消えた行方と欠けた日常

 

 北校舎にその姿を見た瞬間、考えるより先に走り出していた。

 夏日に照らされた渡り廊下を駆け抜けて、鉄の扉を引き開ける。
 すれ違った少女に肩が触れた。小さく上がった悲鳴、音符の散った紙がコンクリートに広がる。

「悪い……!」

 反射で出た謝罪の言葉は、ひどく詰まって落ちた。拾わなければという思いが足を縫いつけたが、それよりもずっと強い衝動が、背中を張り飛ばす。
 四階の長い廊下を全力で走る。終業日の午後、どの教室にも人気はほとんどなく、彼女の姿もどこにもない。

 行き止まりに見える廊下を左に曲がり、東端の階段を転がるように駆け下りる。
 三階の廊下にも人はいない。二階は図書室で塞がっている。一階までたどり着いて、杉野弘貴すぎの ひろきはせわしなく周囲を見回した。

 上ずった呼吸音と、蝉の声、近くの国道から響く車の走行音、部活中の生徒の声。
 聞こえるのはそれだけで、見えるのは、陽炎を浅く作った中庭の光景だけだった。

 ――あまりに日常的なのに、どうしてこんなにも現実感がないのだろう。

 張り詰めていた感情が、ゆっくりと霧散していく。
 膝に手をついて、肩で息をした。
 部活を引退してまだ二ヶ月だ。弱小陸上部の部員らしく、たったそれだけの時間で、なけなしの取り得すら低下しているらしい。

(……馬鹿だ)

 苦く、彼は呟いた。

(いるはずがないだろ? 何やってんだよ)

 停滞した空気が、肌にまとわりつく。弘貴はトタンの日除けを仰いで、浅く息を吐き出した。
 ひび割れの隙間から、橙の混じった光が目を差す。空しさに似た気怠さを覚えながら、階段へ足を向けた。プリントはもう拾われてしまっただろうが、せめて謝らなければ。

 紙屋真子かみや まこがこの学校から姿を消して、二週間が経っていた。

 たった二週間だ。それなのに、ひどく遠い出来事のように思える。馬鹿馬鹿しい錯覚を見た自分に嫌気がした。
 ふと、顔を上げると、階段を下りてきた少女と目が合った。
 クラスメイトの神坂晶かんざか あきらだ。彼女はいかにも嫌そうな顔をして、肩掛け鞄の紐を握った。

「人にぶつかったら、その場で謝るべきだと思わないの?」

 見られていたらしい。
 相変わらずきつい物言いに、弘貴は自嘲気味の笑みを浮かべた。

「……そうなんだけどな」
「解ってるなら行動に移したらどうなのよ。思ってるだけじゃ無意味に近いわ」

 晶は苛立ちを見せて視線を外した。
 以前から友好的な関係ではなかったが、あれから、さらに面当てがひどくなった気がする。それが八つ当たりに近いことも知っていたが、非難する気にはなれなかった。

「神坂」

 脇を通り抜けた彼女を、振り返らずに呼び止める。

「……紙屋から、連絡は?」

 彼女は足を止めた。
 衝動に耐えるような、泣きそうな沈黙だった。

「ないわよ」

 絞り出された声と、遠ざかっていく足音に、弘貴は息を吐いた。
 教室に戻ると、がらんとした机の上に、自分の鞄だけが存在を主張していた。
 風にあおられたプリントが、掲示板でばさばさと音を立てる。
 以前なら、真子と晶がここにいた。弘貴は後から割り込んだのだが、それでも上手くいっていたと思う。何と言っても、真面目に勉強していたのだ。

 真子がいなくなって、晶は放課後の教室から姿を消すようになった。
 帰宅せずにどこで何をしているのかは知らない。教科準備室で教師に勉強を教わっているのかも知れないし、人のいないところで――弘貴のいない場所で、物思いに耽っているのかも知れない。おそらく前者だろうが。

 紙屋真子の転校は、そんなことがあるのかと思うほどに、前触れの一切ない出来事だった。勝手に思いを寄せていただけの自分ならともかく、親友である神坂晶ですら知らなかったほどの。それくらいに唐突で、青天の霹靂とはこういうものなのだと、どこか冷静な頭で思った気がする。

 両親の離婚。父親の再婚。真子は母親と暮らすため、新潟へ行くことになった――それらはすべて、後から聞いた噂話だ。
 彼女自身から聞かされた言葉など、何一つとして存在しない。

(何でなんだよ)

 どうして、彼女は何も告げることなく、別れの言葉すら残さずに、行ってしまったのだろう。
 彼女にとってはその程度の存在だったのだろうか。――そうではないと、自分自身については言い切れないのが悲しい。
 友人ですら、なかったというのか。

(……あいつらしくない)

 胸中に呟いて、勝手な言葉だと苦く思った。
 要するに自分の中には、他人に対する枠組みというものがあって、それに当てはまらないから「彼女らしくない」なんて言葉が出てくるのだろうと思う。
 目の前に投げ出された事実が受け入れたくない性質のもので、それを認めたくないから、せめて彼女の意思でないのではないかと疑いたくなっているのだ。

(馬鹿だ)

 もう何度も繰り返した呟きを、もう一度落とす。
 から回るような息苦しさだけが、喉に引っかかった。

 

 

 

 神坂晶は、自分を強い人間だと思っている。

 けれど彼女にまつわる要素を挙げていくと、どうしてもそれは否定されざるを得ない。外面からは確かに自尊心が高く、努力家で、それに比例するだけの成果を上げてはいる。
 ただ、高校に入ってから、「優秀な生徒」という言葉の上に、「厄介な」という形容詞が付随するようになった。口にはされないが、事実だと思う。それを否定できない自分が、悔しかった。

 晶は唇を噛んで、路面を踏みしめた。
 アスファルトの照り返しがひどくて、茹だる暑さに目眩がする。
 のろのろと腕を持ち上げて時計を見ると、四時半過ぎを差していた。とてもそうは思えない日差しだ。
 足元が地面を踏んでいる気がしない。晶は喉を押さえて、詰まったような呼吸を繰り返した。

「あ、神坂サン」

 不意に掛けられた声は、必要以上に軽薄に聞こえた。
 振り返らなくても相手がわかる。その事実に気分を害し、晶は歩みを早めた。

「うわ、ちょっとちょっと、待てって」

 自転車のペダルを漕いで、三條が彼女に追いつく。真面目な進学校には少ない、あからさまに脱色した髪が視界に入って、晶は怒鳴りたくなるのを押さえた。
 立ち止まらず、視線もくれずに、冷たく言葉を投げる。

「何か用?」
「うん、用。後ろ乗っていかない? これも運命っぽいしさ、送るよ」
「いらないわ。すぐ家だから」
「へえ、そうなんだ。どこ?」
「あんたに関係ないでしょ。ついてこないでよ」
「ひっでえ」

 気にした様子もなく、けらけらと三條が笑う。ひどく癇に障った。

「でもさ、紙屋サンが転校しちゃって淋しいだろ? だから極力構おうと思って」
「余計なお世話よ。誰が寂しいなんて……」
「あれ、冷たいねぇ。友達でしょ? あんなに仲良かったのに」

 晶の中で、何かが乾いた音を立てた。
 急に立ち止まった彼女の顔を、三條がきょとんとして覗き込む。
 叫びたかった。怒鳴りたかった。けれど、混乱した気持は結局表に出ず、痛いくらいに握りしめた拳だけが彼女に現実を突きつけた。

 ――彼女は、私を必要としてはいなかった。

「友達なんかじゃないわよ」

 三條が驚いたように自分を見る。
 不思議ではない。自分でも笑えるくらいに平静な声だったから。

「ついて来ないでよね」

 そう言い捨てて晶は鞄を抱えなおし、歩き出した。
 角を曲がり、三條の姿が見えなくなると、彼女は走り出していた。

 どうしてか解らない。何かから逃げたくて、ただ必死に走った。

 家に辿り着いて、乱暴に開けた扉をそのままの勢いで閉める。駆け込んできた姉を見て、妹の咲が驚いて言った。

「どうしたの、お姉ちゃん! そんなに慌てて……」

 晶は答えられなかった。玄関に入ったそのまま、胸元を掴んでへたり込む。目の前が白くなる気がした。引きつるように、ぜいぜいと肩で息をする。
 咲はハッとして、台所に急いだ。抽斗からビニール袋を引っぱり出し、玄関に駆け戻っる。
 晶はもつれる手で受け取ったそれを口に当て、激しく、たどたどしい呼吸を繰り返した。
 一分もそうしていただろうか。大分落ち着いた様子の姉に、咲が大丈夫かと訊く。目尻に涙を浮かばせたまま、晶は頷いた。

「最近、発作多くない? 何かあったの?」
「何でもないわよ」

 晶はそれだけ答えると、そのまま自室へ向かった。それを追うように、咲が言う。

「お姉ちゃん! 何でもないんだったら、家事手伝ってよね! 受験生だからって――」
「うるさい」
「なっ……お姉ちゃん!」

 それ以上取り合わずに、晶は音を立てて自室の扉を閉めた。「ずるいんだから!」と咲が毒づく声を、頭から閉め出す。
 自分が情けなかった。
 過呼吸は感情の不安定さから来る病気だ。命に関わることはないが、ビニール袋で二酸化炭素を再吸収するあの姿は、シンナーでも吸っているみたいで、みっともなくて嫌だ。
 情けなかった。何よりも、過呼吸を起こしてしまう自分自身が。
 よりにもよって自分が、どうしてこんな病気と付き合う羽目になってしまったのか――それも、もう随分長い間、引き起こしてはいなかったのに。
 考えるたびに悪い方向へと思いが這っていく。それが原因なのだとわかっていても、どうしようもない。止められない。
 真子の転校で、何が変わったわけでもない。
 ただ単調に過ごす毎日の中で、時折、苛立ちと息苦しさが込み上げてくる。その原因は、本当はきっと解っているのだ。

 鞄を机上に乗せた右手をそのまま固く握りしめて、机に押しつけた。
 溢れそうな感情を堪えるように、左拳で額を押さえる。

(……友達、だって)

 そう思っていた。少なくとも、自分は。
 言葉で確認することなど到底できやしなかったけれど、それでも。

(……関係ない)

 友達なんかじゃない。親友なんて言葉は大嫌いだ。傷つく理由なんてない。どうでもいい。
 否定する言葉を並べ立てても、本当は、自分が悪かったのではないかと思ってしまう。本当は真子は自分を嫌っていて、だから、こんなことになったのではないかと。
 彼女は何も言わなかった。悩んでいたはずなのに、一言も自分には告げてくれなかった。この街を去ることさえ。

 いくら待っても、真子からの連絡は来ない。
 こちらから直接問い質すのが怖くて、彼女の新しい住所を、電話番号を、調べることができなかった。
 なんて惨めで、滑稽な。

「ふ……っ」

 どうして、いつもこうなのだろう。
 漏れた嗚咽が妹に聞こえないように、ハンカチを押し付けて声を殺して泣いた。
 大声で喚きたかった。けれどそれはできなかった。ただひたすらに息苦しさを耐えて、彼女は、衝動が収まるのを待ち続けた。

 

 

 

 弘貴が通う塾は、駅前の雑居ビルの二、三階を占めている。
 生徒数は多い方で、国公立志望者の割合が高い。不景気の煽りを受けて上昇し続ける競争率を反映した、要するに、受験対策用の塾だ。
 時間はぎりぎりだった。時計を見ながら鞄を置くと、隣に座った少年が話しかけてきた。

「浮かない顔だな。順位落ちたのか?」
「別に」

 無愛想に答えて、弘貴はテキストを広げた。
 まだ講師が来るまで時間はあるが、相手にしたくない。
 不機嫌な返事を返した弘貴の態度を肯定と受け取って、少年は一人で話を進めた。

「大丈夫だって、安心しろよ。俺もひどいもんだぜ。なにせ、『4』が二つもついた」

 彼の学校は五段階評価である。にやついた笑みを見れば、彼がその成績に満足していることは推して知るべしだ。
 相手が期待しているのは、謙遜か賞賛の言葉だろう。理解はしていたが、そこまで付き合えるだけの余裕は弘貴にはない。過ぎた謙虚も自尊心も、結局は同じ種類のものだ。余分な体力がなければ実行できない。

「やっぱさあ、何ての? さすがに一夜漬けってのは辛いよな。いつも思うんだけどさ、どうも、面倒臭くて」

 いつもの適当な対応が苦痛になっていた。
 どうやら思っていたよりも、気持ちの面が弱っているらしい。

「第一、学校の勉強なんて、よく皆やってられるよな。俺なんか――」
「悪いけど」

 思った以上に苛立った声になり、弘貴はわずかに顔をしかめる。

「黙っててくれ」

 相手を見ずに告げたので、その言葉は殊更冷たく響いた。
 相手は、そのぞんざいな物言いに何か言おうとしたが、それを見計らったかのように講師が教室に入ってきた。
 忌々しげに舌打ちして、少年は視線を前に向ける。
 面倒事をまた増やしたと、弘貴は机を指で叩いた。感情を制御し切れない。こういうところが、子供だというのだ。
 講師はプリントを回して、黒板の前に戻った。喉をごほんと鳴らすと、教卓に両手をついて生徒を見回し、もったいぶった口調で話し出す。

「明後日から夏休みが始まりますね。皆さん色々と楽しみにしていることは多いでしょうが、受験生であるという自覚を、くれぐれも忘れないように。……手元のプリントを見て下さい。我が塾の、今夏の目標は――」

 ぼんやりとプリントに目を通すと、長引く予兆を見せる講師の話を聞き流しながら、弘貴は窓の外に目を遣った。
 再来年には世紀が変わる。やたらと聞くようになった「千年紀」のフレーズに対する感想は、だからなんだ、というのが正直なところだ。とりあえず目の前にあるのは、好きだった女の子に振られたらしいという現実と、大学受験というあまりに一般化されてしまった慣例行事だけである。
 受験生としての自分は、空しさは覚えないが必死にもなれない。まあ高い塾代を払っているのだから、目標として掲げられたものは越えなければ意味がない。思うのはその程度だ。
 敷かれたレールを疑問もなく受け取るのは馬鹿のすることだと、そう言われたことがある。確かに、そうなのかもしれない。特別な才能や思い入れのある目標は、存在しない。だけどだからといって、今こうしていることやぼんやり生きていくことを、否定されるいわれはないのだ。

(……流動的だ)

 胸中に呟いて、ようやく始まった勉学の取り組みに、弘貴は意識を移した。

 

     *

 

 塾が終わると、とっぷりと日が暮れていた。心配性な保護者の車が、ビルの前に列を作って生徒を待っている。
 弘貴はビルを出て、腕時計に目を落とした。九時を少し過ぎていた。残業の厳しい職場でなければ、帰宅しているだろう。
 携帯電話を引っ張り出して、彼は思わず呟いた。

「……あ」

 液晶画面は暗くなったまま、反応を見せない。そういえば、充電するのを忘れていた。
 プラスチックに包まれた情報端末も、こうなってしまっては何の役にも立たない。弘貴はそれを鞄の中に押し込んだ。
 まあいいかと、口の中で呟く。かけたことはなくても、液晶画面を睨んで考え込んだことは何度かあるので、紙屋家の番号は記憶している。引越し後も父親は家にいるはずだ。そろそろ仕事から帰宅しているだろう。

 駅前だというのにビルはほとんどがシャッターを下ろしていて、営業しているといったらコンビニとパチンコ店ぐらいだった。
 いわゆる歓楽街といったものは、中核都市より更に規模の小さいこの街にはない。もちろん風俗店そのものがない訳ではないが、どちらにしろ夜の街に人はまばらだ。

 交差点の角に公衆電話を見つけて、財布を引っ張り出した。適当に詰め込まれたカードを掻き分けると、予想外にテレホンカードが顔を見せる。
 それを差込口に押し込んで、弘貴は息を吐いた。

 明日からは、もう夏休みが始まる。すぐに学校の夏季補習が組まれてはいるが、ひとつの生活の区切りだ。少なくとも、受験に向かって時間配分が変化する。

 だから、決めていた。
 今日この日に、区切りを打つと。

(振られるんだろうけどさ)

 脈などないに決まっている。密かに抱いていた期待など、二週間も前に打ち砕かれた。
 とりあえず、言うことだけは決まっている。告白して、それから、神坂に連絡を取ってやれとお節介を言えばいい。自分のことはともかく、彼女が晶を大切に思っていたことは、疑っていないのだ。
 要は自己満足だ。そう思って、苦く笑った。
 番号を押すと、電話の呼び出し音が単調に聞こえた。随分と待たされて、弘貴は眉間に皺を寄せる。

 留守なのだろうか。もしかしたら、まだ仕事から帰っていないのかもしれない。
 なんだか気が抜けて、受話器を置いた。
 電子音とともにカードが戻ってくる。隣の自動販売機でジュースを買って、地面に張り付くような足を帰路に向けた。
 まだ七月だというのに、嫌になるほど気温が高い。今年の夏も、暑くなりそうだ。

 高架線沿いの道を歩きながら、プルタブを引く。母親に出くわさなければいいがとぼんやり思い、自然と、足早に駅前を離れた。

 弘貴がまだ物心もつかないうちに、母は水商売を始めた。あまりに若いうちから女手ひとつで生活していたのだ。考えずとも、経済状態は苦しかっただろう。
 けれど大して都会でもない、むしろ田舎とも言えるこの地域にそうした家庭は少ない。陰口を叩かれる事も少なくなかったし、それで母を責めた事もあったが――今は、半ば諦めていた。

 そう、諦めていたのだ。納得するのは難しくても、反抗するほどには疲れない。経験と時間に伴う成長はその結論を導き出すのに、十分な役目を果たした。
 少なくとも彼女は弘貴にとっては一応良き母で、出来る限り夕飯は作るし(朝は寝ているので適当だが)、行事には必ず参加してくれるし(無意味なまでに派手な格好でだが)、何かと気に掛けてくれる(遊ばれているような気がしないでもないが)。
 普通の家庭とは言い難いのかも知れないが、それでもこの年齢になって、弘貴は拒絶することも説得することもやめていた。

 進学を決めたのは、母のたっての希望だという事もある。
 昔からこつこつ積み立ててきた貯金が大学進学の費用であると聞かされては、反発する気にもなれない。

 サアッと音を立てて、夏の訪れた街を、冷ややかな夜風が駆け抜けていった。
 ふと、弘貴は立ち止まり、後ろを振り返った。

 何故かは解らない。もちろん背後に人影はなく、車のヘッドライトが慌ただしく走って行っただけだったのだが。
 何をやってるんだと、宙を仰いだ。
 小さくてまばらな星が、狭苦しそうに夜空で瞬いていた。

 

 

 

「紙屋さんの転校先? ああ、そうだなぁ……」

 担任の国語教諭は、困った顔を作って参考書を閉じた。
 夏季補習の一日目を終えると、弘貴は国語準備室に足を向けた。

 正直に言って古文は殆ど外国語だと思うのだが、志望校が揃って国公立なので、捨てるわけにもいかない。
 質問のついでに、ふと思い立って問い掛けると、先の歯切れの悪い回答が返ってきた。

「どうも……ちょっと、妙なんですよねぇ。書類だけ送ってくれとか、挨拶には来なくていいとか……期末で有耶無耶になってたなぁ、そういえば……」
「……いいんですか、それ」

 思わずうめいた弘貴に、老師は苦笑して頭を掻いた。
 随分いい加減だ。そろそろ危ないとは思っていたが、ボケの兆候ではなかろうか。

「じゃあ、紙屋とも会ってないんですか?」
「そうそう。なんでも、もう引っ越したとか何とか……向こうの学校に連絡しようと思ってたんですがねぇ。いや、気になってはいたんですけどね、すっかり忘れてたなあ」

 紙屋真子は、確かにあまり目立つ生徒ではなかったが、いくら何でもこれはないだろう。呆れて首裏に手をやり、弘貴は疑問を反芻した。
 唐突に休んで、連絡があったと思ったら既に転校していた。担任の知っている状況も、自分と似たようなものだ。
 親の離婚が絡んで、ごたごたしていたのかもしれないが――それにしても、随分思い切ったことをする。

「連絡先とか、わかったら教えて欲しいんですけど」
「はい? ああ、ええ……まあ、構いませんが。どうしたんですか、杉野君」

 隣で、聞くとはなしに聞いていた若い教師が、思わずといった様子で吹き出した。

「森中先生、野暮ですよ」
「はあ」

 さっぱり解っていない様子の担任と、やたらに楽しそうな女性教諭の深読みに、弘貴は苦笑いして国語準備室を後にした。
 ……できるなら、つつかないで欲しい。
 はあ、と大仰なため息を落とした弘貴は、顔を上げて、ふと訝しげな顔をした。
 色素の薄い短髪の少女が、廊下を足早に去っていくのが見えたのだ。

(……神坂?)

 聞かれていたのだと、反射的に察した。
 わざわざ立ち聞きに来たわけでもないだろう。用があったはずだ。
 だったらどうして、逃げるように背中を向けなければならない?
 角を曲がった彼女の背中を、弘貴は追いかけた。階段の途中で追いついて、声を掛ける。

「神坂」

 彼女は振り返らなかった。

「神坂、さっき聞いてたんだろ?」
「……何の話よ」

 淡々と晶は答えたが、なんだか、泣きそうに聞こえた。
 彼女の性格を現すように、背筋はぴんと伸びている。たまには丸めてもいいだろうにと、頭のどこかでそんなことを思った。
 お節介の計画を、少し変更したほうがよさそうだ。

「聞いてたんだろ。何かおかしい。多分、連絡が取れない事情が――」
「……あたしには関係ないわよ」
「じゃあ、紙屋がこういうこと、平気でする奴だと思ってるのか?」

 晶が唇を噛んで、うつむいた。

「とりあえず、電話だけしてみないか。迷惑だったらそう言うだろうし」
「……」
「決まりだな」

 気に入らなければ徹底的に反論してくる少女だ。黙っているならば、押し切ることは出来る。
 渋る晶を宥めて、一階の公衆電話に連れて行った。携帯電話の校内持込は、基本的に没収だ。卒業まで本気で返って来ない。普及率はうなぎのぼりだから、そのうち変えられるかもしれないが。
 今のところ、持ってきている人間は、クラスに数人辺りだ。少なくとも今一緒にいる少女はやたら生真面目なので、目の前で規則を破れば間違いなくうるさい。
 緑色の公衆電話にテレホンカードを入れると、晶が不機嫌に言った。

「……おじさん、仕事じゃないの?」

 弘貴は動じずに、プッシュ式のダイヤルを押しながら答える。

「さあ。でも、再婚相手がいるだろ」
「なっ……ちょっと杉野、あんた、その人に聞く気じゃ……!」

 呼び出し音が、耳障りな音を立てて途切れた。 
 呆れたように詰め寄る晶を右手で制して、弘貴は口を開く。

「もしもし、紙屋さんのお宅ですか? 真子さんのクラスメイトの、杉野ですけど……」

 中途半端な敬語で一気に言いかけた弘貴を、男の声が無感動に遮った。

『真子は……死にました』

 一瞬、何を言われたのか理解できなかった。

 死んだ?

 誰が?

 ――彼女が?

 極端に抑揚のない声が、思考を真っ白に塗りつぶす。どうしたのかと、晶が訝しげな目を向けた。

「ちょっ……ちょっと待って下さい! どういう――」

 我に返って、混乱した声を上げる。
 電話は既に切れていた。弘貴は舌打ちして、叩き付けるように受話器を戻す。
 心臓が転がり落ちるように早鐘を打った。耳元で割れる音に、自分の動揺を思い知らされる。

「杉野? 一体何なのよ」
「……紙屋が」

 呟きがひどく弱々しく聞こえ、弘貴は唇を噛んだ。
 感情がはっきりしない。ただ胸の奥で、苦しいほどの言葉が固まりになっていた。

「紙屋が……死んだって」

 晶は、ゆっくりと目を瞠った。引きつった笑みが端正な顔に浮かぶ。

「……嘘」

 弘貴は首を振った。
 昨日見た、彼女の姿を思い出す。あれは見間違いでなく、幽霊だったとでもいうのか。

(ふざけるな……!)

 信じられない。口の中でそう呟いて、自分の感情がそれに集約されたことに気付いた。
 けれど、どこかで納得できたような気もしていた。彼女らしくない行動が、すべて不可抗力のものであったなら。
 途方に暮れて視線をあげた弘貴は、目に入った光景にそのまま硬直した。

 白昼夢かと瞬きをしてみるが、変化はない。
 呆然としたまま、呟いた。

「……なあ、神坂」

 彼女は壁に背を押し付けたまま、何よ、とかすれた声で返した。

「俺、正気だよな……?」
「知らないわよ、そんなの……! だったら何!」
「……紙屋がそこ歩いてきてるように見えるんだけど」

 晶が顔をしかめ、視線を上向けた。

「あんた、ちょっと……」

 呆けたような弘貴の視線をたどり、彼女は同じように言葉を失った。
 凍りついたように動きを止めたのを見て、弘貴が問い掛ける。

「見える、のか?」

 校門から学校に入ってきた少女は、どう見ても紙屋真子だった。
 セミロングの黒い髪と、見知った顔立ちと、夏用の白いセーラー服。淡いライムグリーンのスカーフ。
 長袖ではあるが、それは晶と同じこの高校の制服で――最後に彼女を見た日と、同じ姿だ。

「あの……」

 日の当たる外から、校舎の中へ入ってきて、気後れしたように彼女は声を掛ける。
 弘貴よりも頭半分小さい。三週間ぶりに少し見下ろすその感覚は、以前とまるきり同じに思えた。
 晶が、震える声で問い掛けた。

「……真子……?」
「は、はい」

 冗談が過ぎる。
 晶は我に返ると、いまだ呆然としている弘貴の腹に、握った拳を裏手で叩き込んだ。

「ぐっ」
「よくも馬鹿な嘘ついてくれたわね……!」
「……いや、そんなこと、言われても……」

 まともに急所に入った。言葉を途切れさせながら反論した弘貴に、真子が戸惑ったように口を挟む。

「あ、あの……!」
「じゃあこれは何なのよ! 真子は生きてるでしょう!? ……あんなっ……馬鹿なこと……! ふざけないで!」

 泣き出しそうに、晶が声を詰まらせた。 
 怒るに怒れなくなった弘貴が、安堵の混じった息を吐き、困惑した様子の真子を見る。

「悪い、何でもないから」
「……あの」

 真子は表情を翳らせて、言いにくそうに視線を落とした。
 あまり見ない表情だ。首をかしげた弘貴に、彼女はもう一度視線を上げて、か細い声で言った。

「あの……ごめんなさい……」
「何謝ってるのよ?」
「……わたし……死んでる、から」

 その声はあまりに小さくて、ひどく強く胸に突き立った。 
 冷や水をかけられたように二人が真子を見る。
 真子は言葉を探すように、視線をさ迷わせながら両手を重ねた。

「あの……私、何だか、色んなこと思いだせなくて……どうしたらいいのかわからなくて、怖くて……あの、だから」

 弘貴は眉間に皺を寄せた。
 与えられる情報が多すぎて、どれもが行き違っていて、頭が混乱する。

「紙屋、お前……」
「……幽霊、みたいで、誰にも見えなくて……だから、その」

 ただでさえ小さかった声が、尻すぼみにかすれていく。
 目の前にいる少女が死んでいるとは、どうしても思えずに、弘貴が口を開いた。

「……本当なのか?」

 彼女は、弾かれたように弘貴を見た。どこか怯えたような目に、違和感を覚える。
 何か勘違いをさせたのかと、彼は言葉を変えて言いなおした。

「……本当に……幽霊なのか?」

 死んでいるのかと口にしようとして、どうしてもできなかった。
 ひとつうなずいて、真子が恐る恐る弘貴に手を伸ばす。
 弘貴が応えて差し出した利き手と、彼女の手が、触れることなく通り抜けた。
 息を呑む二人に、真子は痛々しげに表情を固くして、うつむいた。

「……覚えてないのか? 何も?」

 弘貴のかすれた言葉に、彼女はびくりと身をすくめる。

「……ごめんなさい……」
「謝らないで」

 低く呟いたのは、晶だった。

「ちがうの、そうじゃない。私っ……私が……謝らなきゃ……!」
「え……?」
「私、真子のこと信じてなかった。怒ってたのよ。……なんで何も言ってくれなかったのって、何も言ってくれないのって、何も知らないで……!」
「……そんな」
「ごめんなさい、本当に……信じられなくて……ごめん……!」

 しゃくり上げながら、晶は泣き出した。真子がおろおろして、助けを求めるように弘貴を見る。
 そのときだった。
 勢いよく、事務室の扉が開いたのは。

「あんた達、さっきから何を騒いで……、……あら」

 顔を覗かせた事務員が、訝しげに二人を見た。
 苦い表情を浮かべ、呆れたように言う。

「……お邪魔したみたいね」
「あ、え? ちょっ……」

 泣いている晶と、隣に立つ弘貴の姿。どうやらあらぬ誤解を受けたらしい。
 常なら心底嫌そうな顔をして反論するであろう晶は、今はそれどころではない。

 弘貴はため息を吐いて、とりあえず教室へ上がることを二人に提案した。

 

     *

 

 味気ない色合いのカーテンが、生ぬるい風にはためいていた。
 弘貴はカーテンを止め、ようやく落ち着いた様子の晶をかえり見た。
 四階の教室まで上っている間に、昂ぶった気持ちも大分静まったようだ。ハンカチで赤くなった目を押さえながら、彼女はため息を吐いた。

「……ごめん、取り乱して。らしくないわよね」
「……そんなこと」

 真子は首を振った。
 下手につつかないほうがいいだろう。弘貴は小さく肩をすくめ、声をかけた。

「それで、紙屋。改めて自己紹介するな。俺は杉野弘貴。お前と同じ高三で……クラスメイトだった」

 他に、自分と彼女の関係を表わす言葉が見当たらなかった。どうにも、見知った人間に自己紹介をすること自体が、奇妙で居たたまれない。
 晶も弘貴に倣い、一つ息を吐いて、口を開いた。

「神坂晶よ。あんたは晶ちゃんって呼んでたけど……そうだ、敬語はやめてよね。……友達でしょ?」

 自分からこの単語を使うのは初めてだった。もちろん、真子はそんな事を覚えてはいないのだろうが、ひどく緊張する。
 真子が微笑んで頷いたので、晶はほっとしてため息をついた。

「で。自己紹介が終わったとこで……どうする?」

 弘貴の言葉に、二人が顔を見合わせた。

「いや、だから。幽霊云々で考えると、何か理由があるもんなんだろ? 心残りとか、そういう」
「……うん……」

 曖昧に、真子は頷いた。迷いながら、小さな声で言う。

「……私、殺されたの」

 驚愕の表情で、二人は真子を見た。
 にわかに信じられる話ではない。

「私だけじゃない……お母さんも、……妹も……」
「本気かよ……」

 かぶりを振った弘貴は、何かに気付いたように真子を見た。

「紙屋、まさかそれ……親父さんが……」
「……何馬鹿なこと言ってるのよ!」

 晶が打たれたように、弘貴を見た。けれど、当人である真子から返ってきたのは――肯定としか取ることの出来ない、沈黙だった。
 弘貴は椅子を引くと、倒れ込むように座った。
 電話をかけたのは平日の四時二十分。普通なら、父親が家にいる筈のない時間だ。
 感情のない声で真子が死んだと告げた相手の様子には、今思えばあまりにも抑揚がなかった。

「……本当なの?」

 晶が、震える声で聞いた。

「……お父さんのせいじゃないの」
「本当なのね」

 唸るように、晶は言葉を叩きつけた。
 これほどまでに感情的な彼女は初めて見る。そのせいか、弘貴は自分で違和感を覚えるほどに、平静にそれを見ていた。
 自分が、父親というものを知らないからかも知れない。頭に浮かんだその解答に、舌打ちを堪える。

「……親父さんのせいじゃないなら、何のせいなんだ?」

 口を挟んだ弘貴に、真子は戸惑いの気配を見せた。晶も訝しげな顔をして真子を見る。
 彼らの拝聴の姿勢に、真子は躊躇いがちに、信じてくれるかと聞いた。
 二人は頷いた。幽霊の台詞なのだ。今更、多少常軌を逸した事を告げられても、大した問題には思えない。

「私のお父さん、再婚したの」
「知ってる」
「それで……」

 言いにくそうにして、彼女はうつむいた。

「その、相手の人が……、……蛇女なの」

 

 怯えるような真子の告白は、あまりに非現実的で、二人の目を剥くには十分な内容だった。

 

 

 

 なんだか妙に疲れた気分で、弘貴はマンションの扉を開けた。

 夏の陽はまだ沈んでいなかったが、この時刻なら母はもう仕事に出ている。ただいまと儀礼的に口にして、靴を脱いだ。
 帰ってきた家に、誰もいないことにはもう慣れた。むしろ、仕事に行く母親に会いたくないから、いつもわざわざ時間を潰して遅く帰ってきているのだ。母親もそれを知ってか、出来るだけ早く家を出るようにしていた。
 鞄をソファーの足元に投げると、いつもよりも随分重い音がした。
 まあ当たり前だ。弘貴はため息をついて、鞄を掛けていた肩を回した。

 あれから晶は、「敵を倒すには敵を知るべし」などとのたまって、二人を強制的に図書館へ連行したのだ。
 資料をあさって基本知識を収集するという、非常に理論的な行動ではあるのだが――如何せん、前提が前提であるだけに、何かが違うような気がしてならない。

『ともかく、こうしましょう。私も杉野も補習があるから、暇を見て各自で調べて、昼食時に情報交換。いいわね?』

 すっかり場を取り仕切った晶の言葉は、確かに理屈が通っているような気がするのだが、なぜだろう、釈然としない。

(だってなあ……。幽霊だろ? しかも蛇女?)

 ああ、そういえば今は例の大予言とやらの該当年月だ。恐怖の大魔王が核戦争だの宇宙人だのではなく蛇女だったという落ちなら、なかなかシュールかもしれない。
 ぼんやりと考えて、弘貴はテーブルに視線を投げた。メモを挟んだコアラのマスコットが、几帳面なたたずまいでそこにある。

 「おかえり。ご飯はちゃんと食べてね」と、いつも通りの文句が書いてあった。
 毎度の事ながら、律儀だと思う。外見からはとてもそう見えないのに。
 冷蔵庫を覗くと、ラップの掛けられた野菜炒めと鯖の煮付けが顔を見せる。鯖の皿を電子レンジに入れ、弘貴はぐったりとソファーに寝転がった。

 彼の母親は、未婚で彼を出産した。実家とは絶縁状態だ。父の顔は写真で知っているが、記憶の限りで会ったことは一度もない。事情は聞いたことがないのでさっぱり解らないが、最近では、解る必要もないと思っている。
 自分にとって、父親は存在しないものだ。それで別に構わない。

(にしても……今日はもう、何がなんだか……)

 今日一日を振り返ってみると、転校した好きな子の家に成り行きから電話を掛けたら、彼女が死んだと聞かされて、ショックを受けていたらそこに本人の幽霊が出てきて、それで言うことには蛇女のせいで殺された、とくる。
 しかもいつのまにか、妖怪退治部隊に組み込まれているし。大して長くもない人生において、これだけ奇妙な一日があっただろうか。

(……色々ありすぎだよな)

 実のところ、弘貴としては半信半疑だった。
 真子が幽霊であることは納得した。それ自体が彼自身の常識をひっくり返すようなことだったが、さらに重要な問題は、真子の話だ。
 父親の再婚相手が蛇女で、それに操られた父親に殺されたというのだから、真正面から考えてこれを素直に信じるほうが難しい。
 好きな女の言葉だ、勿論信じたいに決まっている。それでも、現実主義者だと思っていた晶が、あっさりと真子の話を受け入れてしまった事が――かえって、疑念を抱かせた。

(……いや、違うか。本気で現実主義なのか)

 要するに、目の前にあるものを現実として認識して、受け入れているわけだ。現実主義者であることに変わりはないのかもしれない。

(どっちにしろ、順応が早いっつーか……意外だよな)

 どうも、彼女は親友の敵討ちに燃えているように思えてならない。
 弘貴も真子が殺されたことには怒りを感じたし、真相をはっきりさせたいとは思う。それでも、事件の原因が化け物だという結論にはなかなか素直に行きつけなかった。そうは思いたくないが、真子の空想という可能性も否定できないのだ。
 父が母を捨てた原因となると、紙屋冴華の存在を恨んでも仕方ない。そう理屈では通るが、実際に真子が死んでいるのだから決めつけるのも難だろう。
 弘貴はまた、ため息を吐いた。考えれば考えるほど違和感ばかりが残る。
 事件の経過がよくわからないし、真子の記憶喪失というものも理解に苦しむ。名前は奇妙に耳覚えのある言葉だが、症例までは知らない。
 覚えていることと覚えていないことを分ける理論がわからない。時間なのか、事象なのか。計算して出るものでもないだろうから、そんなことを考えること自体がおかしいのかもしれないが。

 放っておけば延々と続きそうな思考を、電子レンジの高い音が遮った。
 弘貴は、気怠げに起き上がる。
 今日はあまりにも多くの情報を、それも矢継ぎ早に押しつけられた訳だから、きちんと整理出来ていなくても仕方がない。

 真子と一緒に居られるのは、正直素直に嬉しかった。
 たとえそれが幽霊でも、突然いなくなられるよりはずっといい。散々頭の中で理屈を捏ねた挙げ句、強引にそう結論づける。
 ふと窓の外を見て、眉間に皺を寄せた。
 空が黒い。月も星もない真っ暗な闇が、ただ、ぽっかりと広がっている。時計に目を移すと、まだ七時前だった。
 弘貴は首を傾げた。夏の宵はいつも、もっと明るい筈だ。
 訝しがりながら、電子レンジを開けて皿を出そうとした彼の腕を――不意に、誰かが掴んだ。

「……うわっ!?」

 ぎょっとして自分の右手を見ると、青白い指が食い込んでいる。
 それは、電子レンジの奥から伸びていた
 弘貴は悲鳴を上げて、その腕を振り払った。
 鯖の皿が床に落ち、けたたましい音を上げて割れる。煮汁が飛び散り、床を汚した。

 肩で大きく息をしながら後退し、電子レンジを睨んだ。
 そこには、何も存在しない。
 錯覚とは思えなかった。心臓が早鐘を打っている。顔が引きつっているのが、はっきりとわかった。

(見間違いか?……いや、そんな訳……)

 突然、部屋の中に低い笑い声が響いた。
 ぎくりと身を竦ませて、弘貴は周囲を窺う。
 ずるり、と、何かを引き摺るような音に、電子レンジを見た。
 青白い手が、四角い箱の闇から伸びてくる。
 彼は悲鳴を飲み込み、テーブルの端を後ろ手に強く握りしめた。
 手はさ迷うように動いて、枠を掴み、体を出そうとするように力を入れる。
 ずるり、と音を伴って、黒い塊が、電子レンジの奥から覗いた。

 それは、人の頭だった。

 弘貴が動けずにいると、乱れた髪の隙間から、血走った目が彼を捉えた。
 凄惨に、その目が笑む。

「――!」

 悲鳴をあげた気がした。
 けれどその声は耳には届かず、代わりに、鳩時計が大声で七時を告げた。

「……え……?」

 弘貴は呆然と、眼前にある、自分が手を掛けたままの電子レンジを見た。
 自分が立っている場所が、一瞬前と違う。

「杉野君!」
「うわっ!」

 眉を顰めたその瞬間に名前を呼ばれて、弘貴は驚きに振り返った。
 そしてそこにいた真子の姿に、口を手で塞ぐ。その様子を見て、真子が慌てながら弁明した。

「え、えっと、あの……ごめんね、その……ええと、これ、忘れ物」
「え? あ」

 差し出されたペンケースに、弘貴は思わず、投げ出したままの鞄を見る。

「チャイム押そうと思ったんだけど、押せなくて……驚かせちゃったよね、ごめんなさい」
「あ、いや、こっちこそ」

 幽霊なのだから土地権も国境も関係ないんじゃないかと思いながら、弘貴は首を振った。

「悪い。ちょっとぼーっとしててさ」
「ううん。玄関から声掛けてたんだけどね、返事がなかったから、勝手に上がっちゃったの。ごめんね」
「え……本当に?」

 聞こえなかった。そんなに広い家ではないし騒がしくもないから、普通の声でも十分耳に届くはずなのだが。

(変だな……)

 訝しがりながら、ともかく落としてしまった皿を片づけなければと床を見る。
 そして、目を瞠った。

「……え?」

 そこには、予想していた惨状はなかった。
 慌てて電子レンジを開けると、皿に乗った鯖が冷めかけている。
 混乱して、弘貴は呟いた。

「……どうなってんだ……?」
「どうしたの?」
「……いや、ちょっと白昼夢……って、今、もう夜だよな」

 曖昧に笑って窓の外に視線をやると、陽の落ちた空は青紫の深浅を描いていた。
 夢にしてはリアルだった。もしやと思って右手を見るが、お決まりの手跡はついていない。
 ため息を吐いて、弘貴は不思議そうにしている真子を見た。

「何でもない。それより、悪いな。わざわざ」
「あ、ううん」

 筆箱のことを言っているのだろうと、真子が首を振った。 
 そうしてふと時計を見て、悲鳴をあげる。

「ああ!」
「は?」
「あの、ごめん、杉野君……お願いがあるんだけど」
「なんだよ?」
「ドラマ、見ていってもいい? もう始まっちゃうの」

 なんだかものすごく意外な気がして、弘貴は真子を見返した。

「あ、まあ……いいけど」
「ありがとう」

 ぱっと見せた笑顔は、いつもよりもなんだか幼い気がした。珍しいものを見たと思いながら、弘貴はテレビの電源を入れる。

「適当に変えていいから」

 番組名を聞いてもわからないだろうと思ったので、リモコンを渡した。

「何か飲むか?」
「ううん、幽霊だもん」
「……そっか」

 あっさりとした返答に、弘貴はため息を飲んだ。
 普通なら女の子を家に上げるなんてとんでもないが、本人も言うように相手は幽霊だ。妙な気が起きても実践段階でつまずくだろう。
 彼女に椅子を勧めてから、野菜炒めをレンジで温めた。今度は手を掴まれることはなく、心底ほっとする。
 冷蔵庫から冷や奴を出して、水を切ってから机に並べ、ご飯をよそって麦茶を注いで、準備は完了だ。

「いただきます」
「あ、どうぞ」

 弘貴が合掌すると、反射的に真子が頭を下げた。その様子が可笑しくて、思わず吹き出す。

「そ、そりゃ変だろ、紙屋……」

 いかにも可笑しそうに肩を震わせると、真子が拗ねて頬を膨らませた。

(……あれ?)

 かわいいな、と思ってから、見慣れない表情だということに気付く。
 心を開いた故の変化だろうか。そう思うと、部分的な彼女の記憶喪失に感謝したくなった。記憶がないということで、また振り出しに戻るのかと危惧していたのだが、思いのほか早く打ち解けてくれたようだ。

 彼女が見たがったドラマはよくあるラブストーリーで、街で偶然出逢った男女が、再会して恋に落ちるというものだった。
 コマーシャルに移った頃、弘貴はふと口を開いた。

「なあ、紙屋。ひとつ聞きたいんだけど」
「うん」
「お前、どうしたいんだ?」

 真子がきょとんとして弘貴を見た。

「神坂が怒るから、聞けなかったんだけどさ。……あいつが言うように、仇を討ちたいのか? それとも、成仏したいからなのか?」

 真子はしばらく考えていたが、やがてぽつりと言った。

「いつまでかは、わからないけど……。晶ちゃんと、杉野君と、もうちょっとこうしてたいな……」

 下に落とした視線が、何だかあまりに申し訳なさそうで、淋しそうで。
 彼女が死んでしまったのだと言うことを、実感させられた。

「……そうだな」

 弘貴はそう呟いて、胸中の感情をごまかすように、冷や奴をかき込んだ。

 

 

 

 神坂晶が紙屋真子と親しくなったのは、状況が大きく作用していた。

 二年になると、文系と理系にクラスが分けられる。理系クラスは七つのうちの二つという割合で、こと女子生徒になると、四十人のうちの十人足らずといったところだ。後は出席番号の関係もあるが、神坂晶という少女の性格からして、それらはすべて付属に過ぎなかった。

 好き嫌いが明確に分かれた晶にとって、真子と友人であった一番の要因は、要するに彼女のことが好きだったという、それだけなのだろう。

 特に何か、大きな事件があったわけではない。それでも敢えて何かを挙げるなら、去年の秋のことを思い出す。

 あの日、晶はひどく落ち込んでいた。特に辛い事があった訳ではない。ただここのところ、模試での時間配分を間違えたり(結局最後まで解けなかった)、母親に誕生日を忘れられたり(プレゼントを奮発して貰ったが)、級友が自分の悪口を言っているところに出くわしたり(トイレから出て冷笑してやったが)、などと、特に口にするでもなく、気分が沈んでしまったのだ。
 どんよりした空気を背負ったまま、やはり放課後の教室で、晶はぼうっとして時間を過ごしていた。家に帰れば、また妹が煩い。

 どれくらいそうしていただろうか。
 物音がして視線をやると、いつの間に入ってきたのか、真子が前の席の椅子を引いた。

「……何か用?」

 目を向けずに聞くと、真子は椅子を晶の机に向けて座った。

「さあ、忘れた」

 真子はそう言って、少し笑った。
 吹き込んでくる風が心地良い。晶は嘆息して頬杖をつくと、窓の外に視線をやった。
 それ以上の会話はなかった。何があったのか真子は聞かなかったし、晶も言わなかった。
 何かあったのかと聞かれても、答えようがない。何もなかったとしか言えないだろう。
 ただぼうっと外を見ている晶の隣で、真子は同じように似たものを見ていた。

 放って置いてくれればいいのにと、ため息をつくように晶は思った。どこかに行ってくれればいいのにと。それでも自分から何かを言ったり、ここを動いたりはしなかったのは、本当は――寂しかったからかも知れない。
 しばらくそうしていると、何となくほっとして泣きたくなった。何でもないのに泣くなんて馬鹿みたいに思えたからそれはいやで、唇を噛んで目を伏せると何とか我慢できた。
 誰かが傍にいてくれることを、こんなに嬉しいと思ったことはなかった。

 その日、陽も暮れた頃になって、晶が帰ろうかと言い出すまで、二人は一言も交わさずに同じ時間を共有していた。

 真子は、そんな子だった。
 何を考えているのか解らないところもあったけれど、少しと言わず変わった子だったけれど……そんな彼女が好きだったのだと、今更ながら、思う。

 

     *

 

 眠気に引かれていたらしい。
 つけたままのヘッドホンは沈黙していて、読みかけていた本が手元に転がっていた。
 ベッドの上で寝返りを打って、晶は目覚まし時計を見た。時刻は九時前。

「遅い……」

 誰にとはなしに、呟いた。
 真子が急に外出してくると言いだしたのが帰宅した直後だったから、あれからもう二時間以上経っている。
 何かあったのでなければいいがと思い、自分はこんなに心配性だっただろうかと苦笑した。

「お姉ちゃん、今日お母さん遅いって! お風呂入っちゃってよ、洗濯機回すから!」

 ドアを叩いて咲が言った。

「わかってる」

 思わず大声で言い返すと、咲は姉に聞こえるように、わざとらしいため息を吐いた。
 二人の両親は共働きだが、母の方が忙しい。よくは知らないが女だてらに重要なポストにいるらしく、家事に専従することの出来ない人だった。
 父は普通の会社員だが、男親に家でのまともな働きを期待するのは辛い。自然、娘二人にその役目は回ってくるのだが――ここのところ、晶は受験生であることと過呼吸を口実に、そのすべてを二つ下の妹に任せていた。

 そう言えばまだ聞こえは良いが、要するに押しつけているのだ。一応は自覚はあるものの、本当に疲れている時や調子の悪い時に煩くされると、相手を労る気持がどこかへ消えてしまう。
 晶はMDコンポの電源を落とすと、本を机の上に置き、入浴の支度を始めた。
 眠る前に読んでいたのは、蛇婿入りの異類婚姻譚で、苧環型の話だ。
 この種類は大体二つに分類される。神話や伝説では神聖視され、昔話では蛇との婚姻は忌避される。晶が読んだのは、後者の変形型だった。

 良家の娘に若い男が通ってきていたが、母親に命じられた娘が帰っていく男の着物に糸を通した針を刺す。翌日父親を始めとする村人がその糸を追っていくと、男の正体が山中の穴蔵にいる蛇であるという事が解る。どうやら服も本体の一部だったらしく、蛇は針を刺されたことで既に瀕死で、父親は蛇とその親蛇の話を立ち聞きして娘の腹に宿る子の堕し方を知るのだ。
 この物語で気になったのは、後半になって娘の感情がほとんど出てこない事だった。
 恋人の正体を知って、娘はどうしたのだろうと晶は思う。騙されたことに憤っただろうか、人外の者と契ったことに畏れを感じただろうか、それとも、それでもなお、男を想っただろうか。もしそうなら、彼女は恋人を殺した父を憎んだのだろうか。子供を堕すことを拒んだだろうか。
 晶には、解らなかった。
 人を愛するとは、どういうものなのだろう。普通に口にするには、彼女の年代には気恥ずかしい。嘘臭さすら覚えてしまう。
 本当に愛するとは、一体何なのだろう。相手が何者であっても変わらないものか、それともすぐに心変わりしてしまうものか。
 湯船に浸かりながら、晶は胸中に呟いた。

(……後者だと思うけどね……)

 人を好きになった事がない訳ではない。けれど、恋と愛とは違うものだろう。
 それはどんな感情なのだろう? 好きという言葉の単なる上位だろうか。両親を見ると、特に母はお互いよりも仕事を大切にしているように見える。
 仕事と愛情。その間に不等号を入れるとしたらどちらか。

(……だめだわ。いいや、もう。考えるのやめよう……)

 晶は膝を抱えて目を閉じると、ため息をこぼした。
 不意に、ぽちゃりと水飛沫を上げて、膝に何かが落ちてきた。
 虫かと思って小さく悲鳴を上げ、晶はそれを手で払う。

 湯の中でうごめいたのは――手のひらほどの、小さな蛇だった。

 晶は悲鳴を上げて湯から上がった。外に出ようとして引き戸を掴むが、石のように固まったそれは横に滑ってくれない。

「っ……どうして!」

 泣きそうになりながら、父を呼ぼうとしたときだった。
 ぞろりと、何かが蠕動する気配に、晶は肩を震わせた。

(何……!?)

 ――何かがいる。それも、多数の。
 体が総毛立っているのが解った。
 振り返るべきではない。振り返りたくない。晶は口の中でそう唱えながら、必死に引き戸を動かそうとした。

 ぼと、と。
 何かが左の肩に落ちてきた。

 悲鳴を上げてそれを振り払い、後ろを顧みてしまった晶は、目の当たりにした光景に愕然とした。
 無数の蛇が、風呂場を埋め尽くしていた。
 天井に張り付いたもの、床を覆うもの、浴槽を満たすもの。それらのすべてが、示し合わせたように晶に向かって頸を擡げ、赤い舌を覗かせる。

「い……いやあああああああッ!」

 喉の空気を震わせて、晶は悲鳴を上げた。
 その時、誰かが晶の肩を掴んだ。
 そのまま、乱暴に揺さぶられる。

「お姉ちゃん、起きて! お風呂で寝たら溺れるよ!」
「……え……」

 気がつくと、自分はまだ湯船に浸かっている。
 呆然として、晶は自分を現実に引き戻したその手と声の主を見た。

「さ、き?」
「まったく……何回呼んでも返事ないんだもん。見てみたら、やっぱり寝てるし。風邪ひくよ!」

 咲はそう言って、手にしていた新しい石鹸を置くと、怒りながら浴室を出ていった。

「……寝てた……?」

 それ以外には考えられない。リアルすぎる夢だと晶は思った。
 ようやくこみ上げてきた震えに泣きそうになりながら、膝を掻き抱いて顎を乗せる。生温かった。

 肩と膝の上に落ちてきた蛇の感触だけが、やけに生々しく残っていた。