Double-booking / tiara /

5.

 そろりそろりと足音を忍ばせて、ようやく診療室にたどりつき、ミタはほっと胸を撫で下ろした。
 時刻は夜半にさしかかっている。住宅街のはずれにある病院は静まり返り、時折車の音が遠く聞こえるだけだ。

(よ……よかった、たどり着いた……っ!)

 ミタは思わず感涙にむせんだ。
 なにせ四度目の正直だ。直球でホテルマンにぶつかって撃沈し、ルームサービスのワゴンに潜んであっさり見つかり、窓を叩き割ろうとして高さにめまいを起こし、最後には、内心で必死に謝りながら小火を起こし、ようやくどさくさにまぎれて逃げ出すことができた。
 粘りというものの欠けたミタにしては、自分を誉めたいような気にもなる。

(って……ひたってる場合じゃない! い、急がなきゃ)

 スタンドライトのスイッチを入れ、まぶしさに目を細める。
 天秤は机の上に置いたままにしていた。なれない服装のせいで袖を引っ掛けたりしながら、薬棚から必要なものを取り出していると、出口のほうで玄関の扉が開く音がした。

「ひっ!?」

 飛び上がって硬直した。廊下を、足音がひとつ、ゆっくりと近づいてくる。
 ミタは大慌てで引き出しを締め、意味もなく周囲を見渡した。

(レナートさん? じゃなくて、ひ、昼間の人だったりして……! ど、どうしよう、あ、そうだ、隠れなきゃ――)

 ようやくそこに思い当たったときには、銃弾で穴の開いた扉が押されていた。

(ひー!!)

 声にならない悲鳴を上げて、ミタは薬棚に張りつく。
 電気もつけたままだったので、銃弾を撃ち込まれていたなら良い的だったのだが――姿を見せたのは、レナートでも昼の襲撃者でもなく、妙齢の女性だった。

「え? あ……あれ?」
「ミタ・カセーラさん……ですわね?」
「ええっ? そ、そうです、けど、あの……」

 どうして名前を知っているのだろう。内心首をかしげながら、ミタはおずおずと女性を見つめた。
 スタンドの小さな灯りでも、十分に分かるほどの美人だ。
 綺麗に波うつ金茶の髪。鳶色の目には強い意思をたたえているが、どこかそれを包むような優しさがある。
 ベアトリス姫に似ているな、と思って、ミタは目を剥いた。

「……って! ひ、ひひひ姫さまっ!? え、うそ、ど、どおしてこんなところ――にっ!」

 慌てすぎて足を滑らせ、後頭部をぶつけた。
 猫を踏み潰したような声を上げたミタに、ベアトリスが慌てて声をかける。

「大丈夫ですか?」
「うあ、は、はい。平気……です」

 うずくまって頭を押さえたまま、ミタは涙目でベアトリスを見上げた。
 姫君は心配そうな顔で、ミタのそばに膝をつく。瞬間的に頭に血が駆け昇った。心臓がそのままどこかに走って逃げ出しそうだ。

「あのう、ええと、ほ、本物……?」

 口を突いた問いかけに、ベアトリスが表情を翳らせた。
 ミタはぎょっとして手を振る。

「ご、ごめんなさいっ! ああああの、悪気とかあったわけじゃなくて、その、あ、あたしってば考えなしで、そのっ……! い、いっつもこうなんですっ! だから三年もやってるのにまだヤブって呼ばれ……あ!」

 失言のフォローらしきものが自分の墓穴を掘った。
 両手で口を塞いだミタを、ベアトリスはぽかんと見つめていたが、ややあって、眉尻を下げて笑った。
 そのやわらかな、お仕着せでない表情に、ミタの心臓が跳ね上がる。

(ほ、ほほほ、本物だ……っ!)

 悲鳴を上げて転がりたくなった。しなかったのは、ほとんど腰が抜けていたおかげだ。

「ミタさん」
「は、はいっ!」
「わたくしは、ベルゴンツィ氏のご依頼であなたをお迎えに参りました」
「へっ!? レ、レナートさんの……? え、えっと、なんで姫様が……?」
「事情はのちほどお話いたします。ここは危険ですわ。わたくしと一緒に、来ていただけますか」

 その一言に、さっと頭が冷えた。
 ミタはあわてて身を起こす。

「で、でも……! あの、ちょっと待ってください。患者さんが……」
「存じております。ですが、いま危険なのはあなた自身ですわ」
「き、危険って。そんな……」

 悲しげなベアトリスの目は揺るがない。そこにある強さの意味がわからなくて、ミタはそろそろとうつむいた。

(姫様が、こんなに言うんだから……きっと、理由はあるんだ)

 きゅ、と唇を結んだ。

(でも)

 口の中でつぶやく。なんだか、悲しくなった。

「だめ、です」
「ミタさん」
「すぐ、用意しますから。ちょっとだけでいいんです。もうちょっとだけ待ってください」

 困惑したベアトリスの瞳を見上げて、すがるように言った。

「姫様、わたし、医者なんです。ほんとに未熟で、まだぜんぜん姫様の役には立ててないけど、それでも、『お医者様』なんです」

 ――あなたがいたから、そうなりたいって思ったんです。

 鳶色の瞳が見開かれる。ミタには分からない感情で、その目が初めて揺れた。
 何だか申し訳なくて、情けないような自信のなさに取り付かれてうつむきそうになる。それでも目をそらすのは駄目だと思って、どうにかうつむかずにベアトリスを見つめた。
 自分の口下手さに泣きたくなったとき、玄関口が騒がしくなった。
 ベアトリスがはっとして振り返る。乱暴な足音が、部屋の中に踏みこんできた。
 びくりと身をすくめたミタをかばうように、ベアトリスがミタの肩を引き寄せた。
 乱入者は二人だった。人相の悪い顔に盛大な皮肉を込め、男はミタとベアトリスを見据える。

「お迎えに上がりました――ベアトリス姫」
「あ、あなたたち、一体っ……!」

 黒スーツに派手なシャツのいでたちは、どう見ても姫君の護衛ではない。
 けれど、何か、ひどく既視感のある印象。
 ミタははっと息を呑んだ。――マフィアだ。

「……ずいぶんと乱暴なお迎えですわね」

 ベアトリスが硬い声で言った。見上げれば、その優しげな面持ちには強い拒絶の色がある。
 顔から血の気が引いていくのを感じた。

「あなたがたを差し向けたのは、どなたです?」
「あなたには関係のないことですよ、身代わりの姫。その方をお渡しいただきましょうか」
(へ?)

 ミタは目を瞬いた。
 黒スーツの目は、こっちを向いている。

「あ、あたしっ!? え、ちょっ、あああああの、何かものすごく盛大に失礼な勘違いとかされてませんかっ!?」

 思わず悲鳴を上げた。姫君をかばおうという発想以前に、誤解のおそれ多さにパニックになる。
 黒スーツは動じることなく、にやりと笑みをみせた。

「冗談はその辺りにしましょう。まあ、こちらとしては両方連れていけばいいだけの話なんでね。騒がれるのも面倒だ。痛い目ぇ見たくなけりゃ、おとなしくついてきてくれますかね」

 ベアトリスが険しい顔で唇を噛む。
 ミタは少しだけ、できるなら卒倒したいと思った。

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