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 その廃教会は、郊外に続く街道を少し外れた場所にあった。
 人目につくほど街中ではないが、向かうこと自体が目立つほど街外れでもない。人や物を運びこむのに適した潜伏場所だ。
 近くまで車で乗り付けての道のりだったが、鍛えていない上に体調不良を抱えるユラの身には堪えた。汗だくにも関わらず顔色は蒼白で、予定しない休憩を挟む羽目になったほどだ。
 明らかな足手まといだったが、ユラ以外の人間は誰一人として苛立ちを見せなかった。それどころか警護官の一人は、体格とは裏腹の女性らしい細やかさで布に水にと世話を焼いた。完全に、警護対象者としての丁重さだった。

 二十分程だと言われた道のりを一時間近くかけて歩ききり、たどり着いた信仰の廃墟は、赤煉瓦を所々欠けさせながらひっそりとその場に立っていた。
 慎重に罠の有無を確認しながら中へと足を踏み入れたが、いずれも解除されていた。

「……これも動いてないわね。歓迎されてると思っていいのかしら」

 小さく呟いたユラを、隊長がその場に留めた。

「奥で声がする」
「それって――」
「先客があるようだ」

 崩れた資材や砂で足場が悪い。
 息を詰めて中央広間に向かった。立ち並ぶ円柱は在りし日の姿を残しているが、木製のベンチはまるで折りたたまれたかのように潰れていた。高い窓から冬の陽光が差し込み、どこか退廃的な美しさを作り出している。
 近衛を連れた王と対峙する、白装束の人物は、淡い笑みを浮かべ、主人然としてその光景の中心に立っていた。

「どういうことだ、クランヘルム! 貴様、汚染指数は危険値を下回っていると言ったではないか!」

 白装束はゆったりと唇の端を釣り上げた。
 長い髪も、襟のついた長い外套も衣服も靴も、そして顔も、亡霊のような白さを持っている。笑みに細まるその目だけが、異様に鮮やかな本紫に染まっていた。
 後ろには数日前にユラのフラットを襲った黒装束が影のように立っている。日中でも、フードの奥の顔は見えず、不気味な存在感を放っていた。

「それを言ったのは僕ではないだろう? 国王陛下お抱えの魔工技師もどきが、お望みのとおりに出した数値だ。信頼するほうがどうかしている」
「貴様……! 予への恩を忘れたか、この逆賊めが!」
「おやおや。お望み通り、〈傘〉を破壊してみせたというのに……。良かったじゃないか、〈神殿〉の鼻はあかしてやれたはずだよ。歴史に名を残したことだろうね。……その末期がどうなるかは、僕の知るところではないが」

 悪意が滴り落ちるような嘲笑だった。
 音が回る違和感に、ユラは唇を結んだ。この距離でも不快感で耳が痛い。音が重なっているような、響き合っているような、奇妙な声だったが、そう感じているのはユラだけのようだ。
 様変わりしているクランヘルムの姿に、指先が冷たくなる。背筋をかけのぼる緊張をどうにか抑えこもうとしたとき、隊長が苦々しく吐き捨てた。

「馬鹿な……よりによって、王がここにいるなど……」

 ユラは怪訝に思って顔を上げた。支援者が国王である可能性は察知していたはずだが、それにしては焦りがある。
 聖壇の前では、近衛が剣を抜いていた。

「神をも畏れぬ狂人めが! 予を愚弄した罪、とくとその身に刻んでくれるわ!」

 王が吼える。クランヘルムは静かに微笑み、小首を傾げるようにして先を促した。

「短気なことだ」

 黒い影が動いた。金属が軋むような異音とともに、襲いかかる近衛の一人を跳ね飛ばす。
 人間ではありえない膂力で宙を飛んだ近衛が壁に叩きつけられるまでの間に、クランヘルムが無感動な笑みで右手を閃かせた。
 炎の柱が上がり、高い天井に絶叫が響き渡る。火を消そうともがく姿はあまりに異様で、戦意を凍りつかせるに足る不気味さだった。

「ば……化け物め……!」
「それは大層な呼び名だね。種も仕掛けもある、ただの手品さ。……火事を起こしてもいけないな。そろそろ消火しておくとしよう」

 次の瞬間には、黒焦げになった人間の氷像が床に転がっていた。
 人形めいた白皙の顔が、薄く笑う。

「さて、話の続きを聞こうか?」

 ――悪夢のような光景だった。
 止める間も、割って入る間もなかった。鳩尾に重苦しさを覚え、ユラは拳を押さえつけて吐き気を飲み込む。
 険しい顔で思索を巡らせていた部隊長が、短く息を吐いた。

「バレーノ博士、我々は王を保護する必要がある。手数を減らすことにはなるが……」
「……いい。構わないわ。気を引いてみる?」
「頼めるか。一班は私とともに、王の保護に当たれ。二班は本部に状況を報告。三班はバレーノ博士を援護。――状況はより困難だ、くれぐれも深追いするな」

 部下の面々が頷いて返す。
 一つ、深く息を吐いて、ユラは膝を伸ばした。
 半ば剥がれたタイルの上を歩き、真正面から姿を見せる。
 ユラに気づいたクランヘルムが、紫眼を笑みの形に緩めた。

「待っていたよ、僕の紅樒リッテ。久しぶりだね。変わりないようで、とても嬉しいよ」

 邪気のない声に、怯みそうになった。
 変わりない口調で、昨日別れたばかりのような笑顔だった。だが、変わっていないはずはない。魔素の影響だろう。虹彩も、髪も、記憶にあるものとは全く違う色をしている。一つに束ねた白い髪は、たった二年という歳月では考えられないほどの長さだ。
 しつこく請われて使うようになった馴れ馴れしい口調と呼び方をまだ使っていいものかが悩み所だ。
 不安と警戒感を掻き立てられながら、ユラは結局、昔どおりの憎まれ口で返した。

「……あなたは色々、変わったみたいね。ずいぶん真っ白になってるじゃない」
「そうなんだよ。魔素による影響は、加色混合のようなんだ。光と同じだね」

 思わず興味を惹かれたが、視界に入った氷漬けの死体に、状況を思い出した。
 そして、自分の立場も。
 大きく息を吐き、ユラはかつての上司を見据えた。

「結構なお呼び出しをもらったけど、来客中だったみたいね」
「ただの暇つぶしさ。すぐに終わらせるよ」
「お帰りいただければいいだけの話でしょう。……殺す必要なんてないじゃない」

 クランヘルムはゆったりと首を傾げたが、王の方へ翳した手を動かすことはなかった。

「思っていたよりも、大所帯で来たようだ」
「一人でくるほどの度胸はないわ。……私のしたことを考えれば、出会い頭に殺されても不思議はないもの」
「まさか。そんなことはしないよ」
 
 本心だろう。フラットの場所を突き止めておきながら、殺しもしなければ、浚いもしなかった。
 相手の考えを読み、逃げ道を塞いだ上で、自ら選ばせる――クランヘルムらしいやり方だ。
 床にへたりこんだ王のもとへ、隊長が駆け寄った。近衛の生き残りを助けて王を退かせようとするも、手勢が増えたのを見た王は譫言のように喚き始めた。

「陛下、ここは危険です。お下がりを!」
「何を言う、早く奴を殺せ! 見たであろう、このような化け物……野に放てば災厄となるぞ!」

 劣勢をものともしない発言に、ユラの顔から血の気が引いた。
 クランヘルムが、くつりと笑う。

「やれやれ。君の思いやりは、相変わらず報われない運命にあるようだ」
「やめて!」

 ユラが叫んだとき、鋭い金属音が響いた。
 再び出現した炎は、大きく狙いを外して空を舞う。外套を傷つけることさえできなかったナイフが、床に落ちた。クランヘルムがそれを見下ろし、無表情にバルコニーを仰ぐ。

「そこかな」

 今度は爪先を踏み鳴らす。二度目の音でバルコニーの中に破裂音が響いた。
 ユラは焦燥も露わに振り返った。

(ログイット……!)

 別働隊がいるとしたら、おそらく彼以外にない。もうもうと上がる土煙の中では、悲鳴が聞こえることも、姿を見つけることもできなかった。
 相手の隙を見極めた隊長が、有無を言わせずに王を聖堂から連れ出す。クランヘルムはそれを止めるそぶりもなく、バルコニーを眺めていたが、やがて無表情に呟いた。

「――手応えがない、か。逃げられてしまったかな」

 涼しい顔で言う姿に、ユラの背中が冷たくなる。
 かつてのクランヘルムは、自らの手で人を殺すような真似はしなかった。作り上げた禁術が夥しい数の死体を作ることは知っていても、大した感慨もなく人を殺せる人間ではなかった。
 この姿が、ユラの裏切りが引き起こした変化なのか。
 絶望感に、目眩がした。

「泣きそうだね、紅樒リッテ

 困ったような顔で、クランヘルムが言った。

「……誰が……」
「本当に変わらないな。君は昔から、意外と他人に甘いんだ」
「……こんなものを見せたくて、私を、呼んだの」
「まさか」

 差し出された手のひらを、信じられない思いで見つめた。
 愕然と目を瞠るユラに、クランヘルムは非現実的な笑みをゆったりと深めた。

「君を迎えに来たんだよ、僕の紅樒リッテ。もういい頃合いだろう。……そろそろ、僕の元へ帰っておいで」

 

 

 

 場の空気が冷たく張りつめた。
 護衛役に残った警護官は契約通りにユラの意向を汲んで動きを見せなかったが、跳ね上がった警戒心が肌を刺すほどの密度になっている。
 うまく動かない唇をわななかせ、ユラは半ば無意識に、かぶりを振っていた。

「何を言って……」
「そんなにおかしなことかい?」
「私は、あなたを裏切ったのよ……?」
「構わないよ。何度でも裏切ればいい。僕は何度でも、君を許す」

 正気の沙汰ではない。
 クランヘルムは差し伸べた手を降ろさず、柔らかく微笑んでいた。
 ひどく甘く、いたわるような声だった。ぶれるような二重音声が鼓膜を揺さぶり、ユラに痛みを与えていく。

「わかっているよ。君がこの二年、どんな風に生きてきたのか。……後悔してはいけない、孤独だと思ってはいけない、間違ったことなどしていない。幸せになってはいけない。不幸でいてもいけない。そうやって――息を潜めるようにして生きてきた」
「っ……」
「そんな君にこそ、この先を見て欲しい」

 ユラは近づいてくるクランヘルムを呆然と見上げ、目の前に差し出された赦しの手に、顔を歪めた。

「この世界はあまりに歪だ。〈神殿〉は国々を支配し、発展を拒み、変化を抑制している。泥のような安寧ですべてを覆って、欺瞞と偽善で塗り固めている。そんなものは、正しい人間のあり方ではない。この強固な檻を壊すためには、それに見合う力が必要だ」
「……クランヘルム……」
「他の誰でもない、君に見せたいんだよ。僕が作り出す美しいものを。そして、その先にある新しい世界を」

 空中に舞う埃が細かく光を弾き、白い姿の現実感を失わせていた。
 終末の笛を吹く天使というものがもしいたのなら、きっとこんな形をしていた。
 その意味するものは一つ。〈神殿〉が世界を統治する前、魔工兵器の開発競争で滅びかけた、暗黒時代の再来だ。
 ユラは唇を結び、握りしめた拳を心臓に押し当てた。
 もとより、言葉で説得できるとは思っていなかった。まだ、無力感に苛まれるには早すぎる。

「……あなたにとって、私には、それだけの価値があるということ?」
「博士! いけません!」

 背後から、警護官がたまらず声を上げた。
 黒装束が床を蹴り、彼女に襲いかかる。体格では互角だ。応戦せざるをえなくなった警護官が、焦りを浮かべて再びユラを呼んだ。
 その声は確かに聞こえていた。けれど、それに答えることはできなかった。
 さしのべられた手はあの日と同じだ。何も変わってなどいない。精一杯の虚勢をかき集め、その手を取る。無機質めいたクランヘルムの顔が、深い笑みに染まった。

「そう。それでいい。この歪な世界を、僕は――」
「昔から」

 感情のない口上を遮った。胸の中に沈殿していく重いものが、そのまま声の苦さになった。

「昔から、そうだったわ。あなたはいつだって正しいことを言っていた。だから、誰もがあなたを信じていた。……だけど、私には……それが本音に聞こえたことは、一度だってなかったのよ」

 ひやりと冷たい風が頬を掠めた。
 これが夢などではなく、紛れもない現実なのだということを確かめるため、ユラは挑むように言葉を続けた。

「あなたは、単に〈神殿〉が嫌いなだけよ。自分が作りたいものを妨げるものを嫌って、取り除きたいと思っているだけ。……それが引き起こす結果なんてどうでもよくて、ただ自分の欲求をかなえたいだけ。崇高な理想なんてものは、あなたにとってただの道具でしかないわ」
「辛辣だね。以前は聞けなかった、君の本音かな」
「そうね。そうだった。……言ったって聞かないって思いこんで、結局、自分可愛さに口をつぐんでいたわ」

 けれど、もう逃げないと決めた。
 どうしても受け入れられないものがある。彼を止めたいと心から願っている。
 それならば、適当に受け流すのではなく、今度こそ言葉を尽くすべきだった。

「ねえ、クランヘルム。その新しい世界を作るために、一体、何人殺すつもりなの? ……数千人? 数万人? ……それとも、数百人に抑えてみせるって、そう言う?」

 クランヘルムは答えなかった。
 人の色ではあり得ない紅紫の目を眇め、静かにユラを見返す。

「でもそれって、ただの数字なんかじゃないわ。そのほとんどの人間は、あなたと関わり合いのない人たちよ。普通に生活して、日々働いて、家族を守って、仲間と笑い会って、誰かを愛してる。そんなささいな暮らしをしている人たち。……そういう人たちを踏みにじることが、必要な犠牲だなんて、言わないで。お願いだから」

 自分のものよりも大きな、節くれ立った男の手を両手で包む。
 祈るように額へ押し当て、強い決意を持って瞼を伏せた。

「それでも理想を捨てられないっていうなら――私が、忘れさせてあげる

 手の中に握り込んだ、三枚の葉と片皿天秤の徽章を中心に術式が展開した。
 二人を中心にして、構成が円筒状に広がる。懐かしい色合いの青だ。
 頭上を仰いでいたクランヘルムも、それに気づき、ゆるく目を眇めた。

「……〈青い箱〉と同じ色だ。構成にも相似点がある。……美しいな」

 媒介はユラの体内にある。術式だけで作り上げた青い籠は、相手を逃がさないためというよりも、外界から隠すためのものだ。
 外から声が上がったが知ったことではない。ここで、横やりを入れさせるわけにはいかない。
 ログイットがこの場にいるというなら尚更だ。彼は取引内容の遵守よりも、おそらくユラの身を優先する。

「『忘れさせる』か。……なるほど。脳の記憶領域を弄る作りだな。記憶も人格も知識も――すべてが白紙に戻る。ついでに言うなら、この状況では君も道連れだ。思い切ったものだね」
「……自分でも馬鹿だと思うわ。これくらいしか思いつかなかった」
「これで僕の動きを封じたつもりかい?」
「まさか。あなたは私と違って、本当の天才だもの。隠し玉はいくらでもあるでしょ。……だから、私にできることは、あなたにお願いすることくらい」

 体中が軋んでいる気がする。痛み止めの効果はとうに切れていた。
 苦痛を押し殺しながら、ユラはクランヘルムの目を見据えた。

「これまでの私を全部あげるわ。何もかもすべて。……だから、お願い。私を選んで」

 伸ばされた手がユラの頬をそっと撫ぜる。
 耳元で、二重音声がささやいた。

「――残念だよ、紅樒リッテ。君に、その手の自己犠牲は似合わない」

 ぶつんと物理的な音を聞いた。
 背中を突き飛ばすような衝撃が体内を走り、呼吸が止まる。声にならない声が喉の奥から押し出された。

「かはっ……!」

 目の前が霞んだ。
 何が起きたのか分からない。立っていられず床に頽れたユラは、鳩尾を押さえて、ひきつるような呼吸を繰り返した。
 先ほどまで確かに稼働していたはずの術式が分断されていた。ユラの胴は不思議とくっついたままだというのに、内部に仕込んでいたものだけが、完全にその構成を二分され、意味をなくしている。
 どうやって、と、疑問が先に立った。
 それが解消するより早く、後ろから腕を掴み上げられた。
 いつの間にか背後にいた黒装束が、力任せにユラを立たせる。苦痛に呻いたユラは、黒い布の向こうにあるのが仮面だということに気づいた。

グエル。女性は丁重に扱うものだ」

 クランヘルムが告げた言葉に、ユラは大きく目を瞠った。
 呼吸が消えてしまったかと思うほど、思考が真っ白になった。

「グエル……?」

 働かない頭が記憶を呼び覚ます。
 特徴的な常緑樹の匂い。日溜まりと喧噪。
 それは、郷里の第六研究室で、犬猿の仲だった男の名だ。〈神殿〉の監視下にあるはずの男の名だ。
 姿は似ても似つかない。彼はもっと小柄で、おしゃべりで、感情をむき出しにする性質の人間だった。こんな人形のような男ではなかった。
 それなのに、確信してしまう。
 ここにいるのは、間違いなく、彼自身だと。

「……そんな。まさか……」
「そう。入れ物は違うけれど、中身は間違いなくグエル・キヴァ・アンダートンだ。本体は神殿の監視下にあるが、こうして時間を有効活用しているというわけさ。面白いアイデアだろう?」
「人間の……死体を、使ったのね……?」
「その通り。魔工で神経系を再構築した。防腐加工をするだけでは運動の負荷に耐えられないから、金属で補強しているんだ。憧れの、鋼の身体を手に入れたというわけだよ」

 ユラの反応を愉しむように笑っていたクランヘルムは、ふと目を凝らすようにして首を捻った。
 黒装束の左腕が、無惨に肩から切り落とされていることに気づいたためだ。

「ん、片腕を持って行かれたか。……ずいぶん手練れがいるようだね」

 そう言って向けた視線の先では、ログイットが大剣を構えて立っていた。
 ログイットの立ち姿はひどく自然で、隙がないものに見えた。無駄口を叩かず隙を狙っているのが分かる。鋭い視線が、クランヘルムを無感動に射抜いていた。 
 その目が何を覚悟しているのか、手に取るように感じられた。
 だめだ、と、本能的な危機感がユラを突き動かした。

「……クランヘルム、もうやめて! こんな方法じゃ、まともな国はあなたを受け容れない! もっと他に、やり方があるはずよ……! 建前の正しささえ捨てるつもりなの!?」

 クランヘルムの目がユラを見る。
 無駄だと分かっても叫ばずにはいられなかった。必死になって続けようとした言葉は、だがしかし、後ろから伸びた鉄の掌が喉に食い込んだことで、強制的に終わりを告げた。

「ぐっ……」
「博士!」

 喉笛を捕まれたまま持ち上げられる。焦りを含む声が聞こえた。警護官がログイットと何か言い合っているようだが、よく聞こえない。
 霞む目で見下ろした仮面は当然のように無機質だったが、激情家だったかつての同僚の憤怒が見て取れた。
 涙が滲んで、唇をかみしめた。
 ――恨まれることも、憎まれることも、覚悟の上だったはずだ。
 その覚悟が薄っぺらなものだと分かっていたからこそ、せめて、今度は踏みとどまっていたかった。
 結局は自己満足だ。やり方が間違っているのはユラも同じだ。結局、一欠片も伝わらない。

「グエル。やめるんだ」

 咎めるようなクランヘルムの声に耳を貸さず、黒装束は、振りをつけるように大きく腕を動かした。
 異様な膂力はすでに目にしている。このまま宙高く放り投げて高窓辺りにぶつけられれば、あっけなく人生が終わるだろう。
 振り子のように揺さぶられる中、せめてもの抵抗に相手の袖口を掴んだ。
 飛び込んできたログイットが剣を振るう寸前、冷ややかな二重声音がその場を支配した。

「まったく――君は本当に、聞く耳を持たないね。グエル」

 勢いをつけて投げ出される直前、巨躯が唐突に力を失った。
 黒装束が音を立てて倒れる。糸の切れた操り人形のようだった。
 床を滑るようにして転がったユラに、警護官が急いで駆け寄る。彼女はせき込むユラを助け起こし、敵を警戒しながら安否を尋ねた。

「博士、ご無事ですか!?」

 体中があちこち痛い。擦り傷と打撲だらけだが、骨は折れていないはずだ。
 頷くだけでかろうじて答えたユラは、懸命に気を保ちながら顔を上げた。
 黒装束は倒れ伏したまま、ぴくりとも動かない。

「クランヘルム……!」
「心配することはない、それはただの入れ物だ。本体に影響は――」

 一度距離をとっていたログイットが、皆まで言わせず下段から斬りかかる。
 生じさせた氷を盾にして打ち払い、クランヘルムは剣呑に目を眇めた。

「行儀の悪い犬だね。話し中だよ」

 ログイットが飛び退いた場所を、落雷のような轟音とともに閃光が穿つ。
 廃屋がびりびりと震えるかのようだった。
 ログイットが再び間合いを取り、クランヘルムを見据える。
 その顔には激情や怒りといったものはない。冷静な殺意を集中力に変え、打開の糸口を探している。

「そこのバルコニーから横槍をいれてきたのも君か。爆発はどうやって避けたんだい?」
「……攻撃がくることが分かっているなら、その場から動けば避けられる」
「なるほど、理にかなっているね。……では少々実験しよう。主題は人間の反応速度と、術式起動時間の差異だ」

 邪気もなく微笑んだクランヘルムが、指を交差させて右手を持ち上げる。
 ボッと鈍い音を立てて生まれた炎の帯が、駆け出したログイットを追うように尾を引いてひらめく。かと思うと出現した氷の固まりに跳ね飛ばされ、ログイットは床を転がるように受け身を取った。
 体勢を戻すより先にログイットが手を閃かせる。
 クランヘルムは顔の前で手を開いた。
 銀色のナイフは薄い手袋を破ることさえなく、軽い音を立てて床に落ちた。

「無駄だと、そろそろ分かってもいい頃だろうに」

 冷ややかな声が笑みを含んで言う。
 非現実的な戦闘に見入っていた警護官が、ユラを助け起こしながら、譫言のように呟いた。

「……にわかには理解しがたい光景です……。一体、どうなっているのか……」

 まったくもって正論だ。
 おそらく逆方向の運動量を生成することで相殺しているのだろう。理論上こそ不可能ではないが、馬鹿馬鹿しいほどのコストと叡知の産物だということは、容易に想像がついた。

 ログイットとクランヘルムの間には、攻撃手段に圧倒的な差がある。自然、ログイットは防戦に回っていた。
 だが、決定的な手傷を負う気配はない。
 クランヘルムが手数を重ねるごとに、その回避は攻撃を見極めたものへと変わっていった。
 読まれていることに気づいたクランヘルムが、愉快げに声を上げた。

「……なるほど! さっきの発言は、僕の行動を誘導するためか! 面白い!」

 立て続けに雷撃が続く。ログイットは敵の手元を見据えながらそれを避けていったが、収まる頃には、大きく距離が開いていた。
 ログイットは床に積み上げられた廃材を掴み、勢いをつけて相手に投げつけた。
 木の板が回転しながら宙を飛ぶ。さすがに虚を突かれたクランヘルムが、大きく腕を打ち振るって氷の壁を出現させた。
 耳障りな音とともに伸びた氷壁が、木材を引っかけるようにして弾き上げる。真っ二つに割れて空を舞った木板の残骸が、凍り付いた床に落ちて空気を震わせた。
 クランヘルムが初めて焦りを見せた。それは、形勢の逆転を予感させるものだった。

「……暗器が尽きたかと思えば、ずいぶん大味な真似に出たものだね」
「使えるものは使う主義だ」

 言うなり、ログイットが再び廃材を投擲した。
 それを追うように床を蹴って走り出す。
 炎が右上から迫る。身を屈めながら走り抜けることで潜り抜けたが、炎は大蛇のように急降下して襲いかかる。
 髪を焦がしながらバックステップでかわしたところに、矢のような稲妻が横薙ぎに飛んできた。
 氷だという予測を外したログイットは、とっさに足下の廃材を踏み上げた。
 空気が破裂したような音を立てて廃材が割れる。直撃は免れたが、床に残った雷までは避けられなかった。
 ログイットが右足を庇うようにして、苦痛の表情を見せた。
 クランヘルムが口角を持ち上げる。――見逃されるはずのない隙だった。

 鏃のような氷が生成され、ログイットの足下へ食いつくように伸びる。
 飛び退いたログイットは正確な目測で、氷の山を踏み台にクランヘルムの頭上を飛び越えた。

「なんだと? ……まさか!」

 姿を見失ったクランヘルムの肩に、重みがかかる。
 足を掛けられたのだと認識した時には、前のめりにバランスを崩していた。
 ログイットが空中で大剣を振りかざす。
 「やめて」と、ユラの口から無意識の声が出た。

「博士?」
「やめて、だめ……
 ……殺さないで……!!」

 ユラの叫びに顔色を変えた警護官が、とっさにユラの目を覆った。
 分厚い掌で、視界が闇に包まれる。
 形容しがたい水音混じりの、重い音が鼓膜を打ち、何かが、床に倒れた。