開け放された手

 

 眠い目を擦りながら、晶は腕時計に目をやった。

 時刻は七時十五分。あと五分で、早朝の補習が始まる。少し、間に合いそうにない。
 始めに出席を取るわけでもないし、似たように遅れてくる生徒は割といるからまあ良いかと、晶は早々に諦めてのんびりと学校に向かっていた。進学校と言っても、田舎であるせいかまだ時期が早いせいかはさておき、生徒の構えはどこかのんきだ。

「晶ちゃん、眠い?」

 手ぶらで隣を歩きながら、真子が聞いてきた。

「うん、そうね、眠いわ……」

 半分眠ったように晶は返した。犬の散歩をしている男性が、往来で独り言を言う女子高生を訝しげに見て、通り過ぎていく。
 しまったと、晶は顔を顰めた。真子の姿は、自分と弘貴以外には見えないのだ。
 あまりにも以前と変わらない様子が、そのことを忘れさせる。

 隣にいる真子を、こっそりと見やった。
 彼女が死んでいると言うことを、晶はどうしても実感できずにいた。
 普通に歩くし、笑うし、話す。生前よりも、むしろ明るくなったくらいだ。
 壁を抜けることもできたらしいが、気持ち悪いと言ってやらないし。物は動かせても人に触れることは出来なくて、しかし何かに座ったりもたれたりすることは出来て、けれど食べ物を摂取することはない。その辺りの区分けは、正直に言って不可解だ。
 そもそも、座ることやもたれることも、接触の一種類であるはずだ。いや、それを言うなら地面に立つという行為も、それに入るのだろうか。だったら地球の中心にまですり抜けてしまうのでは――いや、それ以前に、重力というものは作用するのだろうか?

 そこまで考えて、詮無いことだと首を振った。
 せめてその辺りをふよふよと浮いていてくれたなら、実感も湧くのだろうが、それはそれで嫌なものかもしれない。

(あ……そうだ)

 ふと思いついて、晶は真子に声を掛けた。

「ねえ、真子」

 真子は返事をしなかった。
 ぼうっとした彼女の横顔に、訝しげに眉を寄せて、晶はもう一度呼びかける。

「真子?」
「え? あ……! ご、ごめん、何?」

 はっとしたような真子の反応に、晶がますます妙な顔をする。

「……あんたも寝惚けてるの?」
「う、うん、そうかも……。ごめんね、何の話だった?」
「ちょっと聞こうと思ってたんだけど。その辺にいる霊とか、見えるの?」

 真子はうーんと唸ると、髪の先を弄りながら、首をかしげた。

「見えたり、見えなかったりする」
「……怖い?」

 晶がまた聞くと、真子は「私も幽霊だし」と曖昧に笑った。

「それにね、生きてる人とあんまり変わらないの、見た目が」
「そうなの?」
「うん。死んだときのままっていう幽霊は、まだ見てないな」

 晶は不意に眉を寄せた。
 真子はどんな風に殺されたのだろうか。少なくとも、見た限りでは解らない。
 胸の奥の方に、また、重苦しい怒りが灯った。

 

     *

 

 物理の早朝補習を終えて教室に行くと、半ば眠ったような顔の弘貴が席にいた。

 学校に来てから寝ているのでは、何のための補習か解らない。一般的な「補習」とは違って、苦手分野を克服するための、塾の代替わりのような「講座」なのだ。
 晶は真子と顔を見合わせると、呆れたように声を掛けた。

「おはよう。起きてる?杉野」
「あー……起きてる起きてる。今何時?」
「八時過ぎ」

 弘貴は頭を掻くと、どこかぼんやりした目で二人を見た。

「変な夢見た」
「ほら、やっぱり寝てたんじゃ――」
「そうじゃなくて、昨日の晩」

 大きな欠伸をした弘貴に、真子が心配げな目を向ける。

「眠れなかったの?」
「いや、十時に寝て七時に起きたんだけどな」

 弘貴はひらひらと手を振った。
 受験生のくせに眠りすぎだと、晶がまた呆れる。

「それが、なんかすっげえ疲れる夢でさ。スケート場にいたらゾンビの大群に襲われて、何でかおもちゃっぽい銃持ってて全滅させたんだけど、モノレールの駅でコギャルのバイトみたいな駅員から切符買ったら、なんかゾンビが復活したとか知らないオッサンに言われて、もう一回倒しに行って……を三回くらい繰り返したという」
「……訳わかんないね……」

 よく覚えてるなあと真子が苦笑した。
 何の事はない、昔やったことのあるゲームの影響を受けただけなのだが、それにしても妙な夢だった。
 二人の軽い会話にも構わず、晶は真顔で椅子を引いて座った。
 弘貴は妙に思いながら目をやった。いつもの彼女なら、ここで毒々しい反応を返してくるはずだ。
 晶は膝の上で手を握り、重々しく口を開いた。

「私も、見たわ。妙な……夢、だと思うんだけど」
「え……?」

 晶は二人に、昨日浴室で見た物を話して聞かせた。
 出来るだけ平静を装おうとしたが、思い出すとやはり鳥肌が立つ。

「夢だったんだと思うのよ。でも、何だか妙に現実感があって……」
「ああ、それと似たようなの、俺もあった」

 弘貴があっさりと切り返した。晶と真子がぎょっとして彼を見る。
 内心でその反応を面白がりながら、彼は大して気負った様子もなく言った。

「電子レンジから手が伸びてきてさ。あと、そん中から……ほら、なんつったっけ? ホラー映画で流行ったのあっただろ、あんな感じの女が出てきた。白昼夢かと思ったんだけどな」
「……あんたねぇ、そっちを先に話しなさいよ……!」

 呆れとも怒りともつかない口調で、晶が言った。
 弘貴は軽い調子で謝り、壁時計に視線を向けた。もうすぐ、次の補習が始まる時間だ。

「神坂、お前、古文取った?」
「取ってないけど……」

 不機嫌な晶の返事を聞きながら、ふと、弘貴は眉根を寄せた。
 視界の端に映った空が、黒く染まっている。

「なあ、神坂……」

 晶と真子を振り返って、弘貴がそれを口にしようとした時だった。

 ――バン!

 激しい音を立てて、窓に何かがぶつかる。
 驚いて向けた視線の先で、眼窩の飛び出た男が、窓の外に張り付いてこちらを睨んでいた。

「ひっ……!」

 短く息を呑んで、晶が身を竦めた。
 よろめくように寄り掛かった机が、ガタンと声を上げる。
 ここは四階だ。男が生者である可能性はまずない。
 弘貴は唇を結んで、早鐘を打つ心臓を鎮めながら真子に視線をやるが、晶の隣に彼女の姿はなかった。

 いや、この教室の何処にも。

 黒い空。心霊現象。状況は昨日の夕方と酷似している。
 意を決した弘貴がもう一度窓を見ると、そこに男の姿はなかった。
 それを認識した直後、背を向けた廊下から、ポーン、ポーンというボールの音と、幼い子供が駆ける足音が聞こえてくる。

「や……やだ……!」

 がくがくと震えながら、晶が弘貴のシャツを掴む。
 その内にだんだんと音は近付いてきて、小さな子供が教室に躍り込んできた。
 二人の脇を駆け抜けて、少年はぴたりと足を止め、重苦しい声で言った。

 ――ネエ、オニイチャン。

 そしてギギギと音を立てそうなくらいにゆっくりと、錆び付いた動きで少年は振り返った。
 晶は引きつった悲鳴を上げた。
 少年の目に眼球はなく、ただぽっかりとした赤い空洞だけがこちらを見ていた。
 幼い手を離れたボールが、勝手に床を跳ね転がって行く。

 ――オニイチャン、ボクノ目ガナインダ……ナインダヨ……ネエ……

 幽霊は両手を差しのべて、弘貴に近付いてきた。一歩、一歩、夢遊病者のような足取りで。

 ――ネエ、オニイチャン。目、チョウダイ、ネエ……!

 少年は膝を曲げて、飛び掛かろうとする気配を見せた。

「!」

 弘貴が咄嗟に晶の頭を押さえて、自分も屈む。
 飛び込んできた幽霊は、目標を捕らえ損ねて机に激突した。けたたましい音が教室に響く。

「え……!?」

 晶が目をみはった。妙だ。幽霊が物にぶつかって転ぶなんて。
 ゆらり、と少年の霊は立ち上がった。

 ――ネエ……ネエ……!

 目のない顔をこちらに向け、彼は両手をこちらに突き出して、にじり寄ってくる。

「やっ……やだ、来ないで……!」

 泣きそうな晶の声に、弘貴は嘆息して、肩掛け鞄の紐を掴んだ。

(落ち着け)

 胸中で必死に繰り返す。怯えるところなど見せられない。大丈夫だ、大したことはない。怖くはない。何とかしなければ。
 弘貴は息をつくと、相手の顎を狙って鞄を振り上げた。
 幽霊が顔面を打ち、そのまま数歩よろめいて、後ろに転ける。
 どうにも罪悪感を覚えたが、弘貴は振り切るように晶に声を掛けた。

「おい神坂、逃げるぞ!」
「え、あ、う、うん……!」

 二人は教室から駆け出て、そのまま廊下を階段に向かって走った。

 ――アハハハハハハ……

 少年の笑い声が、それを追うように響く。
 途中で通り過ぎた選択教室には、誰もいなかった。いつもなら何人かの生徒が次の補習を待っているというのに。

「ねえ、どうなってるのよ! 真子はどこ!? あの子一体何なの!? 幽霊!?」
「紙屋も似たようなもんだろ?」
「茶化さないで! こっちは必死なの!」

 階段を駆け下りながら半泣きで晶が怒鳴る。
 いつも通りの素振りで、弘貴は肩を竦めた。
 ここで、自分まで恐慌状態に陥ってしまってはならない。そう胸中で言い聞かせながら、極力平静に彼は言う。

「とりあえず、逃げてからだな」

 腕時計に目を移す。
 彼は待っていた。
 人が消えた校舎、黒い空、入れ替わり立ち替わりに現れる霊――昨日起きた怪現象との共通点がある。
 疑問も恐怖もないではないが、他人が焦っていると冷静になるたちらしい。
 今の今までそんな自覚はなかったが、普段からは想像もできないほどの晶の怯えが、弘貴の頭を冷やしている。

 頭上に、ふっと気配が生まれた。

「神坂!」
「え? きゃっ!」

 反射的に彼女の腕を引いて、弘貴は壁に身を寄せた。晶が蹴躓いて、手摺りに両手をつく。
 少年の霊が、また標的を逃して、階段に頭から落下する。
 ごきり、と嫌な音がした。
 弘貴は唇を噛み締める。手が震えたのが解った。
 少年は、まるで何事もなかったかのように、剣呑さを感じさせる動きで立ち上がった。
 折れた首を、あり得ない角度に曲げて。

「あ……あ……!」

 晶は手摺りにしがみついたまま、喘ぐように呼吸しながらそれを見つめた。
 見たかった訳ではない。目を逸らすことが出来なかったのだ。

 ――ネエェ……ナンデ逃ゲルノォ?

 低い笑い声が、人気のない廊下に反響した。
 その時だった。
 鉄琴を叩いたような校内放送のベルが、空間を引き裂いたのは。

『……金本先生、至急、職員室までお戻り下さい。金本先生……』

 スピーカーを通した声に引き摺られるように、世界にざわめきが戻ってきた。

 晶は目をしばたいた。
 目の前に広がるのは整然と並べられた机の列。見慣れた黒板に、飾りっ気のない壁時計。

 そこは何度瞬きをしようとも教室であり、一瞬前までいたはずの、階段などではなかった。

「え……?」
「あー……やっぱりな」

 晶の隣で、弘貴が疲れたため息を吐いた。
 異様な緊張感から解放されて、崩れるように椅子に座る。

「や……やっぱりって、どういう事よ!?」

 晶が問い詰めようとすると、それを遮るようにチャイムが鳴った。弘貴は時計に目を遣って、慌てたように立ち上がる。

「うわ、もう補習始まるじゃねーか。神坂、また昼にな」

 おざなりな言葉を残して弘貴は授業道具を抱えると、あわただしく教室を出ていった。
 それを見送って、晶は不満げにぼそりと呟く。

「……なんなのよ……」

 思わずため息が出る。椅子を引いて、倒れ込むように座り、晶はふと気がついた。

「あれ……真子……?」

 真子の姿は、ここにもなかった。

 

 

 

 三限目の補習が終わっても、まだ真子は戻ってこなかった。
 気がかりではあったが、探して見つけられるものでもない。弘貴は割り切っていたが、晶はやはり気になったようで、補習のプリントを全部埋められなかったとぼやいていた。
 随分と彼女は苛立っていて、弘貴が三時限目の補習を終えて教室へ行くと、「遅い」とあからさまに不機嫌さをぶつけられた。
 補習の時間割には昼食時間は組み込まれていない。休憩時間を利用して昼食を取りながら、晶は切り出した。

「それで、私、考えたんだけど」

 コンビニのパンをパックのコーヒーで流し込みながら、弘貴は晶に視線を向けた。
 何が、と目で問い返すと、晶は弁当の卵焼きを行儀悪く箸で刺した。
 相手に無様な姿を見せてしまったことは、彼女の自尊心をいたく傷つけた。今更どうしようもないが、その分、冷静な態度を取ろうと必死になる。
 首の曲がった少年の姿を思い出して、箸を持つ手が震えないように気力で押さえた。

「……だから、怪現象の共通点よ。とりあえず気付いた事を挙げてみようと思って」

 付け足しがあったらその場で言ってという晶の言葉に、弘貴は黙って頷いた。

「まず一つ目。単純に考えて、異常が起きる時には……何て言うの? ええと……空間軸、かしらね。それがずれている。
 ただし、完全に切り離されているわけじゃなくて、気持ちだけあっちに行ってる感じね。精神世界っていうの?」

 弘貴は頷いた。
 時間は確実に経過しているし、ひょっとした弾みで「我に返る」。
 おそらく正しい推論だろう。異常現象が起きている時にどれだけ動き回っても、気がつけば元の場所にいるのだ。それならば、最初から動いていないと考えたほうが自然だ。
 それにしても、ずいぶんとゲームやマンガじみた説明だ。言うと怒りそうだったので、黙っていたが。

「二つ目。向こうとこっちの違いね。私たち以外に人がいないこと、心霊現象が起きること……」
「もう一つ追加。向こうは空が黒い」
「……そうなの? 気持ち悪い。あと、こっちに戻ってくる……何だか変な言い方だけど、その方法。私の時にもあんたの時にも、それから今日も、『音』だったわ」

 ああ、と弘貴は頷いた。
 喋っている晶より早く昼食を終え、ゴミをコンビニのビニール袋に入れて口を結ぶ。

「四つ目。向こうの世界では幽霊に触れることが出来る。……下手になにかすると、何だか更にひどい目に遭いそうだけど」

 首の折れた少年の姿を思い出したのだろう。晶が眉を顰めた。
 だがすぐにかぶりを振って、平静な声で続ける。弘貴は笑ってしまうのを何とか堪えた。 今までにないほど、あまりにも、彼女の感情が解りやすいせいだ。

「私が気付いたのはそれくらい。何か他に、付け加えることはある?」

 起きた事象を考察するには、明確にその時の事を思い出さなければならない。
 あれだけ怯えていたのに大したものだ。自分は対処するだけで精一杯で、細かいことは覚えていない。

「別にない。じゃあ、次は疑問点だな」
「……ありすぎてきりが無いわよ」

 額を押さえて晶が呟いた。
 二人がふたりとも、これまで、いわゆる心霊現象に遭遇したことはなかった。
 何故、突然こういった事が起きたのか。時期的には、真子が二人の前に現れてからということになる。つまり、「蛇女」の仕業だという可能性が無くもないのだ。
 仮にそうだとして、何を目的にしているのか。情報は少なすぎて推論すら立てられない。とりあえず世界征服だったら爆笑してやろうと、弘貴は思っていた。
 少なくとも怪奇現象に科学的な理屈を組み上げる事は、両者一致して諦めた。無駄な労力に思えたのだ。

「……それで、対応策だけど……杉野、何か考えた?」

 晶の言葉には、どこかすがるような響きがあった。
 意外なことだが、どうやら極度の怖がりであるらしい。解決策の有無は死活問題なのだろう。
 ゴミの入った袋を指に引っかけて回しながら、弘貴は天井を仰いだ。

「要は音だろ。アラームとか」
「……どうするのよ?」
「腕時計に付いてるのとかあるだろ。五分ごとに設定して、手動で解除していく」
「随分と面倒な上、手の掛かる方法ね。補習中にもそうするつもり? ……あんた、本気で考える気ないでしょう」

 晶が半眼になった。弘貴はそれを受け流して、椅子を後ろに傾けた。

「まあ、それは冗談として。……でも実際、夜中にでも引き込まれたらどうしようもないよな。朝になって目覚ましが鳴るまで、悪夢と格闘し続けるって訳だ」
「……それだけはごめんだわ……」

 うんざりした表情で晶は呟いた。あの現象が相当こたえているのだろう。
 女の子だなと弘貴は苦笑した。もっとも素直に怖がっても良い分、男より楽かも知れない。――いや、これはただの自分の意地か。

「あとは……紙屋がどうしたか、だな」

 それまで互いに触れなかった言葉を、弘貴が呟いた。
 晶は空になった弁当箱をしまうと、弘貴に不機嫌な目を向け、無言のまま水筒のお茶を注いだ。

「……あんた、真子が全部やってるって言いたいの?」
「俺はそんなこと言ってないけど?」

 あっさりと弘貴は返すと、晶は辟易したように、頬杖をついてため息をこぼした。

「やっぱり私、あんたのこと嫌いよ。人畜無害そうな顔して、性格悪いったらありゃしないわ。ったく……真子ってば、一体何だってこんな唐変木なんか……」

 最後辺りは口の中で呟いたため、弘貴には聞こえなかった。
 彼はビニールゴミを手の中で丸めて、呟く。

「それより、実際問題どうするかだろ」
「どうって……どうしようもないじゃない」
「心霊現象じゃない。紙屋の親父さんだよ」

 淡々とした言葉に、晶が眉間に皺を寄せた。

「蛇女云々は別にしても、殺人だろ。ばれてないのが妙なんだ。そのうち警察沙汰になる」
「……」
「いっそのこと、そのほうがいいんじゃないか? 紙屋冴華が戸籍持ってるなら、俺たちが裏で何かやるよりよっぽど有効だろ。事件が表に出て、その後で――」
「駄目よ」

 苛立ったように、晶は否定した。

「真子が何て言ったと思ってるの? お父さんのせいじゃないって言ったのよ? あたしたちが、おじさんを犯罪者にしたら……誰が悲しむと思ってるのよ」
「別に仕立て上げるわけじゃないだろ。実際……」
「解ってるわよ、おじさんがやったんだってことは! れっきとした犯罪よ、わかってるわよ……でも、他にやりようがあるでしょ……?」

 「蛇女を退治する」ことと、彼の罪は別問題だ。仮に紙屋冴華が化け物だったとして、それをどうにかしたとしても――死者が生き返るわけではないし、彼の罪状が消えるわけではない。
 弘貴は、その言葉を飲み込んだ。
 要するに、今どうしようと、行く末に起こることは変わりはないのだ。確かにそれなら、真子の望むようにしてやりたい。
 肩をすくめ、彼は言った。

「……ま、それでいいか」

 晶は頬杖をついて、気まずげに視線を逸らした。
 いい天気だ。雲ひとつない空は濃い青で、山の緑に映えている。
 真子の家はあの辺りだ。去年は、一緒に近くの海に行った。咲と父が一緒だった。楽しかったのかどうかははっきりしないが、やけにはしゃいだ気がする。
 記憶をぼんやりたどりながら、晶はぽつりと呟いた。

「真子……もしかしたら、もう、帰ってこないかも……」
「いや、そりゃないな」
「……は?」
「あれ」

 弘貴の言葉に教室の後ろを振り返ると、真子がそこで声を掛けあぐねていた。

「え……えっと……た、ただいま」

 困ったように髪の先を弄って言う。晶は呆気に取られていたが、次第に我に返って怒鳴った。

「……あんたね、何やってたのよ! いきなりいなくなって、こっちは散々心配……!」
「あー、はいはい神坂、落ち着けって」

 弘貴が晶の肩を押さえる。
 真子はしゅんとして、上目遣いに謝った。

「ご……ごめんね」

 晶はがっくりと肩を落とすと、「もういいわよ…」と疲れたように言った。
 弘貴は吹き出しそうになって、何とかこらえた。それに気付かずに、晶が視線だけ上げて拗ねた顔で問う。

「で、どうしてたの」
「あの、いきなり二人とも動かなくなって……それで、声を掛けてみたんだけど、聞こえてないみたいで。全然動かないし、触れないからどうしようもなくなって……どうしようどうしようって、困って、その、私、幽霊だから誰も呼べなくて、誰にも声聞こえなくて、それで、聞こえる人探して、うろうろしてたら……その、迷子になっちゃって……」

 説明していく声が、尻窄みになっていく。
 泣きそうな顔でうつむいた真子に、二人は呆気に取られていたが、やがて吹き出した。

「わ、笑わないで! 私、すっごく大変だったんだから……!」
「い、いや、悪い」

 真っ赤になって怒る真子に、必死で笑いを堪えながら弘貴が言った。痛む腹筋を押さえながら顔を上げる。

「でも、ちょっ……悪い、やっぱ間抜けだ」
「ひど……!」
「言わずとも間抜けよ。真子、あんたそういう意味でも鈍くさかったのね」
「ひどぉい……」

 真子は情けない顔でうつむいた。何だか本気で泣き出しそうだったので、弘貴がすかさず話題を変える。

「それで、話は戻ってあっちの世界での特徴。紙屋の声――というか、多分幽霊の声だな。それじゃ元の世界に戻れない、と」
「え?」

 話の先が見えないのか、きょとんとして真子が弘貴を見る。
 晶はようやく笑いを収めると、納得したように頷いた。

「それから、真子はあっちの世界には引きずり込まれない、ってことね」
「え? ……ねえ、晶ちゃん、あっちの世界って何?」

 晶と弘貴は代わる代わる、昼食中にまとめた話を真子に説明した。
 長い話を終えると、終始驚いた顔をしていた真子が、感心したように感想を述べた。

「わぁ……なんだか漫画みたいだね」

 弘貴と晶は二人揃って沈黙した。掻い摘んで話したせいか、恐ろしいものとして認識してもらえなかったようだ。
 いや、それよりも。

「……あのさ。紙屋、自分が幽霊だって事忘れてねぇ?」
「というか、あんたがその感想言うの、すごい間違ってる気がする」

 そうかなと、真子が頬を掻いた。
 晶は疲れたため息を吐いた。気のせいだろうか、生前よりも真子のすっとぼけた性格が、強力になっている気がする。

「にしても、『あっちの世界』って言い方もね……何か間抜けだわ」
「じゃ、なんて呼ぶんだ?」
「……精神世界とか」

 言い出した晶自身が、嫌な顔をした。

「ゲームっぽいよな。平行世界とか? 意味違うか」
「英語で言うなら、えーと……アナザーワールドだっけ」
「あたし横文字嫌いなの。やめて」
「なんか、ぴんと来るもんがな……異次元は?」
「……四次元?」
「猫型ロボット?」

 二人揃っての聞き違いに、弘貴が手を降る。

「いや、『よ』じゃなくて『い』。まあ何でもいいけど、そういえば昔、四次元ポケットとかって欲しかったんだよな」
「あ、でもあれって、ポケットだけあっても意味ないよね」
「そうなんだよな。そこが問題だ」
「問題はそこじゃないわよ……!」

 大いに話題がそれ始め、晶が苦りきった声でそれを中断した。
 真子が、ふと思いついたように手を打つ。

「あ、ねえ。それでね、私、考えたの」
「何を?」
「あのね、チーム名決めよう?」
「……は?」

 弘貴と晶は、同時に耳を疑って聞き返した。

「……ねえ真子。……何のチーム?」

 こめかみを押さえて、晶が言う。真子が両拳を握りしめて力説しはじめた。

「私、小学生の頃から、こういうの憧れてたの! 少年探偵団とか、秘密基地とか、埋蔵金とか。それでね、いいの思いついて。聞いてくれる?」
「……まあ、聞くだけは」

 晶の質問に対する答えになっていなかったが、押されるようにして弘貴は頷く。
 彼女は、こんな性格だったのだろうか?

「あのね、『へびいちご同盟』っていうの!」

 二人は再び、揃って沈黙した。
 弘貴が恐る恐る問い掛ける。

「……あのう紙屋さん。……もしかしなくてもそれは、国語の教科書に載ってる、例の青春ものの名作の」
「うん!」

 真子は大きく頷いた。晶は目眩を感じて、両手に顔を埋める。
 いろいろつっこみたいのだが、一気に気力が萎えた気がする。代わりに弘貴が聞いた。

「……なあ紙屋、……何で?」
「対蛇女戦だし、私、苺好きなの」

 あっさりと真子は答えた。理由を聞いても本気で訳が分からない。

「いや、ヘビイチゴは食えねえだろ……じゃなくて、あれって十五歳だからとかって理由じゃなかったか?」
「あ……そうだったっけ」

 きょとんとして小首を傾げる。その仕草は可愛らしいが、何だか弘貴は頭痛を感じた。
 常々変わった奴だとは思っていたが、ここまでとは思わなかった。

「うーん。でも、イチナナじゃ合わないもんね。どうしようかな」
「……そんなことはっ!」

 ようやく顔を上げた晶が、それに怒鳴った。

「どうっでもいいの! 却下よ却下! なんで私が杉野とチーム組まなきゃいけないの!? 冗談じゃないわ!」
「えー……でも」
「でも、じゃない!」

 まだ不満そうな真子をぴしゃりと叱りつけて、晶はぜいぜいと肩で息をしながら話を変えた。

「……何話してたのか解らなくなったわよ……ともかく、今日は図書室ね。市立図書館とは、置いてある本が違うだろうし……」
「あ、悪い。俺、今日塾あるから」

 挙手してから弘貴が言うと、晶がじろりと視線を寄越した。

「……何時からよ?」
「六時からだけど、課題をやってない」
「……もういい。あたしだけでやる」

 思いきりに顔をしかめて、晶は言った。
 チーム結成を諦めたらしい真子が「仕方ないよ」となだめにかかったが、あまり効果はなさそうだ。
 彼女いわく対蛇女対策チームは、早くも連携に乱れが見られた。
 ――そもそも最初から、そんなものがあったかどうか疑わしいが。

 

 

 

 蛇は世界的に、その生態から地界や水と関連付けられ、しばしば地下神に結びつけられたり、死者の霊魂とみされていたらしい。
 水神、雨神、作物神として崇拝されている例も多い。
 不妊の女性が石像の蛇に懐妊を祈ったり、コブラが神聖視され、コップに注がれた牛乳を捧げられていたり、商業の神だったり医学の神だったりと、その扱いは実に多種多様だ。
 欧州では蛇が財宝を守っているという伝説が溢れているらしく、呪術的な分野になると、壁に絵を描くことで妖術や邪視が防がれるという伝承もあるらしい。
 変わってゾロアスター教ではもっとも邪悪な存在とされ、見つけ次第殺されるらしい。キリスト教でもエデンの園の蛇は悪の象徴とされる。
 蛇ほど悪と善の両面に於いて扱われる動物は少ないと、ある本は説いていた。
 それは、足がないにもかかわらず鱗を持つため、陸上生物と魚類との区分の中間に座し、更に生息場所は地上だけでなく、地下や樹上、水辺、人間の住居にも出没するという、空間区分をも乱す変則的な動物であるためだという。

 要するに、仲間はずれなのだと晶は思った。
 人間の価値観の境を曖昧にする。一面の意味での破壊者だ。
 気に入らないのだろうと晶は思う。人間は、特にヨーロッパの人間は、人間中心の考え方を好むから、と。
 けれど、それで悪として扱われるのは解るが、善として扱われるのは何故なのだろう?

 違う意味で興味を持つ反面、本来の目的に適った情報は得ることが出来ず、いい加減辟易してきた頃だった。

 かたん、という物音に、晶は本から意識を離した。
 引かれた椅子は、目の前の物だ。夏休みの図書室は、クーラーがきいている数少ない場所として、自主学習の生徒たちで溢れている。
 だから、近くの席が埋まることに、不思議はないのだが――瞬時に相手が誰かを察して、晶は本のページを見たまま胸中に呻く。

 案の定、やたらに機嫌のよい三條元治の笑顔にぶつかり、晶はあからさまに嫌そうな顔をして、再び本に目を落とした。

「何読んでんの?」
「本よ」
「あ、言うと思った」

 大して気にした様子もなく、三條は茶化して笑う。
 こいつには人並みの神経というものがないのかと、晶は胸中に毒づいた。
 そのまま彼が沈黙したので、余計に苛立つ。どこかに行けと言おうとしたとき、三條が口を開いた。

「何かさー、元気出たな、神坂」
「……なによ、それ」

 何だか見透かされているような気がして、面白くない。思い切りに顔をしかめて晶が言うと、三條はにんまりと笑った。

「愛の力ってやつでしょう」
「……脳にカビ生えてるんじゃない?」
「ひっでぇなー」

 傷ついた様子もない、その声が苛立つ。
 さっさとどこかに行ってくれないかと思いつつ、晶はまた本に目を走らせた。
 見られている気がして、落ち着かない。内容はほとんど視神経を通っただけで、脳まで伝わらなかった。

「ねえ、神坂サン」
「煩いわね、何よ」
「進路決めた?」
「……何であんたに言わなきゃいけないの?」
「決まってないんなら、俺んとこに永久就職の勧誘しようかと思って」

 少女漫画のような台詞に、真子が真っ赤になって喜ぶ。晶は頭痛を覚えながら、彼を睨んだ。

「親の脛齧りがたわごと言ってんじゃないわよ。そんなくだらない事言うためだけに来たなら、さっさと失せて」

 どうして、こんなに苛立つのだろう。
 晶は苦く思った。無視していればいいのに、黙っていられないのだ。それ程彼を嫌っているということなのだろうか。
 三條は、口調を変えずに続けた。軽薄すぎて、真実味がない。

「同じ大学、行けたらって思ってさ」
「は……!?」

 愕然として、晶が顔を上げる。

「何、馬鹿言って……! あんたね、大学なのよ!? そんなガキみたいな事で自分の将来決めて、良い訳ないでしょ!?」

 静かな図書室に響いた怒声に、生徒達が迷惑げな視線を向ける。
 三條はそれを気にした様子もなく、あっさりと返した。

「大学で将来は決まらないって」
「選択肢は限定されるわよ! 馬鹿じゃないの!? ふざけるのも大概に――」
「ふざけてないんだけど?」

 三條は晶から目を逸らさない。それが、さらに晶を苛立たせた。
 自分のペースが崩されている。
 真子がはらはらして成り行きを見守っているのを横目に、怒鳴りたくなる衝動を必死に押さえた。
 ひとつ深呼吸すると、晶は低い声で言った。

「……大学でまであんたにつきまとわれるなんて、絶対にごめんよ。女子大に行くことにするわ」
「あらら、そりゃあ困ったな。俺、女装して受験しなきゃ」
「……もういい。帰る」

 晶が本を閉じて重ねると、席を立った三條がそれを持ち上げた。

「何よ」
「お手伝いしましょう」
「……あらそう。じゃ、全部片づけといて」

 ポン、と本の上に手を置いて、極力冷たく晶は言った。

「つれないねぇ」
「理由は自分の胸に聞いてみたら?」

 茶化して笑う三條に背中を向けて――晶は、ぎくりと立ち止まった。

 坊主頭の男の子が、こちらを見て薄く笑っていた。
 高校の図書室にいる筈もない、幼い少年。背筋の凍りつくような笑みは、肌をはっきりと泡立たせた。
 こみ上げてくる震えを自覚しながら、晶は視線で周囲を伺った。

 人が、いない。つい今しがたまで、自習している生徒で席は埋め尽くされていたのに。

 少年が、ヒタリと一歩、晶に歩み寄った。
 思わず後ずさって、晶は少年を見る。

 ニィッと笑った。その笑った顔が、そのままごとりと床に落ちる。
 頭のない身体と、ケタケタ奇声を発して転がる首。

 その声と光景が、晶の意識にしがみついた。

「い……いやあああッ!!」

 悲鳴をあげた次の瞬間、三條の声が、その世界に割って入った。

「おい、神坂? どうしたんだよ、ぼーっとして」
「……あ……」

 ぜいぜいと息をして、晶は三條が自分の左肩を掴んでいることに気付いた。
 無遠慮に頭を掻き回す非現実的さに、彼女は表情を引きつらせたまま、笑い出しそうな膝を必死に堪えた。

「へ……平気よ……、なんでも……っ」
「本当か? 顔色悪いけど……」

 心配げに自分の顔を覗き込む視線から、逃れるように、晶はゆるゆると首を振った。

「へ、平気だっていってるの。余計なお世話よ。……私、帰るわ」
「は? おい、神坂!」
「あ、晶ちゃん、待って!」

 三條と真子が晶を呼び止めるが、彼女は逃げるように図書室から出ていった。
 真子も三條を一度見たが、慌ててその後を追う。
 自習している生徒が、いい加減にしろと言わんばかりに三條を睨んだ。

 彼はそれどころではない。晶の様子は、明らかにおかしかった。
 三條は舌打ちすると、手に抱えた本を机に置いて彼女を追った。

 

     *

 

「おい……! 神坂、待てって!」

 階段の途中で、晶は三條に腕を捕らえられた。
 震える膝に舌打ちしながら、晶が怒鳴る。

「何よっ……離して!」
「何って……どうしたんだよ、あんな急に……俺が何かしたか?」
「……そうよ、あんたの所為よ! あんたが全部悪いんだから! も、やだ……あんなの、もう、私に構わないでよ!」

 泣きそうな晶の叫びに、三條が困惑した表情を見せる。

「おい、言ってること滅茶苦茶だぜ? 何言って……」
「うるさい! 全部あんたの所為なの!」

 三條を詰りながら、晶は目の奥が熱くなるのを、両手をきつく握りしめて耐えた。
 わかっているのに、止めることができない。これはただの八つ当たりだ。何の意味もない。自分の恐怖心をごまかすために、関係のない人間に喚いているだけだ。
 真子は二人の傍で、緊迫した空気にオロオロしている。それは解っていたが、晶は自分の口を止められなかった。

「お願いだから、私に構わないで! もう、あんたの顔なんて見たくな――」

 三條が、晶を壁に押しつけた。
 文句を言おうとしたが、強引に言葉を封じられる。
 晶は一瞬呆然として、真子が思わず両手で頬を押さえた。

 壁にぶつけた背中と掴まれた手が痛い。それが何なのかを理解するまでに、相当な時間を要した。

 三條が唇を離すと、晶ははたと我に返り、怒りの形相で相手に蹴りを喰らわせた。

「……!!」

 くぐもった悲鳴を上げて、三條がしゃがみ込む。
 非常に容赦のない一撃だった。威力も、そして狙いも。

「……死にさらせッ!」

 涙目で言い捨てると、晶は階段を駆け下りた。途中で誰かにぶつかりそうになったが、謝るだけの余裕はない。
 真子が一度三條をかえりみて、慌てたように、晶を追いかける。
 聞こえるはずのない、彼女の足音が響いた。

 図らずしも一部始終を目撃してしまった弘貴は、天井を仰いでため息をついた。
 ――何をやっているのだ、こんな場所で。

「……三條、生きてるか?」

 原因を作ったのは彼自身だが、どうにも男としては同情を禁じえない。
 三條はうずくまって下腹部を庇ったまま、かすれた声でうめいた。

「マジヤバイって……くそ、神坂、大丈夫かどうか試させてくれねぇかなー……」
「……本人には言うなよ、それ」

 そうでなければ今度は間違いなくとどめを刺されるだろう。まあそれも自業自得か。

「……杉野、お前、志望校決めた?」

 まだ辛そうなのに、よく喋るものだ。
 まあ一応、と弘貴は答えて、市内の福祉大学を口にする。
 放射線医療の学部で、枠が小さいことから、極端に倍率が高い。
 三條はようやく立ち上がると、ふらついて壁により掛かり、茶化すように言った。

「へえ、頑張るねえ。それで……」
「神坂の進路なら知らねぇぞ」
「なんだ、そうかよ。役に立たねえなー」

 けらけらと笑って三條は言った。

「……お前、まさか同じ大学行く気か?」

 さすがに呆れて弘貴が言う。三條は頭を掻くと、曖昧に笑った。

「まあな。でも、あいつの事だから国立狙いだろ。だったら大抵の学科はあるし、あいつのことだからレベルも高いしな。別に困りゃしねえよ」

 なるほど、と弘貴は宙に息を吐いた。何も考えてないわけではないようだが、そうだとしても、相当な執着だ。

「……それよりお前、俺が神坂と仲良くすると、何か都合が悪いのか?」
「いや、それはまずないから安心しろ」

 どの辺りが「仲良く」なのかとは思ったが、とりあえず面白くない誤解なので即座に否定した。
 三條の事は別に嫌いではない。成績も運動神経もおまけに容姿にも恵まれて、僻みを感じないではなかったが、どこか憎めないのだ。
 晶に言わせると、そのすべてが鼻持ちならないらしいが。女心は解らないと弘貴は思う。
 どちらにしろ自分にはどうにも出来ないし、する気もない。頭を掻きながら彼は言った。

「俺も神坂には嫌われてるからな。こっちは多分、同族嫌悪ってヤツだと思うけど」
「神坂とお前が似てるって? 冗談よせよ、あいつはお前より絶対かわいい」
「……あのな……俺がかわいかったら恐ぇだろ……?」

 真面目な表情で断言する三條に、思わず顔を引きつらせて弘貴は言った。三條がそれを聞いて失笑した。

「とりあえず神坂を落としたいんなら、真剣さアピールしたほうがいいだろ。あいつ、かなり真面目だからな」
「あー……駄目なんだよな、それが。……こっちが真剣だと、あいつの逃げ場なくしちまうからさ」

 彼が不意に見せた苦笑は、なんだか、見てる方が恥ずかしくなるような表情と言葉で。
 彼女に見せてやりたいものだと、弘貴は思った。

「……よく見てるんだな」
「まあな。実は結構マジだから」
「とりあえず、甘く見とくのはやめとけ。女は急に変わるからな」
「? 妙に実感籠もってるな」

 茶化した三條の言葉に、弘貴は曖昧に笑った。母親を見ていればわかる。まあ、誰も彼もが彼女と同じである訳はないが。
 偏見だろうかと、彼は頭を掻いた。

 

     *

 

 階段を駆け降りたところで、呼吸が苦しくなって制服を掴んだ。
 校舎の脇にうずくまり、晶は泣きそうに唇を噛む。

(いやだ。何なのよ一体。私、何かあいつにした? なんでこんな事になるの?)

 頭が混乱して、ひたすらに思考が負の方向に向かった。

(あたしが、悪いの? どうしてほっといてくれないのよ? もう嫌だ……!)

 ぜいぜいと、肩で息をする。耳元で風が唸っているような気がした。
 追いついた真子が晶の様子に気付き、驚いて駆け寄った。

「晶ちゃん、どうしたの!?」

 平気だと言おうとしたが、まともに言葉が出ない。
 真子は泣きそうな顔で、晶の肩を支えようと、手を伸ばした。

「どうしよう……! ねえ、人呼んできた方がいい!? あ、でも、私じゃ……そうだ、杉野君呼んでくる!」

 慌てて引き返そうとした真子の袖を、晶は掴んだ。
 いや、掴めずに通り過ぎたが、それでも彼女を止めることはできる。

「晶ちゃん……!?」

 疑問の目で自分を見る真子に、肩を上下させながら首を振る。人を呼んでも意味はない。
 袋は持っていないが、少しすれば収まるだろう。心臓発作と違って、命には関わらない。

 一分ほどで発作は収まった。真子はどうにもできずオロオロしていたが、晶が落ち着いた様子に、ほっと息を吐いた。
 晶は壁に手をつくと、腰を上げた。
 少しふらついたが、ちゃんと立てた。汗で服が張り付いて気持ち悪い。
 ハンカチで顔を拭いながら、大丈夫かという真子の問いに頷いた。

「……晶ちゃん、どこか悪いの……?」
「え?」

 気遣わしげな真子の言葉に、晶は眉を寄せた。彼女も、発作の事は知っている筈なのだが。
 そういえば記憶喪失なんだっけ、と思いだして、晶は苦笑した。

「違うわよ、ただの過呼吸。死んだりしないから、心配しないで」
「うん……」

 暗い表情のまま、真子は頷いた。
 死ぬことはないとはいえ、発作はかなり苦しい。晶の辛そうな姿を見て、自分も落ち込んでいるのだろう。
 重い雰囲気を払拭するかのように、晶は宙に向かって語気を強くした。

「それより……あの馬鹿何考えてるのよ! 大ッ嫌い!」

 拳を振り上げて怒鳴った晶に、真子が吹き出した。

「そんなに嫌いなの? 悪い人じゃないと思うんだけどなぁ」
「そういう問題じゃないのよ! もう、生理的に完璧に嫌! 第一あんな奴、信用できないわ!」

 三條がまだいるであろう、二階の階段を睨み上げて叫ぶ。
 真子が慌てて晶を押さえた。

「あ、晶ちゃん、あんまり大声出すと……!」
「聞こえるように言ってるの」

 憤懣遣る方無い様子で、晶が真子をかえりみる。
 二人は顔を見合わせて、それから同時に吹き出した。