Double-booking / tiara /

2.

 

 

 

 

 

 要人の公式訪問は、多忙なものと決まっている。
 イシュメル王子も同様だった。おまけに婚姻を前提としたものなのだから、晩餐が終わった後にも、私的な酒席――実際は公的なもの以外の何物でもないが――を控えて、貴族や有力者に愛想を返している。
 その傍らで、控えめな笑顔を浮かべて話を聞いていたベアトリスに、侍女が気遣わしげにささやいた。

「姫様、お疲れではございませんか? 少し、お休みになられたほうが……」

 それを聞きとめたイシュメルが、ベアトリスに穏やかな苦笑を向けた。

「そうだね、顔色がすぐれないよ。まだ十分時間はあるんだ、今日はもう休むといい」
「でも……」

 まだ宵の口だ。時間が早すぎる。ベアトリスの本音としては、この王子の動向から目を離したくはなかったのだが――彼女の内心など知る由もなく、会話に加わっていた貴族が大きな腹を揺らして笑った。

「いや、仲がおよろしくて何よりだ。殿下、イシュメル王子もこのように仰っているのです。本日はお言葉に甘えられてはいかがですかな」

 厚意だとは分かっていたが、苦々しい思いが浮かぶ。表情を押し隠して、ベアトリスは淋しげに微笑を浮かべた。

「……そうですわね。名残惜しいのですけれど……イシュメル王子、明日はわが国が誇る美術館をご案内いたしますわ。お時間をいただけますかしら?」
「ええ、もちろん」

 笑顔で答えたイシュメルに、両手をあわせベアトリスはすかさず畳み掛けた。

「良かった。王立美術館の中庭の朝は、それは美しいものですのよ。七時にお迎えに上がりますから、どうぞ、わたくし抜きで夜更かしなどなさらないでくださいね?」
「ははは! 王子、これは一本取られましたな!」

 貴族の豪快な笑い声の向こうで、イシュメルが目を細めた。その目に走ったわずかな苦味の色を、ベアトリスは見落とさなかった。

「……まいったな、起きられるだろうか」
「大丈夫です。予行演習として、わたくしが起こして差し上げますわ」

 冗談めかして返す。ほんのわずかな反応だったが、十分だ。
 ――この王子は、明日までに動く。
 笑顔のままその場を辞したベアトリスは、低い声で侍女に告げた。

「先生をわたくしの部屋にお呼びして」
「……はい、かしこまりました」

 言葉を飲み込み、侍女はうなずいた。疲れがあるのは確かだが、あの王子は休むだけの時間を許してくれそうにはない。
 私室に向かおうとした足は、千鳥足の人影に止まった。見知った顔にベアトリスの眉が寄る。酒の匂いが鼻を突いた。

「やあ、従姉殿。まずはおめでとうと言わせてもらうよ。あまりにしゃしゃり出るものだから、まさか僕と王位を競う心算でもあるのかと思っていたところだ」
「フェランド……相変わらずね」

 ベアトリスは苦笑交じりに言った。他にどうすることもできなかったからだ。酒癖女癖をはじめ悪評の多い従弟だが、それが彼の言う、「継承権のない従姉姫のでしゃばり」とまったく無関係だとは思わない。
 だが、それは言い訳にはならないとも思っている。
 労働を知らない指がベアトリスの顎を掴み、強引に顔を上げさせた。
 酔いだけではない濁りを宿した目が、噛み付くようにベアトリスを見下ろす。

「――これで、この国は僕のものだ。せいぜいイシュメル王子に可愛がってもらうことだね」
「間違わないで、フェランド。国は王のものではないわ。民のものよ」

 一瞬だけ鼻白んだような表情を閃かせ、フェランドは弾くように彼女の顎を離した。
 澱んだ空気がその場に漂う。
 だが、それを拭い去るように、華やいだ声がベアトリスを呼んだ。

「ベアトリス従姉ねえ様、こんなところにいらしたの?」

 薔薇色のドレスの裾を絡げて、幼さの残る従妹姫が小走りに駆け寄る。まっすぐな栗色の髪は王家の特徴こそ出ていないものの、迷いを知らない花のような笑顔は彼女の愛らしさを存分に知らしめていた。

「お兄様、ひどいわ。わたくしも伴ってくださればいいのに」
「……お前はうるさいからだ、アリーシャ」
「まあ! すこしお過ごしではございませんこと? レディにおっしゃることではありませんわ!」
「わかった、わかった」

 美しく結い上げられた妹の頭をぞんざいに撫で、彼は憮然とした顔でその場を去った。
 アリーシャは兄を膨れっ面で見送っていたが、ぱっと笑顔を浮かべてベアトリスを見上げた。

「従姉様、ご婚約おめでとうございます」
「ありがとう。でも、まだ正式な婚約は三日後だわ」
「まあ。なにを仰るんです」

 アリーシャは笑い声を転ばせた。幼さの残る姫君に、つい本音をこぼしてしまった。現に婚約者は不穏な空気を漂わせており、決して気を抜くことはできない。
 ハルシアの慣習上、王女への求婚は三日目の舞踏会で行われることになっている。たとえ生まれたときから約定のある結婚であっても、それは変わらない。――逆を言えば、それまでは引っくり返る可能性が残っているということだ。
 ふと表情を翳らせ、アリーシャがため息をこぼした。

「イシュメル王子は素敵な方ね。従姉様がうらやましいわ。……ここのところ、お父様が縁談を次から次に持ってくるの。はずればっかりよ。ひどいわ、わたくしが面食いだってご存知のくせに」
「あら、イシュメル王子はあなたのお眼鏡に叶ったの?」

 頬を膨らませる姫の幼さが可愛らしくて、ベアトリスは笑い声をこぼした。アリーシャがあわてて口元に手をやる。

「いやだ。わたくし、本当に従姉様のことは祝福しているのよ?」
「ええ。……ありがとう、アリーシャ」

 頬に触れて、こつんと額を合わせた。
 くすぐったそうに笑うアリーシャは、王族としてはいささかあけすけに過ぎるものの、裏表がなくて快い。とても兄と血が繋がっているとは思えない性格だが、だからこそフェランドも扱いかねているのだろう。
 ――この子が真実を知ったなら、どう思うのだろう。
 足取りを重くして私室の扉を開けると、長年の付き合いになる家庭教師が見事な宮廷式の礼を見せた。彼女は今年でちょうど五十になると聞いたが、冷静で表情に乏しい顔だけを見ると、とてもそうとは思えない。

「お話がおありとのことでしたが」
「……ええ」

 ベアトリスはソファに沈んだ。疲れが一気に押し寄せてくる。
 その疲れに抗うように身を起こし、ひたと家庭教師を見つめた。

「お聞きしたいのは、『彼女』のことです」

 家庭教師の顔色が変わった。
 悲しみだけではない感情が胸にせり上がってくるのを感じて、ベアトリスは両手を握り締める。

「教えてください、先生。……イシュメル殿下が何らかの考えをお持ちであれば、陛下は、あの方に何らかの接触を持たれますか」

 回りくどい教え子の言葉に、彼女はやがて、小さく息を吐いた。

「残念ながら、すでに事態は動いております」
「彼女に、何か……!?」

 接触とは言ったが、脳裏にあるのはもっと物騒な選択だった。身を乗り出すベアトリスをなだめるように、家庭教師は首を振った。

「ご安心下さい。ご無事です。ベルゴンツィが彼女を保護しているようですが……」
「ベルゴンツィ……彼女のところに出入りしているマフィアですわね」

 意を決して立ち上がったベアトリスを、家庭教師は冷静に押しとどめた。

「お待ちください。どうなさるおつもりです?」
「……彼女を国外に逃がれさせます」
「陛下のご意思に背くことになってもですか」

 どこまでも冷静に、その声は耳に突き立つ。
 ベアトリスは唇を噛んだ。目を伏せて、自分自身に問いかける。
 おのずと、答えは出た。

「陛下も、血の繋がったお子を害したいなどとお思いではないはず。……わたくしは、そう信じています」
「……ですが」
「もしそうであれば、それをお止めできるのはわたくしだけです。……もちろん役目は果たします。けれどそのために、彼女を犠牲にするつもりなどありません」

 細いため息を吐き、家庭教師は美しく一礼した。

「かしこまりました。殿下の、お心のままに」

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