Double-booking / tiara /

6.

 ――なんだか今日は、生まれてこのかた縁のなかった場所によく来るなあ。

 現実逃避ぎみに思って、ミタはぽかんと口を開けていた。
 レナートに閉じ込められたホテルも大概高級だったが、入るときは気絶していたし出るときはそれどころじゃなかった。
 まずは空に向かってそびえ立つ威様に気圧され、次にはロビーのきらびやかさと噴水と豪奢な高窓にめまいを感じ、足首が埋まりそうな絨毯を歩いているうちになんだか訳もなく謝りだしたくなった。胸をときめかせるどころの話じゃない。
 ミタは窒息寸前になりながらベアトリスの顔をうかがう。そこには花のような笑みがあるはずもなく、硬くこわばった表情に悲しくなった。
 一体何がどうなってこんなことになってしまったのだろう。黒スーツの男は慇懃無礼もいいところで、怖いのを通り越して腹立たしい。

 ――到着したら、この人たちの雇い主に文句を言わなきゃ。

 そう意気込んでいたミタは、椅子から立ちあがった青年を見て悲鳴を上げた。
 貴公子という言葉を体現したような青年だった。どんな表情を浮かべても様になるであろう顔立ちに、自信と思慮を湛えた漆黒の瞳。すらりとした体は細身だが、弱々しさはかけらも感じさせない。

「イ、イシュメル王子っ!? え、な、一体どうなってるんですか!?」
「無事でよかった……僕の姫君」

 凛とした品のある声が、優しく言った。
 王子は優美な仕草でミタの手を取り、自然に口づける。
 頭の処理能力を超えた事態に、ミタの混乱が最高潮に達した。

「ち、ちちがいますっ! なんだかわかんないけど人違いです……っていうか! よりにもよって姫様の前でなにしてくれてんですかあなたっ!!」

 ミタは全力で手をむしり取った。勢いがつきすぎてひっくり返りかけたが、尻餅をつく前に王子がミタの腕を引いた。
 見惚れそうなほど自然な動きだった。
 だがしかし、相手はダンスの心得も何もあったものではないミタである。完全に硬直したせいで胸に収まらず、王子もろとも倒れこんでしまった。

「い、いたた……」
「大丈夫かい?」

 苦笑ぎみに訊ねられて、ミタは状況を把握する。
 どう見ても、王子を押し倒した平民の図だ。

「す、すすすみませっ……」

 慌てて身を起こしながら、あれ、とミタは目を瞬いた。
 手を置いてしまっていたのは彼の大腿部だ。不思議に思って触診しかけ、相手が患者ではなく王子だということを思い出す。

「え、えええっと! あの、そうだ、なんだかとっても無茶な誤解があるみたいなんですけど……!」

 ばね仕掛けの勢いで立ちあがったミタの手を捕らえ、王子は目を細めた。

「誤解などではないよ。君が……君こそが、《水の姫》――僕の探していた花嫁だ」

 ミタは息を飲んだ。
 その目に冗談の色はない。むしろ、どこか剣呑なものさえ潜んでいるようだ。
 触れた手から伝わってくる、早い鼓動に気を取られながら、ミタは必死に首を振った。
 ベアトリスが何も言わないことが怖い。独りぼっちで放りだされたような心細さだ。

「し、知りません……! ごめんなさい許してください、何がなんだか分かりませんけどわたしはただの善良な一般市民です……!」
「そう、君は知らないだけだ」

 ミタは泣きだしそうな顔で王子を見た。すがるような視線を受け、王子はつらそうに目を伏せる。

「驚くのも無理はない。だが、これは事実だ。……君は宮廷内の政争に巻き込まれ、危うく命を落としかけた。幸い、心ある医者が君を匿ったために一命はとりとめたが……君が生きていることを知った者にとって、君の存在は邪魔だった。彼女らは愚かにも、再び君の命を狙ったんだ」

 王子が強い目でミタの背後を睨んだ。
 そこにいるのがベアトリスだと気付いて、ミタはびくりと肩を震わせる。
 ベアトリスが切迫した声で言った。

「違います! それは……!」
「違う? 何が違うというんだ? 現に彼女は命の危険に晒された。それともお前は、これが偶然だとでもいうのか?」

 辛辣な問いに、ベアトリスは唇を噛んだ。

「そんな……」

 ミタはいよいよ泣きたくなる。信じたくない気持ちと、苦しげなベアトリスの表情に感情が揺さぶられた。
 途方に暮れて王子を見上げると、彼は優しく微笑んだ。

「会いたかった。僕は、君に会うためにこの国へ来たんだ」
「わ、わたし……」
「安心してくれ。これからは、僕が命に代えても君を守ろう。正当なる姫君をあるべき場所へ……ようやく見つけた。君が、僕の運命の女性だ」

 頭がついていかない。めまいを起こしたミタの腰を、王子の腕が支えた。
 憧れていた姫君が偽者で、自分を殺そうとしていて、その自分を王子が守ると言っている。何もかも理解を越えていて言葉にならない。
 ミタが今にも泣きだしそうに顔を歪めたとき、ベアトリスが打つような声でそれを止めた。

「いけません!」
「ひ、姫様……」
「ミタさん、聞いてください。本当のことをすべて話します! あなたは……!」

 看守のようにたたずんでいた黒スーツの男が、ベアトリスの腕を捻った。
 姫君の唇から小さな悲鳴が漏れる。

「姫様!」

 現実に引き戻されるには十分だった。青ざめて駆け寄ろうとしたミタを王子が優しく制止する。

「やめてください! ひどい、どうしてこんな……どういうつもりなんですか!」
「騙されてはだめだ。君は隣室で待っているといい」

 王子が素早く目をやる。黒スーツがうなずき、ミタの背を押した。

「ちょっと、やだっ! 放してください! 姫様っ――」

 力でかなうはずがない。ミタは部屋の外に連れだされたが、閉められた扉に必死になってかじりついた。
 黒スーツの呆れたような声が頭上から降って来る。

「姫君。お願いですから世話を焼かせないでくださいませんかね」

 ドアノブにすがりつき、ミタは振りきれんばかりに首を振る。
 そうしているうちに、細かな文様の扉から、部屋の声が漏れ聞こえてきた。

「この期に及んで、見苦しい……一体何が本当だというのだ? お前が偽者であることには何の間違いもない。ただ美しいだけの代替品が語る言葉に、一体どれだけの意味がある」
「あなたは……自分の野心のために、彼女を利用しようとしているだけよ……!!」

 王子の声は、打って代わって凍りつくようだった。
 苦痛に歪んだベアトリスの声が、それに答える。

「白湖七国を統一しようとでもいうの? いまさらだわ、強引に支配したところで君臨しつづけることなんてできない!」
「調子に乗るなよ、人形」

 ミタは息を飲んだ。
 冷たいだけではない、ただひたすらに暗く深い悪意を持って、王子がベアトリスを突き放す。

「ずいぶんと甘やかされたようだな。ただの身代わりの人形風情が、さかしげに政治を語る気か?」
「っ……」
「本物を見つけ出した以上、貴様などに用はないが……なるほど、見目ばかりは美しいな。僕も事を荒立てるのは好まない。王宮と取引して、父上に献上するか。その生意気な口を二度ときけないよう――」

 黒服の足を踏んで肩を掴む手を振り払い、ミタは蹴破る勢いで扉を開いた。
 床に両膝を突いたベアトリスの顎をイシュメル王子が指で上げさせている。その光景が燃え上がる怒りに油を注いで、ミタは大音声に言い放った。

「も……もぉぉぉいいです、十分です! あなたなんかに姫様はあげませんっ!」
「……は?」

 そうこぼしたのは誰だったか。
 その場にいた人物の目が揃って点になったのは確かである。
 ミタはずかずかとベアトリスに歩み寄り、きっと王子を睨みつけた。

「さっきから聞いてれば言いたい放題、さすがのわたしもぷっつり行きました! 用が済んだなら、さっさと国に帰ってください!」
「……言葉が過ぎたことは謝ります。ですが、姫……」
「うちの姫様はこの方ですっ! その姫様に盛大にケチつけといてわたしなんかを代わりにしようなんて、まったくもって正気じゃありません! そんな馬鹿な人のところに、なんでわたしがお嫁にいかなきゃいけないんですか! 冗談じゃないです! わたしは絶対いやだし、姫様もあなたなんかにはあげませんっ!!」

 全身で怒鳴りつけて、ミタは肩で息をした。

「ミタさん……」

 それ以上言葉にならず、ベアトリスがあっけに取られてその横顔を見上げる。
 細い指が、肩に添えられたミタの指に触れた。
 イシュメル王子は目を細め、小さくため息を吐いた。

「手荒な真似はしたくなかったのだがな」

 氷を割るような声に、ミタは身を竦める。それでも、目をそらすことはしなかった。

「捕らえろ。王女は偽者に洗脳されている」
「動かないでください!」

 きゅっと唇を結び、ミタは薬袋を目の前に突き出した。
 心臓が大きな音を立てて走り始める。怪訝な顔をする王子に、どうにか硬い声を絞り出した。

「わたしは、王女様じゃありません。医者です。だから……あなたが抱えているものにも、気づいているんです」

 王子が初めて顔色を変えた。
 ミタを取り押さえようとしていた黒服を片手で制し、王子は漆黒の瞳でミタを射抜く。
 けれど、動きはしない。――動けはしない。

「あなた……まさか……?」
「姫様!」

 ベアトリスが軽く目を見張る。その手を取って、ミタは部屋を駆け出た。
 しんと静まり返った部屋の中で、伺うような疑問の目が王子に集まる。
 ぎり、と握り締めた拳が音を立てた。胸を占めていた迷いを打ち捨て、王子は黒服に視線をめぐらせた。

「捕らえろ。いざとなれば、殺しても構わない」

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