奥野を怒らせた。
どう考えても、怒らせた。丘芹や真弓から口々に言われるまでもない。あれは、誤解の余地なく怒っていた。
じめじめした効果音でも出そうなくらいに落ち込んで、俺は暗いため息を吐いた。
あのイイヤツ日本代表のような奥野を怒らせるとは、なんて男だ。
いや、俺だが。他でもない俺なのだが。……なんかもう生きててすみませんと土下座したくなるくらいに放送部からちくちく言われ、俺はすっかり自己嫌悪に陥っていた。
いっそもうこのまま転校してしまいたい。どこか遠くに行きたい。
教室から逃げ出した俺は、ひたすらどんよりとうなだれていた。
技術室への渡り廊下は、授業がないと人の通りが少ない。思う存分考え込める、数少ないスポットだ。
再び深すぎるため息を吐いたとき、ヒールの足音に気づいた。
規則正しくて自信に満ちた、迷いのない足取りだ。
誰なのかは確かめなくともわかったが、俺はうろんげに顔を上げる。
ブルネットにナイスバディの、いかにも南米白人っぽい美人教師は、にっこりと華やかに微笑んだ。
「ちょうどよかったわ、一人になってくれて」
「……はあ。何の用すか、オフェリア先生」
まあ聞かなくてもわかる。
俺はうんざりしながら先手を取った。
「誕生日は俺と同じで一月十八日。血液型はO型。好きな食べ物は湯豆腐で牡蠣醤油派、好きな色は多分緑で趣味は釣り。……で、他に何かありますかね」
「あら、カズキの情報かしら? ありがとう。でも、私の用件は違うものよ」
メモなんて取らなくても覚えられるのだろう。
くすくすと笑った日本語が達者な美女は、不審げな顔をする俺に、いきなり爆弾を投下した。
「奥野さんのことよ。カズキが好きな女の子――そして、あなたを好きな女の子」
なぜそれを知っている。
思わず頭を抱えたくなったが、図星だと答えてやるのも悔しい。
幸い、驚きすぎた俺の表情筋は仕事を放棄してくれたようで、顔には出ていなかったと思う。
「……何の話ですかね」
「わからないふりはいらないわ。時間の無駄だもの。ちゃんと見ていれば、それくらいのことは誰にだってわかるはずよ?」
そうか。それは是非、あの窮地に陥るまでに示唆していただきたかった。
無言を貫いた俺に、オフェリアは見透かすような笑みを浮かべた。
「あなた、全然予想していなかったようね。驚いて、うろたえてしまったの?」
じわじわと追いつめようという意図を感じるのは、俺の錯覚だろうか。
俺は身じろぎせずに、美女の顔を睨み返した。
「どんなことを思ったの? 嬉しかった? 困った? それとも、もっと違うものかしら。――優越感とか、そういうもの?」
比喩ではなく、胸に突き刺さるような言葉だった。
一瞬、息が止まった。目の前に突きつけられた言葉があまりに直接的で、衝撃が目の前を眩ませた。
それが過ぎ去って、ようやく怒りがわいてきた。
「……ばかばかしい。羨ましいなんて、少なくとも今の俺は全然思ってないですけどね」
「そうかしら。あの状況をずっと近くで見てきたなら、カズキに思うところもあるでしょう。彼ばかりちやほやされて、好かれて、求められて……普通なら、嫉妬しないではいられないわ。ましてや血を分けた兄弟ですもの。自分と比べたことが一度もないだなんて、言えないでしょう?」
はっきりと眉間に皺を寄せた俺に、オフェリアは歌うように続ける。
「有り余るものを持っているカズキが、たったひとつ、自分から欲しいと思った子が、あなたを求めているの。カズキよりも、あなたを選んだのよ? 嬉しくないだなんて言える?」
胸のむかつきはもはや最高潮だ。挑発されているとわかっても罵りたくなるほど。
だが、実際に汚い言葉が口をついて出る前に――ひやりとした感覚が、冷静さを取り戻させた。
そうだ。これは、挑発だ。
図星であればあるほど、反発される種類の挑発だ。
嬉しいだろう、優越感を覚えるだろう、だなんて揶揄されて、奥野との関係を前向きに考えようとするなんてことはありえない。
つまり、オフェリアの挑発は、奥野が振られる可能性を上げる種類のものだ。
一己に惚れている女の行動としては、明らかにおかしい。
むしろ、俺と奥野をくっつけようとするもんじゃないだろうか。
俺が冷静になった事に気づいたのだろう。オフェリアは蠱惑的だった笑みを普通のものに変えると、小さく肩をすくめた。
「残念。失敗ね」
「……本気で意味がわからない。何考えてるんすか、あんた」
我ながら、苦虫をまとめて噛み潰したような声だった。
相手がまったく堪えるようすもなく、この上なく美女らしい微笑のままだからだ。俺の不快感なんて、多分かけらも価値を感じていないんだろう。
「このとおり、私は大人なのよ。年上すぎるもの。カズキを本当に落とせるなんて思っていないわ。……ただ、彼には本当に感謝しているから……いうなれば、そのお礼ね」
「迷惑すぎる。俺を巻き込まないでくれ」
「ごめんなさいね」
くすくすと笑い声を落とし、オフェリアは手すりから身を離した。
「誰かのためを思って身を引くっていうのは、案外、誰かを傷つけるものよ。覚えておくといいわ」
俺は、一己に遠慮しているんだろうか。
オフェリアと別れて教室に戻りながら、俺は悶々と考え込んでいた。
改めて考えてみても、よくわからない。奥野のことは最初から「一己が好きな女」として認識していた。その時点で恋愛対象からは外れていたわけだが、それは、そんなに薄情で不自然なことなんだろうか。責められないといけないような思い込みなんだろうか。
だったら、俺は、奥野を「そういう対象」として考えないといけないのか?
考えれば考えるほど眉間に皺が寄ってくる。
白状しよう。未だに俺は、この期に及んでも、「何かもう全部なかったことになればいいのに」と思っている。往生際が悪いとののしってくれて構わない。
――それはともかくとして、この子はなぜこんなところに隠れているのだ。
渡り廊下の植え込み陰にちまっとした体を縮こめて、一己の様子を伺う鈴ちゃんの姿に、俺は声をかけたものかどうか真剣に悩んだ。
「……何やってんだ?」
鈴ちゃんは、はっと顔を上げ、続けて勢いよく頭を下げた。
「二巳さん。さくやは、たいへんおさわがせをいたしました」
生まれてこのかた、名前をさんづけで呼ばれたのは初めてだ。しかも年下の女の子。
途方もない違和感でよろめいた俺に、彼女は真剣な顔をして再びしゃがみこんだ。視線はもちろん、一己に固定されている。
その様子は姿形が子供なせいで、どう頑張って見てもかくれんぼにしか見えないのだが。
「……学校、行かなくていいのか?」
「おやすみをいただきました」
それはサボリの婉曲表現か、それとも本当に許可を取ってきたのか。どちらもありえそうなのが不気味だ。
つついても蛇をだしそうなので、とりあえず話題を変えることにした。
「話は戻るけど、何やってんだ?」
「ワナをはりましたので。かかるのをまっています」
「……まさかあいつが囮なんじゃないだろうな」
しまったとばかり、鈴ちゃんが口をつぐむ。
そのこめかみを拳でぐりぐり締め上げたい気分になったが、「一己に言え」とは今朝俺が幼なじみに言ったばかりの台詞だ。
よろよろと息を吐いて、俺はその場にしゃがみこんだ。
頼むから巻き込んでくれるなと、心底から思う。一己本人に面倒ごとを回避するつもりがないのだから、この子に言ってもしょうがないとはわかっているのだが。それでも恨み言の一つも言いたくなる。
「……もうしわけありません」
顔を上げれば、鈴ちゃんがうつむいていた。……態度で十分すぎるほど伝わっていたらしい。
「まきこむつもりは、なかったのです。まさか、こんなことになるなんて……」
「あー、うん」
「ですが、一己さんは、こうきだと言ってくださいました。かんしゃにたえません」
こうきって何だ。校旗か。――なわけがないか。こうき……好機?
「好機? チャンスってことか? 何の」
「……ごめんなさい、もうしあげられません。ですが、きょくりょく、一己さんにはきがいのおよばぬよう、つとめますので」
思い詰めた顔で、鈴ちゃんはきっぱりと言い切った。
俺の胸のなかを、苦いものがよぎっていった。
どうしてどいつもこいつも、一己に賭けようとするんだろう。
昔からそうだった。あいつはいつだってぼけっとした顔で、当たり前のように誰かに迷惑をかけられて、当たり前のようにそれを乗り越え続けてきたのだ。
まるでどこぞのヒーローだ。度を超えたボランティア。普通なら死んでいるんじゃないかと思うほど危険な目に遭い続けているのに、あいつにはためらいというものがない。
それと同じくらい、執着も。
放っておけないと言うくせに助けたらその後は見返りを求めるわけでもなくて、なんでもなかったかのように日常に帰ってくる。
だからみんな、あいつを追いかけるんだろう。
そんな片割れが、初めて執着をみせた女――それが奥野だったのだ。
見た目以外まったくもって普通じゃないあいつが、奥野に対してはまるで普通の高校生みたいだった。明らかに意識しているくせに器用さなんてかけらもないじれったい距離を取って、ただ視線ばかりで奥野を追って。
うまく行けばいいと思っていた。
そうしたらあいつも、少しは自分を、大事にしようとするんじゃないかと、そう思っていたのだ。
どうしてこう、人間の感情ってやつはうまく行かないんだろう。
特定多数の美女美少女に想いを寄せられるより、たった一人、求めた相手の心が手に入る方が、あいつにとってよっぽど大きな意味をもっていると思うのに。
(……どうすりゃよかったんだよ)
しゃがみこんだまま深すぎるため息を吐いたとき、鈴ちゃんが勢いよく立ち上がった。
「――きました」
「え」
確認する暇もない。
何かが衝突するような強烈な音。続いて、視界を塞ぐほどの土煙が巻き起こった。
思わず腕で目を庇ったとき、鈴ちゃんの声が届いた。
「二巳さんはあんぜんなところへ! 一己さんはわたしがまもります!」
「ちょ」
安心させようとしたのかもしれないが、かえってその台詞は不安だ。
どうにか薄目をあけて一己の姿を探し、俺は、信じられない光景に息を呑んだ。
地面がえぐれた異様なクレーター。その端で、一己が誰かをかばうように、その腕に抱えている。
肩に掛かる程度のまっすぐな黒髪。華奢な肩。校則通りのスカート丈。
紛れもなく、奥野だった。
「なっ……どうしたんだよ、おい! 大丈夫か!?」
「なんとか」
いつも通りののんびり加減で、答えが返ってきた。
ぶっとんだ非日常に巻き込まれた奥野は、ショックが強かったのか呆然としている。
あわてて駆け寄った俺に、一己はため息を吐いた。
どこか、ほっとしたような様子だった。