を知らないし、「蛇女」を怖いと思えるほど、死を現実的に捕らえた訳でもない。ただ、何も出来なかったのだと言う無力感以上に、息苦しさを覚えた。
 今まで、死んだ人間を目にしたことはなかった。母方の親戚とは絶縁状態で、曾祖父が死んだときにさえも、彼らは呼ばれなかったからだ。
 だから、実感が湧かないのかもしれない。
 ――そんな風に客観的に思うこと自体が、自分の感情から目を背けている証拠なのだが、弘貴はそれに気付いていなかった。

 真子に会いたかった。だけど、会いたくなかった。何かが癒されるのではないかと期待する傍らで、何かが壊れてしまうのではないかという怖れが居竦んでいる。
 ただ、解らないのだ。
 人が目の前で死んだ。何かが出来たはずなのに、ほとんど自分のせいで彼女を死なせてしまった。
 悔しいのか、怖いのか、悲しいのか、辛いのか。手当たり次第に単語を並べてみても、どれもぴんとこない。
 ただひたすらに息苦しくて、気怠くて、何もかもが面倒で――、

「弘貴」

 はっと顔を上げると、母親が箸を止めて弘貴を見ていた。

「食べないの?」
「ああ……いや、食べる」

 弘貴はカウンターに手を伸ばして、流れてきた卵巻きの皿を取った。
 母親は、何かを言いあぐねるように皿に乗った安っぽい鮪を箸でつついていたが、やがてぽつりと呟いた。

「ねえ、弘貴」
「ん?」
「……母さんに、何か言って欲しいこととか、やって欲しいこととか、ない?」
「……え?」

 困惑して、弘貴は母を見た。
 今日は化粧をしていないので派手さはないが、それでも十分に若く見えるその顔が、ふてくされていた。

「あたし、ばかだからさ。あんたが言ってくれないと、あんたが落ち込んでても、どうしたらいいかわかんないのよ」
「別に、俺は……」

 視線を外して、弘貴は口篭った。
 母親は軽くため息を吐くと、コップの水を仰いだ。
 そしてやはり物足りなかったのか、店員にビールを頼んで、弘貴に向き直る。

「でもねぇ、あたしは一応、あんたの母さんなんだから。あんたが悩んでんのくらい、わかるのよ?」
「だから、悩んでなんかないって」

 不機嫌に言って、弘貴は寿司を口に詰め込んだ。
 母親は呆れたように頬杖をついた。

「じゃあ、その顔はなによ。いつものあんたなら、適当に受け流すでしょ」

 弘貴は言葉に詰まった。
 母親は、今日まで事件のことに触れなかった。弘貴も出来る限り何でもない素振りでいたのだが、意外にもしっかり気取られていたらしい。

「……ショックだった?」

 優しく、母が聞いた。何がなのかと、弘貴は問い返さなかった。

「……わからない」

 視線を俯けたまま、小さく呟いた。

「……わからないんだ。別に泣けた訳じゃないし。夢に見た訳でもないし。ショックとか言うんじゃなくて、多分、そういうのとは違うと思うんだけど、ただ……」

 弘貴はテーブルの上で拳を握った。母は何も言わなかった。

「……ただ、息苦しくて。解らなくて。平気だと思ったのに、別に食欲がない訳じゃないのに、なんか……調子、悪くてさ。わけわかんねぇから……それが、いやなんだと思う、多分」

 ぼそぼそと言い切ると、弘貴は唇を結んだ。
 視線を皿に落とす。店内のざわめきの中で、テーブルが沈黙に包まれた。
 ふと、母が気配で笑った。
 驚いて弘貴が顔を上げると、穏やかに、慈しむように、彼女はやはり微笑っていた。

「あんたは、いい子だね」
「え?」

 嬉しさを滲ませて呟かれた言葉に、弘貴が目を瞠った。

「優しいから、しんどいんだよ。割り切れなかったり、引きずっちゃったりするのは、苦しいばっかりかもしれないけど……あんたがそんな子で、本当に嬉しい」

 彼女は、泣き出しそうなくらい誇らしげに言った。

「あんたはあたしの、自慢の息子だよ」

 それはひどく、優しい声で。
 まさかそんな言葉を聞かされるなんて、思いもしていなかったから。

「……真顔で、何言ってんだか」

 そんな、憎まれ口で返すことしかできなかった。