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 ジルセス家は閑静な住宅街にあった。緑豊かな町並みは美しく、治安のよさを見て取ることができたが、高級住宅街といった格式高い雰囲気ではない。
 到着を告げられて、ユラは意外に思いながらその家を見上げた。
 緑の屋根とオフホワイトの壁をもつ、ごく一般的な家屋だった。

「ずいぶんコンパクトなお宅ね……」
「そうか? これでも掃除が結構大変なんだけど」
「お貴族様の邸宅には見えないって意味よ」
「ああ、そういう意味か」

 ログイットは納得したような苦笑を見せ、よく手入れされた門を開けた。

「もともと分家の生まれだし、本家も借金だらけだったから。貴族って言われてもいまいち実感がわかないな」
「……あの子はいかにもいいとこのお嬢さんって感じだけど」
「だったら嬉しいよ」

 純粋に喜んでいるような口振りに、ユラが首を傾げる。
 ニッツフェンに引き留められていたティティが、ぱたぱたと小走りに駆け寄ってきた。

「ニッツは何だって?」
「『はしゃぎすぎて、ねつをださないように』ですって。しつれいしちゃう。そんなにコドモじゃないわ」
「十分小さいじゃないか」
「もう、ロギー君まで! レディにしつれいだわ!」

 ぷうっと頬を膨らませ、ティティはユラの手を引く。
 渋面でそれを見送ったニッツフェンが、ログイットに真顔のまま釘を差した。

「ログイット、今日は十分に休養を取っておけ。いいな」
「え? ……ああ、わかった」

 ログイットが不思議そうな顔でうなずく。ユラだけが揶揄に気づき、ログイットの足を踏みつけたくなった。
 締め切った家屋は、こもった空気の匂いがした。ランプをつけ、手分けして窓を開けて回る。憲兵に踏み込まれたという話だったが、特に家の中を荒らされた様子はなかった。
 ただ一カ所、家主の書斎を除いては。
 扉を開け、顔を曇らせたログイットに、ユラは気付かない振りで声を掛けた。

「キッチン借りるわね。夕食ができたら呼ぶから」
「いや、お客さんにそんなこと……」
「ティティがお腹を空かせてるのよ。それとも何? 他人にキッチンを使って欲しくないってこと?」
「そうじゃないけど」
「だったらいいでしょ。……そんな顔見たら、あの子が心配するわよ」

 ログイットは頬に手を当てた。自覚はないが、そんなにひどい顔をしているだろうか。
 ユラは返事を求めず、肩をすくめて階段を下りていく。
 気を遣われたのだと気付いたときには、もう声を掛けそびれてしまっていた。わずかな違和感が胸の中にわだかまって沈んでいく。どれだけ上の空だったのかを実感し、ログイットは苦い息を吐いた。
 記憶にある兄の書斎は、置かれている物に統一性がなく、妙に雑多で、そのくせ整頓された印象の部屋だった。淡泊で几帳面な性質がそのまま表れているような場所だった。そして今、保たれていたバランスは無惨に崩されて、単なる混沌だけが残っている。
 本棚からは全て本が取り除かれ、その大半が持ち出されているようだった。重厚だがシンプルな机も引き出しが開け放しになっている。カーペットもひっくり返り、写真を外された写真立てが写真をかぶせた状態で無造作に重ねられていた。
 部屋の様子をゆっくりと確かめ、ログイットは目を伏せて拳を握りしめた。
 自分が犯した失敗が、他人に土足で踏み入れるような真似を許したのだ。ティティが怒るのも無理はない。――本来ならば、兄はもっと酷い扱いをされていてもおかしくない筈だ。捜索が目的なら、それこそ壁紙を剥がさないばかりの勢いで、もっと徹底的に調べ上げただろう。嫌がらせが目的であった場合も同じ事だ。それを考えると、この部屋の様子はいかにもおざなりで、どこか中途半端だった。
 床に積まれた本を拾い上げ、本棚に戻していく。残されているのは図鑑や児童向けの冒険書、料理本など、兄の仕事にも、外見にも、陰謀めいた話にもまったく結びつかないようなものばかりだ。小難しい戦術論や技術書に混ざっていたそれらを見た憲兵の顔を想像して、少しだけ笑った。

 

 心の整理をつけながら一通りの片付けを終えると、ティティがログイットに笑顔を見せた。

「ロギー君、いいタイミングだわ! よびにいこうとしてたの」
「そうか。ごめん、ユラ、手伝えなくて」
「別にいいわよ。味の保証はしないけど」

 借り物のエプロンを外しながら、ユラは肩をすくめた。
 その言葉とは裏腹に、テーブルに並んだ料理は食欲をそそるものだった。湯気を立てる大皿のグラタンと飴色のスープ、庭のハーブで作った簡単なサラダに炙ったパン。あまり家庭的なイメージのなかったユラがこれを作ったのだと思うと、どうしても意外に感じてしまう。
 この三人でテーブルを囲むというのも、なんだか不思議な気分だ。
 くすぐったいような感覚が腹の底をくすぐるようで、ログイットは緩みそうになった口元を引き結んだ。

「いただきます!」
「あわてて食べないのよ。火傷するから」
「はあい」

 ここのところこまっしゃくれてきたティティが、ユラの言うことには素直に頷く。微笑ましい光景を何となく複雑な気持ちで眺めながら、ログイットは取り分けられたグラタンを口に運んだ。
 マッシュポテトに絡んだホワイトソースから、香辛料の風味が広がってくる。優しい塩加減にチーズの味わいが重なって、意識しないうちに感想がこぼれ出た。

「うまいな」
「ほんとね、すっごくおいしい!」

 手放しの賛辞を受け、ユラが照れくささをごまかすような顔で横を向いた。

「おだてたって何も出ないわよ」
「いや、お世辞じゃなくて。本当にうまいよ」
「ねえねえロギー君、ユラすごいのよ。おりょうりね、ぜーんぶ、きっちりはかってるの!」
「へえ、そうなのか? すごいな」
「ね!」

 ログイットが首を傾げるのを見て、ユラは目を眇めた。

「……ねえ。何か意外そうな口調に聞こえるんだけど」
「そういうわけじゃ」
「じゃあ何? はっきり言いなさいよ」
「……いや、台所があんまり使われていなさそうだったから、あんまり料理はしないんだろうと思ってて……」

 提示されたのが印象ではなく根拠だったので、ユラはぐっと言葉に詰まった。

「面倒なだけで、できないわけじゃないわ」
「……そういえば、やたら色々とスケールがあったな……。ああ、だから『面倒』なのか」
「うるさいわね、だって適量とか少々とか嫌いなのよ! 味が変わるんだもの!」

 怒るユラを宥めながら、ログイットはキッチンの様子を思い返した。
 普通の皿形質量計にとどまらず、メジャーカップやスプーンスケール、果てはメスシリンダーに温度計まで。店でも開けそうな充実の品揃えだ。
 魔工構成の課程で使うのだろうかと思っていたのだが、よく考えてみればあんなところで金属粉や硫化物質を計っていたら大変だ。この反応を見ても、どうやら料理に使っていたらしい。もはや調理と言うより調合の印象だ。

「もうちょっと適当でもいいんじゃないか? 手の抜き方を覚えれば、料理ってそんなに面倒でもないと思うんだが」
「別にこれで困ってないわ」
「出来合いばっかりじゃ栄養が偏る。ドクターも心配してた」
「大きなお世話よ。子どもじゃないんだから」
「でも、風邪を引いてたじゃないか」
「あれは……! 誰かさんを運ぶなんて重労働をやったから、疲れて湯冷めしただけよ!」
「えっ、そうなのか? ごめん!」

 ぽんぽんと投げ合うようなやりとりにティティは目を丸くしていたが、ログイットがあわてて謝るに至って、鈴を振るような声で笑い出した。

「やだもう、おかしい。こういうの、ふうふげんかっていうんでしょ?」
「なっ……ティティ!?」
「やめてよ、夫婦とか! いつそんなものになったの!」

 真っ赤になりつつもきっぱりしたユラの否定に、ログイットがショックを受けたような顔を見せて、ティティをさらに笑わせた。
 賑やかな食事は、ユラにほのかな感傷を覚えさせた。
 もう遠い昔のことのようだ。ただの昼食会がほとんど宴会の様相を呈してしまうのは、もっぱら酒好き一人のせいだったが、責任者である王子がそれを許すのだからどうしようもない。一度始まってしまえば、その日はもう仕事にならなかった。
 こんな風に思い出してしまうのは、きっと馴れ合いすぎたせいだ。
 だとしたら、今日のことも――いつか、鈍い痛みになるのだろうか。

「ユラ?」

 呼びかけにはっとして、ユラは目を瞬いた。
 食事はとうに終わり、ソファに座ったユラの隣で、ティティが不思議そうに小首を傾げていた。
 随分と上の空になっていた気がする。
 ログイットが片付けを申し出たことは、うっすらと覚えていた。
 細く息を吐き、ユラはティティと目を合わせた。

「ごめん。ぼんやりしてたわ。何?」
「あのね、いっしょにおふろにはいりましょ!」

 水場から、ログイットが皿を滑らせた音がした。
 どうやら割れなかったようだ。
 ユラはため息をつくと、眉間を押さえ、きっぱりと答えた。

「『ちっちゃな子どもじゃない』んでしょ。一人で入りなさい」
「えぇー……」
「甘えすぎ。駄々こねても聞かないわよ」

 口をとがらせたティティは、いかにも不満げだ。
 どこでこんなに懐かれることになったのか、ユラにはさっぱり分からなかった。煩わしいとは思わないが、なんとなく、こんな状況は自分に相容れないもののような気がしてならないのだ。

「わがまま言わないで、早く寝なさいよ。疲れてるんだから夜更かししないの」
「だって、まだねむくないもの」
「あのねえ……」

 ユラはため息を落とし、くしゃくしゃとティティの頭を撫でた。
 妥協案としてティティが寝付くまで添い寝することになったのだが、その日のティティの入浴はまさに烏の行水だった。思わず小言を言ったログイットが、聞こえないふりをされて消沈したのは言うまでもない。ジルセス家の小さなお姫様は、どうやらいくぶん早い反抗期を迎えてしまったようだった。
 ログイットとの馴れ初めを聞きたがるティティの問いかけを受け流しながら、ユラは少女のとりとめない話に付き合った。
 幼い子どもの話題は、思い出話ではなく、もっぱら最近のことばかりだ。友達のこと、通いの家庭教師のこと、近所の老夫婦が飼っている犬のこと、料理を覚えたいと思っていること。くるくると変わる話題についていくのに精一杯で、素っ気ない相槌ばかり打っていた気がする。気がついたときには、しゃべり疲れたティティが、船をこぎ始めていた。

「ほら、もう眠いんでしょ。明かり消すわよ」
「……やだ。ねむくないもの……」

 とてもそうとは思えない。
 苦笑いを滲ませて、ユラは小首を傾げた。

「まったく。……変な子ね。何がそんなに気に入ったんだか」

 眠たげな目をゆったりとしばたきながら、ティティはぼんやりと答えた。

「ユラは……うそを、つかないもの」
「……え?」
「わたしがこどもでも、あまやかしたりしないもの。ごまかさないで……ほんとうのこと、おしえてくれるから……」

 納得するとともに、ユラの胸には複雑な気持ちが生まれる。
 そっとため息を押し殺し、眠たげな少女の髪を撫でた。

「やっぱり子どもね」
「……むー……どうして? どういうところが、こどもなの?」
「言葉をそのままにしか受け取れないところよ。……大事な人には、危ない目に遭って欲しくないから、どうしても色々と考えてしまうの。下手なことは言えないわ。私が言うことって、結局のところ、無責任で勝手なことなのよ」

 ユラの言葉の意味をうまく掴めないまま、ティティはきゅっと眉根を寄せた。

「……ユラは、わたしのこと、すきじゃない?」
「馬鹿ね。だったら、ここにいないわ。私はそこまで優しくないわよ」
「……だって、こわいの」
「こわい?」
「ユラ、どこかに行っちゃいそうだから……」

 泣き出しそうな声の震えに、ユラは声を呑みこんだ。
 傍にいるとは言えなかった。幼い子どもが相手でも、だからこそ、無責任な約束を口にすることはできなかった。

「……まったく。心配性は血筋なのかもね」
「だって」
「早く寝ちゃいなさい。悪い夢は見ないわ。何も、心配なんていらないの」

 

 

 

 一歩一歩階段を下りながら、ユラは細く息を吐いた。
 どうにも自分らしくない。引きずられているような気がして落ち着かない。
 原因は何だろう。感傷か、好意か、それとも代償行為か――どれであっても素直に認められる気はしなかった。
 明かりがついたキッチンに足を向けると、ログイットが腕まくりを戻しながら訊ねてきた。

「ティティは寝た?」
「ええ」
「ありがとう。助かったよ」

 ほっとしたようなログイットの言葉に、ユラは頷くことで答えた。
 キッチンには甘い香りが漂っていた。

「今まで片付けてたの?」
「いや、ティティのご機嫌取りにパイを焼いてた」
「……呆れた。しっかり休めって言われてたくせに」
「はは。だから、だいぶ手抜きなんだけど」

 ログイットは苦笑して頬を掻いた。
 ユラが返事を飲み込んだことで、沈黙が生まれる。ティティという潤滑剤がなくなると、とたんに、空気がぎこちないものになった。
 どこかが噛み合っていないような、お互いに探りあっているような感覚で、不安が生まれる。
 距離を詰めたいのか、それとも安全圏にいたいのか、自分自身にもわからなかった。

「……結局、巻き込んだのは、私の方だったわね」
「俺は、巻き込まれたとは思ってないよ」
「ありがとう。あなたたちには感謝してる。こんなに、落ち着いていられるなんて思わなかった。……明日じゃ言えないかもしれないから」
「ユラ……」
「それだけ、言っておきたかったの。おやすみなさい」

 淡い微笑みを残し、ユラは客間に足を向けた。
 部屋の鍵を掛け、上着の内ポケットから襲撃者の残留物を取り出す。つるりとした透明な石の表面に刻まれた、三枚の葉と片皿天秤の紋様が――否応なしに過去へと引き戻す形象が、わずかな熱を放っていた。
 どこまでがクランヘルムの計算のうちなのだろう。
 これは、裏切りになるのだろうか。

(……どっちだって、やることには変わりないけど)

 重苦しさを振り切るように顔を上げ、この家に持ち込んだ荷物を開いた。布のバッグではなく、大きな銀色のスーツケースの方だ。整頓して詰め込んだ試験管ケースの中から手際よく順番に魔素を取り出し、術式を構築していく。設計図は既に頭の中で完成していた。
 分断された術式の構成はいくら押さえても増大する。合計十八個にも及ぶ黒いガラス質の球体を作り上げる頃には、物音もしないほど夜が更けていた。
 知らず緊張に詰めていた息を大きく吐き出すと、誘導用の術式をまず手に取った。
 顎を伝って落ちた汗が、硝子玉の表面に滴る。水を汲むことを思い出して、膝を叱咤しながら立ち上がった。
 完全な固形物を飲み込むのは、予想していた以上に難儀な作業だった。
 三十分ほどかけて十八個すべてを嚥下し、眦に滲んだ涙をぞんざいに拭う。疲れ切って、閉じたスーツケースに覆い被さった。
 瞼の奥に、意味を持たない構成式が残像のように浮かんだ。夢現の意識がそれをなぞる。なぜだか、いつか見た、古い禁術のことを思い出した。

 ――僕は、こういうものを作りたいんだよ。

 あのときのクランヘルムは、どんな声音で紡いだのだったか。純粋とは言えない憧憬か、それとも野心を滲ませていたのか。道を決めさせた言葉だったというのに、もう思い出せない。

 ――世界を変えるんだ。他でもない、僕たちの手で。

 重い体を叱咤しながら起き上がると、どうにか靴を放ってベッドに倒れ込んだ。
 身体の節々が熱を持って、軋んだ音を立てているような気がする。
 こみ上げてきた嘔吐感に、ユラは口元を押さえた。
 吐き出したところで術式は出てこない。設計図通りに細胞へ展開された術式を構成する魔素は、そのほとんどが重金属だ。無害化の術式と組み合わせているとはいえ、後遺症が出ないかどうかは賭に近い。
 胎児のように身を丸めて、ユラはひたすら苦痛に耐えた。
 とても眠れそうにはなかったが、それでも多少眠りに落ちていたらしい。明け方ごろ、扉の前に人の気配を感じて、意識が浮上した。

 ノックはなかった。
 しばらく立ち止まっていた足音が、やがてはっきりとした目的を伴って遠ざかっていく。
 丸くなるように身を屈め、枕に顔を深く埋めた。
 夢は、見なかった。

 

 

 

 夜明け前のシティをくぐり抜け、人目を忍んで案内された部屋は、ログイットに違和感を覚えさせた。
 広い部屋だった。殺風景ではあるものの、内装は王城の一室らしい広さと重厚な雰囲気を持っている。牢代わりにはとても見えない。この部屋に幽閉された仮初めの主が、あまりにも平然としていることも一因だろうか。
 早朝の薄明かりの中、ランプの灯りだけで資料を読んでいた兄は、まるで自分の執務室にいるかのような自然さで顔を上げた。

「戻ったか。ログイット」

 尖りのない声に、ログイットははっとして足を進めた。
 顔立ちこそ似た兄弟だが、二人が人に与える印象には大いに差がある。兄であるヒューズは存在感の強い男だった。目立つことをするわけではないが、不思議と人の目を引くのだ。

「負傷したと聞いたが、その様子なら問題はないようだな」
「ああ。……すぐに手当を受けられたから」

 ログイットは無意識に、傷の塞がった腹を押さえた。
 傷の応急処置は、教会側の手によるものだ。
 直接口には出さなかったが、ヒューズは既に把握しているようだった。鷹揚に頷くのを見てログイットはそのことを察し、苦いが沸き上がるのを感じた。

「……ごめん、兄さん。俺のせいで、こんな……」
「ログイット」

 強い口調の呼びかけが、謝罪の先を奪った。

「お前は、自分の選択を悔やんでいるのか? その程度の覚悟で命令に背いたのか」

 ぐっと唇を結び、ログイットは視線を落とした。
 喉を握り潰されたような圧迫感に、視界がぐらりと揺れた気がした。
 兄をこんな苦境に追い込んでしまうことを、考えもしなかったとは言えない。引き起こしてしまった結果を悔いていないとは言えない。
 それでも、脳裏を過ぎったいくつもの姿が、萎縮で丸まりそうなログイットの背中を支えた。

「……子どもが、いたんだ。ティティと変わらないような年齢の子どもが、大勢」

 あの常闇の街にありながら、教会で暮らす子どもたちは、型にはまった行儀よさがなく、誰もが表情豊かだった。ほとんどは小生意気で好奇心旺盛で、年若いログイットはよくいたずらの標的にされた。大人しそうな女の子でさえ自分の意見を飲み込まず、ひねくれたことを言う男の子でさえ自分の未来を信じていた。
 そんな子どもたちを育ててきた大人が、悪い人間であるはずがない。そう思わせるほどに伸びやかだった。たとえそれが計算によるもので、ログイットが見事に騙されていたのだとしても――あの笑顔だけは信じていられた。

「考えが足りなかったことは、正直、後悔してる。それでも俺は……間違ったことをしたとは、思っていない」
「ならばいい。軽々しく自分の決意を否定するな」

 上司にどれだけ訴えても聞き入れられなかった感覚を、兄はあっさりと受け入れた。
 今回の件でもっとも被害を受けたのは他ならぬ兄自身だ。
 困惑して立ちつくすログイットに、ヒューズは淡々と言った。

「よく見ろ。俺が悲嘆に暮れているように見えるか? 思っていたよりも好待遇で、拍子抜けしただろう」

 笑えない冗談を淡々と言うので、ログイットは表情に困った。

「いや……拘束されたって聞いてたから、こう、牢屋みたいなところに入れられてるのかとは思ってたけど……」
「拘束ではなく軟禁だ。零落しようが、一応は貴族の端くれだからな。証拠もないうちから粗略に扱えば、貴族層の反発を買う」

 ログイットは改めて実感した。己の貴族層としての自覚不足は、間違いなくこの兄の影響だと。
 実におかしな話だった。ヒューズはログイットと違い、十にもならない頃から本家に養子として迎え入れられたのだ。多感な少年期のことである。それにも関わらず、兄には少年の頃から、自分の立場や状況をひどく客観的に捉えるところがあった。
 愛想はないがひねくれてはおらず、口数が少ないわけでもない。まるで他人事のような冷静さが面白かったのか、兄の周りには妙に人が集まった。
 そのうちの一人が、ガルフォールトの今は亡き第一王子だ。
 彼の信頼を得たこともあり、兄はいつの間にか淡々とした顔で軍の事務方の重要ポストに上り詰めていた。ログイットにとっては仰ぎ見るような存在だ。
 一身にジルセス家のややこしい厄介さを背負い続けてくれた兄は、かけがえのない家族であると同時に、決して越えることのできない壁でもあった。
 手にしていた冊子を机に戻し、ヒューズは至極真面目な顔で続けた。

「個人の感想を言うなら、活字とコーヒーがあれば、場所は問題にならない。元来、俺は怠惰な人間だ。引きこもって面倒が起きないならそうしたいと常に考えている」
「……兄さん、その言い方だと、ニッツが聞いたら怒鳴ると思う」
「同感だ。あいつは何故ああも几帳面なのか、理解に苦しむ。幼少の砌から誰に対しても小言係だった」

 本人が聞けば血管の一本も切れそうなことを言い、ヒューズはほとんど空になったカップを揺らした。
 資料の表題は「公園整備計画の歴史的推移」。相変わらずの乱読家であるようだ。

「ところで――セシロトにいた技師を、家に置いているようだな」

 唐突に話が変わり、ログイットはわずかに息を詰めた。
 無意識の警戒が目に浮かぶ。

「……それもニッツから?」
「言っただろう、あいつは几帳面だ」
「取引の内容も――」
「強引な手ではあるが、悪くはない。博士の望みはクランヘルム王子の生存だ。その点において我々と利害が対立することはない。一つ問題があるとすれば、お前だ。ログイット」
「俺?」
「お前はどうしたい」

 ログイットは目を伏せた。
 あのとき感じた、鳩尾が重くなるような感覚と、どろりとした暗い感情を思い出していた。

「俺は……彼女を、守りたいと思っている」

 口にした言葉は嘘ではなく、だが、上滑りしているように感じた。
 ヒューズは真意を推し量るような目でログイットを見据えた。
 ひどく長い沈黙に思えたが、実際には数十秒ほどの時間だったのだろう。
 ふと、ヒューズが窓を仰いだ。

「……夜が明けるな」

 虚を突かれて顔を向けると、白んだ空に太陽の色が見えた。
 冬のシティが、遅い朝を迎えようとしていた。

「そろそろ頃合いだ。この先の予定はすべてニッツフェンに伝えてある。あいつの指示に従え」
「……わかった。全力を尽くすよ」

 きびすを返したログイットを、ヒューズは温度のない声で呼び止めた。

「ログイット。現状、この国がお前に与えてやれる自由は多くない。……いざというときの覚悟は決めておけ」

 どちらの覚悟かは、言及しなかった。
 ログイットが頷いて返し、部屋を出る。

 残された男の細いため息は、誰にも聞かれることはなく、朝日の気配に消えていった。

 

 

 

 兄弟に気を使って同席しなかったニッツフェンは、ログイットの顔を見るなり、しごく不機嫌な顔のまま「遅い」と一言投げてよこした。

「すまない、ニッツ。無理を言った」
「……話はできたか」
「ああ」

 ニッツフェンは何か言いたげに眉値を寄せたが、時計を見ると、ため息とともにきびすを返した。

「言っていた通り、午前中は代議院の公聴会だ。この度の王の暴挙について、お前の証言が必要になる。時間ぎりぎりまで想定問答だ」
「わかった」
「……まあ、今回は神経を尖らせることはないだろう。炎に薪をくべてやるだけだ」

 不穏な言葉だったが、ログイットは反駁せず頷いた。
 王との対立はもはや避けられない。ログイットが公に姿を見せることが兄の不利になる懸念はあったが、彼らはあえてそれを選んだ。攻撃に打って出るということだ。ログイットにできるのは、せめて与えられた役割を忠実に果たすことだけだった。
 ログイットの顔を確かめ、ニッツフェンは先を続けた。

「……例の特別作戦班の行動開始時刻は一五時だ。部隊編成には入れていないが、お前がその気なら、バレーノ博士の護衛役として、同行を認めるよう言ってある」
「ありがとう。そうさせてもらう」

 ログイットの泰然とした様子に、ニッツフェンが眉を顰めた。
 不明瞭な違和感があった。

「そういえば、ニッツ。公聴会の件もそうだけど、情報局の査問も受けないうちから他機関の作戦に参加して、問題にならないか?」
「情報局とは調整済みだ。……じき、それどころではなくなる」
「わかった、任せるよ」

 ニッツフェンが急に足を止めた。
 つられるように立ち止まったログイットの胸に指を突きつけ、険しい表情にふさわしい低さでささやく。

「いいか、ログイット。何としてもバレーノ博士を守れ。決して死なせるな。彼女の証言こそがガルフォールトの切り札だ。万一、彼女がクランヘルム王子につくようなことがあろうとも、必ず、生きたまま奪い返せ」

 その警告は、まるで、迷いをねじ伏せようとするかのような響きを持っていた。
 威嚇に似た声にもログイットは戸惑いを見せず、目を伏せるようにして頷いた。

「……ああ。そのつもりだ」