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 ログイットは貴人の躯を見下ろし、短く息をついた。
 警護官が自失状態のユラを支え、屋外へと避難させていく。一瞬だけ警護官と目が合った。体格こそ比べ物にならないほど屈強だが、女性らしい細やかな気遣いができる人物だ。うまくケアしてくれるだろう。

 人を殺すのは初めてではない。
 それでも、後にくる鳩尾の重苦しさは、いつまでも変わらないままだ。

 廃棄された信仰の眠る場所は形骸を残したままで、光景を非現実的に美しいものにしている。高窓の長い影を目でたどり、時間の経過を推測した。
 時計を見るつもりにはなれなかった。
 吐き出すことのできない重さを抱えたまま、もう一度ゆっくりと嘆息したとき、打ち捨てられた聖堂に奇妙な二重声が響きわたった。

「何をため息ばかりついているんだい?」

 神経が一瞬で張りつめる。刃を翻したログイットは、ぎくりと身を竦めた。
 なにしろその声は、他でもない、床の生首が発したものだったからだ。

「なかなかいい反応だね。嬉しいよ」

 クランヘルムはそう言い、愉快げに笑みまで浮かべて見せた。
 何度見直しても頭部だけである。どう見ても生きていられるはずがない状態だ。
 しかし、よく見れば、頭部からの出血があまりに少ない。
 まさか頭を落としてなお倒せないとは思わなかった。苦々しさを押し込めて無表情を保つログイットに構わず、クランヘルムは滔々と話し続ける。

「そう警戒しなくてもいい。種明かしをするなら、ただの延命処理の成果だ。保存しておいた酸素と血と秘密の何かを使ってごまかしているだけだからね。放っておけば約九分で死に至る。――ああ、うまく声帯を残しておいてくれて助かったよ。代替手段は用意していたけれど、その場合の残り時間は四分だった。人間が首だけで生きていけるようになるには、あと数百年は必要だろうね」

 そんな時代は来なくていいと、心から思った。

「……目的は何だ」
「ただの雑談さ。末期まつごのね。まだ死ぬ予定ではなかったのだが……まあ、死んでしまったからには、さすがに諦めるしかない。残念ながらここまでだ」

 ログイットは苦々しい思いで口をつぐんだ。そう簡単に切り替えられるなら、なぜ生きているうちにそれができなかったのだと、文句の一つも言いたくなる。

「俺よりも……彼女に、何か言うことはないのか」
「何を言っているんだ、可哀想じゃないか。こんな光景を見たら心に傷を負ってしまう。その点、君は僕を殺した張本人だからね。この状態の会話に付き合わせることに良心も痛まない。――さて、感想はどうだい?」
「……ひどい悪夢だ」
「それは重畳。少しは意趣返しになったなら、このざまを晒した甲斐があるよ」

 ログイットのこの上ない渋面は、異端の天才のお気に召したようだ。
 この軽妙さでユラに向かってぺらぺらと喋ってくれたなら、心の傷を深めるどころか、絶望も悲嘆も馬鹿馬鹿しく思えるようになったのではないか。
 一度無表情を崩してしまうと、気持ちを持ち直すことは難しい。
 ログイットはため息を一つ落とし、剣先を突きつけたまま言った。

「話は終わりか」
「自分の立場がよく分かっていないようだね。僕を殺したことで、この先、神殿の支配はさらに続くだろう。搾取され管理された歪な世界だ。……おかしな話だとは思わないか? 〈神殿〉が絶対的な強者であることができるのは、魔力の源泉を支配しているからだ。逆を言えば、それだけで〈神殿〉は八百年の停滞を築き上げたんだ」
「それだけで八百年の平穏が得られるなら、人類の大半は、それを歓迎するはずだ」

 口上めいたクランヘルムの演説を、ログイットはため息混じりに遮った。

「子供の頃から思っていたことがある。……『悪い王様』がいなければ、『英雄』は存在し得ない。〈神殿〉がある程度まともな支配を続けていく以上、貴方は所詮、異端者以外のものになることなどできない」

 神殿は圧制を敷いているわけではない。確かに世界のすべてをその力で支配しているが、建国当初のお題目は今も生きたままだ。
 戦争の抑制、差別の撤廃、貧困からの救済――管理者気取りだと非難したところで、大多数の人間がその支配を受け入れるやり方をしている。

 クランヘルムが目を眇めた。
 この状況でも表情筋が作用するのだから、まったくもって無駄な技術力だ。

「ああ、まいったな。これほどまでとは。君は完璧な――体制の犬だ」

 興味を失った冷ややかな目がログイットを見上げる。
 そろそろ、この悪夢も時間切れだろう。

「最後に一つだけ、君に呪いの言葉をあげよう。……彼女リッテは君を許さない。自分自身を許せない。彼女はおそらく絶望の裡に沈むだろう。そう……他ならない、君の手によって」

 ログイットが息を詰める。
 憤りが腹の底を焼いたが、今度はもう、それを顔に出すことはしなかった。

「……そんなことにはさせない」
「うん? 何か、打つ手でも持っているのかな」
「貴方が心配する必要のないことだ」

 感情を殺したログイットの返答に、クランヘルムは薄く笑った。
 高窓から差し込む日は傾き、燃えるような赤い色へと変わっている。
 謳うような声が嘯いた。

「――そうか。ならば、一足先に地獄で待っているとしよう。
 再び相まみえる日が楽しみだ。君がこちらに来た暁には、思う存分、嘲弄してやろうじゃないか!」

 

 

 

 ユラが気づいた時には、傷の手当もとうに済み、毛布でぐるぐる巻きにされ、冷め切ったカップを両手の中で握っていた。
 自分がいる場所が分からず、混乱で頭がぐらぐらと揺れていた。そんな状態でも抜け落ちることのない現実の痛みが、喉の奥で存在を主張している。
 悄然とうなだれたまま、ユラはカップの水面を見つめた。
 ――どこでどうしていれば、違う結末を迎えられたのだろう。
 必死になっていたことは、何一つ意味がなかった。

 生きていて欲しかった。それだけだった。そのためなら、誰に憎まれても構わなかった。他ならないクランヘルム本人にさえ。
 自己満足だと分かっていて、それでも、諦められなかった。
 生きていて欲しかった。――それが、何かの償いになるつもりでいたのだろうか。
 なんて滑稽なのだろう。
 自分がどうして生きているのかさえ、わからなくなりそうだった。

 絶望は底のない沼に似ていた。息苦しさに止まりそうな呼吸をゆっくりと繰り返し始めたとき、ようやく、近くでがなり立てている声に気づいた。

「陛下、じきに日が沈みます。王宮にお戻りを――」
「ええい、うるさい! 軍はまだ来ぬのか!? 大逆者を逃がすなどまかりならんぞ!」
「承知しております。しかし……」
「中はどうなっておるのだ! いっそ、この襤褸小屋ごと潰してしまえ!」

 確かに年季の入った廃屋ではあるが、簡単に解体できるほど小さなものではない。
 怒り狂う国王に近衛が苦慮する中、新たな一団がその場に現れた。
 前に進み出たユールディクスの姿を認め、国王が落とさんばかりに目を剥いた。

「ご無沙汰しております、父上。お元気そうで……と言いたいところですが、症状は悪化の一途をたどっているようだ。心底残念ですよ」
「ユールディクス、貴様……なぜここに……」
「おや、おわかりでない? 担ぎ出されたんですよ、あなたの尻拭いにね」
「な……なんだと!? どういうことだ!」

 唖然としていた近衛が我に返り、職責を果たすべく王を庇う。
 だが、うろたえる姿からも、震えをごまかすような怒声からも、すでに主君としての峻厳は見いだすことができなかった。
 息子の周囲を固める軍人や、反目していた将軍の顔を見比べ、王が顔から血の気を引かせていく。
 ユールディクスは言葉通りに残念そうな顔でかぶりを振り、ゆっくりとした口調で告げた。

「貴族院は本日付けであなたの廃位請願を決議しました。まあ、非常にわかりやすく言うなら――もうあんたにはついて行けない、ってことですよ。国王陛下」
「馬鹿な……馬鹿な! この余が、廃位だと!? そのような辱めを受ける謂われなどないわ!」

 追いつめられた王は、爛々と燃える目で唾を飛ばした。

「何故わからぬ! ガルフォールトにとってセレズの地がどれだけ重要なものか……! 忌々しい〈神殿〉からあの地を取り戻すには、この国に力が必要なのだ!」
「で、改めてガンプリシオを死の街にしかけたってわけですか。そりゃクーデターも起きるってもんですよ」
「ええい黙れ、黙れ黙れ! 貴様は何も分かっておらん! 余こそがガルフォールトの王、余以上にこの国を憂えているものなど、この世のどこにもおらぬのだ!」

 軍人からも近衛兵からも苦々しい空気が満ちていく中、ユールディクスは呆れ混じりに肩をすくめた。

「その結果がこれです。港がひとつ使いものにならなくなり、〈神殿〉への借金を増やす始末だ。立派な王様のなさることとは思えませんね」
「騙されたのだ! あの生白い化け物さえいなければ、今頃は……!」
「それはそれでみっともない話ですがね。……陛下、何よりもあなたの最大の失敗は、兄上を殺したことですよ」

 それは、誰もが感じながら、口に出せずにいた疑いだった。
 六年前、落石事故により非業の死を遂げた第一王子。父王と対立しつつあった彼が命を落とした事件が、果たして人為のないものであったのか――それを疑う声は、この国の奥深くで常にささやかれ続けていた。
 顔を蒼白にした王が、うろたえながらも首を振る。

「な……なにを、あれは事故だ……!」
「事故ねぇ。まあ、それでもいいです。今さら詮無いことだ。……兄上がご存命なら、あなたの進退はまだしも穏やかに問われたでしょうが、残念ながらいらっしゃいませんので。悠々自適のご隠居生活とはなりませんが、まあ、因果が巡ってきたのだと諦めてください」

 手を挙げたユールディクスに呼応し、軍人が王を拘束する。
 それでも無礼だと喚き続ける王の姿を、ユラはぼんやりと眺めていた。

 これが、この国の選択だった。これが正しい方法なのだと言われたような気がした。
 多くの人間が関わり、秘密を守りながら手順を踏み、多くの意志を固めて――頭上の存在に「否」をつきつけた。
 ユラにはできなかった。そうしようとさえ思わず、おそらく不可能でもあった。
 けれど、それでも、後悔が湧き出ることを止めることはできなかった。
 どうしてここにいるのかさえ、疑問に感じていた。自分の存在に、生きながらえていることに、何の価値もないような気がした。
 涙さえ出てこなかった。

 ニッツフェンが一団を離れ、ユラの元へ歩み寄ってきた。
 毛布に包まれた様子を見て不安になったらしい。ユラを気遣った警護官が代わりに説明を買って出た。低めた声のやりとりが耳を掠める中、不意に、ニッツフェンの声が苦々しさを増した。

「ログイット、ご苦労だった。……怪我を負ったか」
「軽傷だ。大事ない」

 黒い服が所々塗れていた。
 血の臭いが鼻をつき、遠かった現実感を目の前につきつけた。
 ――殺したのか、というニッツフェンの怒りに滲んだ問いかけを、ログイットは肯定した。
 そのままユラの前に立ったログイットが、痛ましげな顔で口を開く。
 考えるより先に、その言葉を遮っていた。

「謝らないで」

 口にした後で、本心だと思った。
 固く拳を握りしめ、ユラは捲し立てるように言った。

「仕方なかったんだって分かってるわ。契約違反でもない。ちゃんと理解してる。……だから、謝らないで」
「……すまない」

 謝るなと言ったばかりだ。
 かっとなって顔を上げたユラを、ログイットは、感情の見えない目で見下ろした。

「彼は、あまりにも危険だった。自己中心的で強い信念を持つ確信犯だ。……ここで逃がした場合、第二のガンプリシオを作ることは予想に難くない。見逃すことはできなかった」
「……黙ってよ……」
「君の希望も、ニッツの指示も、裏切ることだと理解している。だが、この国のために必要なことだった。勝手だとは思うが、俺の独断だということだけは――」

 カップを倒して立ち上がったユラが、力の限りログイットの頬を張った。
 しん、とその場が静まり返る。
 肩で息をしながら、ユラは怒りに震える声で言った。

「……謝るなって言ってる。嫌ってほど理解もしてる……! 心配しなくても約束は守るわ。ちゃんとあなた達に有利な証言をしてあげる。……だから、もう、余計なことばっかり喋らないで。誰も言い訳なんて頼んでないわ!」

 足にまとわりつく毛布を跳ね飛ばすようにして、ユラがきびすを返す。
 怒りに満ちたその背中を目で追い、ニッツフェンはこの上ない渋面でログイットを見た。

「……ログイット。お前――」

 苦々しく飲み込んだ言葉の先を、警護官が女性らしい率直さで口にした。

「わざと、あんな言い方を?」
「……いえ」

 出てきたのは否定だったが、取り沙汰する価値もない。
 警護官は呆れの色濃い渋面で、かぶりを振った。

「確かに、怒りは原動力になります。彼女には適切だったかもしれませんが……それにしても、もっとやり方があったでしょう」
「その通りだ、ログイット。下手をすれば、協力を拒まれるところだった」
「……ああ。すまない」

 ログイットは従容としてうつむくだけだ。
 警護官はため息を吐き、ユラが去った方角に足を向けた。警護の任はまだ解かれていない。一人にして欲しいとユラ自身が望んでも、その身の価値を考えれば、守る人間が必要だ。
 ふと、彼女は思い出したように足を止めた。

「一つだけ申し上げると――だから、貴方は女性にもてないのだと思います」
「え」
「気は回るのですから、せめて好意のある相手くらいには、その無駄な自己犠牲精神を押さえなさい。……では、失礼」

 虚を突かれたログイットが、去っていく背中を呆然と見送る。
 ニッツフェンは打つ手なしとばかり、片手で顔を覆ってため息を吐いた。

 

 

 

 廃屋の裏に回り、ユラはやり場のない怒りに壁を叩いた。
 しびれて痛いばかりで気など収まらない。腹の奥を焦がすような激情に振り回され、唇を噛んでその場にしゃがみ込んだ。
 ログイットの発言は分かり切ったものばかりだ。目新しさなど何もない。――ユラが自分に言い聞かせようとしていた内容、そのままだった。

 わざとあんな言い方をしたのだとわかっている。
 だからこそ余計に腹が立つのだ。一発殴ったくらいではとても収まらない。

 泣き出したいという能動的な気持ちを、ようやく思い出していた。
 挑発されてそうするのは我慢できない。ひたすら唇を噛んで耐えているところに、足音が近づいてきた。

 思わず身を固くしたが、いやに軽い足音だった。
 まさか、と顔を上げたユラの目に、予想通りの少女の姿が飛び込んでくる。

「ユラ!」

 大きなリボンを揺らしながら駆けてくるティティを、ユラは唖然と受け止めた。
 地面についた両膝が砂利で痛みを訴え、これが現実なのだと思い知った。

「ちょ……ちょっと、冗談でしょ、どうしてこんなところにいるのよ! 危ないじゃない……!」
「とうさまが行かせてくれたの!」
「な……」
「ごめんなさい。だって、ユラのことしんぱいだったんだもの」

 怒りに火をくべるような新事実だ。どうやら兄の方も尋常な人間ではなかったらしい。
 怒鳴るに怒鳴れず声を失う。会ったこともないお貴族様を頭の中で殴り飛ばしていると、ティティがユラの両腕に手をかけ、真摯な面もちで顔を覗き込んできた。

「けがをしていない? どこか、いたいところはない?」
「……ないわよ」
「うそ。なきそうだわ。だれかにいじめられたの? ロギー君?」
「……別に、そんなのじゃないのよ。大丈夫だから」

 ため息のような声で答えると、小さく柔らかな手が頬に触れた。
 思わず身を引きそうになる。
 ティティの眸は、春の空のような、澄んだ色をしていた。

「ユラ、言ってくれたわよね。かなしくないときには、かなしまなくていいって。
 でも、だめよ。ほんとうにかなしいときは、がまんしちゃだめ。……かなしいときには、ちゃんと泣かなくちゃだめなの」
「……何言ってるの。平気よ。大丈夫」
「もうっ」

 ティティが頬を膨らませた。

「だめじゃない、ユラはおとななんだから。こどもをこまらせちゃだめ!」
「……なによ、それ。大人しく泣けってこと?」
「うーん……よくわかんないけど、がまんしちゃだめってこと!」
「まったく……どこから拾ってきたのよ、変な屁理屈……」

 まだ笑えると言うことが不思議だった。けれど、苦笑することに失敗して、喉が引きつった。
 張りつめていた感情が、堰を切って溢れだした。
 悲しかった。苦しかったし、悔しかった。自分の無力さが嫌で堪らなかった。何もかも失ったような気になっていた。
 それでも、守りたかった全てを失ったわけではないのだ。

 ティティがユラの頭を抱えるように抱きしめる。子供体温のあたたかな身体を掻き抱き、ユラは嗚咽を押し殺すようにして泣いた。
 願えるなら、きっと、こんな子供になりたかった。
 疑う余地もなく愛されて、何の迷いもなく愛情を分け与えられる。屈託なく笑い、怒り、泣くことができる。満ち足りて完成された、できすぎた理想の形。
 ――本当は、理解している。そんなもの、ただの幻想の押しつけだ。ティティにとっては良い迷惑だろう。
 それでも、今だけなら。変に背伸びをした度量を見せる、この子が相手なら。
 身勝手な感傷の投影を、許して貰える気がした。

 夕日が沈む。
 赤く染まった空が、宵の紺碧へと変わっていく。
 身に馴染んだ闇が訪れるまでの短い猶予は、ただひたすら、ユラに優しいものだった。