Double-booking / tiara /

7.

 エレベーターに駆け込んだミタは、歪む視界の中で一階のボタンを押し込んだ。
 静かな機械音が響き始めるのとほとんど同時に、ぼろっと涙がこぼれた。

「ミタさん……」

 ベアトリスが困惑気味に名前を呼んだので、あわてて目を拭った。
 それでも一度あふれ出したものは簡単に止まってくれない。悲しみからくるのではない涙をぼろぼろとこぼしながら、ミタは大きくしゃくりあげた。

「ごめ、なさい……ちょっと、なんか、も……」

 優しい手が、いたわるようにミタの腕に触れた。それに勇気付けられるように一度唇を噛み締め、もやもやする気持ちを一気に吐き出した。

「わたし本当に頭よくないんです。だから難しいこととかわかりません。……だけど、姫様の代わりなんていないんです。姫様以外の姫様なんて、そんなの、いらな……っ」
「ミタさん、でも……」

 ベアトリスが目を伏せる。悲しげな否定の声に、ミタは必死で首を振った。

「誇りに思うって、きっとこういうことだと思うんです。だから、姫様はわたしたちの姫様でないとだめなんです。誰がなんて言おうと、ぜったい駄目です……!」

 いつの間にか、ベアトリスの手を握り締めていた。 
 ――こんなに、何かを望んだことはなかった。絶対に譲りたくないと思った。失うなんて認められなかった。諦めるなんて考えられなかった。
 お母さんに泣きついてる子供みたいだと思って、もしかしたらその通りなのかもしれないと思う。
 この人がいたから、自分を肯定したいと思えた。自分にも出来ることがあるんだと思えた。否定なんてしたくない。させたくない。誰にも、たとえ彼女自身にだって。
 ようやく涙の止まった目をごしごしとこすり、ミタは真っ赤になった目で、まっすぐにベアトリスを見つめた。

「わたし、知ってます。いつだって……姫様は誰よりも、『姫様』だった。姫様だって、そう思ってるはずです」

 ベアトリスが目を見張る。
 濃茶の瞳が一瞬だけ、泣き出しそうに揺れた。
 それはすぐに固い意志に塗り替えられる。
 姫様、と呼びかけたミタの背後に手を伸ばし、階数ボタンを押す。ぎりぎりに三階で止まったエレベーターから、ベアトリスはミタを連れ出した。

「ひ、姫様?」

 ミタは目を瞬かせるが、細い背中は振り返らない。
 かわりに、苦笑じみた声が返ってきた。

「……ごめんなさい」
「え?」
「わたくしは、ずっと、あなたの代わりになることは――本物になることはできないと、思い続けていました」
「そんなこと……っ!」

 思わず口をはさんだミタに、ベアトリスが腕を引きながら、くすりと笑った。
 悲しむように、まるで、懐かしむように。

「ごめんなさい。だけど、そう……本物にはなれないけれど、民に恥じない『姫君』になろうと思ってここまできたのだということを、思い出しましたわ」

 ミタが、ぱっと表情を明るくする。
 やがて室内庭園に出た。弦楽器のどこか物悲しい旋律が、照明に照らし上げられた植物の間を漂う。

「姫様、あの――」
「ミタさん」

 ベアトリスが立ち止まり、ミタを振り返った。
 暗がりに浮かび上がるその姿は凛として、まるで一枚の絵のようだとミタはうっとりする。

「イシュメル王子は……健康に問題が?」
「えっ」

 予想外の質問に目をみはり、あわててうなずいた。

「あ、ええと……半分ハッタリだったんで、確信は、なかったんですけど……」

 ミタは言葉を濁す。
 あの王子の反応を見るに、おそらく、大当たりだったのだろう。

「手首の脈は速かったのに、大腿部の脈がほとんど感じられなかったんです。……多分、縮窄症だと……」
「縮窄症?」
「心臓の血管の一部が細くなってる、先天性の疾患です。単純性のものなら日常生活にそこまで支障はありませんし、小さいうちに手術すれば、ほとんど問題にはならないんですけど……」

 そう、どうして今まで放ってあるのだろう。
 医者としての心配が胸に湧き上がって、ミタはあわてて首を振る。
 そこでふと、ベアトリスが難しい顔をしているのに気づいた。促されて、再び足早に歩き出す。

「わたくしがエレベーターを降りたのは、おそらく待ち伏せされていると思ったからです。……こうなると、杞憂ではなさそうですわね」
「え、ええっ?」
「おそらく、手術は受けられなかったのではなく、受けなかったのでしょう。王族の健康問題は、そのまま継承争いに関わってきますから……病が露見することを恐れたとしても、不思議はありませんわ」
「ま、まさか、そんなことで……下手したら命に関わるんですよ!?」
「『そんなこと』ではありませんのよ。王室の宿命ですわね」

 苦笑で返し、ベアトリスは目を伏せた。

「あなたのことも、そうです。あなたが隠された理由も、そしておそらく……王子があなたにこだわる理由も」
「え……」

 目を瞬かせたミタに、ベアトリスはひとつ息を吐いてかぶりを振る。

「グラントーレがこれまで本格的な侵略に走らなかったのは、治水に国力を裂いているためです。ハルシアと違い、グラントーレの大河は規模がちがいますから。……婚約自体は姫君がお生まれになる前から決められていましたから、ハルシアとしては姫君が真に《水の姫》だったことが誤算だったのでしょう」
「え? ……あの、みんなそうってわけじゃないんですか?」
「ええ。実際に水を治めることができる姫は、歴史上でもほんのわずかな例です。そうと分かったときには手遅れでしたね」
「……ええと、あの、分かったときに断ればよかったんじゃないですか?」

 ミタの素朴な疑問に、ベアトリスは苦笑で応じた。

「ええ、それがもっとも賢い選択でした。……けれど、王室はそれを選ばなかった。既に約定があったことはもちろんですが、グラントーレとの繋がりを求めたためです」

 それが政治なのかどうか、ミタにはわからなかった。
 けれど、苦しげに目を伏せるベアトリスは、その判断を認めることができないでいるのだろう。

「いずれにせよ、ハルシアは《水の姫》を渡すわけにはいかなかった。これがひとつ……。
 そして、王子の側の理由です。イシュメル王子は正室のお子ですが、長子ではありません。王には側室との間に第一王子がおいでです。継承権はイシュメル王子が上ですけれど、血脈で立場を補強なさりたいのでしょう。ハルシアの王家は、古くは白湖七国の――」
「あ、あの、すみません……なに仰ってるか、全然わかってません……」

 おずおずと挙手したミタに小首をかしげ、ごめんなさい、とベアトリスは眉尻を下げた。

「つまり……イシュメル王子が王位につくには、あなたの『血』と結婚することが大きなポイントなんです」
「う……すっごい失礼な話ですよね、それ……」
「失礼、だけですめばいいのですけれど……最悪の場合、二人一緒に消されかねませんわ」

 ミタはぎょっとしてベアトリスを見た。

「え、えええ!? け、消すって、そんな、一体なんでですかっ!?」
「それは……」

 ベアトリスが答えにくそうに言葉を濁す。
 それに取って代わったのは、切り付けるような冷たい声だった。

「知ってはならないことを知ったためですよ。姫君」

 行く手を塞がれ、ミタは危ういところで悲鳴を飲み込んだ。気づけば後ろにも黒服が立っている。
 硬直したミタを庇うように、ベアトリスがイシュメル王子の前に進み出た。

「……随分と物騒なことをお考えですわね。紳士の振る舞いとは思えませんわ」
「最大限に譲歩しているつもりだがね。まだ指一本も触れていないだろう?」

 王子は冷然と言った。端正な顔立ちが獰猛な表情を浮かべる。それだけで、ミタの背中はぞっと粟立った。
 いつの間にか音楽は止まっていた。人のざわめきも聞こえない。完全に人払いを済ませているのだろう。
 王子が手を上げると同時、黒服がベアトリスに銃口を向けた。
 蒼白になるミタに、囁くような低い声で、王子が言った。

「さて――ひとつ、取引をしようじゃないか」
「と……取引?」

 にこり、とイシュメル王子は微笑んだ。

「そう。僕としても、女性を殺すのは忍びない……君たちが大人しく口をつぐんで僕の国へ来るのなら、このまま一生、大事に鳥篭にしまっておこう。どうだい、悪くない取引だろう?」
「さ……最悪ですよあなた……! っていうか、王子様の台詞ですかっ!?」
「王族に夢を見るのは庶民の特権だよ。残念ながら、君にその資格はない。……まあ、どうしても嫌だというのなら……もっと乱暴な手段に出てもいいがね」
「イシュメル王子!」

 ベアトリスが声を尖らせた。鳶色の瞳が、鋭いまなざしで王子を射抜く。

「……お考えになっていることは察しがつきますわ。けれど、それをこの方に聞かせないでください」
「え、あの、一体……?」

 言ってから、にこやかな王子の作り笑いに、薮蛇だったと気づかされた。

「ああ、とりあえず偽者を始末して、本物を保護して国に帰るかな。我々は正当なる《水の姫》の亡命を受け入れるわけだ。あとは君が鳥篭の中で何を言おうと、僕の立場は揺るがない。分かるね?」
「よくわかんないですけど『始末して』ってとこで既に冗談じゃないですー!」
「冗談のつもりはないからね。さあ、選ぶといい」

 王子が笑みを酷薄なものに変えた。
 ミタは肩を震わせてあとずさる。
 選べるはずがない。けれど選ばないで逃げることもできない。膝に力が入らない。
 停止しそうな頭を必死に働かせて、ミタは震える声で言った。

「……わたし、が」
「うん?」
「わたしが、あなたと、結婚するかわりに……姫様には手を出さないって、いう、のは?」
「ミタさん!」

 ベアトリスが悲鳴に近い声を上げる。王子が目を細めた。

「残念ながら、その選択肢はあなたが潰してしまったのでね」
「ひ……姫様が、言いふらすとでも思ってるんですか?」

 子供っぽい言い方になって歯噛みした。せめて目だけでもそらすまいと、引けた腰を自覚しながら思う。

「っ……とんでもないです。姫様には、そんなことしたって何の得もないじゃないですか……! そ、それが駄目だって言うなら……」
「言うなら、なんだい?」

 面白がるような声音に、きっと眦を吊り上げた。

「駄目なら……わ、わたしだって、自害するくらいの気概はありますっ!」

 がくがくと震える膝が悔しかった。
 ――嘘だ。そんなものあるわけがない。死ぬのは怖い。こんなに臆病な自分に死ねるはずがない。これで駄目だと言われたら、もうどうしていいのかわからない。
 だけど、他に盾にできるものなどないのだ。
 ――この馬鹿、と、声が聞こえたような気がした。最後に聞いて一日さえ経っていない声なのに、懐かしさに泣きそうになった。
 ベアトリスが、イシュメル王子が、それぞれに何か言おうと口を開く。
 それよりも先に、滑り込んだ声があった。

「ったく……この馬鹿、無駄に度胸つけてんじゃねぇよ」

 誰よりも驚いたのはミタだったが、目に見えて反応したのは周りを取り囲んでいた黒服たちだった。
 裏の世界に住む人間が、驚きに目を見張って振り返る。その先にいたのは、ミタが脳裏に描いていた青年だった。

「レ……レナートさん……!」
「あー、わかったわかった。あとでいくらでも感謝のキスは受けてやるから、とりあえずその悲惨な顔をなんとかしろ」
「ひ、ひどっ!?」

 涙だのなんだのでぼろぼろになっていることは自覚していたが、本当に容赦がない。ひらひらと手を上下に振ったレナートは、こきりと首を鳴らして、周囲に目を向けた。
 その背後には、いつも影のように付き従う部下がつく。既に腕を吊ってすらいない姿に小言をこぼしそうになり、ミタはあわてて口をつぐんだ。そんな場合ではない。

「……随分と気障な登場だね」
「お褒めに預かり光栄の至り。……さて王子様。あんたに告げることが二つある」

 視線で射殺さんばかりの王子の目をするりとかわし、レナートは指を立てた。

「ひとつ。ベルゴンツィはこの件から手を引く。これはファミリーとしての決定だ」

 ざわり、と空気がさざめく。黒服たちが困惑したようにレナートを見たが、逆に強い目で射抜かれて沈黙を守った。
 王子はわずかに片眉をひそめただけで、淡々と返した。

「……なるほど。予想外に情報が早いようだ」
「残念ながら国を売るほど腐ってはいないんでね。借りは利子をつけて返してやりたいところだが――まあ、取引といこうや、王子様」

 にやりと唇を吊り上げ、レナートはその目に剣呑な色を乗せて言った。

「ふたつめだ。売約済みの女追っかけてねぇで、国に帰りな」
「んなっ!? レ、レナートさん、ちょっとそれどういう……!」
「ミタさん、そんな場合では……」
「だ、だって姫様!」

 騒ぐミタを完全に視界の外において、王子は低い声で訊ねた。

「嫌だといったら?」
「そりゃあ尊敬に値するね。孤立無援で花嫁の強奪か! 三文小説あたりなら逃げ切れるんじゃねぇか。やりてぇならやってみろよ」
「レ、レレレレナートさんっ! あの、なんでそこで挑発とかするんですか、ちょっとあの聞いてますか……って、な、なんかあたし蚊帳の外に置かれてません!?」

 そんな苦情が聞き入れられることはなく、終わりを告げる鐘の代わりにひとつのため息が落とされる。
 悲壮さや苛立ちよりも、どこか何かを手離したように。

「イシュメル王子……」

 ベアトリスが、聞こえないほど小さな声で呼んだ。
 うなだれても膝を落とすことはない王子の姿は、引き返すことも進むことも出来ない中途半端な現実に、がんじがらめになっているようにも見える。
 わずかな間、決意を固めるように目を伏せ、ベアトリスは王子の前に進み出た。

「え……姫様?」

 ミタがあわてて声をかける。それに気づいた王子が顔をあげ、苦い笑みを浮かべた。
 それを静かに見つめ、ベアトリスは言った。凛然と、まるで誓うような響きで。

「わたくしは、王座を目指します」

 王子が目をみはった。

「何を言っている? 君は……」
「その資格がないならば、作ればいいだけですわ。……わたくしはこの国を愛しています。この国を、この国の民を。それを守るためにできることは、あなたに嫁ぐことだけではありません。……彼女が、それを教えてくださいました」

 振り返ったベアトリスのやわらかな微笑に、ミタはおろおろと周囲を見回す。レナートがあきれ顔で頭を掴んで固定した。

「いたっ! な、なにするんですか……!」
「いいからちょっとじっとしてろ」

 そんな二人の様子に、ベアトリスはくすりと笑った。

「……一体、何を考えている……?」

 王子の顔がこれ以上なく険しくなる。にこりと完璧な微笑を浮かべ、ベアトリスは小首を傾げた。

「これで公平ですわ。わたくしはあなたの、あなたはわたくしの弱みを握っているんですもの。折角ですから手を組んで、共に成りあがりませんこと? あくまでお互いが目的を遂げるまでですが、それまでは、協力を惜しみませんわ」

 突拍子もない提案に、その場にいた誰もがあっけにとられる。――正しくは、ミタだけは両手を組み合わせてきらきらと目を輝かせていたのだが。
 にこにこと差し出された手に、王子は困惑したような複雑な顔をした。そのまま沈黙が続いたが、相手が手を降ろさないのを見て、眉をひそめたままため息をつく。

「……考えておこう」

 感情のない声で、王子は答えた。
 結局、その手は取らないままで。

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