ハルシアには《水の姫》がいる。
代々王子が生まれることの多い王家だが、稀に姫が生まれると、その代には水が穏やかになるのだ。雨はちょうど良いくらいの間隔と量で降り、川は氾濫を潜める。それが数十年も続くのだから、当然国は栄える。
その恩恵をもたらす姫君は、いつしか《水の姫》と呼ばれるようになった。
王権が強大であった頃のことであり、ただの御伽噺であるとの説もある。加えて、近代化の進んだ今のハルシアでは川の氾濫などそうそう起きはしないが、それでも水はそのまま生活に繋がる重要なものだ。姫君が生まれれば、それだけでとりあえずめでたいような気になるくらいには。
――だから、世継ぎの王子がなんだかんだで結局生まれそうにないような状況でも、国民の中にあまり不安感はなかった。
とりあえず王弟には息子がいる。ついでに今の姫君は優しく真面目でよく働くので、一般庶民に人気があった。次に王位に就きそうな王族がボンクラなのが愚痴の種にはなっていたが、国内はなんとなく平穏である。せいぜいが酒の席で「姫様あのボンクラと結婚しねぇかなぁ」「いや姫様がかわいそうだろ」などという戯言に上る程度だ。
そんな風に唯一の姫君は、一般庶民からの圧倒的な人気を誇っていたのだが――三年前のミタは、残念ながらその定義の一般庶民に入っていなかった。
だから近道に使ったはずの公園が人でごった返しているのを見て、ひたすら泣きたい気分で天を仰いだのだ。
(どうして、よりによって今日なの……!)
そもそも脱脂綿が切れたことに気づくのが遅かった。昼の間にちょっと抜けて買ってこようと思ったのに、これでは到底間に合わない。
引き返すには遅すぎる。おろおろとしているうちに、若い男と肩がぶつかった。
小さく悲鳴を上げて、ミタはそのまま地面にキスをする。おまけに財布が手から離れて、硬貨をぶちまけた。
「きゃー!? ちょ、ちょっと、待ってー!」
銅貨が人波の中を転がっていく。圧され揉まれ蹴飛ばされながら追いかけ、ようやく捕まえたところで、頭の上から叱責の声が降ってきた。
「お嬢さん、だめだよ。ほら、もっと下がって!」
「え?」
きょとんと首を上げると、いかめしい顔の衛兵が見下ろしていた。
そこでようやく、周りが歓声に包まれていることに気づいた。
そして、その原因にも。
人ごみの中心。差し出された花を受け取り、その花よりもずっと鮮やかな笑顔で、秀麗な美貌の女性が民衆に手を振って応えていた。
(ひ、姫様だ……!)
心臓が大きな音を立てて、ミタはわけもなく硬直した。
新聞や雑誌などで見かけたことこそあるものの、本物の王族をこんなに間近で見るのは初めてだ。
文句の付け所のないその姿が、余計に緊張を煽った。整っているだけではなく、どこまでも優しい顔立ちには生まれながらの慈愛さえ感じる。あまり飾り立ててはいなかったが、シンプルなスーツに落ちる金茶の巻き毛はそれそのものが宝石のようだ。
ミタがどきどきと早鐘を打つ心臓を押さえたとき、子供の悲鳴が聞こえた。
聞き間違いかと思うような、ごく小さな声だった。姫君が振り返ったのを目で追って、ミタは眉を寄せる。
地面に転んだ少年が、すりむいた膝を起こしていた。たぶん、人ごみに押されてしまったのだろう。
ベアトリス姫は迷うことなく、その少年の前に膝を折った。姫君を目の前にした緊張からか、少年は真っ赤になって、握り締めていた花を差し出した。
「あ、あの、これ……」
そこで、少年の顔が泣き出しそうに歪んだ。少年の花は、転んだ拍子に潰れて砂だらけになっていたのだ。
思わず引っ込めようとした小さな手を、姫君の手が優しく握った。
驚く少年から花を受け取り、はにかんだ笑顔を見せる。
「ありがとう」
ミタの心臓が、大きな音を立てた。
姫君の笑顔は本当に嬉しそうで、とてもお仕着せのものだとは思えないほど綺麗だった。
人ごみに揉まれながら、ミタはうるさい心臓を押さえて立ち尽くした。
胸に熱いものが込み上げた。このひとが、母国の王女なのだ。そう思うといても立ってもいられないような気がする。なんだか何かをしなければいけないような――何かがしたくてたまらないような、焦りにも似た衝動が喉を突き上げる。
そんな風に強い感情を抱いたのは、それが生まれて初めてだった。
まどろみながら天井を見上げ、ええと、とミタは口の中でつぶやいた。
なんだか、懐かしい夢を見ていた気がする。
寝ぼけた頭の半分で現実をたぐりよせていると、飄々とした声がした。
「ああ、起きたか」
ミタはベッドの上に跳ね起きた。
「レ、レナートさん!? え、こ、ここっ……えええ!?」
きょろきょろと首をめぐらせて、ミタはひっくり返った悲鳴を上げた。
明らかに自分の寝室ではないだだっ広い部屋。年代ものの調度品が重厚な雰囲気をかもし出している。大きな窓の外には星空のような街の明かり。雑誌で見た、高級ホテルのスウィートに良く似ていた。
「あのままほっとくわけにもいかねぇだろが。ほれ、さっさと着替えろ」
「き、着替え?」
はたと自分の格好を見下ろし、ミタは再び悲鳴を上げた。
「ななななんで脱いでるんですかっ!」
「手術した格好のままだったからな。そのままベッドに突っ込めるか? 安心しろ、脱がしたのは俺じゃねぇよ」
じゃあ誰なのかと訊ねるのも怖くてシーツの中で小さくなっていると、レナートが両手に服をひらめかせた。
「で? どっちにするよ。俺的には黒がおすすめだが」
「へっ? ど、どっちって言われても……」
右手には背中のあいた黒のカクテルドレス、左手にはレースをふんだんにあしらった薔薇色のワンピース。
できるならどっちも遠慮したい、と考えて、白衣が無性に恋しくなった。
そこでようやく、思考が現実に追いつく。
「……そ、それより! レナートさん――」
「なんだよ」
衣装を放り出したレナートが腰を下ろして、ベッドが沈んだ。
思わず身を引いたミタを追い込むように、枕に右手をつく。その動きはごく自然だったが、結果としての体勢がまったくもって自然じゃない。
至近距離で湖水の瞳に覗き込まれ、ミタはいつも以上にどもりながら名前を呼んだ。
「レ、レレレレナートさん?」
「だから、なんだよ」
「あ、ああああのっ! ち、近いんですけど……!」
「ああ、ついでに本腰入れて口説いとこうかと思ってな」
「そそそんな場合じゃっ……って、そうだ、そんな場合じゃないです! いま何時……ううん、何日ですか!?」
ミタにとっては切迫した質問だったが、レナートは平然と返した。
「聞いてどうする」
「患者さんが来るんです! あ、薬取りに来る子も……とにかく、戻らなきゃ……!」
「ふーん」
「ふーんって……レナートさん!」
非難の声にも、レナートは無表情のままだ。
静か過ぎる反応に、ミタの気持ちが急速にしぼんでいく。
「レ……レナートさん……?」
怯えながら名前を呼ぶと、彼は珍しく、にやりともせずに告げた。
「駄目だ」
「え」
「まさか忘れたわけじゃねぇだろ。殺されようとしてるのはお前だ。それをほいほい外に出すと思うか?」
射抜くような視線に息を呑んだ。
うつむくミタにため息をついて、レナートは子ども扱いにミタの頭を叩く。
「片がつくまでここにいろ。いいな?」
「あ……あのう……でも、ちょっとだけなら、だいじょうぶじゃないかなぁとか……」
「……お前は本気で状況わかってねぇな」
「いたいたいたたた!」
右手で頭を掴まれて悲鳴を上げた。
盛大なため息を残して閉められた扉を涙目で恨めしく見つめたが、がちゃり、と音がして顔色を変えた。
――え。もしかして、思いっきり閉じ込められた?
細々とため息を吐き出して、ミタは泣きたい気分で頭を抱えた。
情けない。こうしなければ、という思いはあるのに説得も出来なくて、おまけにそれが正しいのかどうかさえ自信がないなんて。
『……まったく、鈍くさい子だよ。医者としての自覚もありゃしない』
ふと脳裏に浮かんだのは、祖母の言葉だった。
何度同じことを言われただろう。どじを踏むたび頭をはたかれた。別に医者になりたかったわけじゃない。生きていくためにそれ以外方法はなかっただけだ。
それを変えたのは、ベアトリス姫だった。
夢の内容を思い出す。あの人に憧れた。力になりたいと思った。福祉に尽力していた姫君が医療問題に懸念を示しているのを知って、不謹慎だけれど嬉しく思った。
医療が国民に行き渡っていない。貧しい人々は、十分に治療を受けることもできない。それは知っていたけれど、それを問題だと認識したことがミタにはなかった。
あのとき初めて、ミタは医者になったのだ。
(そうだ)
ミタは顔を上げた。
(いまは、もう『お医者様』なんだ。だから、できることは全部やらなきゃ)
明日来る患者は心疾患だ。薬で症状を抑えているから、その薬を手に入れられないとなれば命に関わるおそれもある。
もともとが別の病院で治療費を払えずに追い出された患者なので、なおさらだ。自分がこんなところでもたもたしてはいられない。
決意を胸に、ベッドに投げ出された二枚の服へと手を伸ばす。
「う……」
貧相な体で似合うとも思えないカクテルドレスか。せめて一回り幼ければ選べたかもしれないビラビラのワンピースか。正直なところ、どちらも遠慮したい。
嫌がらせだろうか。それとも、本当にレナートの趣味が悪いのだろうか。
(うー……でも、レナートさんが連れてる女の人って、みんなすっごい美人だしなぁ……)
この間の赤毛の女性など、蠱惑的な雰囲気といい出っ張った胸といい腰といいすらりと伸びた手足といい、ミタが思わず見惚れてしまうくらい魅力的だった。
(……むぅ)
さっき思い切りうろたえてしまったのが、今さらながらくやしくなる。
五歳の頃からからかわれ遊ばれてはいたけれど、こんな感じのおちょくられかたをされるようになったのは、一体いつ頃からだっただろう。
膨れっ面でぱたぱたとドレスを叩いたミタは、やはり彼の真意など、これっぽっちも気付いていなかった。
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